生存助け合いのネットワーク(生存組合)

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助け合いのための寄り合い、ここにあります。

瀕死の生活保護制度を救え! (1) ―「水際作戦」窓口の実態― ・前半部分 (JANJANの記事)

2007年12月18日 | 新聞報道
瀕死の生活保護制度を救え! (1) ―「水際作戦」窓口の実態― 2007/12/18 (インターネット新聞JANJAN記事)http://www.news.janjan.jp/living/0712/0712167324/1.php

「反貧困」を訴えるデモ隊 (0分31秒 )

 『生活保護問題対策全国会議名古屋集会 市民の力で貧困を絶つ!~瀕死の「生活保護制度」を救え!』が12月15日、名古屋市中村区役所で開かれました。中村区役所は、名古屋
駅の西側、ドヤ街のあるササシマ地区にある建物です。

 会場の大ホールには、主催者の当初の予定の300人をはるかに越える人たちが集まりました。400人を超えたのではないかと思います。集会は、大阪から来た塚本正治さんの『生
活保護の唄』ではじまりました。

 『税金、年金納め続けても、ささやかな生活はありません』。『生活保護をとろう。生活保護をとろう。命までとられる前に、生活保護をとろう』という塚本さんの歌声が会場に響き
ます。

 会場に張られた反貧困ネットワークのシンボル『ヒンキー』の前で、名古屋の反貧困ネットワークの人達も一緒に歌い、踊っていました。名古屋での反貧困ネットワークは、東京で発
足した反貧困ネットワークとは、設立の経緯も時期も違いますが、扱う課題が同じなので、協調してやっているようです。

 次に、弁護士で「法テラス(href="http://www.houterasu.or.jp/">http://www.houterasu.or.jp/
)」愛知地方事務所所長の内河惠一さんの開会挨拶がありました。

 ――20代のころ、私も生活保護を受けていました。母は生保を受けると嫁が来ないかもしれないと言っていました。ですが私は、日本には憲法があるから大丈夫だと思っていまし
た。その当時の自分は、いまほど憲法に詳しかったわけではありませんが、戦後の憲法とは、多くの人にとって、そのような頼もしいものとして頭にあったと思います。

 その当時、私は1日100円の予算でなんとか食いつないでいました。コッペパンを買って食べていたのですが、1個10円のマーガリンは金がなくて買えない。だから、そのマーガ
リンを3日とかもたすわけですが、冷蔵庫も何もないので溶けてくる。その溶けたマーガリンを必死になってパンに塗った覚えがある。

 いまの繁栄した日本で、私の若いころのような苦労をする人があってはなりません。憲法25条の健康で文化的な生活の保障は絶対的なものです。働いている人より生保の金額が高い
ので切り下げるのは間違っています。働いても給料がそんなに少ないことを問題にすべきです――。

 開会挨拶の話のあと、生活保護の実態についてのTV特集の録画のDVDが流されました。

 働けないのに働けといわれた北九州市の男性の話、札幌で月に13万円の生活保護で暮らしていた男性が、月3万のバイトが見つかったら生保の辞退をさせられた話などが流れまし
た。内河さんの話では、NHKは文句をいわれることの多い放送局ですが、この番組を放送したときは、褒める声があがって担当者も喜んでいたそうです。

 はじめに、「尾張東部生活と健康を守る会」の中上幸恵さんが、自身が経験した「水際作戦」の話をされました。

 自分が経験した役所でのひどい対応の話をしたいと思います。私は、最初は普通に働いていましたが、体を壊して徐々に仕事ができなくなりました。しばらくは蓄えでなんとかしてい
ましたが、貯金がなくなり、家賃を滞納して、そのうち、アパートを追い出されてしまいました。

 友人宅に世話になりましたが、体調がよくならず、何度か入退院を繰り返して、3つの病院で、130万円の未払い金ができてしまいました。友人の家にも長く世話になっていて、
「出て行ってほしい」といわれ始めました。どうやっても自分でやりくりできなくなって、生保の申請のために、瀬戸市の福祉にいきましたが、あれほどの屈辱を味あわされるとは、
思っても見ませんでした。

 ケースワーカーは、私の話を聞いて、「病気が慢性腎不全と心不全ですか、大変ですね。しかし、お友達の所帯の一部になっているのですから、その友人に扶養してもらってくださ
い。病院の支払いや診察については、ウチではなく病院のケースワーカーに言ってください。もっと若い人も働いていますから、もっと働いてください。市営住宅のパンフレットは上の
階にあるから自分で取りに行ってください。またなにかあったら話は聞きますから」といって、生保の申請はさせてくれませんでした。
 その時の私は、所持金は136円しかなく、薬も2週間前になくなっていました。私は、自分ではもうどうすることもできなくなって、友人にも世話になることができなくなっている
ので、申請にやってきたのに、生保の申請はさせてくれないのです。福祉の窓口で申請ができず、「このままでは橋の下で生活するしかなくなってしまう」と言ったら、その職員は口元
に薄ら笑いを浮かべて、「そうなったら住所不定で生保は申請できなくなりますよ、職安に行くように」といいました。

 その帰り道、私は悔しくて涙が止まりませんでした。

 「生活と健康を守る会」の人たちの協力で、なんとか申請を通すことができました。本当に助かりました。役所の人は、1人で行っても全く相手にしてくれませんが、何人かで行った
り詳しい人がくると、態度をコロっと変えます。本当にひどい話です。

 私は病気も軽くはないので、あの役人にだまされたままでいたら、いまこうしてお話できていたかどうかわかりません。困ったときにいつでも申請できる生保であってほしいと思いま
す。

 次に、「尾張東部生活と健康を守る会」会長の鈴木ひさ子さんが、ご自身が関わった相談事例から、いくつか話をしてくれました。

【ケース1】
 男性61歳、1人でマンション住まい。ローンが残っていて、リフォーム詐欺にあって借金があった。腰痛がひどい。年金が少しあったので、生保の申請が通らなかった。手足も痛く
なり通院することが困難になって入院。入院してから相談の電話があった。

 入院時には4日ほど何も食べていなかったが、本人がそのことを病院で言わなかったために、病院では検査だけをして退院。住むところやお金ではなくて、自分の体を助けてくれる場
所がほしいと本人は言っていた。

 5月4日、部屋の中で亡くなっていた。食べるものがなくなると、弟さんに連絡をとって送ってもらっていました。このときも連絡があって、弟さんは届いたと思っていたのですが、
配達会社から荷物が返ってきて、見に行ったら死んでいた。役所にこのことを話すと「聞いております」との、どことなくほっとしたような返答が返ってきた。

【ケース2】
 体調がすぐれない夫をもつ夫婦が申請した例。福祉に何度か生保の申請にいくも、話だけでなにもしてくれなかった。私たちの会が一緒に行くと、すぐに態度が変わって申請ができた
が、申請を通ってしばらくしたら、ガンで亡くなってしまった。福祉の窓口が「水際作戦」などとらずに、もうすこし早く申請を通していたら、あるいはもう少し長生きできたかもしれ
ないと悔やまれる。

 これらのケースのほかにも、いろいろな問題があります。例えば、生保を申請する以前の医療費や保険料の滞納額が結構な額になっている人は、多いです。滞納金は未払いのまま放置
すると、5年で取り戻せなくなってしまいます。だから1,000円でも2,000円でも支払わせて、5年間の未払い期間をつくらないように「つないで」いると思われる事例がいくつ
もあります。役所の人はそんなことはしていないといいますが、現実にはたくさんあります。

 みんなで一緒に行くと申請が通ることが多いです。1人で行っても申請用紙すら渡してくれないのですが、みんなでいくと、申請用紙が机の上に用意してあったりします。このような
卑怯な手で、生保を申請する権利が奪われているのは問題です。その陰では、何人もの人が病死や餓死、自殺に追いやられたりしていると思います。


 次には、実際に生活保護を受けて暮らしている名古屋市の男性Mさんの話がありました。Mさんは匿名です。

 私は64歳になります。現在夫婦で生保を受けて生活しています。生保という制度があって、ほんとうによかったと思います。

 三重で生まれて中学卒業後、鋳物工場で10年働きました。そのあと家業を5、6年間手伝い、その間に結婚してアパートで暮らしました。女の子が2人生まれました。じきに家業が
傾きだしたので、また鋳物工場で働きました。40代になって家内が入院しました。 腎臓が悪かったのです。入院の費用などで生活が苦しくなりました。

 そんなときに、知り合いがサラ金から金を借りたいが、自分は保険証をもっていないので借りてくれというので、自分の名前で借りました。それから自分たちの生活も非常に苦しくな
り、サラ金で簡単に金を借りることを知って借りました。7、8ヶ所の会社から、それぞれ10-30万円借りました。

 サラ金のこともあって夫婦で人材会社に就職し、会社の寮に移って、子供は親に預けました。ですが、王子製紙で働いていたときに派遣社員全員がクビになり、土建会社で働くことに
なります。会社の寮に入って働きましたが、すぐに仕事が少なくなり、やめることになりました。寮を出るときには、いろいろと引かれて、少しのお金しかありませんでした。

 こうして平成17年の7月頃、夫婦で名古屋に来て仕事を探しましたが、夫婦住み込みのところがなく、 名古屋駅周辺で野宿となりました。初めての事でいろいろと困りました。と
くに夜中に家内ができるトイレがなくて困りました。トイレは中村警察署でよく借りました。寄せ場笹島で仕事を探しましたが、なかなか見つかりません。

 土建や船積みの仕事がある時期には、週2回くらい1万くらいの仕事はあったので、ビジネスホテルに話をして、1人の部屋に2人で泊めてもらうことがありましたが、それも長くは
続きません。お金がないときは、野宿の仲間が出し合って食べさせてくれました。とても助かりました。

 夜回りの人に熱いお茶をもらったのも、ほんとうにありがたかったです。そうしていると、オケラ公園(西柳公園の通称)に行ったら相談に乗ってくれると聞いたので12月29日に
行きました。

 そこでは、越冬のためにみんながテントを建てていて、そこで笹島診療所の人に相談しました。役所の申請にも一緒についてきてくれ、家内は診察をしてもらえることになり、本当に
助かりました。そして宿所提供施設「熱田荘」にはいりました。家内は診察の結果、入院することになりました。また、自分もヘルニアで入院しました。

 その後、診療所に協力してもらってアパート探しをし、アパートに入りました。アパートでは病気の人が多いので、お互いに声をかけあうことにしています。

 そうしていると、サラ金から督促状がきました。栄の法律センターで相談して、破産宣告をすることにしました。弁護士費用は月5,000円づつ返済しました。サラ金の問題が解決
して安心しました。家内の顔色もよくなりました。

 いまは、アパートに入った者たちでつくっている親睦の会に入っていて、月初めに1,000円づつためて、みんなで時々バスツアーに行ったりしています。毎年とても楽しみにして
います。
娘から会いたいと連絡があって、20年ぶりに会いました。私はいままでのことを謝りました。いまは時々娘も会いにきてくれます。孫も一緒にきてくれます。このことを福祉事務所
の職員に話したら、とてもいいことだと一緒に喜んでくれました。

 年金はたった3万円しかありません。これではやっていけませんので、生保をうけています。家内はインスリンの注射もしていて、時々入院しています。自分も前立腺が悪くて通院し
ています。生保という制度がなければ、自分はこんな生活はできなかったと思います。診療所の人に会えてよかったです。生保という制度があってよかったです。

◇◇

(文字数がおおいので、後半に続く)

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