子安宣邦『徂徠学講義』(岩波書店)「ある限定された時代に生きた学者が歴史的制約性とともに、時代を超えて妥当する普遍性をも同時に認識することが求められるのである。それぞれの時代状況を無視して安易に普遍性、あるいは時代を超えた類似性を語ることが危険きわまりないのは言うまでもないが、逆にあまりに時代制約性のみに着目し、その理論体系の普遍的な価値を見失うという結果に陥ってはならない。」(柳原正治「ヴォルフの国際法理論」)に比して、時代制約性を無視した分析方法が妥当かどうか、という点から議論を提起してしまいたい衝動に駆られる。Obligatoの時代変遷で異なる定義・射程を捕らえるのと同様に、「仁」「徳」の時代的背景を踏まえた原初期、仁斎と対峙する江戸期、現代の定義の考察というには、大家であるが故、これでいいのかと思う今日この頃である。客観的な記述ぶりだが、同一語が、時代により定義が異なるという意味において、法哲学に比して、日本思想史の方がよほど慎重に取り扱わなければならないとの意識を強くした。
『非営利放送とは何か』(ミネルヴァ書房)
ゆるさ加減が、メディア研究のレベルの低さをあらわさないようにするという文脈では、更に一工夫が必要である。教科書や参考書にしていく意味では、ハードカバーとする意味があったのかどうかは、読者の私には読み込めませんでした。それと、ハーバーマスとメディア研究の理論的架橋のゆるさ加減は、詰め将棋のように厳格な理論的構築をしませんか。引用文献が泣いています。理論社会学ではなく現象に対しての認識方法の当てはめに少し危惧感を感じました