山本昌200勝誇れ42歳、完投で決めた(日刊スポーツ) - goo ニュース

(日刊スポーツ)
<中日5-1巨人>◇4日◇ナゴヤドーム
遅咲きの左腕が史上最年長の200勝投手となった。42歳11カ月の中日山本昌投手が巨人を4安打1失点に抑えて4連勝の7勝目を挙げ、史上24人目の通算200勝目を達成した。史上最年長完投でもあった。プロ入り4年間は未勝利だったが、スクリューボールなどを駆使して白星を積み重ねた。中日一筋25年目、11日に43歳を迎えるベテランが大輪の花を咲かせた。
あと1球コールの中、山本昌は目いっぱい左腕を振った。最後はラミレスの打球が右翼手のグラブに収まった。両手を天に突き上げた。立浪を筆頭にベンチから飛び出してきた全選手の手で4度宙を舞った。
「恥ずかしいので泣かないようにしていたんですが胴上げにはウルッときました。よくぞここまで来られたと思う。よく頑張った。(胴上げは)気持ちよかった」。お立ち台では目は真っ赤だった。声も震えた。42歳11カ月での通算200勝は41歳3カ月の横浜工藤を抜いて史上最年長記録。若林(毎日)の42歳8カ月を58年ぶりに塗り替える最年長完投勝利で飾った。節目の球団9000試合目で、歴代3位タイとなる巨人戦通算39勝目でもあった。
初回に先制された。そこからが真骨頂だった。130キロ台の直球をコースぎりぎりに決めた。5回には5-1と打線が勝負を決定づけた。圧巻の4安打、127球の完投だった。
25年。山本昌の歩みはウサギとカメの物語だ。野球を始めた小学校4年、初めて先発した試合は0-36の大敗だった。中学時代から2番手だった。エースが故障してやっと出番がめぐってきた。日大藤沢高からプロ入りのきっかけとなったのは引退後の神奈川選抜対社会人チームでの好投。その登板も県内NO・1投手が高校選抜へ引き抜かれたことによる繰り上げだった。プロ5年目で初勝利を挙げたが、勝ち始めてもエースと呼ばれたのは今中、野口、川上だった。
ただ努力では負けなかった。3歳の時から自宅に届く200ミリリットルの牛乳12本を1日で飲んでいた。高校時代は、卒業するまで毎朝8キロのマラソンコースを走った。プロ入りから500試合以上投げたが、登板前日の夜に私用で外出していたことは1度もない。午後11時59分にはテレビも消し、本も閉じて布団に入った。入団当時は必ず遠征先に4キロのダンベルを持参。球団支給のキャリーバッグが誰よりも早く壊れるのが誇らしかった。「常に進化していくんだという気持ちを持ち続けていた。野球に対してはウソをつかなかった。サボったら必ず跳ね返ってくるから」。今でもランニングの量は若手に負けない。
試合後には早くも次なる目標を掲げた。「あとはシリーズで勝ちたい。来年からも毎年、戦力でいられるようにしたい」。日本シリーズでの勝利、杉下氏の球団記録211勝…。200勝はゴールではない。ただ、その道程は尊い。
山本昌が次々と記録を打ち立てる度に思う。
プロ野球に入ってくる選手は全て何かしら常人とは異なる才能を持っている人々なのだと。
ドラフト1位も6位も関係無い。
ストレートが130kmそこそこでもノーヒットノーランや200勝を達成出来るのだと。
その山本昌が唯一他の選手より勝っている才能が体が丈夫だという事だろう。
入団して5年目からの活躍で、活躍以前に肩を怪我した経験があるらしいが、
活躍しだしてからは、山本昌が怪我をしたと聞いた記憶が無い。
プロ野球を23年間続けていて奇跡の様な事だ。
その間にも、今中慎ニ、郭源治、近藤真一(現在は真市)等明らかに野球の才能は勝っているだろうと思われる選手はいたが、最後まで残ったのは山本昌だった。
「継続は力なり」
私の好きな言葉だが、これを体現している山本昌に敬愛の念を抱きつつ更なる活躍を祈りたい。
PS 東京に引っ越してしまったのは残念!
山本昌 最年長プロ野球記録
200勝 2008年8月4日達成(42歳11ヶ月) 従来は工藤公康の
完投勝利 2008年8月4日達成(42歳11ヶ月) 従来は
完封勝利(セ・リーグ記録) 2007年4月17日(41歳8ヶ月)
最年長記録セーブ記録 2006年10月15日達成(41歳2か月)
ノーヒットノーラン 2006年9月16日達成(41歳1ヶ月) 左腕では世界記録!
プロ23年目でのノーヒットノーラン 2006年9月16日達成(41歳1ヶ月) 従来は佐藤(オリックス)の19年目
通算勝利数で最も遅いノーヒットノーラン 2006年9月16日達成(41歳1ヶ月)従来は金田(国鉄)の180勝。