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ここんとこ、更に自我の幻ガーと言い続けております。そろそろうるさいと思ってる方もいるんじゃないでしょうか(笑)
そもそも最初から表現の違いはあれど、結局それしか言ってないんで、今更気にしてもいられませんけどね。
それでも最近の記事では、なお露骨に自我の幻について触れるようにしています。
なぜならどんな説明もメソッドも、元も子も無い言い方をすれば最終的には無意味だからです。
今までずいぶん遠回りな説明を続けてきましたが、そろそろみなさんも付いて来れそうな気がするし・・・もう露骨でもいいよね!
とこんな感じの出だしで、今日も自我がテーマです(笑)
・・・。
さて私たちの自我、「私」という感覚は幻です。
それ自体には現実を創り出す力も無ければ、結果を選択する力もありません。
そして、そんな自我を見つめるのもまた自我です。これはどこまでも無限ループします。
この無限ループ、みなさんも気づきましたよね?
自我の連鎖の中でその幻に気づくには、自我について考えることすら疑ってみることです。
考えている「私」だって自我ですからね。
(´自Д我)「無理ばっか言って!それならどうすればいいんすか!」
と思うでしょう、しかしそう思ってるのもまた自我です。
そうなると、自我にはどうしようもありません。
何かをするのも考えるのも「私」つまり自我ですから。
自我に出来ることが無い以上、我々に残された道は一つ。
自我の思考や感情を、何もせずそのまま受け入れることだけです。
そこには
「自由意志によって未来を選びたい」
とか
「自由な現実を創造したい」
という「私」の願いも含まれます。
どんな知識やメソッドを知っても、それを行う「私」を大事に持っている以上はいつまでも同じことです。
「私」を大事に持っているから考え、悩み、苦しみ、どこかに逃げたくなるんです。
それならさっさと自我が何の意味も無く、力も無い存在だと認めてしまったほうがよっぽど楽ってことです。
結局最後は、どれだけそれを認めることが不安で恐ろしくても、馬鹿になって信じてみろとしか言えません。
それをする前に、どれだけ安全で確実だという証拠が欲しくても、どこにも証拠なんてあるはずがないんです。
それを探そうとするのもまた「私」という自我ですから。
・・・いや、気持ちはよく分かりますよ。
僕だって最初はそんなの認めるなんて、意味不明で怖かったですもん。
まあ、もし嘘なら嘘だったでいいじゃないですか。
そん時は「スピリチュアルなんて嘘付きばっかだもん」ってブログを書けばいいんです。
どうせ考えるだけ、思うだけならタダなんですから、一回とことん信じてみても損はないんじゃないでしょうか。
信じる者は救われます、なんてね。
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(´自ω我) 「信じてるのに救われねえっす!」
呉 「信じてるのもまた自我だからだよ。そんな自分も捨てちゃえ!」
ここんとこ、更に自我の幻ガーと言い続けております。そろそろうるさいと思ってる方もいるんじゃないでしょうか(笑)
そもそも最初から表現の違いはあれど、結局それしか言ってないんで、今更気にしてもいられませんけどね。
それでも最近の記事では、なお露骨に自我の幻について触れるようにしています。
なぜならどんな説明もメソッドも、元も子も無い言い方をすれば最終的には無意味だからです。
今までずいぶん遠回りな説明を続けてきましたが、そろそろみなさんも付いて来れそうな気がするし・・・もう露骨でもいいよね!
とこんな感じの出だしで、今日も自我がテーマです(笑)
・・・。
さて私たちの自我、「私」という感覚は幻です。
それ自体には現実を創り出す力も無ければ、結果を選択する力もありません。
そして、そんな自我を見つめるのもまた自我です。これはどこまでも無限ループします。
この無限ループ、みなさんも気づきましたよね?
自我の連鎖の中でその幻に気づくには、自我について考えることすら疑ってみることです。
考えている「私」だって自我ですからね。
(´自Д我)「無理ばっか言って!それならどうすればいいんすか!」
と思うでしょう、しかしそう思ってるのもまた自我です。
そうなると、自我にはどうしようもありません。
何かをするのも考えるのも「私」つまり自我ですから。
自我に出来ることが無い以上、我々に残された道は一つ。
自我の思考や感情を、何もせずそのまま受け入れることだけです。
そこには
「自由意志によって未来を選びたい」
とか
「自由な現実を創造したい」
という「私」の願いも含まれます。
どんな知識やメソッドを知っても、それを行う「私」を大事に持っている以上はいつまでも同じことです。
「私」を大事に持っているから考え、悩み、苦しみ、どこかに逃げたくなるんです。
それならさっさと自我が何の意味も無く、力も無い存在だと認めてしまったほうがよっぽど楽ってことです。
結局最後は、どれだけそれを認めることが不安で恐ろしくても、馬鹿になって信じてみろとしか言えません。
それをする前に、どれだけ安全で確実だという証拠が欲しくても、どこにも証拠なんてあるはずがないんです。
それを探そうとするのもまた「私」という自我ですから。
・・・いや、気持ちはよく分かりますよ。
僕だって最初はそんなの認めるなんて、意味不明で怖かったですもん。
まあ、もし嘘なら嘘だったでいいじゃないですか。
そん時は「スピリチュアルなんて嘘付きばっかだもん」ってブログを書けばいいんです。
どうせ考えるだけ、思うだけならタダなんですから、一回とことん信じてみても損はないんじゃないでしょうか。
信じる者は救われます、なんてね。
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(´自ω我) 「信じてるのに救われねえっす!」
呉 「信じてるのもまた自我だからだよ。そんな自分も捨てちゃえ!」
個人的なことですが、最近国家試験を受けました。試験に一発合格というのも私の願望の一つなのですが、なかなか難しい試験なのでどこかで無理やろうなあと思ってたんです。しかし意外なことに自己採点の結果、合格圏内!!無理だと思ってた願いがあっさり叶ったら、なぜか不思議なことに好きな人と両思いになりたいとか旅行したいなどの他の願望に対して叶えたいという気持ちがなくなってしまいました…でもスッキリという気持ちというよりは落ち着かない感じです…
自分の願望って何だったの?って思ってしまいました。長々とすみません。
教えてほしいんですが、思考や感情は自動で起こっているだけで自我は幻というのはわかりました。
それでは何を基準に生活するんでしょうか?意識とか無意識ですか?アレしようコレしようとか思ってもそれは幻の自我だからとりあえず考えは受け入れつつ全部無視していいんでしょうか?
自由意思がなくて悩みや自我が幻だとすると悩みってなんなんですか?
例えば結婚したいのにいつまでたっても結婚出来なくて苦しんでるのは、自我ではない本当の私は結婚するつもりはない。
だから結婚出来ないのは当たり前なのに、自我が勝手に悩んで苦しんでいる。という感じですか?
願いが叶うと信じるというより、願いを叶えたいと思っている「自分」が幻だと信じて見るといった感じです。あまり気持ちのいいことじゃないですが。
諦めた結果叶うというのも、諦めることで思考を放棄できるからなのかもしれませんね。
私たちは悩んだり求めたりするのに慣れきってますから、落ち着かないのも当然かもしれません。
それでもそこにとどまることが出来るなら、そこが答えです。
案外願望って絶対的なものじゃないんです。あんなに大事だと思ってたのにね。
特に何を基準に、というのはありません。ただあるがまま、思うままです。
出てきた考えを無視しようとするのもまた自分なので、結局何を考えても全て自我の範疇から出られないわけです。
それなら出てきた思考に対して、それをどうするか考える事をやめて、ほっといちゃいましょう。
まずは「何を考えようと自我の範疇にあること」を意識しながら普通に生活してみるといいと思います。
何か対策したくて歯がゆくなるでしょうが、まずはそこからです。
悩みはただそこにあるだけです。
どれだけ大変で困難な悩みだとしても、それは悩む「私」が居るからそう感じるだけです。
まあつまり幻ってことです。
本当の私というのも「私」である以上、自我に過ぎません。
なので、その苦しみが出てきたなら「どうしよう?」と考えず、そこから更に苦しむのをやめることです。
つまり苦しみをそのままほっとくことです。
すると
「考えなければ時間が経つばかりで悪いことになる」
というような思考や、焦りが出てくると思います。
それすらも「私」がそう考えているだけですからほっとけばいいんです。
どんなに不安でも気持ちをほうっておく。
それが、「幻であることをとことん信じてみる」ということです。
信じられない自分だからダメなんだって思ってしまいます。
別に駄目じゃありませんし、駄目って思ってるのもまた自分の思い込みです。
僕は理屈で考えて、本やネットを見ているうちに、「こいつら同じこと言ってるやん!」
と気づいた結果、とりあえず信じてみることにしました。
一回騙されたつもりで信じたからこそ、分かったこともありますよ。