私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

【非売品】 極真空手 大山倍達 アロハシャツ 本人使用 本物

2018年12月18日 21時07分10秒 | プロレスグッズ

極真会館・大山倍達総裁本人使用。

本人が愛用していたアロハシャツ(MADE IN HAWAII)。

 

前田日明と松井章圭とのゴング格闘技での鼎談取材時(1993年8月7日)にも着用していたもの。

着用写真付 資料付(1994年7月15日発行 ゴング格闘技増刊「大山倍達追悼写真集」)

池袋の極真会館総本部道場や同建物の上層階の大山総裁が居住していた部屋に総裁がなくなった後も長年保管されていたもので、総裁御本人が当時愛用していたもの。

 

大山倍達総裁 紹介

国際空手道連盟極真会館創始者。>1923年6月4日生まれ。
幼少の頃より拳法を学び、14歳で山梨少年航空学校に入学。15歳のときに船越義珍先生(日本に初めて空手を紹介した人)の門下生となる。その後、拓殖大学、早稲田大学に学び、身延山での修行を経て1947年9月に戦後初めて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。
1948年4月より清澄山にて1年8ヵ月の山籠り修行を敢行し、下山した1950年11月、千葉・館山で猛牛と対決。47頭の牛を倒し、うち4頭は一撃で即死。1952年に渡米して全米各地を回り、空手の演武とデモンストレーションを行い、空手をアピール。その間、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げ7戦全勝。その後も度々世界各国を歴訪し、演武と指導を行い、空手を世界に広める。
1964年、国際空手道連盟 極真会館設立。1969年には『直接打撃制(フルコンタクト)』を提唱し、第1回全日本空手道選手権大会を開催。1975年には通称『カラテオリンピック』と呼ばれる第1回全世界空手道選手権大会を開催して、全世界に極真空手ブームを巻き起こす。世界120ヵ国に公認道場を持ち、1200万人の門弟の総裁として、その生涯を極真空手に捧げた。1994年4月26日、肺癌のため急逝。享年70歳。

国際空手道連盟極真会館ホームページより

 

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【非売品】 UWA認定世界タッグチャンピオンベルト 本人使用 本物

2018年12月18日 21時07分09秒 | プロレスグッズ

UWA世界タッグ・チャンピオンベルト(アニマル・ウォリアー) 本人使用


・ドラゴマニア・アレナメヒコ大会(パートナーはパワー・ウォリアー)こちらは、ドラゴマニアで王座決定戦が行われた後に主催者のウルティモ校長から某有名プロレスショップ
オーナーが譲り受けたベルトになります。

08年5月11日、アレナ・メヒコでの闘龍門自主興行「ドラゴマニア3」でUWA世界タッグ王座決定戦に出場。

パワー・ウォリアーと組んでテリブレ、ダミアン666組と対戦。

1分50秒、ダブルインパクトでテリブルからフォールを取りUWA世界タッグ王座を獲得。

 

メーカー不明

全長約1,200mm。

重量約2.8kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

ユニバーサル・レスリング・アソシエーション

ユニバーサル・レスリング・アソシエーションUniversal Wrestling Association)は、メキシコプロレス団体。略称はUWA。UWAはタイトル管理団体の総称でありメキシコではルチャ・リブレ・インターナショナルLucha Libre Internaciónal)と呼ばれることが多い。略称はLLI

歴史

1975年1月、EMLLを退団したレイ・メンドーサフランシスコ・フローレスベンジャミン・モーラらが設立。ナウカルパンエル・トレオを拠点としていた1月29日パラシオ・デ・ロス・デポルテスで旗揚げ戦を開催。

日本では新日本プロレスユニバーサル・プロレスリング全日本女子プロレスジャパン女子プロレスアメリカではWWFと業務提携を結んで多くの選手を送り込んだり、日本とアメリカの選手が参戦していた。

旗揚げ当初はEMLLから人気選手のドクトル・ワグナーアニバルらを大量に引き抜いて一時は大人気を誇っていた。しかし、EMLLから引き抜いた人気選手達がトップに君臨し続けたことにより、世代交代が充分に行うことが出来なかった。その後、メキシコで禁止されていたルチャリブレのテレビ中継が解禁された際に、その流れに乗ることが出来ず、EMLLに大きく遅れをとることになってしまう

1992年、エンターテイメント中心のAAAが旗揚げされると、さらに人気が低迷する

1994年、社運をかけてAAAと団体対抗戦を企画するも常設会場のエル・トレオのオーナーの急逝後に常設会場の賃貸問題で面倒なことが起こるようになる

1995年、ほぼすべての所属選手がAAAに移籍する大事件が起こり、一気に弱小団体になってしまう。トレオを撤退して規模の小さいアレナ・ネッサワルコヨを新たに常設会場を置いて活動を続けていた。

1997年、代表のカルロス・マイネスの誘拐事件が起こり、身の代金を工面するためにアレナ・ネッサワルコヨを売却する。常設会場を失ったことで約22年の歴史に幕を下ろした

UWAの王座は日本とメキシコで定着しており、UWAの名前はタイトル管理組織として形式的に存在している。

2015年、復活へ向け検討に入っていることが明らかにされた

2018年2月28日、UWAの再興が正式に発表され、新日本プロレス・WWFで会長を務めた、現リアルジャパンプロレス会長の新間寿が新生UWA会長に就任。

UWA世界タッグ王座

UWA世界タッグ王座は、UWAが管理していた王座である。

歴史

1982年、メキシコLLIが創設。

1984年、空位となるが1991年に再開。

日本ではユニバーサル・プロレスリングみちのくプロレスでタイトルマッチが行われていた。

1995年、LLI解散後も王座のみ存続するものの、2000年にビジャノスが防衛戦を行わないため連邦区タッグ王者のロス・ラヨス・タパティオスがUWA世界タッグ王座を主張。その後、同王座を奪取した東京愚連隊、ブエロ・エスペシャル&エル・エンデイボール組も主張するがビジャノスは2004年、防衛戦を再開。

2008年5月11日、メキシコシティでヘル・ウォリアーズ(アニマル&パワー)がダミアン666&テリブル組を破り元UWA役員から王座を認定されているが正式なUWA世界タッグ王座とされず防衛戦も行われなかった。

ビジャノスの返上後に東京愚連隊が保持していた連邦区タッグ王座をUWA世界タッグ王座に認定。その後、プロレスリングElDorado管理下に置かれていた。ElDorado解散後は紅白プロレス合戦管理下に置かれていた。

2014年2月5日、紅白プロレス合戦新宿FACE大会で開催されたファイナル興行でヤス・ウラノ&HIROKI組が獲得したが異なる団体を主戦場としているため以降の防衛戦などは未定とされていた。3月23日、ユニオンプロレスラゾーナ川崎プラザソル大会にHIROKIが参戦した際に福田洋&MEN'Sテイオー組が挑戦を表明して4月27日、ユニオンプロレスラジアントホール大会で防衛戦が組まれることになった。以降は、それまでタッグ王座のなかったユニオンプロレス管理下に置かれていた。

2015年6月、バラモン兄弟に流出後に10月4日を最後にユニオンプロレスが解散。2016年、バラモン兄弟は主戦場にしている、みちのくプロレス後楽園ホール大会で東北タッグ王者日高郁人&藤田ミノルとダブルタイトルマッチが行われて勝利した日高&藤田組によって王座統一されて、みちのくプロレス管理下に置かれている。

歴代王者

歴代 レスラー 戴冠回数 防衛回数 獲得日付 獲得した場所
(対戦相手・その他)
初代 長州力&グラン浜田 1 不明 1982年8月1日 メキシコ
※ 1984年に返上
第2代 ロス・ブラソス(ブラソ・デ・オロ&ブラソ・デ・プラタ 1 不明 1991年3月10日 東京
第3代 グラン浜田&ペロ・アグアヨ 1 不明 1991年6月13日 東京
第4代 グラン浜田&ケンドー 1 不明 1992年1月19日 東京
第5代 ロス・カウボーイズ(シルバー・キング&エル・テハノ 1 不明 1992年1月19日 東京
第6代 カンナム・エクスプレスダン・クロファット&ダグ・ファーナス 1 不明 1992年6月28日 ナウカルパン
第7代 ロス・ビジャノス(ビジャノ4号&ビジャノ5号 1 不明 1992年11月8日 ナウカルパン
第8代 エミリオ・チャレス・ジュニア&スコルピオ・ジュニア 1 不明 2004年4月7日 アカプルコ
第9代 ロス・ビジャノス(ビジャノ4号&ビジャノ5号) 2 不明 2004年4月14日 アカプルコ
第10代 東京愚連隊NOSAWA論外&MAZADA 1 0 2008年 2006年に獲得した連邦区タッグ王座を認定
※ 管理団体がプロレスリングElDoradoに移る
第11代 KAGETORA&飯伏幸太 1 0 2008年3月26日 新宿FACE
第12代 SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ 1 0 2008年11月25日 東京
第13代 バラモン兄弟バラモン・シュウ&バラモン・ケイ 1 2 2008年12月3日 東京
※ 管理団体がプロレスリングElDoradoから紅白プロレス合戦に移る
第14代 SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ) 2 0 2010年4月14日 新木場1stRING
第15代 藤田ミノル&政宗 1 2 2010年12月22日 新木場1stRING
第16代 SOS(ヘラクレス千賀&ツトム・オースギ) 3 1 2011年12月1日 新木場1stRING
第17代 ヤス・ウラノ&HIROKI 1 2 2014年2月5日 新宿FACE
※ 管理団体が紅白プロレス合戦からユニオンプロレスに移る
第18代 MEN'Sテイオー&福田洋 1 2 2014年4月27日 ラジアントホール
第19代 木高イサミ&FUMA 1 3 2014年8月31日 新宿FACE
第20代 石川修司&柴田正人 1 0 2015年1月24日 ラジアントホール
第21代 バラモン兄弟(バラモン・シュウ&バラモン・ケイ) 2 0 2015年6月17日 新木場1stRING
※ ユニオンプロレスが解散
※ 管理団体が、みちのくプロレスに移る
第22代 スカル&ボーンズ(日高郁人&藤田ミノル) 1 2 2016年6月10日 後楽園ホール
東北タッグ王座と統一
第23代 SUPER STARS(日向寺塁&郡司歩 1 1 2017年9月16日 矢巾町民総合体育館
第24代 GAINA&のはしたろう 1 3 2018年3月18日 仙台ヒルズホテルみちのくホール
第25代 BAD BOYKen45°&拳剛 1 2 2018年11月24日 仙台ヒルズホテルみちのくホール
第26代 GAINA&のはしたろう 2 0 2019年5月6日 矢巾町民総合体育館
第27代 スカル&ボーンズ(日高郁人&藤田ミノル) 2 1 2019年6月14日 後楽園ホール
第28代 ヤッペーマン1号&ヤッペーマン2号 1 2 2019年10月19日 新木場1stRING
第29代 ザ・グレート・サスケ&新崎人生 1   2021年5月4日 矢巾町民総合体育館

Wikipediaより

 

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【非売品】 ディヴ・ミリガン製 WWWFヘビー級チャンピオンベルト(ボブ・バックランドモデル)レプリカ

2018年12月18日 21時07分08秒 | プロレスグッズ

ディヴ・ミリガン製。

全長約1,300mm。

重量約5.6kg。

ストラップ本革。

収納袋無。

刻印無。

 

WWE・世界王座

WWE王座(The WWE Championship) は、アメリカ合衆国プロレス団体WWEにおける王座の一つである。王座を巡る抗争は番組のメインストーリーとして扱われている。

歴史

王座創設はWWEの前身であるWWWF設立前の1963年1月25日とされる。初代王者はリオデジャネイロでのトーナメントを勝ち抜いたバディ・ロジャースで、決勝の相手はアントニオ・ロッカとされている。もっとも、このトーナメントは実際には行われていない(なお、この前日の24日にはトロントでロジャーズ対ルー・テーズNWA世界ヘビー級王座戦が行われ、ロジャースが王座転落)。その数か月後、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてブルーノ・サンマルチノがロジャースを圧倒的な試合展開で下し、以後約8年間の長きに渡り王座を保持した。

1971年よりプエルトリカンペドロ・モラレスが新王者となり、イタリア移民のサンマルチノに続くニューヨークのマイノリティのヒーローとして活躍。以後、ショーマン派のスーパースター・ビリー・グラハムやアスリート系のボブ・バックランドが戴冠した。1979年には日本でアントニオ猪木が王座を獲得したが、日本での王座移動の経緯はアメリカのファンに説明されなかった[1]。そのため、猪木の戴冠についてはWWEが認めている時期と認めていない時期があり、公式的には猪木は歴代王者にカウントされていない。しかし2010年の猪木のWWE殿堂入りを機に再び認められる可能性もある。

ビンス・マクマホン・シニアが死去し、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFの全米侵攻がスタートした1984年からは、ハルク・ホーガンを主軸とした王座争いに移行。ランディ・サベージアルティメット・ウォリアーなども王者となり、WWFのファミリー・エンターテインメント路線を牽引した。ホーガンがWCWに移籍した1993年以降は、ニュー・ジェネレーション路線としてブレット・ハートショーン・マイケルズが王座戦線の主役となった。

1997年、WWFは視聴率争いで一歩リードされていたWCWに対抗するために、これまでのプロレスの常識を覆すソープオペラ調のストーリー、アティテュード路線に切り替える。以降、ストーン・コールド・スティーブ・オースチンザ・ロックトリプルHらを中心とした王座争いがドラマ仕立てで展開され、WWFの会長であるビンス・マクマホンまでもが王者になるということもあった。

2001年12月9日に開催されたヴェンジェンスではWWF王座とWCW王座を統一したWWF統一王座が新設され、クリス・ジェリコ、ザ・ロック、ストーン・コールド・スティーブ・オースチン、カート・アングルの4名によるトーナメントの結果、クリス・ジェリコが初代統一王座を戴冠した。今なおジェリコは「一夜でロックとオースチンを倒した唯一の男」と喧伝されている。

2002年8月25日に開催されたサマースラムでの統一王座戦ザ・ロックvsブロック・レスナーでレスナーがロックに勝利し王座を奪取。当時統一王者はRAW、SmackDown!両方の番組に出ることが可能であったが、レスナーはSmackDown!専属となり名称もWWE王座と改称される。以降はSmackDown!が王座を管轄し、RAWには世界ヘビー級王座が新設され、WWE王座と同等の扱いの王座となった。

2005年4月3日に開催されたWresleMania 21ジョン・シナJBLから王座を奪取し、6月のドラフトで王座を持ったままRAWに移籍。

2008年開催のドラフトでは、トリプルHが王座を持ったままSmackDown!へと移籍。 翌2009年開催のドラフトでも、トリプルHが王座を保持したままRAWへと移籍。

2013年TLC戦で、ランディ・オートンが、ジョン・シナとの王座統一戦で制し、名称もWWE・世界ヘビー級王座と改称される。これにより、11年間同じ最高位の王座としてあった世界ヘビー級王座は廃止されることになった。

また、名称はWWWF世界ヘビー級王座、WWWFヘビー級王座、WWFヘビー級王座、WWF世界ヘビー級王座、WWF王座、WWF統一王座、WWE統一王座、WWE世界ヘビー級王座、WWE世界王座などを辿って現在の名称となった。

歴代最多戴冠はジョン・シナの13回(2017年1月29日戴冠時)。

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 IWGP USヘビー級チャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分06秒 | プロレスグッズ

海外製。

全長約1,260mm。

重量約2.6kg。

ストラップ本皮。

収納袋無。

刻印無。

 

IWGP USヘビー級王座

IWGP USヘビー級王座(IWGP USヘビーきゅうおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定していた王座。

概要

2017年5月12日、新日本プロレスROHの共催興行、WAR OF THE WORLDSツアーのハマースタイン・ボールルーム大会にて、新日本会長の菅林直樹より、本王座の新設が発表された

同王座は、7月1日と2日の両日に渡ってアメリカのロングビーチ・コンベンション・アンド・エンターテイメント・センターにて行われる、G1 Special in USAの開催を期に設立されたものであり、同大会の目玉のひとつとして取り上げられた

6月12日、初代王座決定トーナメントとして全8選手が参加を表明し、初日に1回戦が4試合、2日目は準決勝2試合、決勝が実現。結果としてトーナメントを制したケニー・オメガが初代王者として認定された

「US」の名を冠しているが、カナダのケニー・オメガやニュージーランドジェイ・ホワイトイギリスウィル・オスプレイといったアメリカ合衆国出身ではない選手も戴冠している。日本人選手では、棚橋弘至が初の戴冠となったほか、KENTASANADAも戴冠している。また、戴冠していない日本人選手では、初代王座決定トーナメントに内藤哲也石井智宏が出場(石井が王座決定戦となる決勝戦に進出)。初代王者ケニー・オメガにYOSHI-HASHIが、第8代王者ジョン・モクスリー鈴木みのる永田裕志が、第16代王者ウィル・オスプレイに海野翔太が、第18代王者ウィル・オスプレイに辻陽太、海野翔太が挑戦したことがある。

2023年に2度目の戴冠を果たした第18代王者のオスプレイは8月12日、イギリス人の自分が他国の王座を持つことを拒絶し、IWGP USヘビー級王座のベルトを放り投げた。代わりに中央にユニオンジャックを配し、「UNITED KINGDOM CHAMPION」の文字が刻まれた新しいデザインのベルトを披露、「IWGP UKヘビー級王者」を自称するようになった。オスプレイは過去にRPWアンディスピューテッド・ブリティッシュ・ヘビー級王座を「IWGPブリティッシュ」の王座とする、「IWGPの英国王座」の構想を立てたことがあるが、違う形で実現することになった。実際にこのベルトを懸けて選手権試合が行なわれ、新日本プロレスが「IWGP US(UK)ヘビー級王座」と表記していることから、「IWGP UKヘビー級王座」のベルトは、IWGP実行委員会から正式に認められたものとみられる。10月14日(日本時間15日)にはザック・セイバーJr.と、ロンドンの地でイギリス人同士の「IWGP UKヘビー級選手権試合」が実現している

同年11月4日、大阪大会のメインイベント後にデビッド・フィンレーが、海野翔太を下し防衛を果たした王者オスプレイと海野のセコンドに付いていて挑戦をアピールしていたモクスリーの2人をシレイリで襲撃し、外道が持ち込んだハンマーによってIWGP USヘビー級王座、IWGP UKヘビー級王座2つのベルトを破壊し挑戦をアピールすると共に新ベルトの作成を要望した。なお破壊されたベルトはバックルの部分等が取れた状態となった。

11月6日、新日本プロレスは同月4日大阪大会で起きたことを受け、2024年1月4日ベルクpresents WRESTLE KINGDOM 18 in 東京ドーム」にてオスプレイ、フィンレー、モクスリーの3WAYマッチを行う事を発表、それと共に破壊された2つのベルトに代わる新王座の創設も発表した。12月11日に行われた記者会見でIWGP GLOBALヘビー級王座の創設が正式に発表され、IWGP USヘビー級王座は現役の王座としての役目を終えることになった。これにより、WRESTLE KINGDOM 18における3WAYマッチはIWGP GLOBALヘビー級王座の初代王座決定戦への変更が発表された

Wikipediaより

 

 

 

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【非売品】 2代目IWGPインターコンチネンタルチャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分06秒 | プロレスグッズ

海外製。

全長約1,300mm。

重量約2.8kg。

ストラップ本皮。

収納袋無。

刻印無。

 

IWGPインターコンチネンタル王座

IWGPインターコンチネンタル王座(IWGPインターコンチネンタルおうざ)は、新日本プロレスが管理、認定していた王座。

概要

2011年1月、新日本プロレスが自社主催によるアメリカ興行を5月に行うことを発表。併せて、IWGPインターコンチネンタル王座の設立と、アメリカ興行での同初代王座決定戦開催を発表。アメリカを始めとする海外マットにおいての、IWGPヘビー級王座への登龍門というのが、設立に際しての位置付けである

黎明期

初代王座決定戦は、海外及び中堅の選手を中心とした8人エントリーのトーナメントで、2011年5月13日(現地時間)から5月15日までアメリカで開催された

出場者はMVP矢野通高橋裕二郎内藤哲也オカダ・カズチカダン・マフ英語版ジョシュ・ダニエルズ[6]ヒデオ・サイトー。トーナメント決勝でMVPが矢野を破り初代王座を獲得。

中邑真輔時代

2012年7月12日、山形大会にて中邑真輔が3代目王者の後藤洋央紀を倒し4代目王者に君臨する。中邑は本王座のベルトのデザインを酷評し、新日本プロレスに対してベルトの作り直しを要求した(後述)。中邑は新たなベルトと共に王座の防衛を重ねていき、本王座は中邑のイメージが定着していった。2013年から2015年までの東京ドーム大会では本王座のタイトルマッチがIWGPヘビー級王座と共に「ダブルメインイベント」に設定され、特に2014年はIWGPヘビー級王座戦を退けて本王座が最終試合に設定された。その後も本王座は中邑を中心として王座戦線が組まれていき、中邑のイメージがより定着していった。

2016年以降

2016年1月に中邑真輔が新日本プロレスを退団すると共に王座が返上され、空位となった。中邑退団後の王座戦線には棚橋弘至ケニー・オメガが名乗りを上げ、長岡(新潟)大会にて本王座はオメガの手に渡る。その後の防衛戦は、オメガが得意とするハードコアの要素を取り入れた試合が行われた。6月の大阪城ホール大会では新日本プロレスでは初となるラダー・マッチで試合が行われた。この試合でオメガは王座から陥落している。

その後、2016年下半期から2017年上半期までは第15代王者の内藤哲也を中心とした王座戦線が行われるが、内藤は本王座の価値を否定し、「俺はこのベルトが欲しいなんて一言も言っていない」、「このベルトよりも自分自身の方に価値があり、ベルトが勝手に自分に付いてくる」という趣旨の発言を一貫して行った。これに伴って内藤は本王座のベルトを粗末に扱い、リング上でベルトを投げ捨て、試合後にベルトを持ち帰らずに置き去りにするといった行為を繰り返した。2017年4月以降は、この行為がエスカレートしていき、ベルトを足蹴にしながら入場する、ベルトをリング隅の鉄柱に投げつけてバックル部分を破損させるなどといった暴挙にまで出るが、2017年6月の大阪城ホール大会にて棚橋弘至が内藤から王座を奪取したことで内藤による本王座戦線は終結した。その一方で、2017年に新たに同趣旨のIWGP USヘビー級王座が創設された。

内藤哲也と二冠王者

2018年1月27日、棚橋は鈴木みのるとの防衛戦に敗れ、王座陥落。その後、王者鈴木と内藤の抗争が始まり、4月29日熊本大会でタイトルマッチが決定した。30分22秒の死闘を内藤が制し、約10ヶ月ぶり2度目の戴冠を果たした。2度目の戴冠を果たすも内藤は、「やはり、このベルトは必要のないベルト、必要のない王座だという気持ちは変わりありませんよ」と、王座に対する思いは昨年と変わらないと語った。その後、クリス・ジェリコにベルトを奪われるも、2019年1月4日の東京ドーム大会で取り返した。3度目の戴冠を果たした内藤は「IWGPヘビー級王座と同時に保持する」という目標を立て、インターコンチネンタル王座を必要のないベルトから「同時保持に必要なベルト」と位置付けた。4月に飯伏幸太に敗れ王座陥落するも、6月に4度目の王座戴冠を果たし、IWGPインターコンチネンタル王者としてG1 CLIMAXにエントリーした。王者としての優勝はできなかったが、優勝者の飯伏幸太が「1月4日にヘビー級王座を獲り、5日にインターコンチネンタル王座に挑戦したい」とダブルタイトルマッチを提案する。この発言によって内藤にも同時保持すなわちニ冠王者になるチャンスが訪れた。だが、内藤の優勝を拒んだジェイ・ホワイトも二冠を狙い、さらには9月の神戸大会でジェイは内藤に勝利し王座戴冠。内藤は無冠となってしまうも、11月大阪大会でジェイにリマッチを要求。さらに後日、1月5日に「IWGPヘビー級&IWGPインターコンチネンタル ダブル選手権試合」が行われることが発表された。そして2020年1月4日、内藤はジェイに勝利し、中邑真輔に並ぶ5度目の戴冠を果たす。さらに翌5日のダブル選手権試合にも勝利し、史上初の「IWGPヘビー級&IWGPインターコンチネンタル 二冠王者」となった

IWGPヘビー級王座と王座統一

2021年3月1日、菅林直樹会長よりIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座を統一し、IWGP世界ヘビー級王座を新たに創立することが発表され、3月4日のダブル選手権試合に勝利した飯伏幸太が初代IWGP世界ヘビー級王者に認定された。IWGP世界ヘビー級王座創立時はまだベルトが完成しておらず、初代王者の飯伏は二冠王者時代と同様にIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座の両ベルトを引き続き保持していたが、のちにベルトが完成し、3月30日の贈呈式でIWGPヘビー級王座とIWGPインターコンチネンタル王座の両ベルトが新日本プロレスに返還された

Wikipediaより

 

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【非売品】 4代目IWGPヘビー級チャンピオンベルト 公式レプリカ

2018年12月18日 21時07分05秒 | プロレスグッズ

新日本プロレス 4代目IWGPヘビー級王座 レプリカベルト 

商品詳細

商品名
新日本プロレス 4代目IWGPヘビー級王座 レプリカベルト
メーカー
ジュウロクホウイ
仕様
● 素材:ダイキャストパーツ:亜鉛合金、ホック:鉄、小さい丸パーツの黒い樹脂:エポキシ樹脂、ラインストーン:アクリル、ベルト:牛床革(PU加工)、刺繍入りカバー:ポリエステル
● ベルトサイズ:約132cm前後
●重量:約3kg

 

IWGP

IWGPInternational Wrestling Grand Prix、インターナショナル・レスリング・グラン・プリ、国際レスリング大賞)は、かつて新日本プロレスが開催したIWGPリーグ戦の名称及び同団体が管理するチャンピオンベルトの名称。

概要

IWGPはプロレス界における世界最強の男を決めるという考えの下にアントニオ猪木が提唱したものである。各地域や各々の団体にチャンピオンベルトがある事で真のチャンピオンを決めるべき姿を確立する為の目的で当初の計画では日本で開幕戦を行い、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦して決勝戦をニューヨークで行う予定だったが計画が壮大すぎたことに加え、「プロレス界における世界最強の男を決める」と言うプランから、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、紆余曲折の末1983年5月6日に蔵前国技館で第1回「IWGPリーグ戦」を開催。第1回「IWGPリーグ戦」決勝のハルク・ホーガン対アントニオ猪木戦におけるハルク・ホーガンのアックスボンバーによるアントニオ猪木の失神KOシーンが有名。第2回「IWGPリーグ戦」でも両者は決勝で戦ったが長州力の乱入によるリングアウトでアントニオ猪木が勝利。

IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー王座が創立され、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日、第5回「IWGPリーグ戦」を制したアントニオ猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降IWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。

IWGP構想

新日本プロレスの旗揚げ当時、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWAの世界王者も招聘することはできないし、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本プロレスにとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日本プロレスは崩壊するまで、NWAの加盟団体であった。NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、ビンス・マクマホンとマイク・ラベールであった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案。こうした経緯もあって新日本は1980年にNWA加盟が認められた。しかしNWAでは実務的な話しかされず、さらにチャンピオンを招聘してタイトルマッチができるのは既存のプロモーターだけという条件も付けられていた。何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGPの構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た

IWGP選手権ルール

  • 試合時間は60分1本勝負。
  • 試合の決着はフォール、ギブアップ、KO、リングアウト、レフェリーストップ、ドクターストップ、反則、ノーコンテストで決まる。いずれの場合も挑戦者が勝利した場合は王座が移動する。
  • 時間切れは引き分け。ただし両者リングアウトは適用せず、試合時間内であれば何度でも再試合とする。
  • 王座保持者は原則としてタイトル獲得後6ヶ月以内に防衛戦を行わなければならない。
  • いずれも対戦者同士の合意があればルールを変更することができる。

IWGP王座

1983年から1987年のIWGPリーグ戦を経て現在の新日本プロレスが認定するIWGP王座は以下の通り。

NEVER王座
封印された王座

 

IWGPヘビー級王座

IWGPヘビー級王座は、日本プロレス団体である新日本プロレスが管理する王座(タイトル)。

 

IWGPは元々は、「International Wrestling Grand Prix」というリーグ戦を意味するものであったが、1987年に開催された第5回「IWGP王座決定リーグ戦」の優勝者であるアントニオ猪木を初代チャンピオンとして防衛戦が行われ、現在まで継承されている。

 

タイトル制定以降、新日本プロレスを象徴する同団体で最も権威のあるチャンピオンベルトとされている。デザインは初代から4代目まであり、初代は1983年の第1回IWGPリーグ戦開催にあたって作成され優勝したハルク・ホーガンが初めて巻き、1997年まで使用されたが、旗揚げ25周年を迎えて一新された。

 

2001年PRIDEのリング上でアントニオ猪木から初代ベルト王者として指名を受けた藤田和之と、2代目のベルトを継承していた第28代王者スコット・ノートンとの間で4月9日大阪ドームで「IWGP新旧ベルト統一戦」が行われ、この一戦に勝利した藤田が2本のベルトを獲得したが、年末に練習中に右アキレス腱を断裂。2002年1月4日、防衛戦が出来ずに2本のベルトを猪木に返上。

 

その後、2代目のベルトを使用していたが、2005年7月11日、通算最多防衛記録を持つ橋本真也が逝去。天山広吉に勝利して再び王者となった藤田が、橋本の功績を称え、橋本家に2代目ベルトを贈呈することになり、新デザインを作成。9月30日にサイモン・ケリー猪木新社長就任披露パーティーにて米国で制作された3代目のベルトが藤田に授与された。10月9日東京ドームブロック・レスナーが獲得。その後、剥奪することになったが返還されることなく、新王者となった棚橋弘至が2代目ベルトを代用。

 

3代目ベルトはその後、IGF旗揚げ興行で新日本とは無関係に行われた防衛戦でレスナーを下したカート・アングルに渡ったが、2008年に第48代王者の中邑真輔がカートとのベルト統一戦に勝利して奪還に成功。3月2日、プロレスリングZERO1-MAX後楽園ホールのリングに上がり、佐藤耕平に勝利。試合後、橋本家に2代目ベルトを贈呈。その後イメージ刷新のため現行の4代目ベルトが制作された。

 

新日本プロレスリング認定の「プロレスリング競技者規約 IWGP各選手権ルール」第2条第1項によって体重100kg以上の選手を対象としている。しかし、2007年2月18日に棚橋弘至の持つ王座に金本浩二が挑戦したほか、現在も体重が100kgに満たない選手の挑戦があるため事実上体重の制限はなくなったと考えられる。

Wikipediaより

 

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【非売品】 初代IWGPヘビー級チャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分05秒 | プロレスグッズ

海外製。

全長約1,310mm。

重量約2.2kg。

ストラップ本皮。

収納袋無。

 

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【非売品】 NWA認定インターナショナル・ヘビー級チャンピオンベルト 公式レプリカ

2018年12月18日 21時07分04秒 | プロレスグッズ

メーカー名 ジュウロクホウイ

仕様

■素材

ベルト部分:牛床革

ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)

ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後

インターナショナル・ヘビー級王座

インターナショナル・ヘビー級王座(インターナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、その後全日本プロレスに管理権が移ったフラッグシップタイトルである。日本プロレス界で現存するタイトルとしては最古の歴史を持つ王座の一つであり「日本マット界の至宝」とも言われるほど権威も高い。

現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。

力道山の時代

この王座は、NWA本部が1958年6月に日本を始め世界各国で積極的にNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行って防衛を続けたルー・テーズの実績を認めて、NWA世界ヘビー級王座とは別に、新たにルー・テーズを初代のインターナショナル・ヘビー級王者として認定したことによって始まったものである。このインターナショナル・ヘビー級王座が1958年8月27日、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトルマッチで力道山がルー・テーズに勝利(反則勝ち)し、力道山はこの勝利を理由に王者の資格があると主張する。テーズはその後も世界王座を奪回するまで、王者として活動している。後にルー·テーズより王者を名乗る事を認められたと推察される。(なお、この王座には専用のチャンピオン・ベルトは存在せず、帰国後に力道山が作成した。2度目に製作されたものが、ジャイアント馬場が1972年に全日本プロレスを旗揚げした時に力道山家から寄贈され、世界ヘビー級王座、後のPWFヘビー級王座のチャンピオン・ベルトとなる)。これ以後、日本に定着することになる。

インターナショナル・ヘビー級王座が力道山に移ってからは日本プロレスの至宝として東京・大阪などの大会場でタイトルマッチが行われ、力道山はドン・レオ・ジョナサンエンリケ・トーレスミスター・アトミックサニー・マイヤースプリンス・イヤウケアミスターXゼブラ・キッドジェス・オルテガパット・オコーナーバディ・オースチンザ・デストロイヤーなどといった強豪レスラーと名勝負を繰り広げ、またグレート・アントニオヘイスタック・カルホーンムース・ショーラックなどの異能派レスラーとも王座を賭けて戦うなど、インター王座は力道山の代名詞となっていく。力道山は一度もこの王座を明け渡すことなく、19回連続防衛(ただし反則負け防衛が1回ある)を果たした。

しかし力道山は1963年12月4日にザ・デストロイヤーを相手に19回目の王座防衛を果たした後、兇刃に斃れて12月15日に急逝。その後、日本プロレスはインターナショナル・ヘビー級王座について、『力道山一代限りのもの』として封印を決める。

ジャイアント馬場の時代

ジャイアント馬場が凱旋帰国しスケールの大きなレスリングで爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という声が起こり、日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除、「NWA認可、日本プロレスリング・コミッション認定」のタイトルとして復活させる。ただしチャンピオンベルトは力道山が使用したものを使わず、それとは全く別にベルトを新調した。

1965年11月24日、王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破った馬場が第3代王者に就く。馬場は途中ボボ・ブラジルジン・キニスキーに王座を明け渡したものの、1972年9月に日本プロレス脱退・全日本プロレス創立に伴い王座を返上するまで、タイトルを保持した。この間テーズ、キニスキー、デストロイヤー、フリッツ・フォン・エリックキラー・カール・コックスゴリラ・モンスーンブルーノ・サンマルチノターザン・タイラークラッシャー・リソワスキーウイルバー・スナイダーフレッド・ブラッシーアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シークドリー・ファンク・ジュニアザ・ストンパースパイロス・アリオンイワン・コロフクリス・マルコフテリー・ファンクブルドッグ・ブラワージョニー・バレンタインらの強豪を退け、インターナショナル王座の価値はますます高いものとなった。キニスキーやドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級王者として来日した際にも、日本プロレスとNWA双方の「日本にはインター王者がいるから」という意向で馬場が挑戦するNWA戦ではなくNWA王者が馬場に挑戦するインター戦が行われたことがあった(もっとも、馬場本人はNWA戦を望んでいたという)。

大木金太郎の時代

馬場の王座返上後の1972年12月、大木金太郎とボボ・ブラジルの間で新王者決定戦が行われ(「頭突き世界一決定戦」とも称された)、ブラジルが初戦に勝ち王座復帰、第2戦で大木が勝って念願のインターナショナル王座のベルトを腰に巻いた。以降、大木はビリー・レッド・ライオンとフリッツ・フォン・エリックを相手に防衛戦を行ったが、アントニオ猪木とジャイアント馬場が抜けた後の日本プロレスは観客動員が格段に落ち、程なくして経営不振になり自前の興行を行えなくなった後、団体としての活動を停止した。それに伴い、インターナショナル・ヘビー級王座は認定コミッション消滅により宙に浮いた状態となったが、チャンピオンベルトそのものは大木が所持し、地元韓国にてスーパー・デストロイヤーマリオ・ミラノ、ザ・デストロイヤー、サムソン・クツワダサンダー杉山、アブドーラ・ザ・ブッチャー、高千穂明久、ドン・レオ・ジョナサン、稲妻二郎キラー・トーア・カマタキング・イヤウケアブル・ラモス、フレッド・ブラッシー、ジョニー・ロンドスチーフ・フランク・ヒルなどと防衛戦を行った。大木が新日本プロレスに参戦していた当時の1975年3月27日には、ソウルでアントニオ猪木の挑戦も一度受けている。これは猪木唯一のインター戦となった。1980年に大木が国際プロレスに入団してからは、ジョー・ルダックジプシー・ジョービル・ドロモ上田馬之助を相手に日本でも防衛戦が行われた

全日本プロレス1981年4月13日、NWA本部からの勧告という形で大木に王座を返上させ復活トーナメント(9人参加)を開催し、以降は全日本プロレスのタイトルとして定着する(大木は馬場の推薦で韓国のプロモーターとしてNWAに加盟しており、「NWA非加盟の国際プロレスでインター戦を行ったのはNWA会員として問題」という趣旨の勧告であった。なお、全日本プロレスは交換条件として馬場が大木から奪取して封印していたアジアヘビー級王座を大木に渡している)。

王座の復活

全日本プロレスマットで復活したインターナショナル・ヘビー級王座のトーナメント決勝は1981年4月30日の松戸市運動公園体育館で行われる予定だったが、準決勝の馬場戦で勝利するも右足首を捻挫したブルーザー・ブロディが決勝戦を棄権したため、ドリー・ファンク・ジュニアが自動的に王者となった。同日はトーナメント参加者によるくじ引きでドリーへの挑戦者を決めたが、弟のテリー・ファンクが当たりくじを引いて最初で最後の兄弟対決が実現し、54分ジャストにエビ固めでドリーが初防衛に成功している。

1981年10月9日、ブロディがドリーを破って王座を奪取。一旦はドリーに王座を奪回されるものの、1982年4月21日、再びドリーを破り王座の再奪取に成功(その間、ドリーは当時のアメリカでの主戦場だったNWAフロリダ地区にて、ジャック・ブリスコマイク・グラハムブッチ・リードブライアン・ブレアーミスター・レスリング2号スウィート・ブラウン・シュガーなどを挑戦者に防衛戦を行っている)。

同年8月プエルトリコサンフアンで行われたNWA総会において「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つのインターの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理及び運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされPWFヘビー級王座と共に全日を象徴するシングルタイトルとなる。ブロディは再奪取以降通算1年4ヶ月、10回連続防衛という、外国人レスラーとしてはまれに見る長期政権を樹立する。

そのブロディを1983年8月31日に破り新王者となったのがジャンボ鶴田で、王座奪取後のロッカールームで馬場から「今日からお前がエースだ」と祝福されたのは有名な話である。

鶴田時代は初奪取となった第14代王者として17回連続防衛、途中スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディに短期間奪われたものの5年7か月に渡って王座を維持した。その間、ニック・ボックウィンクルハーリー・レイスビル・ロビンソンテリー・ゴディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーらの挑戦を退けたほか、1986年3月29日にはハンセンのAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両選手権との日本初のトリプル・タイトルマッチが実現した。1988年頃から天龍源一郎の呼びかけで三冠統一の機運が盛り上がり、PWF王座・UN王座とのトリプル・タイトルマッチが多くなった。インターヘビー単独のタイトルマッチが最後に行われたのは、1988年9月9日、鶴田がブッチャーの挑戦を受けて防衛した試合である。

1989年4月18日、ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破って本王座・PWF王座・UN王座の三冠王者となってからは、三冠ヘビー級王座として統合された。

Wikipediaより

 

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【非売品】 NWA認定インターナショナルタッグチャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分03秒 | プロレスグッズ

海外製

全長約1,320mm。

重量約3.5kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

インターナショナル・タッグ王座

インターナショナル・タッグ王座(エヌダブリューエーインターナショナル・タッグおうざ)は、かつて日本プロレスWWAに働きかけてアメリカで設立。後に全日本プロレスに管理権が移りPWF認定のタイトルとなった。現在は世界タッグ王座を構成する2本のベルトのうちの一つである。長期間NWAの認可だった事もあり、日本以外ではNWAインターナショナル・タッグ王座と呼称される。

概要

フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが、1966年9月の日本プロレス参戦前に王者チームとして認定された。初代王者チームはアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンファビュラス・カンガルーズで、ゲーリング&パドーシスは第6代王者とされるが、ゲーリング組が来日するまでの変遷はフィクションと見られている

G SPIRITS vol59によると、インタータッグのベルトは鷲の大きさや鷲の羽根の開き方など多少の違いはあるものの、基本デザインとベースはインターシングルやアメリカスヘビー級王座ベルトとほとんど一緒となっており、これはカップやトロフィー、メダルなどを製造する元浅草の老舗松本微章工業株式会社の作品として知られる。日本プロレスはインタータッグ王者を新設するにあたって、同社製造のシングルの黒革に青字を張ったベルトに少し似せた雰囲気の黒革のみのベルトを日本で作らせ、それをケースに入れて梱包し羽田からロスへ空輸する手続きをしたと日本プロレスで担当した三沢正和が答えている。

そのベルトをロサンゼルスで最初に巻いたのはビジランテスというタッグチーム、ジェリー&ボビーのクリスティ兄弟としており、つぎにゲーリング&パドーシス組に移動させ、こうしてしばらく泳がせてアメリカでの既製ベルトのように見せかけ箔をつけさせた。選手権の様子はロスの特派員である吉本栄が随時写真を日本に送って東京スポーツの一面を飾っていく。

南カリフォルニアを地盤とする往時のWWAは提携する日本プロレスのために、自分たちとほとんど無関係なよそ者レスラーを使って、ストーリー作りに協力していたようである。

同年11月5日にジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシスを破って王座について以来、日本を代表するタッグベルトとして幾多の名勝負を生んだ。

歴代王者には馬場&アントニオ猪木BI砲)、坂口征二(東京タワーズ)、ジャンボ鶴田(BJ砲)のコンビや、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーザ・ファンクス大木金太郎&キム・ドクタイガー・ジェット・シン&上田馬之助ロード・ウォリアーズ、鶴田&天龍源一郎鶴龍コンビ)、長州力&谷津嘉章などの名コンビが名を連ね、挑戦者チームも、フリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリック(フォン・エリック・ブラザーズ)、スカル・マーフィー&ブルート・バーナードダスティ・ローデス&ディック・マードックテキサス・アウトローズ)、キング・イヤウケア&ブル・ラモス(ザ・タイクーンズ)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディミラクルパワーコンビ)、ミル・マスカラス&ドス・カラス(マスカラス・ブラザーズ)、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディファビュラス・フリーバーズ)などプロレス史上に残るタッグチームや、ハンス・シュミット&バディ・オースチンマッドドッグ・バション&キラー・カール・コックスジン・キニスキー&ジョニー・バレンタインブルーノ・サンマルチノ&キラー・コワルスキービル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルといった即席ながら強豪外国人同士のドリーム・チームまで、幾多の名レスラー・名コンビの名前が並んでいる。大木&ドクの戴冠時には、当時の国際プロレスの最強コンビだったラッシャー木村&グレート草津も挑戦した

馬場&吉村の王座獲得から1973年4月までは日本プロレスの管理下にあったが、日本プロレス崩壊後の1973年5月から1975年2月まではファンクスがタイトルを保持し、本拠地のテキサス州アマリロや全日本プロレスにおいて防衛戦を行っていた(アマリロでは、1974年に馬場&パク・ソンザ・ブラックジャックスの挑戦を受けている)。1975年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がファンクスを破って王座を奪取、以降は全日本プロレスのフラッグシップ・タッグタイトルとなった。1982年8月30・31日にプエルトリコサンフアンで行われたNWA総会では「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理および運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、NWAから全日本プロレスに管理権を委託したことが正式に発表された。

1988年、インターナショナル・タッグ王者のウォリアーズとPWF世界タッグ王者の鶴田&谷津の間で統一戦が行われ、鶴田組が勝ったことにより両王座は世界タッグ王座として統一された。

 

Wikipediaより

 

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【非売品】 PWF認定世界ヘビー級チャンピオンベルト 公式レプリカ

2018年12月18日 21時07分03秒 | プロレスグッズ

メーカー名 ジュウロクホウイ

仕様

■素材

ベルト部分:牛床革

ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)

ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後

PWFヘビー級王座

PWFヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふ へびーきゅうおうざ)は、日本におけるプロレスの王座のひとつ。PWF全日本プロレス)が管理するヘビー級フラッグシップタイトルである。旧称は、世界ヘビー級王座(せかいへびーきゅううおうざ)、PWF認定世界ヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふにんていせかいへびーきゅうおうざ、略称:PWF世界ヘビー級王座)。

現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。

 

1972年に、力道山の死後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級選手権及びWWA世界ヘビー級選手権のベルトとして使用されていたチャンピオンベルト(通称・力道山ベルト)が、全日本プロレスを創立して間もないジャイアント馬場に寄贈された。

 

これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級選手権」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。

 

この新設王座争奪戦は、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノテリー・ファンクアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・デストロイヤーウイルバー・スナイダードン・レオ・ジョナサンパット・オコーナーボボ・ブラジルの8選手による勝ち抜き十番勝負という形で行われ、馬場が8勝2引分けという成績を収め(最初の対戦で引き分けたサンマルチノ、スナイダーには再戦で勝利)、初代世界ヘビー級選手権者となる。全日本プロレスがハワイ州ホノルルを本部とするPWF(Pacific Wrestlimg Federation)を設立し、初代会長には馬場と旧知の仲であったハワイのプロモーターのロード・ジェームス・ブレアースが就任した。

 

そして、世界ヘビー級王座をPWF認定世界ヘビー級王座と改め、馬場が自らその初代王者となった。途中1974年に、NWAの勧告により「世界」の文字を外してPWFヘビー級王座となった(NWAは傘下の各団体に「NWA世界ヘビー級王座以外の世界王座を作ったり認定したりしないこと」を求めているため)。

 

初代王者の馬場はザ・シーク、ブッチャー、オコーナー、ドリー・ファンク・ジュニアハーリー・レイスフリッツ・フォン・エリックジン・キニスキーペドロ・モラレスビル・ロビンソンプロフェッサー・タナカディック・マードックブラックジャック・マリガンクリス・マルコフディック・ザ・ブルーザーオックス・ベーカーワフー・マクダニエルキラー・カール・コックスケン・パテラなどを退けて38回連続防衛(これは今でも日本プロレス史上の最多連続防衛記録である)を果たしたほか、ジャック・ブリスコ(NWA)、ブルーノ・サンマルチノ(WWWF)、大木金太郎アジア)の各王者とのダブルタイトルマッチも行った。

 

1978年6月にキラー・トーア・カマタとの防衛戦で、カマタの反則に怒った馬場が反則でやり返して大暴走、反則負けで王座転落。それまでアメリカでも日本でも「反則やリングアウトでは王座は移動しない」となっていたのを馬場が「反則負けでも負けは負け」と反則・リングアウトでの王座移動を認めるようにしていたのだが、それが裏目に出た形となった。カマタは初防衛戦でロビンソンに敗れ、ロビンソンからブッチャーへ王座は移動、1979年2月に馬場はシカゴで王座奪回に成功する。

 

第5代王者時代の馬場は、防衛戦のペースこそ低下したもののブッチャー、ブルーザー・ブロディ、カマタ、ロビンソン、タイガー・ジェット・シンテリー・ゴディらを相手に3年8ヶ月の間防衛を続けた。この間、1981年1月には馬場のデビュー以来3000試合無欠場記録記念試合としてバーン・ガニアAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われ、1982年2月には新日本プロレスから引き抜いたスタン・ハンセンとのシングル初対決がPWF選手権試合として実現している(2試合とも東京スポーツプロレス大賞の「年間最高試合賞」を受賞)。また、グリーンズボロバロン・フォン・ラシク)、ミネアポリススーパー・デストロイヤー・マークII)、アトランタ(テリー・ゴディ)、ダラスキングコング・バンディ)などアメリカ各地で防衛戦が行われたのも馬場王者時代の大きな特徴である。

 

1982年10月に馬場はレイスに敗れて王座転落するも1983年2月セントルイスで奪還。しかし9月にはハンセンに敗れまたも王座から転落する。この頃からはレイス→馬場→ハンセン→馬場→ハンセン→長州力→ハンセン→天龍源一郎→ハンセン、と、1年前後の在位の王者が続くことになる。1989年4月18日、PWF・UN王者のハンセンがインター王者のジャンボ鶴田と統一戦を戦い、勝った鶴田が三冠統一ヘビー級王者となる。

 

Wikipediaより

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【非売品】 NWA認定ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級チャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分02秒 | プロレスグッズ

海外製

全長約1,260mm。

重量約5.5kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座

ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座(ユナイテッド・ナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、後に全日本プロレスに管理権が移ったプロレスの王座である。UNヘビー級王座の略称で表記・呼称される。

現在は三冠ヘビー級王座を構成するチャンピオンシップの一つである。

この王座は1970年8月にNWA本部がメキシコカナダアメリカの3国で通用する国際タイトルとして新設した。新設時からアントニオ猪木に奪取されたジョン・トロスまでの変遷については、プロレス雑誌でも諸説がある。

1971年3月26日にアメリカ・ロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムでアントニオ猪木がジョン・トロスを破って王座を獲得して日本に持ち込みほぼ定着する。猪木はUNヘビーを獲得したことで、当時インターナショナル・ヘビー級王者であったジャイアント馬場に対抗するはずであったが、猪木が日本プロレス除名されるとともにベルトはNWA本部へ返還された。その後坂口征二が王者となり延べ1年にわたり保持、その坂口が日本プロレス離脱後には高千穂明久が王者となったが、間もなく日本プロレスが崩壊、王座は休眠状態になった。

1976年全日本プロレスの要請で王座が復活し、以降同団体に定着する。ジャンボ鶴田が王者になったが、タイトルの格はPWFヘビー級王座より下とされていた。その鶴田も5度目の王獲得後、インター王座獲得に専念する為に王座を返上してしまい、全日本におけるタイトルの格は3番目ということになってしまった。その後、天龍源一郎が長きにわたってベルトを保持し、天龍の代名詞といわれるまでになった。

1989年4月18日にジャンボ鶴田が本王座・PWF王座・インター王座の三冠を統一してからは、三冠ヘビー級王座のベルトの一本として定着する。

ZERO1にて現在のNWAが認定するNWAユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座というタイトルが存在しているが、上記の王座とは無関係である。

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 グレーテスト18クラブ王座チャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分02秒 | プロレスグッズ

海外製。

全長約1,300mm。

重量約5.1kg。

ストラップ本革。

収納ケース無。

刻印無。

 

グレーテスト18クラブ王座

グレーテスト18クラブ王座(グレーテストエイティーンクラブおうざ)は、かつて新日本プロレスが管理していた王座。

歴史

1990年9月29日に行われたアントニオ猪木のレスラー生活30周年記念パーティーの席上で、ルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」、プロレスラー及び格闘家によって構成された「グレーテスト18クラブ」が認定するタイトルの制定が発表された。

プロレス、格闘技を問わず優れた選手に贈るという触れ込みで設定された王座だが、選手たちはもとより、殆どのスタッフも事前にそのような王座を作るという話は聞いていなかったとも言われている(一部のフロントの独断でテーズを説得して作ったとも言われている)。

チャンピオンベルトについては、1989年に猪木が封印したWWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座のベルトが再利用された。このタイトルも僅か3代(2名)の戴冠で終わったものであった。

形式上はグレーテスト18クラブが対戦相手を指定し、防衛戦を行う形で運営され、その初の「指定試合」は1991年3月21日東京ドームにて行われ、初代王者として認定された長州力タイガー・ジェット・シンとの間で防衛戦が行われ、長州が防衛する。

その後、中心人物であったはずのテーズはUWFインターナショナルとの関係が強くなり、プロレスリング世界ヘビー級王座の制定に関わるなどしたため、新日本プロレスとの関係が疎遠となり、グレーテスト18クラブ王座の存在理由が微妙になってしまう。

この様な背景のなか行われた1992年8月16日福岡国際センターにおけるIWGPヘビー級王座とグレーテスト18クラブ王座のダブルタイトルマッチで、二冠王者だった長州をグレート・ムタが破って第2代王者となるも、「グレーテスト18クラブは価値なし」として返上。その後グレーテスト18クラブが次の王者を指名する事もなく、王座決定戦も行うこともなく、そのままグレーテスト18クラブそのものも含め消滅する。

グレーテスト18クラブのメンバーとされたレスラーの中には、猪木の30周年記念パーティーには出席していないカール・ゴッチボブ・バックランドバーン・ガニアストロング小林ハルク・ホーガンモハメド・アリや、パーティー開催当時は全日本プロレスに参戦して新日本と関わっていないスタン・ハンセンアンドレ・ザ・ジャイアントもいた。

これら18人のメンバーの意見をそろえて対戦相手の選出を行っていたとは考えられず、そもそもグレーテスト18クラブ王座の存在を知っていたかすら疑問だった。その場の勢いで作ってしまった王座という印象が否めず、消えるべくして消えた王座だとも言える。

グレーテスト18クラブのメンバー

歴代王者

歴代 選手 戴冠回数 防衛回数 獲得日付 獲得場所(対戦相手・その他)
初代 長州力 1 3 1991年2月25日 グレーテスト18クラブが初代王者に認定
第2代 グレート・ムタ 1 0 1992年8月16日 福岡国際センター、返上と同時に消滅

 

Wikipediaより

 

 

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真の世界ヘビー級王座

真の世界ヘビー級王座しんのせかいへびーきゅうおうざ、sekai hebī-kyū ōza World Heavyweight Championship)または真の世界選手権(しんのせかいせんしゅけん、Real World Championship)は、かつて新日本プロレスで設立されたタイトルカール・ゴッチが勝利し新日本プロレスから初代チャンピオンに選ばれた。ベルトは1962年9月11日から1964年9月7日までカール・ゴッチによって保持されたアメリカン・レスリング・アライアンス(オハイオ)認定のAWA世界ヘビー級王座のベルト(ベルトはレプリカ)を利用。その後アントニオ猪木が奪取するが、防衛戦を成功したのは1972年10月9日、新黄金シリーズの12日目、レッド・ピンパーネルに対して一度だけである。ゴッチは1972年10月10日猪木からタイトルを奪還 、2度目の載冠および最後の王者となる。

アメリカン・レスリング・アライアンス

Wikipediaより

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【非売品】 NWF認定世界ヘビー級チャンピオンベルト レプリカ

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NWFNational Wrestling Federation、全米レスリング連盟)は、1970年代前半にアメリカ合衆国に存在したプロレス団体

 

プロモーターのペドロ・マルティネスと、選手兼プロモーターのジョニー・パワーズを中心に設立、運営され、ニューヨーク州バッファローオハイオ州クリーブランドを拠点に、アメリカ北東部五大湖地区およびカナダを主要エリアとして活動した。「North American Wrestling Federation」を正式名称とする説もある。

概要

1970年ニューヨーク州バッファローを中心とするアメリカ北東部の大物プロモーター、ペドロ・マルティネスと、同地のトップスターであり、オハイオ州クリーブランドのプロモート権を得ていたジョニー・パワーズを中心に、メジャー団体のNWAAWAWWWF(現:WWE)と一線を画す独立団体として設立された。パワーズは同年ロサンゼルスにおいてフレッド・ブラッシーに勝利したとして初代世界王者に認定され[1] 、その後、王者は目まぐるしく交代する。

最盛期にはミシガン州メリーランド州、カナダのトロントモントリオールへとテリトリーを拡大、弱小団体とは呼び難い勢力を持つに至った。ボボ・ブラジルジョニー・バレンタインアブドーラ・ザ・ブッチャーザ・シークアーニー・ラッドら一流選手が多数集結、パワーズとバレンタイン、ラッドとブッチャーとの抗争などの名物カードも生み、アメリカのプロレス誌上では、NWA、AWA、WWWFに次ぐ第4の団体と認知されていた時期もあった。

しかし1973年に入ると勢力は衰退、縮小していく。同年12月10日に新日本プロレスで行われた世界戦において、第14代王者となっていたパワーズがアントニオ猪木に敗れ王座が日本に渡る。その後もパワーズは1974年3月には猪木を招聘してクリーブランドで世界戦を行うなど、1975年初めまでは同地で興行を行っていた。しかし前年に一時プロレス界から離れていたマルティネスが関わった新団体IWAに吸収されるかたちで、同年半ばまでには事実上活動を停止し消滅状態となった。このIWAも同年中にはスポンサーが離れたこともあり規模を縮小、パワーズが引き継ぎノースカロライナ州でインディー団体として活動を続けた。

以上のように米国プロレス史全般からみれば短命のローカル団体にすぎず、設立経緯や活動内容、歴代王者等に不明な点も多々ある。しかし、アントニオ猪木が世界ヘビー級王座を1973年の獲得から新日本プロレスの看板タイトルとして1981年まで長く保持したこと、また日本でも高名な大物選手が多く参加していたこと等により、日本には愛着や関心を持つプロレスファンが多い

 

新日本プロレスとの関係

 

一般にNWFと新日本プロレスとの結びつきは、1966年東京プロレスに初来日して以来の、ジョニー・パワーズアントニオ猪木の関係によるものとされている。しかし実際には、NWF設立以前の1969年に当地をサーキットし、パワーズとも旧知の坂口征二によるブッキングと考えるのが妥当である。

 

日本では「パワーズが図らずも猪木に王座を奪われたため、隆盛を誇っていたNWFが一転凋落に向かった」という伝説が、長年史実として語られてきた。現在はパワーズが新日本プロレスに王座を、興行権として売却したとの見方が通説になっている。この王座売却の時点で既にパワーズは団体自体を店じまいするつもりだったとの極端な見方もされるが、その後も1975年初めまではクリーブランド等で「パワーズの保持するNWF北米ヘビー級ベルト」を看板に興行を行っており、これも断じ難い。

 

1975年初めで事実上NWFが消滅した後も、新日本プロレスは1977年前半頃まはNWFが存続しているようなアングルを組んでおり、パワーズによるクーデターが伝えられたこともあった。上述のように、パワーズはIWAの名で1977年半ば頃まではノースカロライナ州で興行をしており、パワーズ一派という意味ではNWFの存続もまったくの絵空事ではなかった。しかし、それ以降はNWFの消滅は日本でも周知の事実となり、同王座は事実上、新日本プロレスが管理・運営する王座となった。

 

1975年2月12日、NWFはNWAと業務提携を結んだ。1976年8月7日 NWA年次総会で新日本プロレス(名義人は坂口と新間寿)のNWA加盟が認められるとタイトル名から「世界」が外され、NWF世界ヘビー級王座から NWFヘビー級王座 と改称された[2]

 

1981年4月、IWGP構想に伴い、スタン・ハンセンとの王座決定戦に勝った猪木により、同王座は封印された。

Wikipediaより

 

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【非売品】 NWA認定北米タッグチャンピオンベルト レプリカ

2018年12月18日 21時07分01秒 | プロレスグッズ
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全長約1,300mm。
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北米タッグ王座

NWA北米タッグ王座(エヌダブリューエーほくべいタッグおうざ、NWA North American Tag Team Championship)は、かつて全米各地に存在していたプロレスタッグ選手権であるが、本項では新日本プロレスが管理していたものについて扱う。NWAによる認定とされていた。新日本プロレス初期の1974年から1981年まで、同団体のタッグにおけるフラッグシップ・タイトルであった。新日本プロレスの管理下に入るまでの来歴には不明点が多い。

由来

同王座が日本に初めて紹介されたのは1973年8月、ロサンゼルスオリンピック・オーディトリアムにおいて新日本プロレスアントニオ猪木坂口征二が王者のジョニー・パワーズ&パット・パターソンに挑戦した際である。挑戦者組が勝利するが、3本目が反則勝ちのためにルールにより王者組の防衛となった。これ以前にパワーズとパターソンがアメリカでこの王座を獲得・防衛した記録は見当たらず、このタイトルはこの試合のために創作されたものと見られている。

同年12月に王者組が来日、大阪において猪木&坂口が再び挑戦するが、獲得は逃した。翌1974年6月に新王者のクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツが新王者として来日、猪木&坂口が挑戦するがまたも獲得を逃す。同年8月16日、再びオリンピック・オーディトリアムで4度目の挑戦を果たして王座を獲得した。

ヘスとショッツは、もともとNWF世界タッグ王者として来日する予定であったといわれる。このチームがアメリカおよびカナダでパワーズ&パターソンから王座を獲得した記録がないことから、パワーズ組とヘス組の王座は別物であるとする見方もある。しかし、昭和の時代においてはパワーズ組→ヘス組→猪木組への王座変遷が通説として語られてきた。

また、同王座は「NWA認定」とされてきた。猪木組の王座獲得の時点で新日本プロレスはNWA非加盟であったが、獲得の舞台となったロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)のプロモーターであるマイク・ラベールはNWA会員であり、新日本プロレスへのブッカーも務めていたことから、ラベールによってNWA認定の形をとっていたものと思われている

歴史

アントニオ猪木&坂口征二が獲得してからは、新日本プロレスのタッグにおけるフラッグシップ・タイトルとして王座戦の歴史が重ねられていった。しかし当時の新日本プロレスは外国人レスラー招聘力が弱く、挑戦者もエース級のリーダーに対してパートナーが弱体の即席コンビが多かった。獲得から1年後の1975年8月1日、同じロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、数少ない名コンビの挑戦者であるハリウッド・ブロンドスジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)の挑戦を受けた試合がノーコンテストとなり、日本で王座決定戦が行われることになる。しかし、猪木は負傷のため出場を辞退、代わって新日本プロレス入団まもないストロング小林が坂口と組み、9月22日に名古屋で決定戦に挑むも敗退、ブロンドスに王座が移るが、10日後の10月2日に大阪で猪木&坂口が王座を奪回している。猪木&坂口の戴冠時の主な挑戦者チームには、ニコライ・ボルコフ&シーク・オブ・シークス・オブ・バグダッドハンス・シュミット&ブルート・バーナードイワン・コロフ&グレッグ・バレンタインなどがいる。アンドレ・ザ・ジャイアントも、ロベルト・ソトトニー・チャールズをパートナーに起用して挑戦した

1976年2月に猪木の王座返上を受けて、2月5日の札幌での決定戦に勝った坂口&小林のパワー・ファイターズが新王者となった。この時代には挑戦者組も充実し、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムなど、アメリカでもタッグとしての実績のある一流チームを相手に防衛戦を行っている。1977年には新日本マットでヒールのトップチームとなったタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と抗争を繰り広げた。王座を奪われ、猪木&坂口が挑んだこともあったが、最終的に坂口&小林が奪回している。坂口&小林時代の主な挑戦者チームとしては他にブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスパット・パターソン&ラリー・ヘニングスタン・ハンセン&ザ・ハングマンピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーン、バーナード&キラー・カール・クラップ、上田&サンダー杉山ボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどが挙げられる

坂口&小林は1979年4月5日にヒロ・マツダ&マサ斎藤に敗れ王座転落、3年におよぶパワー・ファイターズの時代は終焉した。同年6月15日、坂口は長州力を新パートナーに王座を奪回、長州にとっては日本での初戴冠であった。7月6日の初防衛戦において、小林は木村健吾をパートナーに新王者チームに挑んだが、長州に決勝フォールを奪われ敗退した。以降は坂口&長州が2年にわたり王座を堅持し、シン&斎藤、ワイルド・サモアンズアイアン・シーク&スーパー・デストロイヤーなどの挑戦を退けたが[2]、強力な挑戦者チームは多くはなかった。1981年3月20日、会津でのシン&ドン・ムラコとの防衛戦を最後にIWGP提唱に伴って猪木のNWFヘビー級王座等と共に返上、封印された。なお、IWGP構想は当初シングルだけで動いており、IWGPタッグ王座が創設されたのは1985年のことである。

歴代王者

歴代 選手 戴冠回数 防衛回数 獲得日付 獲得場所(対戦相手・その他)
初代 ジョニー・パワーズ&パット・パターソン 1   1973年8月  
第2代 クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツ 1   1974年5月  
第3代 アントニオ猪木&坂口征二 1   1974年8月16日 カリフォルニア州ロサンゼルス、王座返上
第4代 ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ 1   1975年9月22日 名古屋
第5代 アントニオ猪木&坂口征二 2   1975年10月2日 大阪、王座返上
第6代 坂口征二&ストロング小林 1   1976年2月5日 北海道タイガー・ジェット・シン&ブルータス・ムルンバとのトーナメント決勝戦
第7代 タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 1   1977年2月2日 大阪
第8代 坂口征二&ストロング小林 2   1977年7月28日 福岡
第9代 ヒロ・マツダ&マサ斎藤 1   1979年4月5日 東京
第10代 坂口征二&長州力 1 13 1979年6月15日 カリフォルニア州ロサンゼルス、IWGP構想により王座封印

 Wikipediaより

 

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