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-排日の担い手は英米系キリスト教会からロシア共産主義へ-(GHQ焚書図書開封 第74回)

2017-06-13 15:39:44 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第74回
-排日の担い手は英米系キリスト教会からロシア共産主義へ-
 陸軍士官学校出身で、大正年間に軍属を離れ、支那に渡り、足と体験で支那を知ったシナ通(シノロジスト)であり「日本と支那の諸問題」の著者でもある長野朗。
焚書没収対象となった長野朗の本数は、野依秀市、仲小路彰に次いで三番目に多い。
戦後の日本では、共産主義の中国を礼賛した吉川幸次郎、宮崎市定や、毛沢東礼賛に走った中国研究学者が跋扈するようになった。
第一次世界大戦後、各国は大恐慌に見舞われ、保護政策をとった。そのあおりを受けたのが、不平等条約を結んでいた支那であった。支那製品の輸入が止まり、欧米各国の製品が支那に一方的に流れ込むという現象が起きた。支那は経済的危機に陥った。
ペリー来航後、日本は締結した不平等条約を撤廃するため、時間をかけ、日清、日露戦争を経て国際的地位を高めながら、実現した。一方、支那は日本と対照的に、不平等条約を撤廃することなく、強引に外貨排斥をもって関税自主権の代用とした。
排日で価値観を共有した国民党と共産党。「隴を得て蜀を望む」は支那の国民性。
靖国参拝を止めると、次は靖国を潰せと言ってくるだろう。靖国を潰すと、次は皇室を潰せと言ってくるに違いない。一旦、妥協すると、中国に屈するまで、次々と際限なく攻撃の口実を製造し、圧力をかけてくる。それが、中国の国家戦略。
排日問題は解決するものではなく、対立の種として継続的に製造してきた支那。
英米系の教会、実業家、学校が中国の排日運動を支援していた。
キリスト教系青年会が排日運動の主力だったが、「人を呪わば穴二つ」今度は英米が排斥され、1917年のロシア革命後は共産系青年会にとってかわった。1920年代から1930年代は、日英米にも共産主義の魔力にとりつかれた知識人が増えたのである。
ソビエトコミンテルンの指導によって、帝国主義VS共産主義の図式が形作られ、大和民族は英米帝国主義の支配層と同じ位置づけ、支那人は被圧迫民族として位置づけとし、帝国主義排斥のために排日運動が強化された。
1925年、スターリンは、ドイツ革命に失敗し、民主主義の発達したヨーロッパでは共産主義革命は無理と判断し、先にアジアで国際共産主義運動を起こそうとして、日本が共産化のターゲットになった。そのための前段階として、支那を活動拠点にした。その時期に起こったのが、上海大学生による五卅(ごそう)事件である。
既に、支那では、キリスト教系青年会が排日運動をしており、集団で全国で全国に散在しており、熱しやすく、扇動しやすい学生が国際共産主義運動の先兵として利用するのに便利だったのである。
参考文献:「日本と支那の諸問題」長野朗