私の知人所有のしょぼいプロレスマスクコレクション等です。 どうぞ、お暇なら見て笑ってやって下さい。とほほ…

マスカラスのマスクが欲しくテレビ局へ応募
タイガーマスクの四次元殺法に狂喜
休刊した週刊ファイトの元愛読者の彼

【非売品】 旧プエブラ製 ミル・マスカラス 本人着用 オーバーマスク

2024年01月03日 12時38分44秒 | マスクコレクション

本人着用

旧プエブラ(故アレハンドロ・ロドリゲス)製。

金モハダ(シルク)×メタリック特殊本革フチ。

チャック式。

着用写真付。

当時の年代物。

1981年頃、作製。

 

ミル・マスカラスMil Máscaras、本名:Aaron Rodríguez Arellano1942年7月15日 - )は、メキシコプロレスラーサン・ルイス・ポトシ州サン・ルイス・ポトシ出身。

ルチャリブレを代表するヘビー級ルチャドールの1人、そして世界で最も著名な覆面レスラーの1人として、華麗な空中殺法でアメリカ合衆国や日本でも人気を博した。日本では「千の顔を持つ男」「仮面貴族」などのニックネームを持ち、ジグソーの『スカイ・ハイ』が入場テーマ曲に用いられた。

来歴

学生時代からレスリングボディビルに打ち込み、レスリングではメキシコ代表として1964年東京オリンピックの候補にもなった。ボディビルでは1962年にミスター・メキシコに輝く。1964年4月の仮デビュー後、大キャンペーンを経て、1965年7月16日にメキシコの大会場アレナ・メヒコにてデビュー。空手や柔道なども日本から遠征して来た渡辺貞三から習った。

1968年から1971年にかけてはアメリカNWAロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)を主戦場に活動し、バディ・オースチンザ・シークジョン・トロスらを破りNWAアメリカス・ヘビー級王座(WWA世界ヘビー級王座の実質的な後継タイトル)を通算4回獲得[2]1969年11月21日にはドリー・ファンク・ジュニアNWA世界ヘビー級王座に初挑戦した。同地区ではアーニー・ラッドブル・ラモスなどの巨漢ヒールとも抗争を展開しており、ラモスとの抗争は髪と覆面を賭けて闘うカベジェラ・コントラ・マスカラチェーン・デスマッチにまで発展している。なお、ロサンゼルス時代のマスカラスは絶対的なベビーフェイスであったにもかかわらず、その斬新な覆面のデザインが当時の日本では奇怪とも映ったことから、日本においては "悪魔仮面" などと呼ばれていた。

1970年はロサンゼルスを一時離れ、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス東部のNWAビッグタイム・レスリング(後のWCCW)に参戦。同地区のトップ・ヒールだったジョニー・バレンタインをはじめ、キラー・カール・コックスグレート・マレンコマイケル・シクルナキラー・コワルスキートール・タナカらと対戦し、タッグではワフー・マクダニエルとのコンビで活躍した。

初来日は1971年2月19日に日本プロレスで行われたダイナミック・ビッグ・シリーズの開幕戦。このシリーズは3月10日まで行われ、全13戦の短いシリーズであったが、日本にミル・マスカラスの名前を大きく刻み付けた。スパイロス・アリオンと組んでジャイアント馬場&アントニオ猪木インターナショナル・タッグ王座に挑戦し、猪木とのシングルマッチも行われた。1973年10月からは全日本プロレスに参戦し、ジャンボ鶴田ザ・デストロイヤーと好勝負を展開。1977年8月25日に田園コロシアムにて鶴田のUNヘビー級王座に挑戦した試合は、プロレス大賞の年間最高試合賞を受賞した。全日本では1970年代後半から1980年代前半にかけて、『サマー・アクション・シリーズ』など夏場のシリーズに例年参戦しており、ドス・カラスとの兄弟コンビでの来日は全日本プロレスの「夏の風物詩」ともいわれた。1980年9月12日には、全日本のリングでハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

また、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにおける「覆面レスラーはマスクを脱いで素顔で出場しなければならない」という理不尽な縛りを、1972年12月18日に素顔のザ・スポイラーとの対戦にて解禁し、初めて覆面を被ったままMSGに登場した人物である。WWFには1970年代から1990年代にかけて不定期に単発参戦し、1978年には当時のWWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦。同年1月23日のMSG定期戦で行われたタイトルマッチでは、ボブ・バックランドがマスカラスのセコンドを務めている。3月20日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアント&ダスティ・ローデスと豪華トリオを組み、ケン・パテラミスター・フジプロフェッサー・タナカ組と6人タッグマッチで対戦。この試合は、当時WWFと提携していた新日本プロレスの放送局であるテレビ朝日の『ワールドプロレスリング』においても中継された。

1984年にスタートしたビンス・マクマホン・ジュニアのWWF全米侵攻サーキットにも、アメリカでの主戦場だったカリフォルニア中西部地区のビッグイベントを中心に出場。同年6月15日にはセントルイスキール・オーディトリアムにてS・D・ジョーンズをパートナーに、ディック・マードック&アドリアン・アドニスが保持していたWWF世界タッグ王座に挑戦している。1997年1月19日には、メキシカン人口の多いテキサス州サンアントニオで行われたロイヤルランブル第10回大会)にも出場した。

アメリカや日本のみならずヨーロッパにも遠征しており、1974年10月には西ドイツ(当時)のミュンヘン・トーナメントに参加。同年8月に新日本プロレスでデビューしたばかりの吉田光雄ローラン・ボックと対戦した(吉田には勝利し、ボックには敗退。トーナメントの戦績は7勝3敗1分の第4位)。

1986年6月の全日本プロレス参戦を最後に日本マットへの登場は途絶えていたが、1990年代W★INGFMWWARみちのくプロレスに来日(1993年9月12日にはWARと新日本プロレスの合同興行において、ウルティモ・ドラゴンをパートナーに獣神サンダー・ライガー&エル・サムライと対戦)。2000年2月にはバトラーツ2001年1月と2002年7月には全日本プロレスへ久々に参戦し、2006年9月には大阪プロレスに登場した。その後も2009年3月の『仮面貴族FIESTA2009〜ミル・マスカラス華麗ナルゴールデンタイム伝説〜』に来日、初代タイガーマスクとタッグを組んで藤波辰爾&グラン浜田と対戦している。2013年4月には、女子プロレス団体のスターダムが開催した『STARDOM MASK FIESTA』に出場した。

俳優としても活動しており、これまで20本以上の映画(ルチャシネマ)に出演している。日本では『愛と宿命のルチャ』がBOX東中野で公開され、TBSの深夜映画枠で『ミル・マスカラスの幻の美女とチャンピオン』が放映されたことがある。2007年には久々に主演作品 "Mil Mascaras Versus The Aztec Mummy" (『ミル・マスカラス対アステカのミイラ』)が製作・公開された。

2011年10月16日、メキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われたWWEスマックダウン収録に登場。2012年にはWWE殿堂に迎えられ、甥のアルベルト・デル・リオが殿堂入り式典のインダクターを務めた。

2016年11月28日、東京愚連隊後楽園ホール大会に来日。NOSAWA論外を挑戦者に、1975年以来保持しているIWA世界ヘビー級王座の防衛に成功した。

「千の顔を持つ男」

試合毎にマスクを変えることから "千の顔を持つ男" と呼ばれた。リングネームはスペイン語で「千の仮面(マスク)」という意味である。日本では入場時に、試合用マスクの上から別のマスク(オーバーマスク)を更に被り、試合前にそのオーバーマスクを客席に投げてファンにプレゼントするパフォーマンスが人気を集めた。また、全日本プロレス中継の視聴者プレゼント用にマスクを提供することもあった。別のマスクを被る時は顔を隠しながらアゴのあたりからスルッと(2枚のマスクで頭を包むようにして)被り直す特技もあり、絶対に素顔を晒さなかった。

親族

実弟に同じくプロレスラーのドス・カラスエル・シコデリコ(エル・サイコデリコ)がおり、ドス・カラスとは兄弟での来日も多い。

甥のドス・カラス・ジュニアシコデリコ・ジュニア(サイコデリコ・ジュニア)は共にプロレスラーとなっており、ドス・カラス・ジュニアは総合格闘技を経て、アルベルト・デル・リオのリングネームでWWEにて活躍した。

Wikipediaより

 

 

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【非売品】 YN製 スーパータイガー ファーストタイプ 大阪ラメ 本人着用 直筆サイン入

2024年01月01日 15時00分57秒 | マスクコレクション

本人着用

YN(中村之洋)製。

絶版大阪ラメ(旧紫ラメ)。

革タグ、直筆サイン、着用写真付。

YN製獣神サンダー・ライガーに使用している特別仕様のシルバーエナメル本革使用。

顎紐も本人使用の結び方に変更済。

オーダー完成時及び令和元年(2003年)11月23日 「佐山サトル館 初代タイガーマスクサイン会 」も着用済。

 

スーパー・タイガー(SUPER TIGER)

タイガーマスクは、日本覆面レスラーである。

元はアニメタイガーマスク二世」のタイアップ企画として誕生したがアニメ終了後も高い人気を誇りアニメとは離れたプロレスラーとして存在を確立して現在まで引き継がれている。

イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山が新日本の意向を受けて極秘帰国してタイガーマスクに扮して1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博して一大プロレスブームを巻き起こした。タイガーマスクの権利者だった梶原一騎は漫画「プロレススーパースター列伝」の原作者として作品に現実のタイガーマスクを登場させて一部にフィクションを織り交ぜながらタイガーマスクの人気に拍車をかけた。

しかし人気絶頂期だった1983年8月10日、佐山は突如として新日本へ契約の解除を一方的に申し入れて引退(正確には引退はせず退団)を表明。

UWF参戦時はマスクとコスチュームのデザインを一新てザ・タイガースーパータイガーのリングネームで活動していた。

その後、タイガーキングザ・マスク・オブ・タイガーなどのリングネームを使用している。

2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名で復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

Wikipediaより

 

 

 

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