YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ロンドンの旅~ロンドン観光とシーラの手料理

2021-08-25 16:00:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△トラファルガー広場とシーラ

・昭和43年8月25日(日)晴れ(ロンドン観光とシーラの手料理)
 興奮の一夜が明けた。今日は、シーラの案内でロンドン見物がとても楽しみであった。これは、私の今回の旅行に於ける最大イベントでもあった。
 朝食を取らずペンションを出た。昨夜のカフェ店前へ歩いて4分程、9時40分に着いて暫らく待った。私の聞き違いで、この場所にシーラが果たして来るのかちょっと心配であった。しかし、それは取り越し苦労で、彼女は丁度、10時に遣って来た。「イギリス人は時間を守る国民である」と言われているが、まさにその通り、きっかり10時に着いたので驚きであり、不思議であった。
彼女が近寄って来たら香水の香りがして来て、心地良かった。そして彼女の白系のジーパンスタイルがとても似合っていた。 
彼女がジーパンを履いて来たのは昨夜、私がジーパンを持っていたら履いて来るようにお願いしたからであった。何故そんな事を言ったのかと言うと、それは昨夜の彼女の服装(彼女はおめかしして来た)では、私の色付き半袖シャツのラフな格好とでは不釣り合い又、観光で歩き回るのにラフな服装の方が良いであろう、と思ったからであった。
 我々は私が宿泊しているペンション近くの地下鉄のPaddington(パディントン駅)から乗って、最初に案内してくれた所は、ロンドンの新名所になった中央郵便局タワー(高さ187m の35階建)であった。
それからロンドンで最も有名な広場の一つTrafalgar Square(トラファルガー広場)へ行った。高い塔にネルソン提督の像が立ち、その周りに四頭の青銅のライオンがネルソンを守るようにうずくまっていた。ここで写真を撮った。この広場は、鳩と戯れる多くの市民や観光客で賑わっていた。
 トラファルガー広場からザ・モールストリートを歩いて、St. James’s Park(セント・ジェームズ公園)で彼女が持参して来たポテトフライを食べながら一休みした。イギリスの8月下旬は、暑くなく、むしろ天気が良いので暖かかった。芝生に腰を下ろして2人で過ごす時間は、最高な一時であった。
「シーラ、今度は何処へ連れて行ってくれるの」と私。    
「衛兵の交替儀式を見に行きましょう」と彼女。
「ストックホルムとコペンハーゲンで衛兵の交替式を見たよ」
「Yoshi、それよりはバッキンガム宮殿の方がもっと素晴らしいと思うよ。とにかく11時30分から始まるから、行って見ましょう」
「バッキンガム宮殿は遠いの」
「直ぐそこよ。この公園の隣で、よく分らないけど歩いて5分かな」
Buckingham Palace(バッキンガム宮殿)前には、既に大勢の観光客が集まっていた。Queen’s Guard(衛兵)の交替式は、間もなく始まった。鮮やかな赤い制服、毛皮の黒い帽子を被った衛兵が音楽隊の伴奏に合わせて整然と行進するこのセレモニーは、ストックホルムやコペンハーゲンの衛兵交替式より華やかで見応えがあり、私は感動しながらシャッターを切った。 
 この後も彼女の案内で、バードケージ・ストリートからWestminster Abbey(ウェストミンスター寺院)、Houses of Parliament(国会議事堂)へと見て廻った。ウェストミンスター寺院はゴシック様式の壮大な建築物、国王の戴冠式や葬儀等の歴史的行事が挙行される所で、一見の価値ある観光スポットであった。又、テムズ川に沿ってどっしりと構えた国会議事堂は、ウェストミンスター寺院から直ぐ近くにあり、ゴシック様式の姿はやはり見事であった。“Big Ben”(大時計塔)とそれと向き合うようにして立つ塔は、ヴィクトリア・タワーである、と彼女の案内で見て廻った。
 以前、私は彼女と共にテムズ川を散策し、これらの建物を見て廻りたいと、過去何回もこの様な光景を頭に浮かべていた。実際に実現しても、こうして見て廻っているのが夢の様であった。私の生涯で今日は忘れられない日であり、出来事になるであろうと思った。
 そして、ロンドン観光はまだ続いた。天気が良いので、テムズ川の辺で日光浴をしている人達も見られた。我々はこの辺りの船着場から船に乗って歴史的な建物を両側に見ながら乗船を楽しみ、そして、テムズ川を上った。下船した所に遊園地があった。そこは東京の豊島園や後楽園の様に数多くの遊戯物があった。彼女の説明によると、イギリスで最大のアミューズメント・パークであると言う。2人一緒にジェットコースターに乗った。彼女は乗っている間、「キャー、キャー」とまるで子供見たいに絶叫を張り上げ、私も愉快であった。しかし乗り終わって彼女の顔を見たら真っ青であった。どうも彼女は高所恐怖症の感じであった。
 「Yoshi、次は何処へ行きたい」と彼女が聞くので、「ピカデリーへ行って見たい」と言った。地下鉄に乗って、彼女は私を賑やかなある通りに案内してくれた。
「Yoshi、ここがピカデリーですよ」と.
彼女が連れて来た場所は、確かに賑やかな通りであった。でも、私が頭に描いていた場所とは違った場所であった。私が描いていた場所は、Piccadilly Circus(ピカデリー・サーカス)の事であった。通りの表示を見るとPiccadilly Rd(ピカデリー通り)になっていた。この道の左右どちらかを行けば、ピカデリー・サーカスへ行けるなと思ったが、折角シーラが連れて来てくれたので彼女に任せた。
 私は朝と昼、まだ食事を取っていなかったので、腹がとても空いて来た。彼女に、「昼食を食べてないけど、お腹が空いてない」と言ったら、彼女は通りにある店でフィッシュアンドチップスを買って来てくれた。これらは確かマグロをパン粉に絡ませ油で揚げた物とジャガイモを棒状に切って揚げた物であった。少し塩を振りかけて食べると味は上々であった。又、ハンバーグとフィッシュをパンに挟んだサンドイッチも旨かった。これらは私の知っている範囲内で日本にまだなかった。
 ドーバー海峡の船の中で交換した手持金が無くなったので、ヴィクトリア駅近くのフォリンイクスチェンジ(両替所)にて、日本円持ち出し可能な限度額2万円の内、1万円を両替した。
 その後、シーラの案内で彼女の住んでいる部屋へ行く事になった。ロンドン中心地から地下鉄に乗って20分位、Brent(ブレント)と言う駅で降りた。この辺りは、住宅街でイギリスらしい家々が建ち並び、静かな環境の中にあった。彼女の住んでいる家は、駅から10分位のその一画であった。この辺りの住宅は個々の家はなく、Terraced House(二階建ての細長い住宅)であった。日本流で言えば長屋で、一つの建物に複数の家族が区切られた空間に住んでいる建物なのだ。そんな家に、下は老夫婦、そしてシーラは2階の部屋を借りて住んでいた。
 部屋は台所、洋間、寝室の間取り、良く整理整頓され、如何にも女性が住んでいる明るい感じの部屋であった。そして暖炉もあった。昔は薪を燃やして使用していた様な感じの暖炉だが、今はガスストーブが置かれていた。
 彼女は、「夕食にカレーライスを作るからちょっと待って」と言って台所に入って行った。 
『日本を出て初めて、本当に久し振りのご飯が食べられる』と内心喜んだ。台所で何かを作っているので私も台所へ入って行った。すると彼女は鍋にお米を入れ、水をその鍋いっぱいに入れてガスコンロで煮始めた。お米と水の配分が我々日本とまったく違うのだ。
「米の量に対して水の量が余りにも多過ぎないか」と言った。
「煮込み、米が柔らかくなったら、余った水を捨てるから」と彼女。
「ダメダメ、米の炊き方は、私の方がよく知っている。この様にするのだ」と言い出し、私は彼女から鍋を取ろうとした。そうしたら彼女は、「男は台所へ入って来てはダメ。向こうの部屋へ行って、待っていて」と一喝されてしまった。
「シュン」として、私は部屋に戻った。しかしどうも彼女のご飯の炊き方は原始的(日本のご飯の炊き方に比べ、合理的でない)であった。「何でも米が柔らかくなれば構わない」式の調理方法で、どんなご飯が出てくるやら、内心不安であった。
それにしても、彼女の一喝は怖かった。台所は日本でも主婦の天下の場である。その場所へ男がのこのこ入って行き、任せておけば良いのに、要らぬ口を挟んだ私の方が悪かったのだ。これは、イギリスでも日本でも同じなのかと思いつつ、彼女の気の強さの一面を見た思いで、その方で私は、面食らってしまった。
 暫らくして食事が出て来た。カレーの味は旨いが、ご飯はどうもパサパサして硬めであった。でも、思ったより美味しかった。彼女は私の為に食事を作ってくれたのだ。本当に有り難いと思った。
ご飯は日本米と違いパサパサ感があっても仕方ないのだ。外米はパサパサ、硬さが残るのだ。日本米はふっくら、柔らか感がある。これを食べている日本人の食感と比較しては、かわいそうなのだ。 
「シーラ、先程はごめん。余計な事を言って」と私。
「Yoshi、良いのよ。気にしないで」と。
「でも、シーラは食べるのが早いね」。
「そうね、鳩のようだね」と言って、彼女は首を上下に振って鳩が餌を食べている真似をした。
「食事は、もっとゆっくり取った方が良いのでは」。
「そうだね、Yoshi」
そんなたわいもない会話をしながら食事を取った。デザートはおしゃれなお皿に添えた缶詰の果物、そして香り良いブリテッシュティー(英国紅茶)が振舞われた。彼女の友情溢れる証として、自分の部屋へ私を案内し、そして手料理で持て成してくれたのであった。
 食後、彼女は、押入れ(イギリスにあるのかな。物入様な所から)から、私が今まで書いて送った手紙を出して見せてくれた。それはまさしく自分が書いた手紙で、懐かしさが込み上げて来た。最初の頃の手紙を幾つか開いて見た。こんな事、又あんな事を書いたのか、私の頭の中は『過ぎ去った歳月と言うのか、この様に彼女に会うまでのプロセスがこの手紙なのだ』と感慨を新たに感じた。
80通程あろうか、彼女が大事に取って置いてくれた事が、私にとって何よりも嬉しかった。高校以来、私の唯一の彼女(自分で思っているだけ)であり、彼女から来る手紙が私の人生の糧でもあった。お互いに人生の大事な時期に知り合い、自分自身、趣味、家族、学校、地域、或いは日本の事等を書いたり、又は意見交換、苦労話、悩みを相談したり、打ち明けたりして手紙を続けて、その友情を深めて来たのであった。
 彼女の青春も私と知り合い、文通を通しての私の存在は大きかったと思う。そして7年間も私の下手な英文に付き合ってくれた彼女の真面目さ、優しさには、本当に感謝する思いであった。
文通を通して友情を深めたその結果が昨日の劇的な出会いであり、今日のロンドン観光、そして彼女の部屋での持て成しであった。そしてこれから8月30日にウェールズへ行って、彼女の実家滞在する予定であった。
 我々はベッドの上で私の旅の事、ウェールズの事、将来の結婚の事等について話し合った。特に彼女は結婚にナーバスになっていた。それはそうであろうと思った。彼女は私より一つ若いけど22歳、充分に結婚適齢期なのだが、「彼氏が出来た」と言う話は、一度も聞いていなかった。彼氏がいれば当然、私に手紙で報告してくれるはず。そして彼女に会って又、彼女の部屋に来て見ても彼氏の存在をまったく感じられなかった。彼女は美人で真面目、そして働き者の女性だ。どうして彼氏が出来ないのかある反面、私は不思議でならなかった。
ウェールズの片田舎から一人ロンドンに出て来て、ある化粧品系列会社の秘書をしていると言っていた。だが田舎のウェールズから出て来た女性が1人、大都会で生活して行くのは大変である、と容易に想像が出来た。私の思い違いかもしれないが、彼女にはハンデーがあるかも。それは、彼女がウェールズ人(言語はウェールズ語)であると言う人種、階級、そして貧富等の格差やマイナス要素を持っている。そしてこれらを肯定するイギリス特有の保守的な考えがあるのだと思う。これらのハンデーを持った中で、彼女がロンドンで英国人(イングランド人の意味、イギリス人ではない)と結婚に結び付く相手を探すのは難しいであろうと思った。
 そんな理由なのか、彼女は結婚話になった途端、彼女の顔色が冴えなくなったのを、私は見逃さなかった。
突然、「私と結婚しませんか。そして日本で住もうよ」と言った。半分冗談、否内心私は本気であった。
「Yoshi、私は日本語を知らないし、風俗習慣も違うし、結婚は無理よ」と彼女。
「私が日本語を教えるよ。それに住んでいる内にその様な事は慣れて来るよ」と私。
「日本は遠い国、行ったら両親に会えなくなるかもしれないし、結婚は無理よ。絶対に出来ない」
彼女の最後の語句は強い調子であったが、まんざらでもないようであった。私が旅人でなかったら、もっとお金(経済力)があったら、彼女の言葉は違っていたかもしれなかった。 私はこれ以上無理強いしなかったが、内心残念な気持であった。
 大分ゆっくりしてしまい、午後10時を過ぎてしまった。それに明日、彼女は仕事があるのだ。そろそろお暇し、ペンションへ帰る事にした。我々(時には『私とシーラ』或いは『私達』と言う)は、明日も午後7時、ブレント駅で会う約束をした。
私とシーラは腕を組み、駅まで歩いた。誰も歩いている人はなく、静寂した住宅街に2人の足音だけが響いた。
 ペンションに戻り、日記を書く事がたくさんあった。思うに、シーラと共にロンドン見物し、そして、彼女の手料理をご馳走になり、本当に幸せであった。イギリスに無事に来られて満足であった。