
映画版『逆襲のシャア』と同じストーリーでありながら、コンセプトがまったく違う作品、それが小説版『逆襲のシャア 〈ベルトーチカ・チルドレン〉』です。
ガンダムの象徴でもあるモビルスーツを極力カットし、人間関係や思想の部分をより描いているのが映画版との大きな違いと言えるでしょう。
違いをいくつかあげてみます。
●アムロの恋人
チェーン・アギではなく、ベルトーチカ・イルマです(チェーンは登場しません)
「Zガンダム」を知っている人間であれば、ベルトーチカの方が自然だと感じるのではないでしょうか。逆に(映画版で)チェーンが登場したことで、ベルトーチカとはどうなったんだぁ!?とツッコミ入れたかったファンも多かったハズw
そして小説の中では、ベルトーチカはアムロの子供を宿します。
これは作者が書きたかった'話の鍵'のひとつだと思います。最強のニュータイプと称されるアムロでも人の父親になれるということ、人の革新を唱えるシャアは、過去に縛られたまま家庭を持てないでいるということ・・・
この部分が何故映画版で修正されたかと言うと、「結婚したアムロなんか見たくなーい!」と、映画作成に関わるお偉~いスポンサー様の一言があったからだそうです・・・w
●サイコ・ドーガとサイコフレーム
映画版で「ヤクト・ドーガ」と称したモビルスーツ。
小説版では「サイコ・ドーガ」の名で登場し、かなり重要な役割を担っています。
元々ネオジオンが開発した「サイコフレーム」。これを操縦席に最初に取り付けた機体が「サイコ・ドーガ」なのです(アナハイム社製)。
フィフス・ルナでの戦闘時に、シャアは傷ついたサイコ・ドーガを乗り捨てさせ、わざとロンドベルに回収させるわけです・・・サイコフレームの技術をνガンダムに流用させるために・・・
映画版では、チェーンの腰につけたサイコフレームがいろいろな能力を発揮するのですが、小説版では、ベルトーチカのお腹の胎児がこの役割を果たしています。
意識があるハズもないのに、胎児の姿で具現化したり、「パパ」と言ってアムロを助けたりしてます。(さすがニュータイプの子供!?)
●クェス・エア
「クェス・パラヤ」である彼女を、何故シャアは「クェス・エア」と呼んでいたのか?
そんな細かい描写まで書いてあります。
アデナウアー・パラヤの娘である彼女は、シャアに自己紹介をするとき、偽名を使ったんです・・・
たったそれだけですが、地球連邦軍参謀次官の娘と判っていれば、ネオジオンだって別な使い方をしたでしょうからね^^;
●ララア・スン
映画版での使われ方が今ひとつ不明確だった彼女。
アムロの夢で、彼女の「彼(シャア)は純粋よ・・・」が印象的でした。
小説版では、アムロ自身がこの解答を導き出しています。
アムロ「(中略)νガンダムの(性能の低さ)を知って、(シャアは)呆れてサイコ・ドーガを提供してくれたんだ・・・」
アムロ「(中略)シャアは、そういう奴だ。ティターンズの時代から、ぼくに勝つ準備をしていたんだ。そして、邪魔なものがいなくなった今の時代に、地球圏に戻って来た・・・互角のモビルスーツで戦って、ぼくに勝ちたいんだよ・・・そのために命を張るのがシャアさ。人類の粛清もかねてね」・・・と。
●ハサウェイ・ノア
映画版と違い、クェスが操縦するアルパ・ジールを直接撃墜してしまうのがハサウェイです。
余談ですが、彼はこの戦いを経験したことで、シャアの思想に共感し、その後反地球連邦組織(ゲリラ)へと身を投じていくのです。
クェスを自らの手で殺してしまった罪悪感に悩みながらも・・・
これは、別の小説で描かれています
(その小説で、アムロ&シャア編のガンダムは完結)
●ナイチンゲール
偉大な看護婦さんの名前ではありませんw
映画では「サザビー」と言われた赤いモビルスーツの小説版の名称です。
※ナイチンゲール=サヨナキドリともいう。北欧神話で愛の鳥として語られる反面、「墓場鳥」とも言われ死と結び付けられて考えられている。
小説版の最後はこう締めくくられています。
―もう・・・ナイチンゲールのさえずりは、聞こえなかった―
★ ★ ★
ここまで魅力的な設定でありながら、作者がこれを映像化できなかった理由があるのですw
あとがきに書いてあるので引用させてもらいます。
~映画版『逆襲のシャア』のシナリオは、当然、小生(富野)が書きました。その提出第1稿が、このストーリーだったのですが、『ガンダム映画化委員会』とも言うべきインベスターの審査にかけられた時に、このシナリオについて各種の意見と批判がでました。
その中で、もっとも重要な意見は、この小説になっているテーマは、モビルスーツ否定であるという指摘でした。当然、それは、小生の目論みでありました。
しかし、ガンダムは、モビルスーツの玩具が売れ、それによって厚い市場が形成され、映画を製作する資金が提供されているのです。その現実的な基盤を、作品そのものが否定するのであれば、出資者たちが映画製作を拒否して当然です。これは、立場が違うから仕方がない、という性格の問題ではありません。小生が、夢を追いすぎたのは、認めざるを得ませんでした。~
・・・時代が「平成」に変わる1年半前のお話。
ガンダムの象徴でもあるモビルスーツを極力カットし、人間関係や思想の部分をより描いているのが映画版との大きな違いと言えるでしょう。
違いをいくつかあげてみます。
●アムロの恋人
チェーン・アギではなく、ベルトーチカ・イルマです(チェーンは登場しません)
「Zガンダム」を知っている人間であれば、ベルトーチカの方が自然だと感じるのではないでしょうか。逆に(映画版で)チェーンが登場したことで、ベルトーチカとはどうなったんだぁ!?とツッコミ入れたかったファンも多かったハズw
そして小説の中では、ベルトーチカはアムロの子供を宿します。
これは作者が書きたかった'話の鍵'のひとつだと思います。最強のニュータイプと称されるアムロでも人の父親になれるということ、人の革新を唱えるシャアは、過去に縛られたまま家庭を持てないでいるということ・・・
この部分が何故映画版で修正されたかと言うと、「結婚したアムロなんか見たくなーい!」と、映画作成に関わるお偉~いスポンサー様の一言があったからだそうです・・・w
●サイコ・ドーガとサイコフレーム
映画版で「ヤクト・ドーガ」と称したモビルスーツ。
小説版では「サイコ・ドーガ」の名で登場し、かなり重要な役割を担っています。
元々ネオジオンが開発した「サイコフレーム」。これを操縦席に最初に取り付けた機体が「サイコ・ドーガ」なのです(アナハイム社製)。
フィフス・ルナでの戦闘時に、シャアは傷ついたサイコ・ドーガを乗り捨てさせ、わざとロンドベルに回収させるわけです・・・サイコフレームの技術をνガンダムに流用させるために・・・
映画版では、チェーンの腰につけたサイコフレームがいろいろな能力を発揮するのですが、小説版では、ベルトーチカのお腹の胎児がこの役割を果たしています。
意識があるハズもないのに、胎児の姿で具現化したり、「パパ」と言ってアムロを助けたりしてます。(さすがニュータイプの子供!?)
●クェス・エア
「クェス・パラヤ」である彼女を、何故シャアは「クェス・エア」と呼んでいたのか?
そんな細かい描写まで書いてあります。
アデナウアー・パラヤの娘である彼女は、シャアに自己紹介をするとき、偽名を使ったんです・・・
たったそれだけですが、地球連邦軍参謀次官の娘と判っていれば、ネオジオンだって別な使い方をしたでしょうからね^^;
●ララア・スン
映画版での使われ方が今ひとつ不明確だった彼女。
アムロの夢で、彼女の「彼(シャア)は純粋よ・・・」が印象的でした。
小説版では、アムロ自身がこの解答を導き出しています。
アムロ「(中略)νガンダムの(性能の低さ)を知って、(シャアは)呆れてサイコ・ドーガを提供してくれたんだ・・・」
アムロ「(中略)シャアは、そういう奴だ。ティターンズの時代から、ぼくに勝つ準備をしていたんだ。そして、邪魔なものがいなくなった今の時代に、地球圏に戻って来た・・・互角のモビルスーツで戦って、ぼくに勝ちたいんだよ・・・そのために命を張るのがシャアさ。人類の粛清もかねてね」・・・と。
●ハサウェイ・ノア
映画版と違い、クェスが操縦するアルパ・ジールを直接撃墜してしまうのがハサウェイです。
余談ですが、彼はこの戦いを経験したことで、シャアの思想に共感し、その後反地球連邦組織(ゲリラ)へと身を投じていくのです。
クェスを自らの手で殺してしまった罪悪感に悩みながらも・・・
これは、別の小説で描かれています
(その小説で、アムロ&シャア編のガンダムは完結)
●ナイチンゲール
偉大な看護婦さんの名前ではありませんw
映画では「サザビー」と言われた赤いモビルスーツの小説版の名称です。
※ナイチンゲール=サヨナキドリともいう。北欧神話で愛の鳥として語られる反面、「墓場鳥」とも言われ死と結び付けられて考えられている。
小説版の最後はこう締めくくられています。
―もう・・・ナイチンゲールのさえずりは、聞こえなかった―
★ ★ ★
ここまで魅力的な設定でありながら、作者がこれを映像化できなかった理由があるのですw
あとがきに書いてあるので引用させてもらいます。
~映画版『逆襲のシャア』のシナリオは、当然、小生(富野)が書きました。その提出第1稿が、このストーリーだったのですが、『ガンダム映画化委員会』とも言うべきインベスターの審査にかけられた時に、このシナリオについて各種の意見と批判がでました。
その中で、もっとも重要な意見は、この小説になっているテーマは、モビルスーツ否定であるという指摘でした。当然、それは、小生の目論みでありました。
しかし、ガンダムは、モビルスーツの玩具が売れ、それによって厚い市場が形成され、映画を製作する資金が提供されているのです。その現実的な基盤を、作品そのものが否定するのであれば、出資者たちが映画製作を拒否して当然です。これは、立場が違うから仕方がない、という性格の問題ではありません。小生が、夢を追いすぎたのは、認めざるを得ませんでした。~
・・・時代が「平成」に変わる1年半前のお話。
今回の日記、あまりに感激してガンダム好きの皆と楽しい肴にさせて頂きました^^
読んでみたいなぁ☆
徳間版の「逆シャア」は読んだことないのですヨw
今度読んでみますね。
持ってたら貸して♪
to ゆき
「逆シャア」好きのゆきですから、かなり楽しめた話題だったハズ(^^)v
飲みながらのガンダム談義、時間を忘れそうですネw
地元に「SEED」というこれまたガンダム好きのマスターのいる飲み屋がありますww
顔のある圧倒的性能ロボットで、難民まで守る正義の中、最高軍人赤い彗星の弱-速ロボと、遊んで、一番うまくも使える少年がいて、本来、2mの軍人ガトーが乗る、美顔あり核撃墜ロボで遊んで、凄冒険で英雄になったアムロ少年を守るために、16歳コウも乗って、空気を察していた酔っ払いアムロが、俺は十分戦ったってカツに言っていて、
Z設計できる天才カミーユが、更に軟禁酔っ払いアムロを守りながら、ファの親まで×すTitans相手に、一番うまく使えない並の能力で、泣きながら頑張っていたから、若い奴に格好いい顔ある普通の強さのロボを使わせてって、カミーユを称え助けるため、恥おばけ凄能力アムロがわざと言って、
別にシャア大佐がアムロにロボで勝ちたがるわけがないのに、逆シャアで、アムロがわざと大佐が天才少年に勝ちたがっていると…。
MS否定は嘘ですか?コロニー作るのに、MSを皆使えるのでは?
コメントありがとうございます。
ちょっとご期待通りのレスを書けるかわかりませんが、
どのような文学であれ、作品は作者(富野氏)のものです。
作者自身が、モビルスーツ否定をすれば、そのような作品になります。
また、登場する人物の思想においても、作者次第でいくらでも変わります。
だから我々は、どのような想像を膨らませようと、作者に嘘つきとは言えません。
「文学の世界は、著者だけが創ることを許されているのです・・・」
余談ですが、富野氏は、過去「バイストンウェル物語」というものでも、ロボット否定をしています。