GHQ焚書図書開封 第121回
-アメリカの対日石油圧迫の赤裸々な歴史「大東亜戦争調査会」叢書16-
当時の知識人、専門家は我が国の置かれている立場を虚飾もなく、強がりも言わず、さりとて弱音も吐かずに、驚くほど冷静に時局をみていた。
「米英挑戦の真相」第3章 彼等の執った経済圧迫の諸相 第1節 悪辣なる対日石油圧迫
1940年当時、米を除き先進国のほとんどは、石油輸入依存率が80%を超えていた。そのような状況下において、米英蘭による悪辣な対日石油圧迫は、我国の生死を左右するものであった。
参考:石油消費国の輸入依存率(英:100%、独:87%、仏:98%、伊:84%、日本:84%、米:63%)、石油産出国の輸出能力(ベネズエラ:95%、イラン:85%、インドネシア:71%、ルーマニア:68%、メキシコ:53%、コロンビア:87%)
1937年(昭和12年)7月7日、蘆溝橋事件をきっかけにアメリカの世論が全面的対日石油禁輸へと変化したが、日本の貿易業者、親米勢力は、それでも、アメリカが戦争を仕掛けてくることはないとの認識をもっていた。日本マスメディアも、うかつにもアメリカの真意を見抜けなかった。
日米通商条約が経済制裁にとって障害となっていることに気付いたアメリカは、昭和14年日米通商条約破棄、輸出許可制の導入へと制裁の範囲を次々と広めていった。
日本の仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)進駐は、英米の援蒋ルートを断つため仏のビシー政権の同意のもとに行っており、アメリカがアイスランドを一方的に予防占領したのと比べ、はるかに正当性のあるものであった。
アメリカのルーズベルトは、日本との戦争を望んで、日本を欧米の植民地のある南太平洋に資源を求めざるを得ない状況に追い込んだ。蘭領インドシナジャカルタの石油はユダヤ金融資本(シティ、ウォール街)の傘下にあり、アメリカはありとあらゆる手段を使って日本に低品質、高価格の(アメリカから輸入する高品質の石油価格と同じになるように運賃の安い分を上乗せした)石油を供給するという嫌がらせをした。 日本は、イラン、ルーマニアから石油を輸入しようとしたが、アメリカがアメリカ船籍、パナマ船籍、中立国の船を使わせないように手を回し圧力をかけていたためこれも不可能だった。
もはや、日本には戦うことしか道は残されていなかったので、石油在庫が切れる前に、民族生存のため南方に資源を求める行動を起こすことになった。
参考文献:「米英兆戦の真相」「米英の世界戦略」
2016/10/26に公開