S & A

日常生活の中で思ったこと、感じたことを気の向くままに書き綴っています。

-立ちつくす日本踏みにじる米国-(GHQ焚書図書開封 第69回)

2017-06-02 20:13:21 | 近現代史
GHQ焚書図書開封 第69回
-立ちつくす日本踏みにじる米国-
アメリカの恥部が書かれた「ハワイを繞る日米関係史」昭和18年刊行。戦後は、米占領下にあったこともあり、日本ではこの種のアメリカの闇の部分を書いた本は発行されることはなかった。
砂糖の生産地として、またアジア(特に支那)進出の拠点として重要性を増してきたハワイは、カラカウア王の死後、「アロハオエ」の作曲家でもあったリリウオカラニ女王を中心としたハワイ人純血主義派とそれに反対する一般ハワイ人派、及びアメリカ人の三つ巴の争いが激化していた。
そんな中、軍艦ボストン号の海兵隊によるハワイ上陸をバックに、君主制廃止を迫るアメリカ出先機関による革命がおこり、1893年1月17日仮政府が樹立された。
仮政府樹立の影の主役はセオドア・ルーズベルト大統領と海上権力論で有名なマハンなど若き軍国主義者であった。
そして、リリウオカラニ女王を最後にハワイ王朝が滅亡し、完全にハワイはアメリカの手に落ちた。
この時、邦人保護を理由に、軍艦「浪速」をホノルル軍港に停泊させ、アメリカを威嚇していた艦長は若き日の東郷平八郎であった。
仮政府樹立はしたものの、アメリカ本国議会は、エス・ビー・ドール大統領のハワイ仮政府を否認した。何時の時代もアメリカには反対勢力が存在し、表向きはバランスがとれているが、やがて、反対派も容認する方向に向うのである。

閣龍〈コロンブス〉がアメリカを発見した時期より300年前頃からハワイには黒人以外のいろんな民族が漂着し、現地人と雑婚していた。
1866年日本でも、海外渡航が自由になり、ハワイへ移民または出稼ぎ労働者として渡る人が多くなった。しかし、その労働は過酷で、明治2年、日本人を取り戻すために日本政府は2人の交渉役人を派遣したほどである。
支那は、清朝末期で国家機能が働いておらず、支那の苦力は救われることはなかった。
そんな折、1872年(明治5年)に支那苦力がペルー船マリアルース号から逃亡する事件が横浜で起きた。苦力の訴えを聞いた副島種臣外務大臣はマリアルース号船長を糾弾し、苦力全員を解放し、支那へ帰還させたのである。日本には、秀吉がとった海禁政策(アジア人を奴隷のごとく使うことに対する反発)の背景があったのである。
1873年(明治6年)時点で、副島公使の頭の中には、ハワイ併合、ロシアからの樺太買収案があったと言われている。
明治10年から16年にかけて、オーストラリア、スペイン、オランダからも移民要請があったが、いずれも政府は断っている。
当時の日本の人口は、明治6年-3300万、明治11年-3400万、明治16年-3700万、明治25年-4100万、明治30年-4300万、明治42年-5000万であり、貧農が多く、人口過剰状態であった。
明治18年に日本人移民総計は3万になり、1894年(明治27年)に移民保護規則が成立し、移住民局の業務が民間移民取扱会社に委ねられるようになると、白人の歓心をかうために農奴の域を脱しないようになり、官約時代より悪化した。
明治23年のハワイの人口は約9万(ハワイ人及び混血人4万、支那人1.5万、日本人1.2万、アメリカ人1900人)であった。
アメリカのフロンティアは1880-90年で終わりをつげ、1898年にハワイ、フィリピンをアメリカ領土に編入した。南北アメリカ大陸については、ヨーロッパに対しモンロー主義を貫いた一方で太平洋に対しては侵略主義で支那大陸を目指したのである。

参考文献:「ハワイを繞る日米関係史」吉森實行