補 稿
1915年(大正五年)私が第四学年生になった時、バークレーの日本人学生クラブ(Berkley Japanese University Student Club)が創立第五十周年を迎えたので、記念号の”Berkley Lyceum”と題する会誌を出版することになったので、私が選ばれて編集長となった。
私は当時の米国大統領タフト氏(President Taft)に本誌に何か寄稿して頂きたいとお願いしたが、秘書から折角だが多忙のためにその求めには、応じ兼ねるので、悪しからずとの返書に接したため、残念ながら誌上に花を添えることは出来なかった。しかし私はこの返書を会誌の第一頁に掲げて大統領の厚意を謝した。
クラブ員の学生諸君から各学研に関する論文やその他随筆などの日英どちらかの原稿を提出するよう依頼したところ七,八名の方から、彼等の専門に関する寄稿があったので、それに私の”Pioneer Spirit and Exploitation of California”を加えて十一月末までに原稿をまとめて、桑港日米新聞社に依頼して出版した。
各クラブ関係者並びに在留の同窓生や加大日本学生クラブと親交のあるアメリカ各地の大学校のCosmopolitan club員などに配布したので、多忙を極めて正月を迎えた。
出版費は、在留者有志からの寄金と邦人の商社などの広告料と新聞社の特別の厚意で五百部をカバーしたので、部員から感謝された。
これも私にとっては、良い思い出の一つとなった。この会誌は関東大震災の時、横浜で失ってしまったが惜しいことをした。
1915年(大正五年)私が第四学年生になった時、バークレーの日本人学生クラブ(Berkley Japanese University Student Club)が創立第五十周年を迎えたので、記念号の”Berkley Lyceum”と題する会誌を出版することになったので、私が選ばれて編集長となった。
私は当時の米国大統領タフト氏(President Taft)に本誌に何か寄稿して頂きたいとお願いしたが、秘書から折角だが多忙のためにその求めには、応じ兼ねるので、悪しからずとの返書に接したため、残念ながら誌上に花を添えることは出来なかった。しかし私はこの返書を会誌の第一頁に掲げて大統領の厚意を謝した。
クラブ員の学生諸君から各学研に関する論文やその他随筆などの日英どちらかの原稿を提出するよう依頼したところ七,八名の方から、彼等の専門に関する寄稿があったので、それに私の”Pioneer Spirit and Exploitation of California”を加えて十一月末までに原稿をまとめて、桑港日米新聞社に依頼して出版した。
各クラブ関係者並びに在留の同窓生や加大日本学生クラブと親交のあるアメリカ各地の大学校のCosmopolitan club員などに配布したので、多忙を極めて正月を迎えた。
出版費は、在留者有志からの寄金と邦人の商社などの広告料と新聞社の特別の厚意で五百部をカバーしたので、部員から感謝された。
これも私にとっては、良い思い出の一つとなった。この会誌は関東大震災の時、横浜で失ってしまったが惜しいことをした。
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