WWFインターナショナル・ヘビー級王座
WWFインターナショナル・ヘビー級王座(WWF International Heavyweight Championship)は、現在のWWEがかつてWWFだった時代に認定した王座である。1982年に新王者となった藤波辰巳によって、新日本プロレスに定着した。
概要
もともとはWWWFインターナショナル・ヘビー級王座として、アントニオ・ロッカが保持していた王座とされるが、防衛記録などの詳細は不明である[1]。1982年にWWFインターナショナル・ヘビー級王座としての復活後、同年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時の王者ジノ・ブリットに藤波辰巳が挑戦して奪取。当時の実況担当だった古舘伊知郎は、かつて藤波が長年保持したWWFジュニアヘビー級王座が、初代王者のジョニー・デ・ファジオに因み「デ・ファジオ・メモリアル」と呼ばれたのに倣い、この王座を「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称していた。
同年9月21日、大阪府立体育会館にてマスクド・スーパースターを下して初防衛を飾った王者藤波に、長年地味な存在に甘んじていた長州力が、メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を奪取したのをきっかけに「俺もヘビー級の王者だ」と主張、藤波と袂を分かつことを宣言する。翌1983年4月3日、蔵前国技館において長州は2度目の藤波への挑戦で王座を奪取。この試合は プロレス大賞 のベストバウト(年間最高試合賞)に選ばれ、以降両者の抗争は同王座を中心に巡る「名勝負数え歌」と呼ばれる戦いとなり、長州戴冠後の両者のシングルマッチにおいては実に計6度のタイトルマッチが行われた。
当時、歴史的背景の薄いタイトルともされていたが、WWFはNWAやAWAと並ぶ世界三大プロレス団体という位置付けであったことから、アメリカのメジャー団体の認定するヘビー級タイトルとして認知度も次第に高まっていた。王者として知名度をあげた藤波に、挑戦者のボブ・オートン・ジュニアはタイトルマッチ前のインタビューで「このベルトをアメリカに持って帰れば即、通用するタイトルだ」と語っていた。藤波は第6代王者として長州やオートン・ジュニアの他に、キラー・カーン、エル・カネック、アドリアン・アドニス、ジミー・スヌーカなどを相手に8回連続防衛を成功させた。
1985年7月19日、藤波がスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦の内容に不満を漏らして返上。新日本プロレスとWWFの業務提携が終了した同年10月31日をもって、この王座は空位のまま封印される。同じく藤波の保持していたWWFインターナショナル・タッグ王座(パートナーは木村健吾)と、ザ・コブラが保持していたWWFジュニアヘビー級王座も併せて返上後に封印された
タイトルマッチルールとして、フォール、ギブアップ、KO勝ちの他に リングアウト・フェンスアウト・反則勝ちなどあらゆる勝ちに対して王座が移動するルールが採用されていた。
歴代王者
歴代数 | レスラー | 防衛回 | 獲得日付 | 獲得した場所(対戦相手・その他) |
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初代 | アントニオ・ロッカ | 1948年 | アルゼンチン:ブエノスアイレス | |
第2代 | トニー・パリシ | 1982年 | アメリカ:ニューヨーク州バッファロー | |
第3代 | ジノ・ブリット | 1982年8月 | アメリカ:ニューヨーク州バッファロー | |
第4代 | 藤波辰巳 | 3 | 1982年8月30日 | アメリカ:ニューヨーク州ニューヨーク マディソン・スクエア・ガーデン |
第5代 | 長州力 | 2 | 1983年4月3日 | 東京都:蔵前国技館 |
第6代 | 藤波辰巳 | 8 | 1983年8月4日 | 東京都:蔵前国技館 |
第7代 | 前田明 (前田日明) | 1 | 1984年3月25日 | アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン |
第8代 | 藤波辰巳 | 3 | 1984年7月5日 | 不明 1985年7月19日に札幌中島体育センターの防衛戦後に王座返上 |
Wikipediaより
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