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本人着用
旧プエブラ(故アレハンドロ・ロドリゲス)製。
金モハダ(シルク)×メタリック特殊本革フチ。
チャック式。
着用写真付。
当時の年代物。
1981年頃、作製。
ミル・マスカラス(Mil Máscaras、本名:Aaron Rodríguez Arellano、1942年7月15日 - )は、メキシコのプロレスラー。サン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。
ルチャリブレを代表するヘビー級ルチャドールの1人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの1人として、華麗な空中殺法でアメリカ合衆国や日本でも人気を博した。日本では「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持ち、ジグソーの『スカイ・ハイ』が入場テーマ曲に用いられた。
学生時代からレスリングとボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月の仮デビュー後、大キャンペーンを経て、1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。
1968年から1971年にかけてはアメリカのNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチン、ザ・シーク、ジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得[2]。1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。同地区ではアーニー・ラッドやブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラやチェーン・デスマッチにまで発展している。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。
1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のトップ・ヒールだったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックス、グレート・マレンコ、マイケル・シクルナ、キラー・コワルスキー、トール・タナカらと対戦し、タッグではワフー・マクダニエルとのコンビで活躍した。
初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木のインターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田やザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。
また、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な縛りを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦にて解禁し、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラ、ミスター・フジ、プロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。この試合は、当時WWFと提携していた新日本プロレスの放送局であるテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』においても中継された。
1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニアや中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスのキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル(第10回大会)にも出場した。
アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄やローラン・ボックと対戦した(吉田には勝利し、ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分の第4位)。
1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代はW★ING、FMW、WAR、みちのくプロレスに来日(1993年9月12日にはWARと新日本プロレスの合同興行において、ウルティモ・ドラゴンをパートナーに獣神サンダー・ライガー&エル・サムライと対戦)。2000年2月にはバトラーツ、2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。
俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された。
2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEのスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。
2016年11月28日、東京愚連隊の後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。
試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本では入場時に、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。また、全日本プロレス中継の視聴者プレゼント用にマスクを提供することもあった。別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。
実弟に同じくプロレスラーのドス・カラス、エル・シコデリコ(エル・サイコデリコ)がおり、ドス・カラスとは兄弟での来日も多い。
甥のドス・カラス・ジュニアとシコデリコ・ジュニア(サイコデリコ・ジュニア)は共にプロレスラーとなっており、ドス・カラス・ジュニアは総合格闘技を経て、アルベルト・デル・リオのリングネームでWWEにて活躍した。
Wikipediaより
本人着用
YN(中村之洋)製。
絶版大阪ラメ(旧紫ラメ)。
革タグ、直筆サイン、着用写真付。
YN製獣神サンダー・ライガーに使用している特別仕様のシルバーエナメル本革使用。
顎紐も本人使用の結び方に変更済。
オーダー完成時及び令和元年(2003年)11月23日 「佐山サトル館 初代タイガーマスクサイン会 」も着用済。
スーパー・タイガー(SUPER TIGER)
元はアニメ「タイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。
イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。
しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。
UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガー、スーパータイガーのリングネームで活動していた。
その後、タイガーキング、ザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。
2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名で復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。
Wikipediaより
本人使用済み。
ゴルフのオーダーメイドシューズ。
おしゃれな革靴のデザイン。
メーカーはMIZUNO製。
サイズ35cm。
90年代中頃の新春ジャイアントシリーズ後楽園ホール大会で行われたカラーボール抽選会で当選したもの。
ジャイアント馬場(ジャイアントばば、1938年〈昭和13年〉1月23日 - 1999年〈平成11年〉1月31日)は、日本のプロレスラー、タレント、元プロ野球選手。本名および旧リングネーム・プロ野球選手時代の登録名は馬場正平。
リングネームは、初渡米武者修行中の1961年、ニューヨークのプロモーターであったビンス・マクマホン・シニアがババ・ザ・ジャイアント(Baba the Giant)と命名したことに由来する。新聞のラテ欄では文字数の制約から「G馬場」と表記されることがある。身長209cm、体重135kg。血液型O型。
生涯
1938年1月23日(日曜日)、新潟県三条市に八百屋を営む父・馬場一雄、母・ミツの間に次男として生まれる。四日町国民学校(卒業時には三条市立四日町小学校)に入学後、野球を始める。入学までは体格は小さいほうで、入学時の集合写真でも一番小さい児童のグループに収まっていたが、3年生頃から急速に大きくなりはじめ、4・5年生の頃には既に身長が175cmほどあり、地元の少年野球団「若鮎クラブ」ではエースを務めた。三条市立第一中学校時代には中越地区大会で優勝している。
1953年、三条実業高校機械科(三条実業高校は1963年に商業科が三条商業高校に、機械科が三条工業高校となった後、現在は新潟県央工業高校)入学後、身長はさらに伸び、190cmにもなっていた。この頃は足も尋常でない大きさになり、自分に合うスパイクがないという理由で、当初は硬式野球部入部を断念し、一旦、美術部に入部した。その後、特注のスパイクを与えられ、念願の硬式野球部に入部。練習試合で18奪三振を記録するなどエースとしての活躍はめざましく、1954年、高校2年のときには新潟日報で「巨漢馬場投手を擁する三条実業高校」と報じられ優勝候補の一角と目される存在になっていたが、予選であえなく敗退し甲子園出場は叶わなかった。
この頃、バッテリーを組んでいた捕手の誘いでプロ野球球団・トンボユニオンズの入団テストを受ける話が進んでいたが、読売ジャイアンツのスカウト・源川英治に誘われ、高校を2年次で中退し、10月13日巨人に投手として入団する。背番号は59。同期入団に巨人のV9時代を支えた主力選手となる森祇晶、国松彰などがいた。なお、身長200cmに達する日本人プロ野球選手は2021年に秋広優人・阿部剣友が巨人軍入りするまでは馬場が唯一であった。
1960年3月、巨人時代に面識があった力道山に会いに日本プロレスセンターを訪ねるが、力道山はブラジル遠征中のために不在であり、この際に馬場と同じく元野球選手の経歴を持つ竹下民夫からプロレス入りを勧められる。
翌4月11日、ブラジル遠征から帰国した力道山(同遠征中、力道山は猪木寛至(アントニオ猪木)をスカウトしている)に日本プロレスへの入門を直訴。力道山からヒンズースクワット100回を命じられるが難なくこなし、その場で入門が決まる。このとき、通常練習生には支給されない給料を、巨人時代と同額の月給5万円(当時の大卒初任給は1万6千円程度)と即決されたが、翌月から「試合をしていないのに多すぎる」と3万円に減額される。
修行時代に、入門が一年先輩の大木金太郎や同期の猪木と三人でヒンズースクワットを行ったときは、床に垂れた汗で水溜りができたという伝説が残っている。
1960年9月30日(金曜日)、台東体育館にて田中米太郎とのシングル戦でデビューし、股裂きでギブアップ勝ち。なお、同日に猪木もデビュー戦を行っているが、猪木は大木金太郎に頭突きの連打をくらいフォール負けしている。デビュー直後は芳の里が苦手であり、同年は18勝7敗を記録しているが、そのうち5敗は芳の里からである。
1961年には、ワールドリーグで力道山と優勝を争ったミスターX(ビル・ミラー)など強豪外国人レスラーとの試合が組まれ、いずれも勝利することはできなかったものの、試合内容を評価した力道山により渡米しての武者修行を命ぜられ、同年7月、芳の里、マンモス鈴木らとアメリカに渡る。短期間でメジャーなテリトリーにおけるメインエベンターに成長し、数々のタイトルに挑戦した。アメリカ時代のリングネームは、ロサンゼルスではショーヘイ・ビッグ・ババ、ニューヨークではババ・ザ・ジャイアント。
とある試合で戦ったアート・トーマスのマネージャー、フレッド・アトキンスをグレート東郷が馬場の元に引き抜き、アメリカでの師匠とした。馬場はアトキンスの元で多くを学ぶことになった。
1962年3月9日、NWA世界ヘビー級王者のバディ・ロジャースに初挑戦以来、主にロジャースの地元での対戦相手として重用される。同年8月31日にオハイオ州コロンバスでカール・ゴッチとビル・ミラーの起こしたロジャース襲撃事件当日、NWA王座に挑戦予定だったジョニー・バレンドと代役で対戦。
1963年2月にはロサンゼルスにて、WWA世界ヘビー級王者だったザ・デストロイヤーとタイトルマッチを行い、デストロイヤーに勝利したものの、反則勝ちであったため、規定によりタイトルは移動しなかった。
この遠征時代に馬場は、飲み屋のジュークボックスに唯一入っていた日本の楽曲だった、坂本九の『SUKIYAKI(上を向いて歩こう)』を流していたという。後年、全日本プロレスの試合会場で、全試合終了後に同曲が流されるようになったのはこれに由来する。
第五回ワールドリーグ戦出場の外人レスラー招聘の交渉を主目的に渡米していた力道山とともに、1963年3月に凱旋帰国。この際、新聞社がアメリカ時代のリングネームだったババ・ザ・ジャイアントをもとにジャイアント馬場と書くようになり、この名前が定着する。馬場は、それまでの日本人レスラーにはみられなかったスケールの大きいアメリカンプロレスのスタイルで、キラー・コワルスキーやパット・オコーナーなど当時の超一流外国人レスラーと名勝負を演じ、また、師匠力道山との師弟タッグ等で活躍して、初めて正式出場したワールドリーグ戦でも好成績を残すなど、初渡米武者修行の成果をファン、マスコミに強烈にアピールし、人気を博した。
同年10月に再びアメリカに遠征。同年12月に力道山が死去し、遠征中のアメリカから帰国する。帰国の際にグレート東郷から「力道山死後の日プロは先行きが怪しい。高額の年俸(当時の額で1億円弱)を保障するのでアメリカに定住するように」と勧められたが、金銭の問題ではないからと断り帰国している。アメリカでの生活で売れっ子だったレスラーが怪我をして試合が出来なくなり、何の保障もないまま生活苦へ陥る姿を見ていることから、いくら高額の年俸を稼いでも同じようになった時のことを考えて断ったという理由もある。
1964年には、アメリカでNWA(ルー・テーズ)、WWWF(ブルーノ・サンマルチノ)、WWA(フレッド・ブラッシー)の当時の三大世界タイトルに連続挑戦した。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、馬場の世界的名声の基盤を形成した。
同年4月に凱旋帰国し、翌月には豊登とのタッグで第11代アジアタッグ王座を獲得。力道山亡き後の日プロを豊登・馬場の二枚看板で支えることになった。
1965年11月には、ディック・ザ・ブルーザーに反則勝ちし、力道山以来、エースの象徴とされたインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した(初代ルー・テーズ、二代目力道山、三代目馬場)。ベルトそのものは馬場の王者戴冠を機に新調され、力道山が所有していたベルトは、後の全日本プロレス旗揚げ時に馬場に寄贈されるまで力道山家により保管された。ブルーザー相手に、1-1の引き分けながら初防衛を果たし、名実ともに日プロのエースとなる。同年12月、豊登が放漫経営の責任を取り日プロの社長を辞任し、日本プロレスから去った。
1966年2月28日(月曜日)、ルー・テーズ戦で、2フォールによる勝利でインターヘビー級王座を防衛し、馬場の実力はさらに高く評価された。また、同年11月5日には、吉村道明とのコンビでフリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシス組を破り、後に日本マット界を代表する看板タッグ王座となるインターナショナル・タッグ王座を獲得している。以後、馬場は当時の世界の超一流強豪レスラーを相手にインターヘビー級王座を守り抜き、力道山のインターヘビー級連続防衛記録も更新し、エースとして君臨し続ける。ワールドリーグ戦においても通算6回の優勝を果たして力道山の記録を更新している。馬場とともに日プロ黄金期を支えた猪木は、両者の実力の比較がファン、マスコミの間で取り沙汰されることが顕著となった1971年、ワールドリーグ戦の決勝戦中、インターヘビー級への挑戦を表明したが、時期尚早として却下された。
1966年にハワイで、豊登が猪木を「馬場がいる限り、日本プロレスのエースにはなれないぞ」と口説いて東京プロレスに引き抜く猪木略奪事件が起こり、猪木は東京プロレスに引き抜かれるものの短期で東京プロレスが内部分裂を起こしたため、猪木は翌1967年5月に日プロに復帰。復帰の際には「猪木は豊登に騙された」からと寛大な措置が取られたことから、猪木と本格的にタッグを組むようになり、1967年10月31日(火曜日)にインターナショナル・タッグ王座を獲得した[7]。この際にBI砲という呼称が定着した。BI砲は当時、プロレス史上最強タッグの一つと称えられ、圧倒的な勝率を誇り、インタータッグ王者チームとして看板タッグとなった。その他、この時期に馬場が組んだタッグチームとしては、坂口征二と組んだ東京タワーズなどがある。
日本テレビ実況アナウンサーの清水一郎は、1970年頃までは馬場を「ジャイアントゥ馬場選手」と実況では呼称していたが、その後は「ジャイアント馬場選手」と実況するようになった。
猪木のクーデターと放送問題
1971年、日本プロレスの経営方針やレスラーの扱いなどに不満を覚えていた猪木と当時の後援会長が独自に改革案を起草し、馬場も含めて多くの選手が賛同し、これを幹部に突きつけ、経営陣の刷新(芳の里淳三、遠藤幸吉、吉村道明の退陣)を図ろうとしていた。しかし同年12月1日、巡業先の京都から名古屋へ向かう途中、余りにも急進的な流れに疑問を感じていた馬場が上田馬之助を捕まえて問いただした。猪木らの計画では経営陣の刷新後はさらに力士出身の選手、果ては馬場も追い出す計画もあることを知り、馬場がそのまま帰京して経営陣にその旨を伝えた。猪木の行動は経営乗っ取りを狙ったクーデターとみなされ、同年12月13日に猪木は日プロを除名された。なお、馬場は猪木の計画に一旦は賛同した責任を取り選手会長を辞任(後任は大木金太郎で反猪木の急先鋒でもあった)しており、猪木追放を発表した会見後に開かれた選手会による祝杯に馬場、上田はともに参加していない。
全日本プロレス時代
1972年10月22日(日曜日)に日本テレビ・三菱電機の後押しで「全日本プロ・レスリング株式会社」を旗揚げした。馬場は全日本旗揚げに際して、前述の通り日プロ時代に保持していたタイトルを全て返還しており、全日本旗揚げ後より、団体の看板となるシングル王座の確立のため、世界の強豪レスラーと、全日本プロレス認定世界ヘビー級王座(後のPWFヘビー級王座)争奪戦を開始。合計10戦において8勝0敗2引き分けの戦績により、馬場が初代王者として認定された。なおこのシングル王座のベルトとして当初使われたのは、力道山が所有していたインターナショナル・ヘビー級王座のベルトであり、全日本旗揚げ時に力道山家より馬場に寄贈されたものである(後に新調され、オリジナルは、ヒューストンのプロレス博物館に寄贈された)。馬場は、このPWFヘビー級王座を38回連続防衛を含んで長期間保持し、PWFヘビー級王座は、全日本時代の馬場の代名詞ともいうべき看板タイトルとなり、後に、インターナショナル・ヘビー級王座、UNヘビー級王座とともに、全日本三冠タイトルの一つとなった。
創立1年強の1974年1月には早くもジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、ドリー・ファンク・ジュニアとNWAの現・前・元王者を招聘し、日本陣営の馬場本人や成長著しいジャンボ鶴田、ザ・デストロイヤーとの組み合わせが展開された。同年12月、ジャック・ブリスコを破って、当時世界で最も権威があるとされたNWA世界ヘビー級王座を初めて獲得する。PWFヘビー級王座と二冠を賭けたダブルタイトルマッチで勝利し初防衛を果たすも、再々戦で敗れた。1979年と1980年にもハーリー・レイスを破って、結局、通算3回、NWA世界ヘビー級王座を獲得したが、このときはいずれも翌週の再戦では防衛を果たせなかった。全日本プロレス入門第一号で、一番弟子であるジャンボ鶴田は、馬場の期待を大きく上回る程の急成長を遂げ、馬場・鶴田の「BJ師弟コンビ」は、長年にわたってインタータッグ王座を保持し、全日本プロレスの暮れの定番イベントとなった世界最強タッグ決定リーグ戦においても、通算2回の優勝を果たした。
Wikipediaより
極真会館・大山倍達総裁本人使用。
本人が愛用していたアロハシャツ(MADE IN HAWAII)。
前田日明と松井章圭とのゴング格闘技での鼎談取材時(1993年8月7日)にも着用していたもの。
着用写真付 資料付(1994年7月15日発行 ゴング格闘技増刊「大山倍達追悼写真集」)
池袋の極真会館総本部道場や同建物の上層階の大山総裁が居住していた部屋に総裁がなくなった後も長年保管されていたもので、総裁御本人が当時愛用していたもの。
国際空手道連盟極真会館創始者。>1923年6月4日生まれ。
幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。
1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し、下山した1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死。1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い、空手をアピール。その間、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げ7戦全勝。その後も度々世界各国を歴訪し、演武と指導を行い、空手を世界に広める。
1964年、国際空手道連盟 極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。1994年4月26日、肺癌のため急逝。享年70歳。
国際空手道連盟極真会館ホームページより
UWA世界タッグ・チャンピオンベルト(アニマル・ウォリアー) 本人使用。
・ドラゴマニア・アレナメヒコ大会(パートナーはパワー・ウォリアー)こちらは、ドラゴマニアで王座決定戦が行われた後に主催者のウルティモ校長から某有名プロレスショップオーナーが譲り受けたベルトになります。
08年5月11日、アレナ・メヒコでの闘龍門自主興行「ドラゴマニア3」でUWA世界タッグ王座決定戦に出場。
パワー・ウォリアーと組んでテリブレ、ダミアン666組と対戦。
1分50秒、ダブルインパクトでテリブルからフォールを取りUWA世界タッグ王座を獲得。
メーカー不明。
全長約1,200mm。
重量約2.8kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
ユニバーサル・レスリング・アソシエーション(Universal Wrestling Association)は、メキシコのプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称でありメキシコではルチャ・リブレ・インターナショナル(Lucha Libre Internaciónal)と呼ばれることが多い。略称はLLI。
1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサ、フランシスコ・フローレス、ベンジャミン・モーラらが設立。ナウカルパンのエル・トレオを拠点としていた。1月29日、パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げ戦を開催。
日本では新日本プロレス、ユニバーサル・プロレスリング、全日本女子プロレス、ジャパン女子プロレス、アメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり、日本とアメリカの選手が参戦していた。
旗揚げ当初はEMLLから人気選手のドクトル・ワグナーやアニバルらを大量に引き抜いて一時は大人気を誇っていた。しかし、EMLLから引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより、世代交代が充分に行うことが出来なかった。その後、メキシコで禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ず、EMLLに大きく遅れをとることになってしまう。
1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷する。
1994年、社運をかけてAAAと団体対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになる。
1995年、ほぼすべての所属選手がAAAに移籍する大事件が起こり、一気に弱小団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けていた。
1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり、身の代金を工面するためにアレナ・ネッサワルコヨを売却する。常設会場を失ったことで約22年の歴史に幕を下ろした。
UWAの王座は日本とメキシコで定着しており、UWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。
2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた。
2018年2月28日、UWAの再興が正式に発表され、新日本プロレス・WWFで会長を務めた、現リアルジャパンプロレス会長の新間寿が新生UWA会長に就任。
UWA世界タッグ王座は、UWAが管理していた王座である。
1984年、空位となるが1991年に再開。
日本ではユニバーサル・プロレスリング、みちのくプロレスでタイトルマッチが行われていた。
1995年、LLI解散後も王座のみ存続するものの、2000年にビジャノスが防衛戦を行わないため連邦区タッグ王者のロス・ラヨス・タパティオスがUWA世界タッグ王座を主張。その後、同王座を奪取した東京愚連隊、ブエロ・エスペシャル&エル・エンデイボール組も主張するがビジャノスは2004年、防衛戦を再開。
2008年5月11日、メキシコシティでヘル・ウォリアーズ(アニマル&パワー)がダミアン666&テリブル組を破り元UWA役員から王座を認定されているが正式なUWA世界タッグ王座とされず防衛戦も行われなかった。
ビジャノスの返上後に東京愚連隊が保持していた連邦区タッグ王座をUWA世界タッグ王座に認定。その後、プロレスリングElDorado管理下に置かれていた。ElDorado解散後は紅白プロレス合戦管理下に置かれていた。
2014年2月5日、紅白プロレス合戦新宿FACE大会で開催されたファイナル興行でヤス・ウラノ&HIROKI組が獲得したが異なる団体を主戦場としているため以降の防衛戦などは未定とされていた。3月23日、ユニオンプロレスラゾーナ川崎プラザソル大会にHIROKIが参戦した際に福田洋&MEN'Sテイオー組が挑戦を表明して4月27日、ユニオンプロレスラジアントホール大会で防衛戦が組まれることになった。以降は、それまでタッグ王座のなかったユニオンプロレス管理下に置かれていた。
2015年6月、バラモン兄弟に流出後に10月4日を最後にユニオンプロレスが解散。2016年、バラモン兄弟は主戦場にしている、みちのくプロレス後楽園ホール大会で東北タッグ王者の日高郁人&藤田ミノルとダブルタイトルマッチが行われて勝利した日高&藤田組によって王座統一されて、みちのくプロレス管理下に置かれている。
歴代 | レスラー | 戴冠回数 | 防衛回数 | 獲得日付 | 獲得した場所 (対戦相手・その他) |
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初代 | 長州力&グラン浜田 | 1 | 不明 | 1982年8月1日 | メキシコ |
※ 1984年に返上 | |||||
第2代 | ロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロ&ブラソ・デ・プラタ) | 1 | 不明 | 1991年3月10日 | 東京 |
第3代 | グラン浜田&ペロ・アグアヨ | 1 | 不明 | 1991年6月13日 | 東京 |
第4代 | グラン浜田&ケンドー | 1 | 不明 | 1992年1月19日 | 東京 |
第5代 | ロス・カウボーイズ(シルバー・キング&エル・テハノ) | 1 | 不明 | 1992年1月19日 | 東京 |
第6代 | カンナム・エクスプレス(ダン・クロファット&ダグ・ファーナス) | 1 | 不明 | 1992年6月28日 | ナウカルパン |
第7代 | ロス・ビジャノス(ビジャノ4号&ビジャノ5号) | 1 | 不明 | 1992年11月8日 | ナウカルパン |
第8代 | エミリオ・チャレス・ジュニア&スコルピオ・ジュニア | 1 | 不明 | 2004年4月7日 | アカプルコ |
第9代 | ロス・ビジャノス(ビジャノ4号&ビジャノ5号) | 2 | 不明 | 2004年4月14日 | アカプルコ |
第10代 | 東京愚連隊(NOSAWA論外&MAZADA) | 1 | 0 | 2008年 | 2006年に獲得した連邦区タッグ王座を認定 |
※ 管理団体がプロレスリングElDoradoに移る | |||||
第11代 | KAGETORA&飯伏幸太 | 1 | 0 | 2008年3月26日 | 新宿FACE |
第12代 | SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ) | 1 | 0 | 2008年11月25日 | 東京 |
第13代 | バラモン兄弟(バラモン・シュウ&バラモン・ケイ) | 1 | 2 | 2008年12月3日 | 東京 |
※ 管理団体がプロレスリングElDoradoから紅白プロレス合戦に移る | |||||
第14代 | SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ) | 2 | 0 | 2010年4月14日 | 新木場1stRING |
第15代 | 藤田ミノル&政宗 | 1 | 2 | 2010年12月22日 | 新木場1stRING |
第16代 | SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ) | 3 | 1 | 2011年12月1日 | 新木場1stRING |
第17代 | ヤス・ウラノ&HIROKI | 1 | 2 | 2014年2月5日 | 新宿FACE |
※ 管理団体が紅白プロレス合戦からユニオンプロレスに移る | |||||
第18代 | MEN'Sテイオー&福田洋 | 1 | 2 | 2014年4月27日 | ラジアントホール |
第19代 | 木高イサミ&FUMA | 1 | 3 | 2014年8月31日 | 新宿FACE |
第20代 | 石川修司&柴田正人 | 1 | 0 | 2015年1月24日 | ラジアントホール |
第21代 | バラモン兄弟(バラモン・シュウ&バラモン・ケイ) | 2 | 0 | 2015年6月17日 | 新木場1stRING |
※ ユニオンプロレスが解散 ※ 管理団体が、みちのくプロレスに移る |
|||||
第22代 | スカル&ボーンズ(日高郁人&藤田ミノル) | 1 | 2 | 2016年6月10日 | 後楽園ホール 東北タッグ王座と統一 |
第23代 | SUPER STARS(日向寺塁&郡司歩) | 1 | 1 | 2017年9月16日 | 矢巾町民総合体育館 |
第24代 | GAINA&のはしたろう | 1 | 3 | 2018年3月18日 | 仙台ヒルズホテルみちのくホール |
第25代 | BAD BOY(Ken45°&拳剛) | 1 | 2 | 2018年11月24日 | 仙台ヒルズホテルみちのくホール |
第26代 | GAINA&のはしたろう | 2 | 0 | 2019年5月6日 | 矢巾町民総合体育館 |
第27代 | スカル&ボーンズ(日高郁人&藤田ミノル) | 2 | 1 | 2019年6月14日 | 後楽園ホール |
第28代 | ヤッペーマン1号&ヤッペーマン2号 | 1 | 2 | 2019年10月19日 | 新木場1stRING |
第29代 | ザ・グレート・サスケ&新崎人生 | 1 | 2021年5月4日 | 矢巾町民総合体育館 |
Wikipediaより
ディヴ・ミリガン製。
全長約1,300mm。
重量約5.6kg。
ストラップ本革。
収納袋無。
刻印無。
WWE王座(The WWE Championship) は、アメリカ合衆国のプロレス団体WWEにおける王座の一つである。王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。
王座創設はWWEの前身であるWWWF設立前の1963年1月25日とされる。初代王者はリオデジャネイロでのトーナメントを勝ち抜いたバディ・ロジャースで、決勝の相手はアントニオ・ロッカとされている。もっとも、このトーナメントは実際には行われていない(なお、この前日の24日にはトロントでロジャーズ対ルー・テーズのNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、ロジャースが王座転落)。その数か月後、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノがロジャースを圧倒的な試合展開で下し、以後約8年間の長きに渡り王座を保持した。
1971年よりプエルトリカンのペドロ・モラレスが新王者となり、イタリア移民のサンマルチノに続くニューヨークのマイノリティのヒーローとして活躍。以後、ショーマン派のスーパースター・ビリー・グラハムやアスリート系のボブ・バックランドが戴冠した。1979年には日本でアントニオ猪木が王座を獲得したが、日本での王座移動の経緯はアメリカのファンに説明されなかった[1]。そのため、猪木の戴冠についてはWWEが認めている時期と認めていない時期があり、公式的には猪木は歴代王者にカウントされていない。しかし2010年の猪木のWWE殿堂入りを機に再び認められる可能性もある。
ビンス・マクマホン・シニアが死去し、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻がスタートした1984年からは、ハルク・ホーガンを主軸とした王座争いに移行。ランディ・サベージやアルティメット・ウォリアーなども王者となり、WWFのファミリー・エンターテインメント路線を牽引した。ホーガンがWCWに移籍した1993年以降は、ニュー・ジェネレーション路線としてブレット・ハートやショーン・マイケルズが王座戦線の主役となった。
1997年、WWFは視聴率争いで一歩リードされていたWCWに対抗するために、これまでのプロレスの常識を覆すソープオペラ調のストーリー、アティテュード路線に切り替える。以降、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、ザ・ロック、トリプルHらを中心とした王座争いがドラマ仕立てで展開され、WWFの会長であるビンス・マクマホンまでもが王者になるということもあった。
2001年12月9日に開催されたヴェンジェンスではWWF王座とWCW王座を統一したWWF統一王座が新設され、クリス・ジェリコ、ザ・ロック、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、カート・アングルの4名によるトーナメントの結果、クリス・ジェリコが初代統一王座を戴冠した。今なおジェリコは「一夜でロックとオースチンを倒した唯一の男」と喧伝されている。
2002年8月25日に開催されたサマースラムでの統一王座戦ザ・ロックvsブロック・レスナーでレスナーがロックに勝利し王座を奪取。当時統一王者はRAW、SmackDown!両方の番組に出ることが可能であったが、レスナーはSmackDown!専属となり名称もWWE王座と改称される。以降はSmackDown!が王座を管轄し、RAWには世界ヘビー級王座が新設され、WWE王座と同等の扱いの王座となった。
2005年4月3日に開催されたWresleMania 21でジョン・シナがJBLから王座を奪取し、6月のドラフトで王座を持ったままRAWに移籍。
2008年開催のドラフトでは、トリプルHが王座を持ったままSmackDown!へと移籍。 翌2009年開催のドラフトでも、トリプルHが王座を保持したままRAWへと移籍。
2013年のTLC戦で、ランディ・オートンが、ジョン・シナとの王座統一戦で制し、名称もWWE・世界ヘビー級王座と改称される。これにより、11年間同じ最高位の王座としてあった世界ヘビー級王座は廃止されることになった。
また、名称はWWWF世界ヘビー級王座、WWWFヘビー級王座、WWFヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座、WWF王座、WWF統一王座、WWE統一王座、WWE世界ヘビー級王座、WWE世界王座などを辿って現在の名称となった。
歴代最多戴冠はジョン・シナの13回(2017年1月29日戴冠時)。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,260mm。
重量約2.6kg。
ストラップ本皮。
収納袋無。
刻印無。
IWGP USヘビー級王座(IWGP USヘビーきゅうおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定していた王座。
2017年5月12日、新日本プロレスとROHの共催興行、WAR OF THE WORLDSツアーのハマースタイン・ボールルーム大会にて、新日本会長の菅林直樹より、本王座の新設が発表された。
同王座は、7月1日と2日の両日に渡ってアメリカのロングビーチ・コンベンション・アンド・エンターテイメント・センターにて行われる、G1 Special in USAの開催を期に設立されたものであり、同大会の目玉のひとつとして取り上げられた。
6月12日、初代王座決定トーナメントとして全8選手が参加を表明し、初日に1回戦が4試合、2日目は準決勝2試合、決勝が実現。結果としてトーナメントを制したケニー・オメガが初代王者として認定された。
「US」の名を冠しているが、カナダのケニー・オメガやニュージーランドのジェイ・ホワイト、イギリスのウィル・オスプレイといったアメリカ合衆国出身ではない選手も戴冠している。日本人選手では、棚橋弘至が初の戴冠となったほか、KENTAとSANADAも戴冠している。また、戴冠していない日本人選手では、初代王座決定トーナメントに内藤哲也と石井智宏が出場(石井が王座決定戦となる決勝戦に進出)。初代王者ケニー・オメガにYOSHI-HASHIが、第8代王者ジョン・モクスリーに鈴木みのる、永田裕志が、第16代王者ウィル・オスプレイに海野翔太が、第18代王者ウィル・オスプレイに辻陽太、海野翔太が挑戦したことがある。
2023年に2度目の戴冠を果たした第18代王者のオスプレイは8月12日、イギリス人の自分が他国の王座を持つことを拒絶し、IWGP USヘビー級王座のベルトを放り投げた。代わりに中央にユニオンジャックを配し、「UNITED KINGDOM CHAMPION」の文字が刻まれた新しいデザインのベルトを披露、「IWGP UKヘビー級王者」を自称するようになった。オスプレイは過去にRPWのアンディスピューテッド・ブリティッシュ・ヘビー級王座を「IWGPブリティッシュ」の王座とする、「IWGPの英国王座」の構想を立てたことがあるが、違う形で実現することになった。実際にこのベルトを懸けて選手権試合が行なわれ、新日本プロレスが「IWGP US(UK)ヘビー級王座」と表記していることから、「IWGP UKヘビー級王座」のベルトは、IWGP実行委員会から正式に認められたものとみられる。10月14日(日本時間15日)にはザック・セイバーJr.と、ロンドンの地でイギリス人同士の「IWGP UKヘビー級選手権試合」が実現している。
同年11月4日、大阪大会のメインイベント後にデビッド・フィンレーが、海野翔太を下し防衛を果たした王者オスプレイと海野のセコンドに付いていて挑戦をアピールしていたモクスリーの2人をシレイリで襲撃し、外道が持ち込んだハンマーによってIWGP USヘビー級王座、IWGP UKヘビー級王座2つのベルトを破壊し挑戦をアピールすると共に新ベルトの作成を要望した。なお破壊されたベルトはバックルの部分等が取れた状態となった。
11月6日、新日本プロレスは同月4日大阪大会で起きたことを受け、2024年1月4日「ベルクpresents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」にてオスプレイ、フィンレー、モクスリーの3WAYマッチを行う事を発表、それと共に破壊された2つのベルトに代わる新王座の創設も発表した。12月11日に行われた記者会見でIWGP GLOBALヘビー級王座の創設が正式に発表され、IWGP USヘビー級王座は現役の王座としての役目を終えることになった。これにより、WRESTLE KINGDOM 18における3WAYマッチはIWGP GLOBALヘビー級王座の初代王座決定戦への変更が発表された。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,300mm。
重量約2.8kg。
ストラップ本皮。
収納袋無。
刻印無。
IWGPインターコンチネンタル王座(IWGPインターコンチネンタルおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定していた王座。
2011年1月、新日本プロレスが自社主催によるアメリカ興行を5月に行うことを発表。併せて、IWGPインターコンチネンタル王座の設立と、アメリカ興行での同初代王座決定戦開催を発表。アメリカを始めとする海外マットにおいての、IWGPヘビー級王座への登龍門というのが、設立に際しての位置付けである。
初代王座決定戦は、海外及び中堅の選手を中心とした8人エントリーのトーナメントで、2011年5月13日(現地時間)から5月15日までアメリカで開催された。
出場者はMVP、矢野通、高橋裕二郎、内藤哲也、オカダ・カズチカ、ダン・マフ、ジョシュ・ダニエルズ[6]、ヒデオ・サイトー。トーナメント決勝でMVPが矢野を破り初代王座を獲得。
2012年7月12日、山形大会にて中邑真輔が3代目王者の後藤洋央紀を倒し4代目王者に君臨する。中邑は本王座のベルトのデザインを酷評し、新日本プロレスに対してベルトの作り直しを要求した(後述)。中邑は新たなベルトと共に王座の防衛を重ねていき、本王座は中邑のイメージが定着していった。2013年から2015年までの東京ドーム大会では本王座のタイトルマッチがIWGPヘビー級王座と共に「ダブルメインイベント」に設定され、特に2014年はIWGPヘビー級王座戦を退けて本王座が最終試合に設定された。その後も本王座は中邑を中心として王座戦線が組まれていき、中邑のイメージがより定着していった。
2016年1月に中邑真輔が新日本プロレスを退団すると共に王座が返上され、空位となった。中邑退団後の王座戦線には棚橋弘至とケニー・オメガが名乗りを上げ、長岡(新潟)大会にて本王座はオメガの手に渡る。その後の防衛戦は、オメガが得意とするハードコアの要素を取り入れた試合が行われた。6月の大阪城ホール大会では新日本プロレスでは初となるラダー・マッチで試合が行われた。この試合でオメガは王座から陥落している。
その後、2016年下半期から2017年上半期までは第15代王者の内藤哲也を中心とした王座戦線が行われるが、内藤は本王座の価値を否定し、「俺はこのベルトが欲しいなんて一言も言っていない」、「このベルトよりも自分自身の方に価値があり、ベルトが勝手に自分に付いてくる」という趣旨の発言を一貫して行った。これに伴って内藤は本王座のベルトを粗末に扱い、リング上でベルトを投げ捨て、試合後にベルトを持ち帰らずに置き去りにするといった行為を繰り返した。2017年4月以降は、この行為がエスカレートしていき、ベルトを足蹴にしながら入場する、ベルトをリング隅の鉄柱に投げつけてバックル部分を破損させるなどといった暴挙にまで出るが、2017年6月の大阪城ホール大会にて棚橋弘至が内藤から王座を奪取したことで内藤による本王座戦線は終結した。その一方で、2017年に新たに同趣旨のIWGP USヘビー級王座が創設された。
2018年1月27日、棚橋は鈴木みのるとの防衛戦に敗れ、王座陥落。その後、王者鈴木と内藤の抗争が始まり、4月29日熊本大会でタイトルマッチが決定した。30分22秒の死闘を内藤が制し、約10ヶ月ぶり2度目の戴冠を果たした。2度目の戴冠を果たすも内藤は、「やはり、このベルトは必要のないベルト、必要のない王座だという気持ちは変わりありませんよ」と、王座に対する思いは昨年と変わらないと語った。その後、クリス・ジェリコにベルトを奪われるも、2019年1月4日の東京ドーム大会で取り返した。3度目の戴冠を果たした内藤は「IWGPヘビー級王座と同時に保持する」という目標を立て、インターコンチネンタル王座を必要のないベルトから「同時保持に必要なベルト」と位置付けた。4月に飯伏幸太に敗れ王座陥落するも、6月に4度目の王座戴冠を果たし、IWGPインターコンチネンタル王者としてG1 CLIMAXにエントリーした。王者としての優勝はできなかったが、優勝者の飯伏幸太が「1月4日にヘビー級王座を獲り、5日にインターコンチネンタル王座に挑戦したい」とダブルタイトルマッチを提案する。この発言によって内藤にも同時保持すなわちニ冠王者になるチャンスが訪れた。だが、内藤の優勝を拒んだジェイ・ホワイトも二冠を狙い、さらには9月の神戸大会でジェイは内藤に勝利し王座戴冠。内藤は無冠となってしまうも、11月大阪大会でジェイにリマッチを要求。さらに後日、1月5日に「IWGPヘビー級&IWGPインターコンチネンタル ダブル選手権試合」が行われることが発表された。そして2020年1月4日、内藤はジェイに勝利し、中邑真輔に並ぶ5度目の戴冠を果たす。さらに翌5日のダブル選手権試合にも勝利し、史上初の「IWGPヘビー級&IWGPインターコンチネンタル 二冠王者」となった。
2021年3月1日、菅林直樹会長よりIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座を統一し、IWGP世界ヘビー級王座を新たに創立することが発表され、3月4日のダブル選手権試合に勝利した飯伏幸太が初代IWGP世界ヘビー級王者に認定された。IWGP世界ヘビー級王座創立時はまだベルトが完成しておらず、初代王者の飯伏は二冠王者時代と同様にIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座の両ベルトを引き続き保持していたが、のちにベルトが完成し、3月30日の贈呈式でIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座の両ベルトが新日本プロレスに返還された。
Wikipediaより
IWGP(International Wrestling Grand Prix、インターナショナル・レスリング・グラン・プリ、国際レスリング大賞)は、かつて新日本プロレスが開催したIWGPリーグ戦の名称及び同団体が管理するチャンピオンベルトの名称。
IWGPはプロレス界における世界最強の男を決めるという考えの下にアントニオ猪木が提唱したものである。各地域や各々の団体にチャンピオンベルトがある事で真のチャンピオンを決めるべき姿を確立する為の目的で当初の計画では日本で開幕戦を行い、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦して決勝戦をニューヨークで行う予定だったが計画が壮大すぎたことに加え、「プロレス界における世界最強の男を決める」と言うプランから、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、紆余曲折の末1983年5月6日に蔵前国技館で第1回「IWGPリーグ戦」を開催。第1回「IWGPリーグ戦」決勝のハルク・ホーガン対アントニオ猪木戦におけるハルク・ホーガンのアックスボンバーによるアントニオ猪木の失神KOシーンが有名。第2回「IWGPリーグ戦」でも両者は決勝で戦ったが長州力の乱入によるリングアウトでアントニオ猪木が勝利。
IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー王座が創立され、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日、第5回「IWGPリーグ戦」を制したアントニオ猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降IWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。
新日本プロレスの旗揚げ当時、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWAの世界王者も招聘することはできないし、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本プロレスにとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日本プロレスは崩壊するまで、NWAの加盟団体であった。NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、ビンス・マクマホンとマイク・ラベールであった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案。こうした経緯もあって新日本は1980年にNWA加盟が認められた。しかしNWAでは実務的な話しかされず、さらにチャンピオンを招聘してタイトルマッチができるのは既存のプロモーターだけという条件も付けられていた。何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGPの構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た。
1983年から1987年のIWGPリーグ戦を経て現在の新日本プロレスが認定するIWGP王座は以下の通り。
IWGPヘビー級王座は、日本のプロレス団体である新日本プロレスが管理する王座(タイトル)。
IWGPは元々は、「International Wrestling Grand Prix」というリーグ戦を意味するものであったが、1987年に開催された第5回「IWGP王座決定リーグ戦」の優勝者であるアントニオ猪木を初代チャンピオンとして防衛戦が行われ、現在まで継承されている。
タイトル制定以降、新日本プロレスを象徴する同団体で最も権威のあるチャンピオンベルトとされている。デザインは初代から4代目まであり、初代は1983年の第1回IWGPリーグ戦開催にあたって作成され優勝したハルク・ホーガンが初めて巻き、1997年まで使用されたが、旗揚げ25周年を迎えて一新された。
2001年にPRIDEのリング上でアントニオ猪木から初代ベルト王者として指名を受けた藤田和之と、2代目のベルトを継承していた第28代王者スコット・ノートンとの間で4月9日に大阪ドームで「IWGP新旧ベルト統一戦」が行われ、この一戦に勝利した藤田が2本のベルトを獲得したが、年末に練習中に右アキレス腱を断裂。2002年1月4日、防衛戦が出来ずに2本のベルトを猪木に返上。
その後、2代目のベルトを使用していたが、2005年7月11日、通算最多防衛記録を持つ橋本真也が逝去。天山広吉に勝利して再び王者となった藤田が、橋本の功績を称え、橋本家に2代目ベルトを贈呈することになり、新デザインを作成。9月30日にサイモン・ケリー猪木新社長就任披露パーティーにて米国で制作された3代目のベルトが藤田に授与された。10月9日東京ドームでブロック・レスナーが獲得。その後、剥奪することになったが返還されることなく、新王者となった棚橋弘至が2代目ベルトを代用。
3代目ベルトはその後、IGF旗揚げ興行で新日本とは無関係に行われた防衛戦でレスナーを下したカート・アングルに渡ったが、2008年に第48代王者の中邑真輔がカートとのベルト統一戦に勝利して奪還に成功。3月2日、プロレスリングZERO1-MAX後楽園ホールのリングに上がり、佐藤耕平に勝利。試合後、橋本家に2代目ベルトを贈呈。その後イメージ刷新のため現行の4代目ベルトが制作された。
新日本プロレスリング認定の「プロレスリング競技者規約 IWGP各選手権ルール」第2条第1項によって体重100kg以上の選手を対象としている。しかし、2007年2月18日に棚橋弘至の持つ王座に金本浩二が挑戦したほか、現在も体重が100kgに満たない選手の挑戦があるため事実上体重の制限はなくなったと考えられる。
Wikipediaより
メーカー名 ジュウロクホウイ
仕様
■素材
ーベルト部分:牛床革
ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)
ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後
インターナショナル・ヘビー級王座(インターナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、その後全日本プロレスに管理権が移ったフラッグシップタイトルである。日本プロレス界で現存するタイトルとしては最古の歴史を持つ王座の一つであり「日本マット界の至宝」とも言われるほど権威も高い。
現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。
この王座は、NWA本部が1958年6月に日本を始め世界各国で積極的にNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行って防衛を続けたルー・テーズの実績を認めて、NWA世界ヘビー級王座とは別に、新たにルー・テーズを初代のインターナショナル・ヘビー級王者として認定したことによって始まったものである。このインターナショナル・ヘビー級王座が1958年8月27日、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトルマッチで力道山がルー・テーズに勝利(反則勝ち)し、力道山はこの勝利を理由に王者の資格があると主張する。テーズはその後も世界王座を奪回するまで、王者として活動している。後にルー·テーズより王者を名乗る事を認められたと推察される。(なお、この王座には専用のチャンピオン・ベルトは存在せず、帰国後に力道山が作成した。2度目に製作されたものが、ジャイアント馬場が1972年に全日本プロレスを旗揚げした時に力道山家から寄贈され、世界ヘビー級王座、後のPWFヘビー級王座のチャンピオン・ベルトとなる)。これ以後、日本に定着することになる。
インターナショナル・ヘビー級王座が力道山に移ってからは日本プロレスの至宝として東京・大阪などの大会場でタイトルマッチが行われ、力道山はドン・レオ・ジョナサン、エンリケ・トーレス、ミスター・アトミック、サニー・マイヤース、プリンス・イヤウケア、ミスターX、ゼブラ・キッド、ジェス・オルテガ、パット・オコーナー、バディ・オースチン、ザ・デストロイヤーなどといった強豪レスラーと名勝負を繰り広げ、またグレート・アントニオやヘイスタック・カルホーン、ムース・ショーラックなどの異能派レスラーとも王座を賭けて戦うなど、インター王座は力道山の代名詞となっていく。力道山は一度もこの王座を明け渡すことなく、19回連続防衛(ただし反則負け防衛が1回ある)を果たした。
しかし力道山は1963年12月4日にザ・デストロイヤーを相手に19回目の王座防衛を果たした後、兇刃に斃れて12月15日に急逝。その後、日本プロレスはインターナショナル・ヘビー級王座について、『力道山一代限りのもの』として封印を決める。
ジャイアント馬場が凱旋帰国しスケールの大きなレスリングで爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という声が起こり、日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除、「NWA認可、日本プロレスリング・コミッション認定」のタイトルとして復活させる。ただしチャンピオンベルトは力道山が使用したものを使わず、それとは全く別にベルトを新調した。
1965年11月24日、王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破った馬場が第3代王者に就く。馬場は途中ボボ・ブラジル、ジン・キニスキーに王座を明け渡したものの、1972年9月に日本プロレス脱退・全日本プロレス創立に伴い王座を返上するまで、タイトルを保持した。この間テーズ、キニスキー、デストロイヤー、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、ゴリラ・モンスーン、ブルーノ・サンマルチノ、ターザン・タイラー、クラッシャー・リソワスキー、ウイルバー・スナイダー、フレッド・ブラッシー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ドリー・ファンク・ジュニア、ザ・ストンパー、スパイロス・アリオン、イワン・コロフ、クリス・マルコフ、テリー・ファンク、ブルドッグ・ブラワー、ジョニー・バレンタインらの強豪を退け、インターナショナル王座の価値はますます高いものとなった。キニスキーやドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級王者として来日した際にも、日本プロレスとNWA双方の「日本にはインター王者がいるから」という意向で馬場が挑戦するNWA戦ではなくNWA王者が馬場に挑戦するインター戦が行われたことがあった(もっとも、馬場本人はNWA戦を望んでいたという)。
馬場の王座返上後の1972年12月、大木金太郎とボボ・ブラジルの間で新王者決定戦が行われ(「頭突き世界一決定戦」とも称された)、ブラジルが初戦に勝ち王座復帰、第2戦で大木が勝って念願のインターナショナル王座のベルトを腰に巻いた。以降、大木はビリー・レッド・ライオンとフリッツ・フォン・エリックを相手に防衛戦を行ったが、アントニオ猪木とジャイアント馬場が抜けた後の日本プロレスは観客動員が格段に落ち、程なくして経営不振になり自前の興行を行えなくなった後、団体としての活動を停止した。それに伴い、インターナショナル・ヘビー級王座は認定コミッション消滅により宙に浮いた状態となったが、チャンピオンベルトそのものは大木が所持し、地元韓国にてスーパー・デストロイヤー、マリオ・ミラノ、ザ・デストロイヤー、サムソン・クツワダ、サンダー杉山、アブドーラ・ザ・ブッチャー、高千穂明久、ドン・レオ・ジョナサン、稲妻二郎、キラー・トーア・カマタ、キング・イヤウケア、ブル・ラモス、フレッド・ブラッシー、ジョニー・ロンドス、チーフ・フランク・ヒルなどと防衛戦を行った。大木が新日本プロレスに参戦していた当時の1975年3月27日には、ソウルでアントニオ猪木の挑戦も一度受けている。これは猪木唯一のインター戦となった。1980年に大木が国際プロレスに入団してからは、ジョー・ルダック、ジプシー・ジョー、ビル・ドロモ、上田馬之助を相手に日本でも防衛戦が行われた。
全日本プロレスは1981年4月13日、NWA本部からの勧告という形で大木に王座を返上させ復活トーナメント(9人参加)を開催し、以降は全日本プロレスのタイトルとして定着する(大木は馬場の推薦で韓国のプロモーターとしてNWAに加盟しており、「NWA非加盟の国際プロレスでインター戦を行ったのはNWA会員として問題」という趣旨の勧告であった。なお、全日本プロレスは交換条件として馬場が大木から奪取して封印していたアジアヘビー級王座を大木に渡している)。
全日本プロレスマットで復活したインターナショナル・ヘビー級王座のトーナメント決勝は1981年4月30日の松戸市運動公園体育館で行われる予定だったが、準決勝の馬場戦で勝利するも右足首を捻挫したブルーザー・ブロディが決勝戦を棄権したため、ドリー・ファンク・ジュニアが自動的に王者となった。同日はトーナメント参加者によるくじ引きでドリーへの挑戦者を決めたが、弟のテリー・ファンクが当たりくじを引いて最初で最後の兄弟対決が実現し、54分ジャストにエビ固めでドリーが初防衛に成功している。
1981年10月9日、ブロディがドリーを破って王座を奪取。一旦はドリーに王座を奪回されるものの、1982年4月21日、再びドリーを破り王座の再奪取に成功(その間、ドリーは当時のアメリカでの主戦場だったNWAフロリダ地区にて、ジャック・ブリスコ、マイク・グラハム、ブッチ・リード、ブライアン・ブレアー、ミスター・レスリング2号、スウィート・ブラウン・シュガーなどを挑戦者に防衛戦を行っている)。
同年8月プエルトリコのサンフアンで行われたNWA総会において「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つのインターの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理及び運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、PWFヘビー級王座と共に全日を象徴するシングルタイトルとなる。ブロディは再奪取以降通算1年4ヶ月、10回連続防衛という、外国人レスラーとしてはまれに見る長期政権を樹立する。
そのブロディを1983年8月31日に破り新王者となったのがジャンボ鶴田で、王座奪取後のロッカールームで馬場から「今日からお前がエースだ」と祝福されたのは有名な話である。
鶴田時代は初奪取となった第14代王者として17回連続防衛、途中スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディに短期間奪われたものの5年7か月に渡って王座を維持した。その間、ニック・ボックウィンクル、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、テリー・ゴディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーらの挑戦を退けたほか、1986年3月29日にはハンセンのAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両選手権との日本初のトリプル・タイトルマッチが実現した。1988年頃から天龍源一郎の呼びかけで三冠統一の機運が盛り上がり、PWF王座・UN王座とのトリプル・タイトルマッチが多くなった。インターヘビー単独のタイトルマッチが最後に行われたのは、1988年9月9日、鶴田がブッチャーの挑戦を受けて防衛した試合である。
1989年4月18日、ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破って本王座・PWF王座・UN王座の三冠王者となってからは、三冠ヘビー級王座として統合された。
Wikipediaより
海外製。
全長約1,320mm。
重量約3.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
インターナショナル・タッグ王座(エヌダブリューエーインターナショナル・タッグおうざ)は、かつて日本プロレスがWWAに働きかけてアメリカで設立。後に全日本プロレスに管理権が移りPWF認定のタイトルとなった。現在は世界タッグ王座を構成する2本のベルトのうちの一つである。長期間NWAの認可だった事もあり、日本以外ではNWAインターナショナル・タッグ王座と呼称される。
フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが、1966年9月の日本プロレス参戦前に王者チームとして認定された。初代王者チームはアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンのファビュラス・カンガルーズで、ゲーリング&パドーシスは第6代王者とされるが、ゲーリング組が来日するまでの変遷はフィクションと見られている。
G SPIRITS vol59によると、インタータッグのベルトは鷲の大きさや鷲の羽根の開き方など多少の違いはあるものの、基本デザインとベースはインターシングルやアメリカスヘビー級王座ベルトとほとんど一緒となっており、これはカップやトロフィー、メダルなどを製造する元浅草の老舗松本微章工業株式会社の作品として知られる。日本プロレスはインタータッグ王者を新設するにあたって、同社製造のシングルの黒革に青字を張ったベルトに少し似せた雰囲気の黒革のみのベルトを日本で作らせ、それをケースに入れて梱包し羽田からロスへ空輸する手続きをしたと日本プロレスで担当した三沢正和が答えている。
そのベルトをロサンゼルスで最初に巻いたのはビジランテスというタッグチーム、ジェリー&ボビーのクリスティ兄弟としており、つぎにゲーリング&パドーシス組に移動させ、こうしてしばらく泳がせてアメリカでの既製ベルトのように見せかけ箔をつけさせた。選手権の様子はロスの特派員である吉本栄が随時写真を日本に送って東京スポーツの一面を飾っていく。
南カリフォルニアを地盤とする往時のWWAは提携する日本プロレスのために、自分たちとほとんど無関係なよそ者レスラーを使って、ストーリー作りに協力していたようである。
同年11月5日にジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシスを破って王座について以来、日本を代表するタッグベルトとして幾多の名勝負を生んだ。
歴代王者には馬場&アントニオ猪木(BI砲)、坂口征二(東京タワーズ)、ジャンボ鶴田(BJ砲)のコンビや、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、ザ・ファンクス、大木金太郎&キム・ドク、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、ロード・ウォリアーズ、鶴田&天龍源一郎(鶴龍コンビ)、長州力&谷津嘉章などの名コンビが名を連ね、挑戦者チームも、フリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリック(フォン・エリック・ブラザーズ)、スカル・マーフィー&ブルート・バーナード、ダスティ・ローデス&ディック・マードック(テキサス・アウトローズ)、キング・イヤウケア&ブル・ラモス(ザ・タイクーンズ)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ(ミラクルパワーコンビ)、ミル・マスカラス&ドス・カラス(マスカラス・ブラザーズ)、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ(ファビュラス・フリーバーズ)などプロレス史上に残るタッグチームや、ハンス・シュミット&バディ・オースチン、マッドドッグ・バション&キラー・カール・コックス、ジン・キニスキー&ジョニー・バレンタイン、ブルーノ・サンマルチノ&キラー・コワルスキー、ビル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルといった即席ながら強豪外国人同士のドリーム・チームまで、幾多の名レスラー・名コンビの名前が並んでいる。大木&ドクの戴冠時には、当時の国際プロレスの最強コンビだったラッシャー木村&グレート草津も挑戦した。
馬場&吉村の王座獲得から1973年4月までは日本プロレスの管理下にあったが、日本プロレス崩壊後の1973年5月から1975年2月まではファンクスがタイトルを保持し、本拠地のテキサス州アマリロや全日本プロレスにおいて防衛戦を行っていた(アマリロでは、1974年に馬場&パク・ソンやザ・ブラックジャックスの挑戦を受けている)。1975年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がファンクスを破って王座を奪取、以降は全日本プロレスのフラッグシップ・タッグタイトルとなった。1982年8月30・31日にプエルトリコのサンフアンで行われたNWA総会では「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理および運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、NWAから全日本プロレスに管理権を委託したことが正式に発表された。
1988年、インターナショナル・タッグ王者のウォリアーズとPWF世界タッグ王者の鶴田&谷津の間で統一戦が行われ、鶴田組が勝ったことにより両王座は世界タッグ王座として統一された。
Wikipediaより
メーカー名 ジュウロクホウイ
仕様
■素材
ーベルト部分:牛床革
ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)
ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後
PWFヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふ へびーきゅうおうざ)は、日本におけるプロレスの王座のひとつ。PWF(全日本プロレス)が管理するヘビー級のフラッグシップタイトルである。旧称は、世界ヘビー級王座(せかいへびーきゅううおうざ)、PWF認定世界ヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふにんていせかいへびーきゅうおうざ、略称:PWF世界ヘビー級王座)。
現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。
1972年に、力道山の死後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級選手権及びWWA世界ヘビー級選手権のベルトとして使用されていたチャンピオンベルト(通称・力道山ベルト)が、全日本プロレスを創立して間もないジャイアント馬場に寄贈された。
これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級選手権」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。
この新設王座争奪戦は、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ウイルバー・スナイダー、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ボボ・ブラジルの8選手による勝ち抜き十番勝負という形で行われ、馬場が8勝2引分けという成績を収め(最初の対戦で引き分けたサンマルチノ、スナイダーには再戦で勝利)、初代世界ヘビー級選手権者となる。全日本プロレスがハワイ州ホノルルを本部とするPWF(Pacific Wrestlimg Federation)を設立し、初代会長には馬場と旧知の仲であったハワイのプロモーターのロード・ジェームス・ブレアースが就任した。
そして、世界ヘビー級王座をPWF認定世界ヘビー級王座と改め、馬場が自らその初代王者となった。途中1974年に、NWAの勧告により「世界」の文字を外してPWFヘビー級王座となった(NWAは傘下の各団体に「NWA世界ヘビー級王座以外の世界王座を作ったり認定したりしないこと」を求めているため)。
初代王者の馬場はザ・シーク、ブッチャー、オコーナー、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、フリッツ・フォン・エリック、ジン・キニスキー、ペドロ・モラレス、ビル・ロビンソン、プロフェッサー・タナカ、ディック・マードック、ブラックジャック・マリガン、クリス・マルコフ、ディック・ザ・ブルーザー、オックス・ベーカー、ワフー・マクダニエル、キラー・カール・コックス、ケン・パテラなどを退けて38回連続防衛(これは今でも日本プロレス史上の最多連続防衛記録である)を果たしたほか、ジャック・ブリスコ(NWA)、ブルーノ・サンマルチノ(WWWF)、大木金太郎(アジア)の各王者とのダブルタイトルマッチも行った。
1978年6月にキラー・トーア・カマタとの防衛戦で、カマタの反則に怒った馬場が反則でやり返して大暴走、反則負けで王座転落。それまでアメリカでも日本でも「反則やリングアウトでは王座は移動しない」となっていたのを馬場が「反則負けでも負けは負け」と反則・リングアウトでの王座移動を認めるようにしていたのだが、それが裏目に出た形となった。カマタは初防衛戦でロビンソンに敗れ、ロビンソンからブッチャーへ王座は移動、1979年2月に馬場はシカゴで王座奪回に成功する。
第5代王者時代の馬場は、防衛戦のペースこそ低下したもののブッチャー、ブルーザー・ブロディ、カマタ、ロビンソン、タイガー・ジェット・シン、テリー・ゴディらを相手に3年8ヶ月の間防衛を続けた。この間、1981年1月には馬場のデビュー以来3000試合無欠場記録記念試合としてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われ、1982年2月には新日本プロレスから引き抜いたスタン・ハンセンとのシングル初対決がPWF選手権試合として実現している(2試合とも東京スポーツプロレス大賞の「年間最高試合賞」を受賞)。また、グリーンズボロ(バロン・フォン・ラシク)、ミネアポリス(スーパー・デストロイヤー・マークII)、アトランタ(テリー・ゴディ)、ダラス(キングコング・バンディ)などアメリカ各地で防衛戦が行われたのも馬場王者時代の大きな特徴である。
1982年10月に馬場はレイスに敗れて王座転落するも1983年2月セントルイスで奪還。しかし9月にはハンセンに敗れまたも王座から転落する。この頃からはレイス→馬場→ハンセン→馬場→ハンセン→長州力→ハンセン→天龍源一郎→ハンセン、と、1年前後の在位の王者が続くことになる。1989年4月18日、PWF・UN王者のハンセンがインター王者のジャンボ鶴田と統一戦を戦い、勝った鶴田が三冠統一ヘビー級王者となる。
海外製。
全長約1,150mm。
重量約3.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
アジアタッグ王座(アジアタッグおうざ)は、かつて日本プロレスが創設した王座。管理権が全日本プロレスに移行後、PWFの認定となった。正式名称はオールアジアタッグ王座。
1955年11月に日本プロレスがアジアのシングル・タッグ両王者を決定するためのアジア選手権を開催し、そのタッグ部門で優勝したキングコング&タイガー・ジョキンダーをアジアタッグ王者として認定したのが始まりである。力道山&豊登が3代目の王者になって以来、日本プロレスの看板タッグタイトルとして幾多の名勝負が繰り広げられた。
日本プロレスがジャイアント馬場をエースとする時代に入り、インターナショナル・タッグ王座が日本に持ち込まれると二番手に降格された。とはいえ、当時の挑戦者チームには、ドリー・ファンク・ジュニア&ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーン、クリス・マルコフ&ブル・ラモス、ジン・キニスキー&キラー・カール・コックスなどの強力チームも名を連ねている[1]。ジ・アサシンズ(トム・レネスト&ジョディ・ハミルトン)、ブロンド・ボンバーズ(リップ・ホーク&スウェード・ハンセン)、ミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)、ジョニー・バレンド&マグニフィセント・モーリスの伊達男コンビ、ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズの牧童コンビ、ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスの泥棒コンビ、アル・コステロ&ドン・ケントの2代目ファビュラス・カンガルーズなど、当時のアメリカン・プロレス界を代表する「タッグ屋」の挑戦も受けた。
当初、プロレス界でタッグ王者に授与されるのはトロフィーだったが、アジアタッグは1966年12月3日に第18代王者の吉村道明&大木金太郎からは、二頭の麒麟がデザインされたベルトとなった。
日本プロレス崩壊後は他のタイトルとともに全日本プロレスに受け継がれたが、全日本側は崩壊当時の王者チームであるグレート小鹿&松岡巌鉄組に防衛戦をさせる気がなく、一時的に王座は休眠状態となる。
この時の復活王者はグレート小鹿&大熊元司の極道コンビで、これ以降、若手選手と中堅選手によるタイトルという性格となり、現在では主力選手への登龍門と化している。もうひとつのタッグ王座である世界タッグ王座と比較すると軽視されがちであるが(1980年代にはアジアタッグ王者が世界最強タッグ決定リーグ戦に出場できないことも珍しくなかった)、60年以上の歴史を持つ、日本最古のベルトである。
2019年8月15日、旧来のベルトの老朽化に伴い、チャンピオンベルトを新調。第108代王者のジェイク・リー&岩本煌史組が、8月24日の美幌町で行われた選手権試合より使用している。
Wikipediaより