祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第3回(渡米を促進した家庭の事情)

2011-10-24 08:30:07 | 日記
2.渡米を促進した家庭の事情 


 私は長野県下伊那郡の飯田町の伝馬町(今の飯田市)で生まれた。父は同じ町内に住んでいたK家の四男で秀四郎といった。K家は飯田の名家で庄家を勤めていたが、父の兄の純一郎の時代には白木屋という家号で、足袋の卸小売商を営んでいたが、町きっての資産家であった(純一郎は県会議員にもなった)。
 私の母は同郡千代村のT十郎の二女で、沢山の子供を養育したが、私は三男として生まれた(二男は早死に)。 
 父は勤勉力行の人で、商才に長け、商機を逸せざるの才知もあり、豪胆にして、しかも寛大、従って金儲けも上手で、手広く綿糸太物商の卸小売業を営んで巨万の富を作った人であった。 
 それであるから父の存命中は何一つ不自由な生活を送ったことがなく、楽しく中学校の生活を楽しむことができた。私の兄は全国でも有名だった小林有也校長のいた松本中学校に遊学していた。
 ところが、父は私が中学三年の頃、呼吸器病に罹って病床につくようになった。家内の伝染を恐れて、飯田金光教会の境内に療養所を建てて移住することになり、忙しい商売は母と三人の番頭たちが担当して経営していたので、私も学校の放課後は出荷の荷物を作ったり、店頭に出て客の応対もしていた。
 父は長い療養の末明治三十五年の六月に死去した。兄は丁度中学校を卒業して帰宅しており、父の遺産を継いで日夜家業に努めたが、なにせ商家に生まれたといっても、実際に商売をした経験も少なく、父の手広くやった商売は反って彼には重荷となって、漸次衰退の一途を辿るようになった。これは彼にとっては無理からぬことであった。
 一方家には弟が二名(内匡四男はT家へ養子)妹が二名いて、弟たちの教育の問題も目前に迫っているし、妹たちの将来の結婚のことなどを考えると兄も大変憂慮したことであったろう。幸い父の遺産は大きく、祖先伝来の黒田にあった田地は三町歩以上もあって、下作人に作らせていたが、毎年沢山の小作米が家の蔵に納められていた。また町内にあった宅地の貸地や畑などを合わすと、何千坪を数えていたので、一生暮らすには差し支えない財産が残っていた。
 しかし弟たちに高等教育を施そうとする考えは、もうとうなく、店に働かせることばかり考えていたようであった。
 私は思い切ってアメリカに行ったから良かったが、弟の雅は私が渡米後二年位して中学を出たが、家で店員代わりに働かされて、店の店卸しの品物を担いで四、五里もある遠山という山村へ行商に行って兄を助けたとの涙ぐましい話を帰朝後母より聞かされて、お前はアメリカへ行って良かったと喜んでくれたことを、今尚記憶に残っている。
 親類が見かねて、兄に注意したこともあったが、それでも雅は厳寒の候でも田舎へ行商の出かけたことである。雅はその後兄の許しを得て上京して、千葉県の市川の歯科医の書生となって労働の傍ら、医師の厚意で、高山歯科専門学校に通学したが、卒業の時を待たずして、肺病におかされて、帰宅して遂に死亡した。雅の家での療養中の看病は冷淡であったと母が叙懐してくれた時は、私もある種の憤りを禁じ得なかった。
 若し私がアメリカに行かずに家にいたら、私もまた雅の二の舞になったことだろうと思うと戦慄を感ずる次第である。
 私は前述したような次第で、進学は愚か、飯田にいては将来の希望も無く、兄の許しを得て、是が否でもアメリカに渡って、自分の力を試してみたいと覚悟した。
 人間到る所青山あり、お天とう様とご飯はいつもついて廻る。その青山と太陽の国はアメリカあるのみだと、その時期の早からん事を期待していた。待てば甘露の日和ありというが、その機会は遂にやって来た。


小林有也とは(東京大学仏語物理学科第3期卒業し、農商務省工務局に勤め、東京物理学講習所(東京理科大)の創立者の一人となり、同講習所の物理学教授となる。長野県中学校を長野に創り、学校長と教諭を兼務。)

 


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