祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第2回(新天地での先駆者になるべく)

2011-10-23 09:00:19 | 日記
1.渡米の動機

思い起こせば明治三十七年二月、西暦千九百四年に日露戦争(Russo Japanese War)が突如勃発した。日本は世界最大強国であったロシヤを向こうに廻して挙国一致、国運を賭しての大戦争に突入した春のことである。
私は将に中学校を卒業しようとしていたが、当時の青年の間には、新天地であるアメリカに渡航して、自分の力を試して、一かバチか、生命を賭してまで日本移民のパイオニアー(先駆者pioneer)になって、自己の運命を開拓してみようとする若者の意気が漲っていた。  
 それはアメリカの新開州であった太平洋沿岸の諸州、特にカリフォルニアに於いては、農業開発のために多数の労働者を必要としていたが、シナ人の移民の入国は法律によって禁止せられていたので、勢いその労働力を日本人移民の手に委ねざるを得ない状態であった。
 狭小な島国、日本に生を受けて、将来の希望も少なく、運命を開拓するチャンスに恵まれない青年に対しては、アメリカは彼等の求めていた新天地であったのである。それに当時はアメリカ側が日本人移民を歓迎していたので渡航も容易であった。
 また、一方学業を志す青年学徒の状態は、どうであったかというと、今日の如く各地方至るところに中等教育を授ける機関は無く、僅かに大都市若しくは一郡に一,二の中学校が存在している状態であった。況や高等教育を授ける各種高等専門学校や大学などは、今日に比して、その数が誠に少なく、従ってその入学も容易なことではなかった。
 私の故郷の飯田地方では一郡にただ一校の中学校があったのみだったから、郡下の学生は皆学校の寄宿舎に泊まって学業に励んだのである。それであるから私のいた飯田中学の寮生は殆ど各村出身地の素封家の子弟であった。更に進学して高等専門学校に入るには、皆遠く故郷を離れて、東京等に遊学せねばならなかった。況や大学の進学をやだ。  
 従って、たとえ学力が優秀な学生でも学資などの関係で遊学はなかなか容易なことではなかったのである。私は郷里の学生で、東京に出て、赤貧と戦って、政治家の書生となったり、時には新聞や牛乳の配達をしたりして、大学を卒業した立志伝中の人の話しを聞いて感心したことがあったが、これは凡人のよくするところではなく、自分には到底できないことだと諦めていた。
 このように、たとえ私が青雲の志を懐いても、それは砂上の楼閣に過ぎず、如何にしてバベルの塔(Babel)を築かんものと日夜考慮していた、おりも折り、東京では、かの片山潜が「渡米案内社」という会を作って、アメリカの現状を紹介して、アメリカは青年の活躍し得る別天地であり、農民の楽天地でもあり、青年学徒の遊学地であって、自活して学問の修行をなし得る、世界ただ一つの登竜門が開けていると、渡米の効果を説明して渡米するよう鼓吹していた。   
 私は早速同社の渡米案内書を購入して多大の興味をもって耽読した。  
 信州のような山深い田舎町に一生を送るより、寧ろ一かバチか渡米して、アメリカという新天地で、自分の運命を賭して見よう、自分の努力次第では運命の女神は私にその恵の手をさしのべて呉れるであろうと決心した。



飯田地方(長野県)


片山潜とは、(かたやま せん 1859年~1933年 日本の労働運動家・社会主義者・マルクス主義者・思想家・社会事業家。明治14(1881)年サンフランシスコに渡り1896年まで在米。苦学してグリンネル大学 エール大学を卒業。留学中にキリスト教に入信)


バベルの塔とは(《Babelは聖書の地名シナルの古都》旧約聖書の創世記にある伝説上の塔。ノアの大洪水ののち、人類がバビロンに天に達するほどの高塔を建てようとしたのを神が怒り、それまで一つであった人間の言葉を混乱させて互いに通じないようにした。そのため人々は工事を中止し、各地に散ったという。転じて、傲慢に対する戒めや、実現不可能な計画の意にも用いられる。)


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