心の中はエレガント♪

どんな時も笑顔で自然体で素敵に過ごせたらと思います。

最愛の母が天国に。。。。

2021年01月08日 | つれづれ・・

最愛の母が亡くなりました。。。しかも突然に。。

こんな悲しい事ってあるのかな。。。😭

元旦に母をぎゅっとハグして『また、4日に来るからね』と言って夫と母の部屋を出て

母の『ありがとう』この言葉が最後の会話です。その日の深夜息を引き取ったのです。。。

母は、元旦の早朝から動けなくなり、父から緊急要請の電話があり夫婦でいつものように着物を着る予定で

支度をしていたのですが、慌てて普段着で夫と駆け付けました。

母は台所で倒れた格好になり泣いていました。失禁もしていました。夫が母を支え私が身体を拭いてあげて

着替えさせ、取り敢えず母の部屋に寝かせました。『どうして1階に下りてきたの?』と聞くと

『お父さんの為に部屋を暖めてあげたかった』絶句しました。いつも、自分の事より父の事。。

母より後に起きてきた父は母の状況をみても、腰の痛みで何も出来ず座ってみるだけしか出来なかったのです。

 

母は20年前にパーキンソン病を発症し、10年ほどはほぼ普通(緊張すると震えが出てきますが)

に生活が出来どうにか投薬治療でゆっくりですが家事も出来、歩く事も出来ていました。

母の病院にはいつも私が付き添い、その後のランチを食べる事を楽しみにしていました。

でも時々『ごめんね、ごめんね』って泣いていました。『そんな事言わないで~当たり前の事やってるだけだよ』

私は『そっか~。。私が生まれてきた理由は母を助ける為なんだ。。』と確信しました。

 

パーキンソン病の他にも脊柱管狭窄症で悩んでいましたが長くは入院できないという母。

その理由は、何もできない父をおいて長期入院が出来ない。というのです。

2010年、ネットでみつけたのが愛知県犬山にある『愛知腰痛オペクリニック』2泊3日で内視鏡で脊柱管狭窄症の手術が可能というHP

に惹かれ。。ただ完全に自費。高額なのにはびっくりしましたが 母は受けたいというので

連れて行きました。私は近くのホテルに泊まりながら母を連れて帰る予定でしたが

2泊3日と言いながら手術後に母は歩けなくなってしまったのです。

そこにおそらく2週間ぐらい入院していたと思います。私は担当医師に強く抗議し説明を求めましたが原因不明珍しいケース。。との回答。

ただ、追加費用は発生しませんとの事でした。

それと、神戸市内にあるリハビリ専門病院の紹介を依頼しましたが担当医師からは言葉を濁すような回答しかもらえず

一旦帰宅し

母の自宅から近いリハビリ病院を訪れ直談判!幸運にも入院を許可してもらえました。

そして、その病院でゆっくりとリハビリし再び歩けるようになりました。

 

2017年、いよいよ母のパーキンソン病の進行がみられ、母が読んでいた本でパーキンソン病のDBS手術の存在を知り

主治医に相談しましたが『高齢だしリスクあるから...先ず関西の大きな病院は北野病院も無理やな~最後の望みは

高砂にある病院がどうかな。。』その前にも京大付属に連れて行き断られ、幾つかの病院を訪れました。

期待して高砂まで行きましたがやはり無理。。。

色々調べる中でDBS手術を積極的に行っている先駆者とも言われている

清家医師が関東から高知市のいずみの病院に勤務されている事を知り、電話で清家先生と直接話す事が出来て

一度、連れてきなさいと言われすぐにエアーチケットを取り

検査入院をしたところ 実年齢より身体ははるかに若く手術に耐えうる。と判断され

頭頂部に2か所の穴を開けてそこに特殊な線を入れドーパミンを刺激させるというものでした。

手術は4回です。QOLが下がっていましたがこの手術ですこし底上げできた様に思えました。

退院の後は1度だけ病院を訪れその後は神大付属病院で電極調整をしてもらっていました。

でも、母の病状は進んでいました。でも、母はいつも明るく生きる事に精一杯努力していました。

身体が硬直していく病気なので朝には簡単なヨガをし、口の体操をし、どんなに調子悪くても父の食事を作り。。

几帳面すぎる母は相変わらずでした。なくなる1週間前も四つん這いになりながら床のワックスがけをしてました。

『myuがいなかったら生きれないわ。。ごめんね負担ばっかりかけて』何度も何度も言うのでその言葉を聞くのは辛かった。。

当たり前の事なのに。。。厳しく育てられ、理不尽な事で感情的に父に叱られ、母は泣いている私の頭をなでて『myuは良いコなのにね。。』『myuはね、徳を持って生まれてきたんよ』『myuにはお父さんとお母さんがついてるから何の心配もないからね』父は厳しかったけど、両親へは感謝しかありません。

そんな優しい母でした。不自由な身体になっているのに、誰かが入院しているらしいから

お見舞い送っといて、誰々にお香典送っといて、昔からユニセフへ寄付し、私がお金を預かり送金等していました。

『これで、お寿司でも食べに行って』って私に拒否されるのが嫌な母でした。

昨年かな?祖母と母の着物、宝石、バック類を渡されました。『まだ長生きするのに。。急がなくていいのに。。』

そう言っても聞かない母でした。フェラガモなどのバッグは、私の娘に。。

夏ぐらいから足の浮腫みがひどくなり、、主治医に相談しましたが、これ以上の事は出来ないとの事。

足のマッサージ機を購入し、母に毎日続けるように勧めました。

それでも

先月の母は、本当に調子が悪くなっていました。そこで、私単独で介護付き老人施設を見学、その日に決断し今月10日予定で入居が決まっていました。

それまでにも何度も、私の家で一緒に暮らそうと言いましたが首を縦に振りませんでした。。

私には弟がいてお嫁さんと実家の近くに住んでいましたが、母がmyuだけに、、と言い

弟夫婦は介入できませんでした。これが原因で弟と言い合いになった事もあります。

母が望む限り何を言われても、ここだけは譲れないのです。

本当に母は一番頑張りました。全て父より長く生きてあげなきゃ。。その思いからです。

施設が決まった日は喜んでいましたが、父の事が心配にもなって泣いていたこともありました。

我儘な父は、自分は施設に絶対に入りたくない!の一点張りで

私は母に

『大丈夫だから、家にいてもすれ違い生活だし。。お父さんの食事を作ってくれる人雇うから私も行くし。。安心して』

母『ありがとうね』

母が一番気にしていた母の実家の墓じまいと永代供養も12月に済ませ、母は安心していました。

その矢先です。。。母が亡くなり第一発見者は父ですが死亡推定時刻から1日半が過ぎていました。

私が初詣に行った日には母はベッドで亡くなっていたんだ、、と思うとやるせない気持ちと世の中にこんなに辛く悲しい事ってあるの??神様!!

自宅で亡くなっていたので警察官、刑事さんからの事情調書

一旦、母の遺体は警察署に連れていかれその後司法解剖となりました。

戻って来た日には、母の横にお布団を敷き一緒に寝ました。。その顔は安らかで優しい顔をしていました。

冷たくなった、母の手を握り別れた日を思い返しました。

母の部屋にお節とお雑煮を持っていき、美味しいと全部たべたのです。

『お母さん、目を開けて!お願い!』一晩中寝付けない夜を過ごしました。

あの時、ああすれば良かった!こうしてあげれば良かった!。。。助けてあげれなかった自分を悔いました。。

でも泣いてばかりはいられません。葬儀社との決め事、父抜きで弟と、しかも全部私が決めました。

弟もmyuが全部決めれば良いよと言ってくれたので

お花、蘭の花いっぱいにして!棺は淡いピンクにして!遺影は母と父とで数年前に行った有馬での写真を。

母の優しい雰囲気を出してくださいとお願いしました。

そして、個人的に母の遺骨でダイヤモンドを作りたいのでスイスの業者を紹介してください。

一応実家の承諾を得て、今我が家に母の遺骨が鎮座しています。母の遺骨はスイスに運ばれて数か月後ダイヤモンドペンダントとして戻ってくるのです。

私が息苦しく泣いていると夫がすっと抱きしめてくれて『myu...お母さんはダイヤモンドになって帰ってくるやろ』

東京から駆けつけてくれた息子も支えてくれて、母に可愛がられた娘は参列したいと言っていたのですが

まだ、授乳中でコロナも心配だし。。夫が提案し、FACETIMEでの参加、息子の家族も娘の家族も喪服を着てキチンと座って母との最期のお別れが出来ました。私は棺にすがって泣きました。。。娘も大泣きしていました😭

葬儀が終わると実家に行って母のお骨、遺影等飾りました。

来週には、父と共にいろんな手続きをしなくてはいけません。

父の事も気になるところですが、、、お通夜の日、実家の父を迎えに行くと喪服の下にはVネックセーターを着ていて

『白いYシャツと黒ネクタイは?今からみつけなきゃ!』と言うと

『どこにあるかわからん。。腰が痛くて探せない!うるさい!もう、これで良い!時間がない!』

告別式にはちゃんと見つけられたのか着ていました。

素直な性格な父ならまだしも...人間瞬間湯沸かし器の父とどうやって対峙していこうかゆっくり考えていこうと思います。

母が一番何よりも心配していた父ですから。。。

 

『ブログやインスタ楽しみにしてるね!いつもいつも気持ちはそばにいるよ!』

かずちゃん、ありがとう💓

友人達の優しい励ましメールに元気をもらっています。

そして、一日になんども気にして電話してくれる娘にも

母さん大丈夫?と連絡してきてくれる息子にも

私を笑わそうとヘンな冗談言ってくれるパパちゃんにも

本当に感謝

 



お母さん!産んでくれてありがとう!
myuはお母さんの子供で本当に幸せだったよ。
ずっとずっと大好きだよ😘
数年前に撮りました。
享年83歳でした。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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6 コメント

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Unknown (rose-tky)
2021-01-08 16:54:05
❤️myuさーん❤️

うわあ モンモンね 泣きながら記事 
拝見しました。お母様 ステキな方ですね、ご自分の事より ご主人のため 
家族のため皆さんのためにいつも考えて行動されておられたんですね。きっとお友達も多かったことでしょう。
きっとお母様の事ですからお星様になってmyuさんを守っていらっしゃると存じます。モンモンも母が亡くなって 30年 今でも母に会いたくて淋しくて 夜中に 急に泣くこともあります。主人は ぐっすり寝ている隣でシクシク 涙が出てくることがあります。
母が昔言っていました。お父さんとお母さんが死んじゃったらどうしよう 生きていけたいって 小学生の時 泣いていたら 
母 大丈夫 お父さんおかあさんがいなくなっても 神様が 一人でも生きていける勇気をプレゼントしてくれるから 大丈夫よって 言っていました。

今でもまだそんなに勇気のないモンモンですが これからも myu さんが myuさんらしく 日々を送られますように 応援しています。

お母様の笑顔 最高ですね!とってもステキ 愛情たっぷりです!
返信する
ありがとうございます♪ (myu)
2021-01-08 18:14:23
モンモンさん、なんて優しい励ましのメッセージ・・
涙が止まらなくなりました。。

30年前にお母さまを亡くされたなんて!!
母親って特別な存在ですよね。。
お母さまが仰られた
『お父さんおかあさんがいなくなっても 神様が 一人でも生きていける勇気をプレゼントしてくれるから 大丈夫よって 言っていました。』

素敵なお母さまですね。若くして亡くなられて
さぞご無念だったと思います。。
それを考えれば、享年83歳の母と私は長く過ごせた事になりますね。

母は誰からも好かれる人でしたが親友と呼べる人はいませんでした。。。ただただ父のお世話だけをして生活していました。社交的なタイプではなかったですし常に控えめで父の後ろから3歩下がって..といった感じでした。ワンマンな父に対しても
言いたい事があっても感情を押し殺していました。

『ねぇ、どこが良くてあのお父さんと結婚したの?』不思議でした。
答えは『お父さんは強い人で頼れる人』
最期まで父の事を案じていた母でした。

『主人は ぐっすり寝ている隣でシクシク 涙が出てくることがあります。』モンモンさんは優しくて
可愛い方ですね。

モンモンさんに勇気を頂けた気がします。
本当にありがとうモンモン❤

感謝を込めて❤
myu








返信する
myu,お疲れ様でした。 (yumina)
2021-01-08 19:00:34
3年前に、年末に亡くなった実母や6年前に亡くなった同じパーキンソンだった義母を思い出しながら、読みました。辛かったね。でも、本当によく頑張ったね。葬儀もだけど、それまでの日々、パーキンソンなのに、そんなに長くしっかりとしてはったのは、myuが良い病院を徹底的に調べて頑張ったおかげだと思う。突然の別れは辛いけれど、長く患うより絶対に幸せだよ。義母は意識不明になって3カ月も管に繋がれていて、お見舞いに行くのも辛かった。
myu のお母さんは、きっと笑顔で「あーmyuに今日会えてよかったー」と。感謝して逝きはったと思うよ。どんな状況であっても、ああしてあげればよかったと後悔の念は消えない。3年経って、やっと私も実母は入院して2週間で逝けてよかった、やるだけのことはした!と思えるようになったよ。そして、今でもお母さんと話かけているよ。形はみえなくても、きっと傍にいてくれてると感じてる。
myuのお母さんね、もう悲しまんとってね。。。って、言ってはるわ。
元気出してね。

myuのお母さんのご冥福を心から祈っています。
返信する
ありがとう!! (myu)
2021-01-08 19:46:17
yuminaちゃん、そうだったね!義理のお母さんも
パーキンソン病だったよね!yuminaちゃんがお見舞いに行くの辛いって。。思い出したよ。辛かったね..

そうなの。。パーキンソン病で20年も!緩やかな進行で..確かに珍しいかも..そう考えれば母は幸せだったかな...母の事は私も必死になってたね。
アメリカに住む友人にも連絡して聞いたような、、
どこにだって行くつもりでいたわ。IPS細胞での治験が始まったって聞いて喜んでた。自分の事じゃなくて若い人の為に..

『今でもお母さんと話かけているよ。形はみえなくても、きっと傍にいてくれてると感じてる。』
私もそう思えるよ。
でも、会いたいね...。会いたくてたまらない..
でも皆が経験しなくちゃいけない事だよね。
yuminaちゃんも経験したんだよね。
そっか~。
私にも時間の経過と共にyuminaちゃんの様に
思える時が来るのかな。。
yuminaちゃん、ほんなに!優しい!
ありがとうね♡


with Love
myu
返信する
Unknown (yomichan_319)
2021-01-09 09:26:38
いつも楽しくて温かい気持ちにしてくれるブログを拝見していたので、突然の出来事にびっくりしてしまいました。私まで寂しくて悲しい気持ちです。でもお母様は、myuさまをはじめとして素敵なご家族に囲まれて本当に幸せいっぱいだったと思います。なによりお父様、表面には出す事はないかもしれませんが、さぞかし寂しくてたまらないかもしれませんね。myuさんの事だからお別れにあたり一生懸命頑張ってしまいそうなので、疲れが出ないようにしてくださいね。私も離れた場所ですが、心からご冥福をお祈り致します
返信する
ありがとうございます♪ (myu)
2021-01-09 18:55:55
yomichanさん❤
こちらこそ、温かいコメントをありがとうございます♪
本当に有り難いです♡
寂しくて悲しくて、会いたくて、、家で一人になると
色んな思い出が蘇り胸が苦しくなります。
今まで大好きで毎日聞いてたジェジュンの『逢いたくて今』が今は辛くて封印しています。
でも、娘や夫と話していると笑えますし
ずっと悲しみに沈んでいるわけではないです。

父は、余りに色んな事があったので
まだ実感がなくてボーっとしている様子です...

毎朝電話する様にしています。
ブログを続けていて良かったな~と思っています。
お顔は見えないですが、優しい方ばかりで
本当に嬉しいです♡
母は、私が明るく過ごす事を喜んでいましたので
大丈夫です!待っててね♡

感謝を込めて..
myu
返信する

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