三内丸山遺跡は、
縄文時代前期~中期(紀元前約3900~2200年)のものとされています。
👇 人気土偶の形(大型板状土偶)
今から、5900~4200年前の大規模な集落跡が見つかり沢山の竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器・石器・木製品・骨角製品が出土した場所です。
紀元前3000年頃になると、三内丸山など規模が大きく、長期間継続し、地域の拠点となる集落が登場。
集落には、多様な施設が配置され、祭祀・儀礼の空間も発達した。中でも、盛土には土砂とともに、大量の土器や石器が廃棄され土偶などのまつりの道具も多く出土することから、世代を超えて祭祀・儀礼が行われていたと考えられている。
(縄文遺跡群パンフレットより抜粋)
👇 玄関
三内丸山遺跡には、
・屋内 展示「縄文時遊館」
・屋外 復元「縄文のムラ」
があります。
👇 定期ガイド
大平山元遺跡から青森市内へ車で約1時間、何とか15:00に間に合いました。
~ 縄文時代の「ムラ」を体験 ~
南盛土
盛土は堅穴建物や穴などを掘ったときの土やゴミ、焼けた土や炭、石器や壊れた土器などが同じ場所に長期間継続して棄てられ、小山のように盛り上がっている。現在、北・南・西の三か所が確認されていて北盛土や南盛土では土偶が特に多く見つかっている。
大量の土器や石器、土偶やヒスイ製の玉などが土と一緒にすてられ、約1000年間で丘のようになった。
使わせて頂いた物は自然界に戻すというシステム。
縄文人は、自然界すべての物の中に靈魂が宿っているという考え。
竪穴建物(たてあな)
竪穴建物は地面を掘って床を作り、柱を立て、屋根をかけています。紀元前約3000年の竪穴建物を復元し、屋根は発掘調査の結果や民族例を参考に、茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類で復元。 時代によって、平面型、柱の配置、炉の位置や構造に違いが見られる。
👇 土葺き? 樹皮葺き
👇 内装 (5人ぐらいは入れる?)
家族で寄り添って暮らしていた。(屋内展示と合わせて考察すると) 生きる上での教育がちゃんと子供達になされていたのだろう。
それぞれが出来ること相応の仕事を分担して作業していた、今と違って明るく楽しみながら働いていたはずだ。
縄文人の食事は基本植物
野山で採取した木の実、海や川でとった魚・貝等です。ここ三内丸山では、動物の骨ではムササビやノウサギなどの(集合意識が強い)小動物が多いようです。肉を食べるというより毛皮として利用していたようです。
食べ物は必要に応じて必要なだけ取ってきて、みんなで料理して、季節に応じた食材を理解していた。衣食住すべて自然のものを活用できていた文化であったことが想像できる。平和的で生き生きとした光景が脳裏に映る。きっと料理を楽しんでいたのだろうな~
出土した動物の骨からみると、食べるための家畜はいなかったことになります。
三内丸山人は、靈意識が強かった? 生きとし生ける者、特に動物は自分達の仲間との考え。シカやイノシシなどの大型で単体意識が強い動物は、霊的な゙ことと合わせて、危険を伴うこともあり殺さないようにしていたのではないかな。
掘立柱建物
地面の穴を掘り、柱を立てた建物跡があり、遺跡中央部分でまとまって見つかった。高床式の建物として復元。
👇 内部が覗けます(今は蜂がいないので大丈夫)
季節や周期を調べて季節の食べ物を採取するとともに、食品などの保管をしていたのかな?自ら進んでみんなのために働いているといった価値観だろう。
大型竪穴建物
さて、誰が住んでいたのでしょうか? 何に利用されていたのでしょうか?
柱の表面を焦がすことで長持ちすることを縄文人は知っていた
ググってみたら・・・ムラの人口は最高で500人を超える程度だったと考えられています。
このスペースに何人入るか実験をしたことがあるそうで、その時〇〇〇人(忘れた!)収容、ムラの人がほぼ収まる程の広さということが分かったそうです。
集会場?今風に言うと、定期〇〇総会とかやっていたのかな?
大都市なので、王という存在がいて、政を行なっていた?
真の王は字そのままの形で、神・靈・人、三界を繋ぐ人。政は神・靈、共にでなければ真の政は出来ないとされていた。人の科学など小さいということだ。
後述の大型掘立柱建物でシャーマニックな゙儀式を行い天啓を預り、ここの集会所?に皆を集め諮問会議でもやったのだろう。
時代が進み いつの間にか "繋ぐ" という部分を ”誰かに抜き取られて” 方向を誤り現在のこのザマになってしまった? 多分だけど、自分は弥生時代ぐらいから怪しくなったのではないかな と思うのだが… それと、シャーマンという職業はかつて正式に認められていましたが、確か明治時代頃に外された経緯があるということを、付け加えておきます。
大人の墓
地面に掘られた墓に埋葬されました。墓は幅広い道路をはさんで向かい合うように配置され、約500基見つかっている。 道路は海方面に伸びており、墓の周りには何も建造物はなかった。計画的な街づくりをしていた事が伺える。
子どもの墓
埋設土器といい、子供は土器に入れて埋葬されました。穴を開けたり底を抜いた土器の中に握りこぶし大の丸い石が1~2個入れてあるものもある。これまで800基以上見つかっている。 なお、子供の墓は大人とは違い家の周りで埋葬されていた。
この頃の寿命は30歳代だったそうで、幼くして亡くなる人も多かったようです。
縄文人は、靈人たちと伴に生きているという考え方。生きてる人に魔が入らないように、亡くなったら近親靈として付いている世であった 。異次元世界のサポート体制が充実しており、今のように容易に操られることはなかったのだろう。
大型掘立柱建物
直径1メートルくらいの栗の木です。
ロシアからシベリア鉄道で運んできたそうです!
柱が6本立っていたことは分かっていますが、どのような構造の建築物だったのかは分かっていません。
各々で想像してみてください。
👇私の想像は複数の用途がある。です
巫女を中心としたシャーマン集団が、太陽や月、地球(山川海火岩風雨・・・)を神として祭りごとをしていた場所。
空に伸びる柱は、自分達(魂)の先祖である宇宙銀河、星々と繋がっている。
目印?
宇宙から自分たちを視る人たちのへの目印?カーナビでいうポイントみたいなもの?
それと、
星を見て時期を調べたり、太陽の位置を刻んだり・・・
儀式的なことをしたり・・・
日巫女(ひみこ)= 太陽神を仕えた巫女たちの総称、長のような人がいたんだろうな~
◆ 今日は晴れでよかった!
(昨日と翌日は雨でした)
👇 建物跡 保存されています
常にポンプで水位を調整している。
地下水が豊富なところで人が暮らすには最適な場所であった。
👇 直径1メートルの柱が良く見えるように水抜きしている。
👇 展示室「縄文時遊館」
石の斧で加工した痕跡がある
👇大型板状土偶
👇円筒上層式土器
👇食事の調理法は、焼くより「煮る」のが多かったようです。
👇 地下にも物凄い数の出土品があります。
目立たない場所にあるので、殆んど人が来ません
未開封の段ボールが(確か)万単位であると仰っていました。
縄文ビッグウオール(土器の破片5120個が使われている)
👇 まもなく閉館
なかなか見ごたえのあるところでした。
縄文時遊館はUの字の洒落た作りになっています。
あおもり北彩館(土産品)、れすとらん五千年の星(縄文食材の料理店)が隣接されています。
昨晩より、朝おにぎり1個しか食べてなかったもんで、急にお腹が空いてきました。
しかし、閉館間際でしたのでいずれも営業を終了していました。
(腹がへった)
記録
青森旅行の計画
①大平山元遺跡(外ヶ浜)10/4
②三内丸山遺跡(青森市)10/4
③是川縄文館(八戸市)10/6
初日10/4で①②達成。
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