国際情勢について考えよう

日常生活に関係ないようで、実はかなり関係ある国際政治・経済の動きについて考えます。

戦争と平和に関する議論

2007-08-14 | 一般
毎年、終戦記念日が近づくと、新聞やテレビ、また全国各地でも、戦争と平和に関するさまざまなイベントやプログラムが開催されます。そして、そこでは、戦争は絶対にいけないという徹底した平和主義的な意見と、条件付きで軍備拡大や戦争への参画を許容する現実主義的な意見の激しい対立が見られたりもします。

こうした光景は、毎年見慣れているものではありますが、最近、この種の議論を見ていて、それぞれの異なる意見が、感覚的な好き嫌い、快・不快に根ざしているために、両方の意見ともほとんど感情の発露に終わっていて、議論としてかみ合っていないのではないかということを感じることがあります。



ユネスコ憲章ではありませんが、「戦争は人の心の中にある」ものですから、もしある平和主義者が、戦争を許容する現実主義者に激しい憤りを抱くようなことがあるとすれば、そういう人は、環境さえ変われば、容易に平和のために戦争を推進するような人間に変貌する可能性があります。

戦争をしているほとんどの人、特に末端で実戦に従事している人たちの多くは、戦争をしたくてしている人はほとんどおらず、自分の生命と経済的な生活手段を守るために、死活問題として戦争を強いられている人がほとんどです。また、戦争を推進している政治家でさえ、国民を守る責任から、強いられて防衛的な戦争をせざるを得ない状況に追い込まれている指導者もいます。

さらに、この日本の安寧な生活も、歴史的に考えると、貧しい途上国や紛争国を過去に搾取してきた経済基盤の上に成立している側面があるとともに、軍事的に考えると、世界最強の米軍の防衛力の庇護の下に成立している側面があります。そういう意味で、一部の平和主義者は、こうした国際社会の現実を、その歴史・政治・経済的背景も含めて、体系的にしっかり把握する必要があるでしょう。



一方、条件付きで軍備拡大や戦争への参画を許容する現実主義者は、戦争がどういうものなのか、自分が果たして本当によく知っているのか、改めて自問する必要があるかもしれません。こういう人のうち、先の大戦を体験した人や、実際に戦場のようなところで長期にわたって仕事や生活をした経験のある人には、何も言うことはありません。そういう人たちは、戦争が何か知っているからです。

しかし、もしそういう経験がないのであれば、しばし黙考する必要があるのではないかという気がします。戦争とは、政策論議ではありません。戦争とは、状況次第で、自分や自分の家族が有無を言わされずに殺されたり、自分が、愛する家族のいる他の人間を、自分の手で殺すことです。そして、それが本当にどういう意味なのかは、戦場のようなところに実際に行ってみないと分からないものではないかと思います。日本で、こうしたことを想像しても、リアリティが湧かないからです(だからと言って、ここで戦場に行くことを薦めているわけではありませんが・・・)。



日本が、先の終戦以来60年以上にわたり、一度も戦争をしなかったことは誠に尊いことですが、その一つの副産物として、国民の戦争と平和の議論の中に、現実味がすっかり失われてしまったことは残念なことです。こういう現実味の欠けた議論に、何の違和感も感じないとすれば、それは先の大戦の直前の期間のように、少しずつ国家が戦争に向けて準備を進めても全く気付かず、実際に戦争が起きた後で後悔するということにもないのではないかと考えるのは考えすぎでしょうか・・・。


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