二度目のパリにて
・昭和43年8月19日(月)晴れ(知日家のオランダ人)
ユースを出て中央駅まで歩いて行った。自転車通勤の人々で街は、忙しかった。
列車はアムステルダム発パリ-行き、8時54分フランスのTEEエトワールド・ノール号の全席座席指定であった。列車の旅は5時間位の予定、ドアは全自動、座席は綺麗な4人掛け、前のテーブルには真っ白い布で覆われていて、高級感がある列車であった。
車掌の制服が、又カッコ良かった。TEE国際列車の車掌は、大概年配のベテランが担当していた。4人掛け用の座席には私の他、年配のアメリカ人夫婦と40歳台のオランダ人紳士であった。4人でトランプをして車中の一時を過ごした。このオランダ人は中々の知日家、江戸時代の長崎の出島も知っていて、日本経済の事も詳しかった。
パリに到着したのは、午後2時頃であった。こちらは相変わらず暑かった。8月3日から今日帰って来て、パリは16日振りであった。勿論、行き先はトランクを置いて来たマサオの部屋で、前に来た時は鈴木と一緒であったが、今回は1人であった。
夜中の長距離列車の旅は、殆どで寝られなかったし、日本を発って以来、旅から旅へと常に移動、日本語が使えない気疲れ、或は、腹痛等の影響等で心身共に疲れが蓄積されている様であった。そんな理由でイギリスへ行く前、私はパリのマサオの部屋で休養をしたいと思っていた。又、シーラへ事前に行く日と時間を知らせなければならなかった。それにしても8月9日10日の腹痛には参った。2度とその様な事がならないよう願った。
駅から直接、マサオのアパートメント・ハウスへ行った。部屋の鍵は掛かっておらず、入る事が出来た。一息入れた後、友達へ手紙を書いていたら、マサオの友達のフランス人が入って来た。彼はマサオから私の事を聞いていたようで、私が居ても特に驚いた様子でもなく、フレンドリーな態度で接して来た。彼と親しくなり、夜、2人でビールを飲みに行った。
夜遅くなって、マサオはヒッチでイギリスへ行ったが、Dover(ドーバー)から引き帰って来た。その理由は、彼は滞在に必要な所持金不足でイギリスに入国が出来ず、戻されたとの事であった。
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