祖父の回顧録

明治時代の渡米日記

第54回(パラチブスにかかる)

2011-12-12 10:19:50 | 日記
53.第二学年終わりの暑中休暇にHamiltonの農園に行く、帰ってパラチブスに罹る


 第二学年終了後の1913年の六月には又農園労働を行うとして、持ち物の整理のため、クラブの地下室に行ってトランクを引きずり出そうとしたら、床柱の所に出ていた三寸釘の頭に左手の手首が刺さって、グット引張ったので二センチ以上も引き裂けたので、直ぐ大学の学生施療院(Infirmary)に走りつけて、三針縫ってもらった。一週間余りしたら仕事には差し支えなくなったので、田舎へ独りで出発した。
 
 そのため今でも手首に傷痕が残っている。

 この夏はハミルトン(Hamilton)という加州の北部のチコ郡(Chico County)でサクラメント河(Sacramento River)の沿岸の地帯にある所だった。この地方は中部や南部地帯に比して未だ未開拓の原野が多く、これから農耕地化しようとした村落で、民家も附近になく、私の行ったキャンプと経営者の家のみの淋しい村だった。 

 農園の遠方に見える裏山が、昔この地方に居住したチコ・インデイアンの本拠地で、インデイアンの名を取ってこの地方をチコ郡といっているのである。この山が考古学上有名な「椅子の丘」table landと呼ばれる丘で、山肌を平らに削ってテーブルのような形にして、腹に沢山の穴蔵を掘って梯子で出入りして生活したインデイアン独特の住家の丘であった。

 この丘は、加州でも珍しいtable landで、コロラド河のグランド・キャニオン(Grand Canyon: 有名な観光地)にも沢山あるが、このハミルトンに来て、この考古学上有名なテーブルランドを見ることができて幸せだった。

 インデイアンはこの丘を本拠にして附近を流れるサクラメント河で魚貝を取ったり、木の実を取ったりして生活していたのであるが、加州が建国されてから、米国政府はインデイアン保護政策から、いまでは全部のインデイアンを各地方に集めて特別保護地を設けて、ここで生活し得ることにしているから、インデイアンの姿は見ることはできなかった。

 それでも農地に行くと、彼等が使っていた石器(stone implements)、石の棒(stone club)や石斧や、石の矢尻等が時々発見されたので、私は記念品として小形のものを数個クラブに持ち帰って土産物にした。

 一緒に働いていた日本人労働者はこういう知識がないので皆無関心で、滅多に見られないテーブルランドを眺めても、何の感興も湧かず気の毒に思った。働いて金を儲ける以外にはその土地にも馴染まず、転々として季節労働者として、生活を送っているので、地方の白人から白眼視されて排斥の的となるのが落ちだった。

 仕事は広い原野を切り開いて、果樹の若木を植えてある農園の草取りと、潅水の仕事であった。昼間の除草はよいが、夜間の潅水は大変で一晩中広い畑を廻って、潅水の深さの状態を計るため鉄棒を突き刺し、何吋と計っていくので、水の中を長いゴム長靴で歩くため、ひどい仕事だった。私も二晩ばかりやらせられて、これにはまいった。

 加州では大陸気候のため雨量が少なく、井戸を所々掘って、エンジンで吸い上げ、太い長い鉄管で送水するのである。このため井戸を発掘するのに莫大な資金が要り、水脈に当たらなければ、農家は破産するとまで言われているのである。

 この農園はサクラメント河の流域のため、河水を溝川で連結して、灌漑していたから水は豊富だった。
 この農園の日本人ボスは熊本県人で日本人労働者は三十人余りいた。監督はオレゴン大学農学部を出たという二十四,五歳の青年で、日本人労働者が皆英語ができないので、私が通訳代わりになった。

 労働者は熊本県人を「イコラ県」とよんで、朝仕事に行くときは皆イコラ、イコラといって出て行った。食事代は一日五十仙、賃金は九時間労働で一弗五十仙だった。食事は朝飯にうどん入りの味噌汁に漬物と米飯、昼は肉と玉ねぎの煮物に米飯、夜も同じで、三度三度皆同じ料理で、イコラ県人の食べ物にはコボしていた。

 河畔のせいか、マラリヤに侵される人も出て、一,二人罹ってブルブルふるえていたが医師も居らず気の毒だった。六十年前のことだから、この地方のマラリヤ蚊の撲滅も講ぜられず、それに夜間の灌漑の仕事があったから、侵される人が出たのであろう。それにも係らず、蚊帳を持っているものは一人もなく、勿論私もなかったが幸いマラリヤには罹らなかった。

 或晩、附近のサクラメント河に魚取りに行った。大きな麻袋と、長い棒の先に五寸釘を打った鉾で、川岸にビジョビジョ近づいてくる鮭か鯉に似た魚をエイト突き刺して捕らえたが、見る見る内に数匹捕まえた。袋に入れて持ち帰ったが小骨が多くて味も悪く、白人等はフリ向きもしない魚だったが、日本人のボスは塩漬けにして樽に詰めて保管して、食べるのだとのことだった。人口の希薄なこの地方の魚は自由に繁殖しておるのに、魚食を好まない白人は、顧みもしないから誠に勿体無いことで、日本の内地ならどうであろう。良い蛋白源として取り尽くしてしまうかもしれんと思うと、食糧の豊富な国は羨ましいことである。

 或る夜半のこと、外が騒がしいので、何事かと出て見ると蝗(locust:いなご)の大群がこの村に襲来したのだと白人達がワイワイ騒いでいた。
 昔しエジプトで蝗の大群が襲来して一夜の内に穀物を食い荒らしたために、大飢饉が起きたという物語を聖書で読んだことがあるが、今目の当たりにこの光景を見て吃驚り(びっくり)した。

 キャンプの周りにも沢山かたまって群がっており、白人達が来て、ボーイは皆集合して捕獲に出発せよとの命令がでた。日の出る前に捕らえなければ飛び立つというので、払暁に出動した。見渡す限りの果樹園の若木には、どの枝にも一杯の蝗がついていて、若芽や樹皮を食い荒らすので、それ捕らえよというので、捕まえては袋の中に払い落とすと見る見る内に溜まって行く。面白いように捕まえたが、若木の新芽や葉や茎も無惨にも食い荒らされていて、その猛烈さには舌を巻いて驚いた。

 広い畑の木を一本一本捕らえていくので、中々はかどらず、朝日が出る頃には、蝗は勢いを得て飛び始め、太陽が輝き出すと一斉に飛び立って蝗の大群が空高く真黒の群れとなって去って行く光景は物凄かった。また他の地方が蝗の被害を被るかと考えると気の毒に堪えなかった。
 このため、この地方の農園の受けた損害は莫大だったろう。それにしても今この地方は立派な果樹園となって、人口も増加してハミルトンも相当な町に発達したことだろう。

 約一ヶ月余り働いて、七月中旬バークレーに帰ってクラブで休んでいたが、二、三日したら、ふいに頭痛がしてなんだか気分がおかしいので、直ぐサンフランシスコに出て黒澤日本病院の診察を受けたら、パラチブスらしいとの診断だった。
 十日間余り入院したら幸い全快したので退院した。医療費はただのような世話になった。

 この黒澤ドクター(ドイツのドクトル、メジティネ)はシスコで唯一軒の日本人医院で、後年東洋汽船社員時代に会社の嘱託医師として、シスコ入港の社船、貨物船(医師がいない、客船のみ船医勤務)の船員の病人の手当てをしてもらって、報いることができた。

 学校は八月下旬に開始されたが、その前にモントレーという海浜で国際学生大会が開かれたので、私は加大日本人学生を代表して三日間に亘って参加する機会に恵まれて、良い保養になった。


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