△私の目の前を辻馬車が『パカパカ』と蹄の音を残して夕闇に消えて・・・
ローマの旅
・昭和43年8月10日(土)晴れ(苦しみに耐えローマへ)
ピサは、ピサの斜塔で誰でも知っているが、私は大聖堂の鐘楼であるとは知らなかった。ペンションから近くにあり、午前中の早い時間に見物に行った。
10時05分、ローマ行き急行列車に乗った。朝、水を飲んだ所為なのか、急いで駅へ来て乗り込んだ所為なのか、或いは、昨日からの胃の具合が治っていないのか、再び腹が痛くなって来た。言葉が通じぬ異国での体調不良は、最悪であった。
直接の原因か如何かはっきり分らないが、昨日から腹が痛かったにも拘らず、そしてあれ程に注意していたにも拘らず、水道水を空腹と喉の渇きで我慢しきれずに今朝、飲んでしまったのだ。車中で2時間近く、「ウーウー」唸って我慢して治るのを待つだけであった。1人旅で病に成る程、辛いものはなかった。腹痛と不安が一杯の列車の旅になってしまったので、車窓の景色や列車の旅を楽しむ余裕が全くなかった。
ローマ到着は午後1時45分、この頃になってやっと腹痛は治まっていた。白い大理石のテルミニ中央駅は構内も大変広く発着番線も1番から30番まであった。ローマと言えば、「終着駅やローマの休日」で我々にも馴染み深い首都であった。そして若しかしたらリターに逢えるかもしれなかった。私は彼女に逢える事を楽しみにしていたが、何処に居るのか、或は既にローマを去ったか、期待は余り出来なかった。 駅構内の観光案内所へ行き、ペンションの予約をした。1泊1200リラで2泊と言う事で話は決まった。
ペンション探しにバスに乗ったり、何回も人に尋ねたりして大変苦労して到着、ペンション建物の旧式エレヴェーターに私1人が乗った。所定の階のストップ・ボタンを押して、エレヴェーターはその階に止まったが、ドアは開かなかった。勿論、手動でも開かなかった。そしてエレヴェーターは上ったり、下ったりと何回も上下を繰り返した。誰も乗って来ない、或いは故障しているから誰も乗れないのか、薄暗い孤独の空間を何回か上下している内に私は、恐怖感を覚えた。暫らく経って、ある階に止まった。私は大声を出し、無我夢中でドアをドンドン叩いた。エレヴェーターのドアがやっと開いた。『助かった』という思いであった。何かトラブルでもあったのかと5~6人が集まって来た。安堵と恥ずかしさの気持でいっぱいであった。
3階にあるフロントで予約書を渡した。そしたら、「1泊2400リラ」と言うではないか。案内所では確か、1泊1200リラで話が決まっていたのにその値段の2倍で、腹立たしかった。サヴォーナのホテルでは800リラ(階段下で狭い部屋・朝食付き)、ピサのペンションも800リラ(2人用の部屋・食事なし)、それらを比較しても非常に高かった。ここのマスターは英語が下手で余り意思が通じ合わず、抗議しても駄目であった。私は疲れていたので、ユースホステルや他のペンションを探すのが億劫で諦めた。
Colosseum(コロシアム)がペンションから歩いて行ける距離にあるので、一息入れて見に行った。コロッセオは古代の円形闘技場だが、今は建物の半分以上が廃墟になり、雑草があちこちと生え、古(いにしえ)の建造物となりつつあった。人間の歴史の一端を見た思いであり、古代ローマの偉大さ、愚かさ、そして、その歴史の重さを考えざるを得ない建物であった。
コロシアムの直ぐ西側にある、白大理石の優雅な門は、古代コンスタンティヌス凱旋門であった。
ローマの空に夕日が真っ赤に染まった。凱旋門やコロシアムを焦がし、古い石畳や古代建築物を背景に辻馬車が『パカパカ』と蹄の音を残して夕闇に消えて行く様は、私の旅情を一層醸し出してくれた。
既に暗くなって来たので、ここだけの見物にした。今日、腹痛で何も食べていなかったので、とても腹が空いていた。ペンションへの途中、一寸高そうなレストランで懐具合と合わない感じがしたが入った。老年のウェイターがメニューを持って来た。イタリア語で書いてあるのでチンプンカンプン、適当に安そうな物を指で示して注文した。しかし、出て来た料理は私には到底食べられそうもない、『犬の料理』であった。ゲテモノ喰いが食べる料理なので、他の料理を持って来るようにお願した。注文する時、頭を使えば良かった。
腹痛が治ったようで良かった。