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-ハワイ併合に対する日本の抗議-(GHQ焚書図書開封 第70回)

2017-06-07 12:54:39 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第70回
-ハワイ併合に対する日本の抗議-
 日本がハワイ併合のチャンスを失うに至った経緯が書かれた「ハワイを繞る日米関係史」昭和18年刊行。
アメリカ白人革命臨時政府(エス・ビー・ドール大統領)は、リリウオカラニ女王のクーデターのせいにして、自分たちのハワイにおける革命行動を正当化した。
アメリカ本国のハリソン大統領は、ハワイの併合案、保護国案のうち、併合案を選択した。
一方、ハワイ現地では本国政府に反対の保護案に傾いたことなどから、次期クリーブランド米大統領は、再調査し併合条約を破棄した。その結果、ハワイは混乱に陥り、保護国にも併合にもならず、王室を廃絶し、1894年ハワイ共和国として独立宣言をする状況を招いた。
本当の独立とは、武力的、経済的、政治的に独立していると同時に、精神的にも独立していることである。ハワイにとって最後の砦が王室をいだくということが精神的支柱であったのである。
その後、王室派と反王室派との間で内乱が起き、王朝は滅亡した。王家の権威を失ったハワイ人は、ハワイ人としての精神的支柱を無くし、経済的にも、政治的にも完全にアメリカの支配下になる結果となった。
皇室を失うことは、やがて、経済的、政治的、また軍事的にも依存している大国アメリカの一部に組み入られてしまうことを意味した。
日本は、アメリカの陰謀(王室を廃絶し、ハワイをアメリカの領土にする政策)を見抜けなかった。イギリス公使エドビン・アーノルドによるとこの時が、日本がハワイを併合するチャンスを逃したと時期であると述べている。
ハワイ憲法改正の時(井上馨外務卿)と同じように、アメリカの顔色を窺う外交姿勢(陸奥宗光外務大臣)がここでも、国益を損なう結果を導いた。ここに、日米対立の原点がある。
当時(1893年)、ハワイには在郷軍人1000人、それを保護するための東郷平八郎率いる軍艦「浪速」が停泊していた。此の時、脱獄囚今田与作の引き渡しを巡るエピソードがあるが、ハワイマスコミなどの非難に対し、東郷平八郎の「牛角に蚊が刺した程にも感じない」堂々たる交鈔姿勢が記録として残っている。
最初、独立、併合を容認していた日本は、マッキンレー大統領時になって、日本-ハワイ間の既存条約を巡り、アメリカ政府との間で意見が対立化してきた。この間に、神州丸、さくら丸の日本移民上陸禁止などが発生、星公使とシェアマン国務長官との交渉も難航した。
その結果、日本政府は併合反対に傾いたが、時すでに遅し、同時進行していた1898年併合が成立し、これまでの日本-ハワイ間の各種条約はアメリカによって破棄され、日本にとって極めて不利な状況に陥った。
参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行