政治家「又市征治」という男

元政治記者の私が最も興味を持った政治家、それが又市征治だった。その知られざる人物像に迫る。

反対された結婚

2007年06月20日 | Weblog
 又市征治は組合運動に没頭していくとともに、県庁内の若い仲間と交流を深めていった。その中には、後に富山県議会議員となる小川晃、菅沢裕明らの顔もあった。

 こうした交流の中で又市は、同じ県庁内に務めていた一つ年上の女性と知り合い、又市が23歳のとき結婚を決意する。しかし相手の両親は二人の結婚を認めようとしなかった。

 理由は二つあった。
 一つ目は、又市の家が貧乏だということだった。又市家は、又市が生まれる直前に父が軍のトラックにはねられて脚を失い、その7年後には母が亡くなっている。そのために又市が幼い頃から苦しい生活を強いられてきた家である。その又市は県庁に就職したが、当時「公務員の安月給」と言われた時代、初任給は月額1万3千円余りだったという。その上、又市は組合運動による処分続きで約4年間、又市の給料は上がらなかった。

 二つ目の理由は、彼女が一人娘で嫁には出せないというものだった。彼女は、長崎の原爆で父親を亡くし、それがもとで小学生のときに二度、養女に出ていたのだ。
 その養父母が手塩にかけて育てた娘を、苦労することが分かっている貧乏な家に嫁がせたくないというのは、親心である。

 そのとき力になってくれたのが、当時の富山県議会議員で後に富山市長となる改井秀雄だった。改井は「二人が良いなら良いじゃないか」と二人の仲人を引き受けてくれた。この改井の説得もあり、結婚式の数日前、ようやく両親も反対を解いたという。
 
 結婚してからというもの又市は、自分で給料袋を空けたことは一度もなかった。必ず袋ごと妻に渡していたのである。妻も共稼ぎで支え合った。

 それから、又市家には二人の子どもが仲間入りしていった。
(敬称略)

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生活を守る人を望む

2007年06月19日 | Weblog
 又市征治が「10・21スト」で処分を受けた昭和41年当時、国会は荒れに荒れていた。与党自民党の閣僚や議員の不祥事が相次いで発覚したのだ。
 脅迫容疑の逮捕、公私混同の自衛隊パレード、不正融資への関与など。いわゆる「黒い霧」事件である。

 国民に政治不信は広がり、求心力低下の影響により、当時の佐藤栄作首相はその年末、ついに衆議院を解散する。「黒い霧解散」である。 

 その頃、又市は新聞社にその選挙について意見を問われている。写真はそのときの記事である。ここで面白いのは、又市を県職員ではなく、県職労組としている点である。これは県職員として自民党批判をしたのではまずいと新聞社が判断したためではないだろうか。

 しかし又市は公務員として「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」という憲法上の規定を明らかに意識して次のように述べている。

 「個人的な小さい利益でなく、国民全体の利益を考えて行動してくれる人に入れる。」
 「(自民党は)国民のごくわずかの部分の声しか聞いてない。」

 また次のような意見も述べている。

 「候補者の学歴や地位、身分は問題でない。私をふくめて国民の大多数は労働者だから、やはり労働者の生活を守ってくれる人、福祉に取り組んでくれる人を望む。」

 この福祉については、又市が生まれる直前に、軍のトラックによる事故で脚を失った父のことが頭にあったのであろう。
 軍からの補償はなく、戦後も社会保障制度が不十分だったために大変な苦労を強いられてきたのが又市であり、その家族だった。
 アルバイトで学費を稼ぎながら県内有数の進学校へ行ったものの、父の死により大学進学を断念しなければならなかった経歴、そして県庁内にも学歴による差別待遇が待っていたことなど、又市の置かれてきた立場を考えると、この言葉がどれほど重いかが分かる。

 そして又市は、こうも書いている。

 「最近の自民党はでたらめなことばかりをやっており、しかも反省のないのがすくわれない。」

 この「黒い霧」解散後、翌年の1月29日に行われた総選挙で自民党は議席を大きく減らすことになる。
 このときの又市と「国民全体」の自民党への批判や怒りは、40年余りを経た今も大いに通用するものがある。
(敬称略)

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重い処分

2007年06月18日 | Weblog
 昭和41年10月21日に富山県庁で行われたストライキは機動隊による実力行使という結果に終わったが、むろんそれだけでは終わらなかった。指導的メンバーに処分が待っていたのだ。
 当然そんなことは織り込み済みだったが、その中でも減給と昇給停止という、最も重い処分を課されたのが又市征治だった。

 まだ22歳だった又市の役職は一支部の青年部副部長であり、お世辞にも重要人物とは言えない。その又市への処分が最も重かったのはなぜか。
 当時、又市は中央から出向してきた土木部長の秘書だった。この部長が虚栄心のかたまりのような人物である。部下のスト参加を抑えることもできなかった部長をはじめ、県の上層部は激怒したのだ。

 「部長秘書がストとは何事か!」「貴様なんかクビにしてやる!」

 又市も黙っていなかった。

 「やれるもんならやってみろ!」

 弾圧や処分を受けたからといって萎縮するような又市ではない。このときの怒りや悔しさが、又市を一層奮い立たせる原動力となっていくのである。

 しかし「クビだ!」と叫んだ県の上層部の怒りも、この処分だけでは収まらなかった。後に又市はその執念を知ることになる。
(敬称略)

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弾圧と悔し涙

2007年06月17日 | Weblog
 昭和41年10月21日、全国の自治体でストライキの嵐が起こる。人事院勧告を値切る政府への抗議の行動だった。
 公務員の団体行動権は制限されているが、その権利制約の代わりに人事院勧告がある。しかしその勧告すら守られないのなら自分たちが抗議しなければならない。富山県職員労働組合は1時間のストライキを決意した。
 その当時22歳の又市征治は、組合の支部青年部副部長だった。
 
 当日の早朝、又市はある人物に出会う。
 彼の名は改井秀雄。組合の大先輩であり当時、社会党の県議会議員だった。
 組合の中心的メンバーが揃う場で改井は、当時の吉田実知事がこのストライキを潰すために機動隊を出動させるという情報を告げた。そして悲痛な声でこう続けた。

 「警察権力の下に君たちを送ることは忍び難いが、労働組合が一度くぐらないといけない道だ。」
 「将来、あの闘いがあったからこそ今の組合があるのだと言われる日が来る。そして君たちの行動が正しかったと言われるときが必ず来る。」

 その日、富山県職員3千8百名がこのストに参加した。
 機動隊による弾圧を食い止め、1時間のストを成功させるために組合側はピケを張り、又市は県庁の東門を守る百名余りを指揮した。
 そこへ突入する機動隊。又市はその最前列で機動隊と激しくぶつかり合った。

 しかし“鉢巻きと腕章”の労働組合と“警棒と楯”の機動隊とでは、力の差は歴然たるものがある。

 又市は、それこそボロボロになるまで殴打されながら、機動隊を投入し職員を殴らせ、弾圧を加えた吉田知事はじめ県の上層部に激しい怒りをおぼえていた。また、その怒りとともに込み上げてきたのは涙だった。

 写真は、悔し涙を流す若き日の又市征治をとらえた、奇跡的とも言うべき一枚である。

 ちなみに、又市が機動隊と激突していたとき、別のピケ隊の最前列では改井秀雄が自ら先頭に立って機動隊とぶつかり合っていた。
 又市が今でも尊敬する人物の一人として挙げる改井は、文字通り闘いの先頭に立つ男だった。改井は後に富山市長となり、保守王国・富山で十年以上にわたって革新市政を実現する人物である。
(敬称略)

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組合運動へ

2007年06月16日 | Weblog
 又市征治は日常業務とともに、部長秘書も務めた。
 この部長は中央からの出向で、非常にプライドが高い人物だったという。その虚栄心を満たすため、秘書を付けろと言い出したのだ。
 又市は朝から夕方まで引っ張りまわされ、部長を見送ってからようやく自分の日常業務をする時間が得られる。仕事を始めるのが夕方だから当然、真夜中あるいは朝まで働かなければ仕事は片付かない。又市が眼鏡を使い始めたのもその頃からだ。薄暗い職場で続けた仕事は又市の視力を奪っていったのだ。
 それでも、幼い頃から、朝から晩まで働いてきた又市は、文句も言わずに仕事に取り組んだ。

 そんな又市にも、どうしても許せないことがあった。それは差別的な身分制度だった。
 入庁時、大卒の職員は「主事」となり、又市のような高卒の職員は「主事補」となった。主事補が文書を起草しても、主事補名での署名捺印は許されなかった。主事の職員に署名してもらい、判をもらわなければならない。それだけでも一苦労なのに、公式にはその文書の起案者は主事であり、主事補の苦労が報われることはないというシステムだったのだ。

 さらに「公務員の安月給」と言われていた当時、それに追い討ちをかけるように政府は人事院勧告を値切り続けていた。
 経済成長期、物価はどんどん上がっていく。せめて物価上昇に見合う昇給がなければ、生活水準を下げなければならない。それを政府が職員に強いていたのだ。

 こうした社会矛盾や不満は、しだいに又市を組合運動へと駆り立てていった。
 

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反骨の若手職員

2007年06月15日 | Weblog
 富山県庁に入った又市征治(写真後列中央)は土木部に配属された。当時のエピソードが残っている。

 ある日、職場に恰幅の良い男が現れた。その男が経営する建設会社が県の公共工事を受注していたのだが、その代金を今すぐ払えと言って暴れ出したのだ。その男の胸には県議会議員のバッジが輝いていた。

 右往左往する上司先輩を尻目に、入庁したばかりの又市が「静かにしてください!」とその県議に詰め寄る。あわてて又市を止めようとする上司に、又市は逆に「あなたもしっかりしなさい」と言う。

 こんな若造になめられてたまるかと逆上する県議を相手に、一歩も引かなかった又市の噂は、たちまち県庁中に広まったという。

 相手が誰であろうと、筋の通らないことは決して許さないという又市の反骨精神は、昔も今も変わらない。
(敬称略)


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父の急死で進学を断念

2007年06月14日 | Weblog
 「弁護士になりたい。大学に行かせてほしい。」と言う又市征治に、父・久治は当然反対する。
 かつて「中学を出たら働いて親を養うのは当たり前だ。」とまで言った久治にしてみれば、この息子は何を言い出すのか、と思ったことだろう。

 征治は何度も父に自分の思いを語ったという。
 弁護士になりたい、自分や父と同じような境遇の人々を助けたい、実の息子にそこまで言われて心を動かさない親がどこにいるだろうか。
 しかも征治は頭もきれるし弁も立つ。久治も「この息子ならもしかしたら・・・」と思ったのかもしれない。征治の熱意に、久治はとうとう「地元(の大学)なら」と折れた。

 征治が喜んだのは言うまでもないが、それは束の間のことだった。その直後、父が脳溢血で急死したのである。59歳だった。

 進学を断念した征治は「こうなったら稼ぐしかない」と、バーテン、中古車のセールスなどを始めた。征治は昼も夜も働いた。とにかく稼いで金を貯めてから、もう一度大学を受験しようと思っていたという。

 ようやく金回りが良くなってきた頃、群馬にいた兄・久義から「まじめな職に就け」と一喝される。家族のために旧制中学を中退して群馬で売薬をしてきた兄には征治も頭が上がらなかった。
 征治は、あらためて将来を見つめなおし、富山県庁に勤めることにしたのだった。
(敬称略)


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弁護士への夢

2007年06月13日 | Weblog
 高校三年の秋、もう卒業後のことを考えなければならない時期である。又市征治もまた将来への夢を抱くようになっていた。

 軍のトラックによる事故で障がい者となった父、事故の補償さえなく強いられた苦しい生活、家族のために旧制中学を中退して遠い土地で働き始めた兄、苦労を一身に背負って早逝した母、幼い頃からの苦学。そして戦争で親や兄弟を亡くした友人たち。

 その経験から征治は、自分たちのような境遇の人々を助けたい、弱い立場に置かれた人々のために働く弁護士になる夢を描いていたのである。
(敬称略)


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初めてのストと団体交渉

2007年06月12日 | Weblog
 又市征治は富山高校に通えることが嬉しくてならなかった。新聞配達に家庭教師とアルバイトをかけもちして自分で学費を稼ぐことも苦ではなかった。
 富山高校は、昭和19年生まれの又市征治が75回生という歴史と伝統のある学校であり、進学校ながらも「バンカラ」「硬派」の気風が残る学校だと言われていた。征治はそこに魅力を感じていた。

 しかし外で聞くのと、内から見るのとでは大きく違っていた。
 一学期末、同級生が先生から、成績が下がったことを理由に部活動をやめるよう言われたことがあった。これを聞いた征治は「やめろとは何事か」と先生にくってかかる。勉強はもちろん大事だが、その友人が本当にその部活動に真剣に取り組んでいたことを知っていた征治は、成績至上主義によって友人の大切なものが取り上げられようとしている、このことを黙って見過ごすことができなかったのだ。

 それ以来、しだいに征治に同調する生徒が増え、一年で生徒会副会長、二年で生徒会長に推された。高校でも、征治のリーダーシップを周囲が放っておかなかったのだ。

 さらに「バンカラ」「硬派」の気風が残っていないのなら、自分たちで作れば良い。又市征治は応援団にも所属し、それを実践していった。写真はその当時のものである。
 
 それでも成績至上主義や、高校の「予備校」化は目に見えて進んでいった。 
 ついに高校三年秋の体育大会、白団の団長となった征治をはじめ、四人の団長と実行委員長の五人による準備委員会は、学校側の姿勢を改めさせるためのストライキ実行委員会へと変わっていったという。
 征治は高校時代、当時盛んに行われていた弁論大会を総なめにするほどの弁舌の持ち主だった。この計画の中心的存在、そして生徒の代弁者として学校側との交渉にあたった。これが自身初のストライキと団体交渉だった。

 そのとき学校側に突きつけた抗議文には、教育基本法の理念が高らかに述べられていた。いつの間にか又市征治は法律の知識まで身に付けていたのだった。
(敬称略)


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学費は自分で稼ぐ、高校へ行かせてくれ

2007年06月11日 | Weblog
 又市征治は、小学生の頃から働き詰めで勉強する時間もなかった。その上、夜に教科書を開こうとすれば、電気代がもったいない、ランプの油がもったいないと叱られた。
 それでも征治の学校での成績は上位だった。授業中、今しかこれを勉強する機会はないという思いから、絶対に聞き漏らさないよう集中していたという。

 かといって、いわゆる「がり勉」タイプではなく(勉強している暇もないのだから当然だが)、言わば快活なガキ大将、友達思いで面倒見の良いほうだったようだ。中学では生徒会長にも選ばれている。写真はその当時のものだ。

 成績も学校で五指に入る征治は、学校から高校進学をすすめられていた。しかし征治はすぐには答えることはできなかった。父の久治が、高校進学に反対していたのだ。

 久治は戦時中の事故で片脚を失っている。家業の一つである農業も思うようにできず、その仕事は征治たちが支えていた。もう一つの売薬業もできなかったため征治の兄・久義が旧制中学を中退してその仕事を担っていた。久治は「中学を出たら働いて親を養うのは当たり前だ。」とまで言った。

 「親父もこんなことを言いたくて言っているわけではない。」

 そんなことは征治にも分かっていた。持っていた田畑を少しずつ手放さなければならないほど、又市家は困窮していたのだ。やるせない父の気持ちは征治にも痛いほど分かった。

 それでも征治は進学をあきらめきれなかった。もっと勉強がしたかった。何度も何度も父に「学費は自分で稼ぐ。頼むから高校へ行かせてほしい。」と頼み込んだ。
 だが父は相手にしてくれなかった。それどころか、ときに口論となり「親に口答えするな」と殴られることも珍しくなかったという。

 ある日、進路についての保護者面談があった。征治はそこに賭けていた。学校の先生が進学をすすめたとき、父はうっかり「進路については本人に任せてあります。」と口を滑らせた。征治は即座に「はい、富山高校を受けます!」と言った。
 隣に座っていた久治は驚いた後、征治をにらみつけたが、本人に任せてあると言った手前「何を言うか」と怒ることもできない。

 「勝手にしろ!」

 こうして、征治は県内でも有数の進学校である富山高校に進んだ。
 小学生の頃から続けてきた新聞配達のほかに、家庭教師のアルバイトも加わった。征治は本当に自分で学費を稼いだのである。

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 余談だが、21世紀の現在にもこの頃と似た状況がある。
 小泉改革の影の部分と言われる格差の拡大によって、親の所得が少ないために就学援助を受けなければ学校に通えない児童生徒が138万人にものぼっている。所得の格差が教育の格差になり、格差が世代を超えて固定化されつつあるというのは紛れもない事実だ。
 又市征治ほど、その子どもたちの気持ちが分かる議員はいないだろう。

 痛みというものはそれを味わったことがある者にしか分からない。
 高級車に送迎されて学校に通い、優秀な家庭教師を付けられ、親のコネと金の力で大学に進んできたような2世・3世議員に、その138万人の子どもたちや、当時の又市親子の気持ちなど理解できないのではないだろうか。
(敬称略)


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