ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

バスで行く「奥の細道」(その18) ( 「松島:雄島」: 宮城県 ) 20180.3.15

2018-11-30 09:49:17 | Weblog

(写真は、雄島にある芭蕉句碑と曾良句碑)   

前回の松島の湾内クルーズに続き、今回は松島の中の「雄島」
(おじま)です。

「雄島」は、松島湾の海に突き出た形の島で、短い橋で島へ
渡ります。

”奥州の高野山”と呼ばれていた「雄島」は、瑞巌寺とゆかり
が深く、当時は、島全体が霊場となっており、僧侶や巡礼者
たちの修行の場でした。

従って、現在でも、島の岩窟の至る所に、当時の修行僧らが
刻んだ石塔婆や仏像が残っています。
また、古くから歌枕の地でもあったため、島内には、多くの
歌碑が見られます。
奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


「雄島」に着いた芭蕉は、瑞巌寺の中興の祖である「雲居
(うんご)和尚」の庵の跡を興味深く見学します。
落穂や松笠などを燃やす煙が立ち昇る草庵(見仏堂)があり、
松の木陰には、俗世間を捨てて住む人たちの姿も見えます。

心引かれて雄島を見学しているうちに、月が昇って海に
美しく映え、芭蕉は、月と島とが一体となった様な
不思議な境地を味わいます。
その夜、芭蕉は、昼夜、絶景を見続けたため、ありあまる
感動で興奮して眠れない状態でした。


我々も、短い橋を渡って「雄島」を見物します。



島全体が僧侶や巡礼者たちの修行の場だった「雄島」は、
上と次頁の写真の様に、島の至る所に、当時の僧らが
修行した岩窟が残っています。




上の写真は、1104年に「見仏(けんぶつ)上人」が庵を
結び、12年間、法華経を読誦して過ごしたという
「妙覚庵」の跡です。

この「見仏上人」は、雄島に住んだ僧の中で最も高徳の僧
であると言われていました。


更に、島の南端へ進むと、上の写真の六角形の鞘堂の中に
収められている「頼賢(らいけん)の碑」があります。

この「頼賢の碑」は、1285年から22年間もここ雄島に
住み、一度も島を出なかったという僧「頼賢」の徳行を
伝えるために作られました。

この「頼賢」は、当時、「見仏上人」の再来と騒がれた僧
だそうです。

そして、この「頼賢の碑」は、”中世日本三古碑”の
一つで、国の重文です

しかし、残念ながら、中が真っ暗な六角形の鞘堂に
納まっているため、下の写真の様に、お堂の中の
碑の文字は殆ど読めません。



島の東側には、次頁の写真の芭蕉と曾良の句碑が
あります。

向かって左が芭蕉句碑で、右が曾良句碑ですが、
この曾良句碑は、1809年の曾良の100回忌に建立
されたものだそうです。

”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”(曾良)

(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、
鶴に身を変えておくれ。)

”朝よさを 誰まつしまぞ 片心”(芭蕉)

(朝も夜も、松島への思いが心に浮かんでならない。
それは、私を待つ人が誰かその島にいて、私のことを
思っているからであろうか。「待つ」と「松島」を
掛けています。)
芭蕉句碑の側面には、「勢州桑名雲裡房門人 延享四年
十月十一日建立」と刻まれています。

更に進むと、瑞巌寺の中興の祖「雲居(うんご)禅師」
の別室の跡である「座禅堂」があります。




「座禅堂」は、1638年に、雲居禅師の隠棲所として
建てられたお堂で、ここからは松島湾に点在する島々を
見晴らすことが出来ます。

我々のツアーバスは、次に、松島の海岸沿いの道を外れ、
東北本線を超えて西へ向かい、「西行戻しの松」を目指し
ます。

次頁の写真の「西行戻しの松」は、西行法師が諸国行脚の
折り、松の大木の下で出会った童子と禅問答をして敗れ、
松島行きを諦めたという伝説の地です。

う~ん、ここでも西行は、禅問答で子供に負けたの?。

「西行戻りの松」は高台にあるため松島の景観が望めます。

 

前頁の写真の陸続きに見える一番右の島が雄島です。


(三省堂:「奥の細道の旅ハンドブック」から)
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バスで行く「奥の細道」(その17) ( 「松島:湾内クルーズ」: 宮城県 ) 2018.3.14

2018-11-29 11:27:08 | Weblog

(写真は、松島湾内クルーズの船窓から)   

”松島や ああ松島や 松島や”

よく耳にするこの句は、実は、芭蕉の句ではありません!

この句は、芭蕉よりずっと後の江戸時代後期の狂歌師・
田原坊が詠んだものです。

一般的には、松島が言葉で表現できないほど美しかったので、
芭蕉は、松島では句を詠まなかったと言われています。
ところが、実は、土芳(とほう)の「蕉翁文集」によると、
”嶋々や 千々にくだけて 夏の海”という句を、芭蕉が
松島で詠んでいるのです。

しかし、何故か、「奥の細道」には、この句は載せられて
いません。

芭蕉は、この句に満足できなかったのでしょうか?

なお、松島では、曾良が一句詠んでいます。

”松島や 鶴に身をかれ ほととぎす”

(ホトトギスよ、ここでは鶴がふさわしい風情なのだから、
鶴に身を変えておくれ。)
   
芭蕉は、「奥の細道」の序章の「旅支度」で、”松島の月 
先ず心にかかりて”と、何をおいても、真っ先に、松島が気に
かかると書いている様に、松島は、奥の細道の最大の目的地の
ひとつでした。

「奥の細道」によると、芭蕉は、塩釜から松島へ舟で渡った
とあります。

「松島は、扶桑(ふそう)第一の好風にして、凡(およそ)
洞庭(どうてい)・西湖を恥ず。」(奥の細道)

(松島は、扶桑第一(=日本一)の風景であり、中国の名勝地の
洞庭湖や西湖と比べても恥ずかしくない。)

松島を目の前にした芭蕉は、その美しさに、心を奪われて
絶賛しています。



我々のバス旅行も、芭蕉と同じ様に、塩釜港から、瑞巌寺の
近くの五大堂の脇の桟橋までの40分の松島湾内クルーズに
乗船します。

芭蕉が海から見たのと同じであろう、松島の波や風に
浸食された島々の景色を見ながら進みます。



松島湾には、大小様々な島が浮かび、小島に茂る松の緑、
むき出しになった白い岩肌など、自然の作り上げた景勝が
続きます。



左手に五大堂が見えてくると、40分の船旅は終わりです。



松島湾内クルーズを終えた我々は、桟橋の脇の「五大堂」に
立ち寄ります。

松島のシンボル的な存在である「五大堂」は、海に突き出す
ように、朱色の橋でつながれた小さな島に建っています。

「五大堂」は、807年、坂上田村麻呂が東征の際に毘沙門天を
建立し、その後、慈覚大師・円仁が五大明王を安置したこと
から「五大堂」と呼ばれる様になりました。

現在のお堂は、伊達政宗が、1604年に造営したもので、
東北地方に現存する最古の桃山建築です。

なお、五大堂のお堂の中の秘仏・五大明王の御開帳は
33年に一回で、前回の御開帳が平成18年だったので、
次回は平成51年だそうです・・・

五大堂の4面には、方角に従って透かし彫りの十二支の彫刻が
施されています。



五大堂からの松島の景観です。 






五大堂の入口付近に土産物屋があり、ここで下の写真の
「奥の細道」のハンカチを買いました。

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バスで行く「奥の細道」(その16)  ( 「青葉城(仙台城)」: 宮城県 ) 2018.3.14

2018-11-28 09:52:28 | Weblog

(写真は、青葉城の傍にある伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿)   


私達のバスツアーは、上の写真の「青葉城」(仙台城)の
石垣沿いの本丸への急な坂道を上って行きます。

そして、青葉城の本丸の脇にある下の写真の本丸会館で遅めの
昼食をとります。


「青葉城」は、仙台の城下町を見下ろす青葉山(標高
約200メートル)の丘陵に、伊達政宗が築いた大規模な
平山城です。

1601年、伊達政宗は、家康の許可を得て、仙台城の築城を
開始しました。
青葉城は、北と東に広瀬川の本流を、南に支流の谷口渓谷の
深い断崖を、そして西には道もない山林が続く天然の要塞
です。
本丸だけで、東西243メートル、南北265メートルという
壮大なスケールの城です。

次頁の写真は、本丸に建つ有名な観光スポットの伊達政宗
の銅像です。



(重臣屋敷の配置面)
政宗は、広瀬川一帯に重臣屋敷を配し、芭蕉の辻を中心
とする奥州街道沿いに町人町を発展させました。

上の写真は、本丸跡です。
以前に来た時には、この様に綺麗に整備されていなかった
ような気がします。

写真は、本丸からの仙台市内の眺めです。
(「奥の細道」の仙台市内の記述については、「バスで行く
奥の細道・その12:宮城野」
を見てね。)
戦前には、青葉城には、大手門、脇櫓、巽門などが残って
いましたが、仙台空襲の際にすべて焼失してしまいました。
現在は、”江戸切”と呼ばれる「高石垣」等が残るのみで、
残念ながら、石垣以外には見るべきものがほとんどあり
ません。
なお、東日本大震災では、その石垣も崩れるなど被害を
受けましたが、現在は、すでに修復されています。

本丸会館の隣の青葉城資料館を覗いてみると、青葉城の
ジオラマ模型があり、城の復元CGの映像を流していました。(700円)

昼食の後、バスツアーは、青葉城の近くの「瑞鳳殿」
(ずいほうでん)へ向かいます。
「瑞鳳殿」は、1637年に造営された伊達政宗の霊廟です。




静かな風情の石段の奥にある霊廟は、桃山文化の特色が
色濃く反映されています。


霊廟は、空襲で一度焼失したものの、1979年に再建され
ました。




再建に先立って行われた発掘調査では、墓室から伊達政宗
の遺骨や甲冑などが見つかりました。
正宗は、70歳で病没したにも拘わらず、彼の頭髪が黒々
として残っていたので、当時大きな話題になりました。
驚き!

(9代藩主の墓)


(殉死した家臣・陪臣の宝篋印塔)




瑞鳳殿を出たバスツアーは、次に、仙台市の北部にある
「仙台東照宮」へ向かいます。

仙台東照宮は、青葉城から離れた仙台市の北部にあります。

仙台東照宮は、1654年、2代藩主・伊達忠宗が創建した
徳川家康を祀る神社です。

1591年、徳川家康が、この地方の一揆を鎮圧して江戸へ帰る
途中、正宗の案内で泊まったのがこの地だったので、ここに
「仙台東照宮」が建てられたのだそうです。



当時は、諸大名が競って、徳川家康を祀る東照宮を勧請して
おり、このときのものが全国に508社もあるそうです。

芭蕉は、俳人・三千風の弟子の加右衛門の案内で、仙台市内の
薬師堂、榴岡天満宮などの歌枕の地を見物したあとで、ここ
「仙台東照宮」を訪れています。
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バスで行く「奥の細道」(その15) ( 「塩釜神社」: 宮城県 )    2018.3.14

2018-11-27 23:22:09 | Weblog

(写真は、最期まで義経を守って処刑された藤原忠衡が寄進
した灯篭)   

そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”末の
松山”などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって
行くこと以外に、もう一つの目的がありました。

それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡を
たどることでした。

「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生は
まさに栄枯盛衰そのもの、それが芭蕉に世の無常を感じさせた
ためでした。

そして、ここ「塩釜神社」に芭蕉が立ち寄ったのは、最期
まで義経を守って処刑された藤原忠衡を弔うためでした。


「塩釜(鹽竈)神社」は、塩釜市の北西部のこんもりとした
森にあり、古くから「陸奥国・一の宮」として、東北地方
を鎮護してきました。

1607年、伊達政宗は、紀州の大工を招き、塩釜神社の
大道営を行いました。
更に、現在の社殿は、四代藩主・綱村が、1695年に
着工してから、9年の歳月をかけて造られたものです。

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芭蕉は、早朝、清々しい雰囲気の塩釜神社に参詣します。

神殿の前には、金属製の扉の表面に「文治三年 和泉三郎
寄進」と刻まれた古い鉄燈がありました。
刻まれている文治三年は、源義経が、兄頼朝から逃れて、
平泉に下った年です。

刻まれている寄進者の「和泉三郎」(いずみのさぶろう)
とは、平泉の藤原秀衡(ふじわら ひでひら)の三男の
忠衡のことですが、処刑される2年前に、この灯篭を寄進
しています。

兄・頼朝から追討された弟・義経は、最後は藤原秀衡を
頼って平泉に逃亡しました。
しかし、義経を庇護していた藤原秀衡が亡くなると、奥州
藤原氏は、これを境に一気に勢いを失い、四代・泰衡は、
頼朝の命に屈して、義経を討つこととなります。

そんな中、忠衡の三男の忠衡(和泉三郎)は、父の遺言に
従って、最後まで、義経を守って戦います。
そして、最後は、義経に味方したかどで、23歳の若さで
処刑されました。


芭蕉が塩釜神社を訪れたときは、奥州藤原氏の時代からは
五百年が経っていましたが、芭蕉は、泉三郎の生き様を
称えて、奥の細道に以下の様に書いています。

「神前に 古き宝燈有。
かねの戸びらの面に 文治三年 和泉三郎寄進 と有。
五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、
そゞろに珍し。」

奥の細道の全体の構成の中で、芭蕉のこの塩釜神社参詣は、
既にみた「医王寺:義経を救った佐藤兄弟の妻たち」と共に、
これから向う「平泉」の章の伏線となっているのです。

我々のパック旅行のバスも、塩釜神社に到着しました。



急な石段を上って行くと、威厳のある二階造りの建物が
見えてきます。

これが楼門で、桃山風の華麗な建築様式です。




楼門をくぐると、上の写真の唐門があり、その奥に、
下の写真の別宮、左宮・右宮の拝殿があります。







境内には、前述の奥州・藤原三代・秀衡の三男の泉三郎が、
文治3年(1187年)に寄進した上の写真の「文治の燈篭」が
あります。

また、次頁の写真の鉄製の灯篭には、かねの戸扉が装着
され、「三日月」の形にくり貫いた右の扉に「奉寄進」の
刻印が見られます。

また、「日」の形に貫かれた左の扉に「文治三年七月十日 
和泉三郎忠衡 敬白」の文字が見られます。



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バスで行く「奥の細道」(その14) ( 「末の松山」: 宮城県 )    2018.3.14

2018-11-26 05:44:18 | Weblog

(写真は、”連理”の形の松がそびえる「末の松山」)   

”契りきな  かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 
 波越さじとは” (百人一首: 清原元輔 )

(約束しましたよね。涙を流しながら。末の松山が、決して
 波を被ることが無い様に、二人の愛も変わらないと。)

男女の変わらぬ愛を誓う上の歌では、この「末の松山」がある
場所には絶対に波が来ない、ことを前提に、絶対に心変わり
しない「永遠の愛」を「末の松山」に例えています。
そして、何と!、この歌の作者の清原元輔は、あの「枕草子」
の清少納言の父です。

”末の松山 波越さじ”は、歌枕として、百人一首のみな
らず、西行法師や藤原定家らの多くの歌人に詠まれて
きました。
そして面白いのは、この歌の”末の松山 波越さじ”は、
869年の東北地方を襲った貞観地震の事実に基づいている
事です!
つまり、あの千年に一度と言われる貞観地震の大津波のとき
ですら、海岸線にあるここ末の松山には津波が来なかった
のです。

(そして、今回の東日本大震災でも、驚いたことに、海岸線
に近いにも拘わらず、現在の末の松山があるところには津波が
来ていません。)
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多賀城跡で壺碑と対面した芭蕉は、その足で、末の松山を
訪ねています。

芭蕉は「契り」の歌枕の地に足を踏み入れ、「末の松山」の
松の間に、墓が点在する風景を見て、

「羽をかはし 枝をつらぬる 契(ちぎ)りの末も、終(つい)
には かくのごときと、悲しさも増(まさ)りて」

(歌枕「末の松山」の変わらぬ男女の契りも、結局は、眼前に
見る様な、墓の下に帰してしまう空しいものだ。)

と、末の松山で無常(むじょう)を感じた様子を、奥の細道に
記載しています。

芭蕉は、上の文章で、男女間の深い契りの例えとして、伝説の
鳥の「比翼の鳥」(”羽をかはし”)と、
「連理の枝」(”枝を連ぬる”)を引用しています。


そして、芭蕉は、末の松山のすぐ近くの「興井(おきのい)」
を訪ねます。

「興井」は、末の松山の南に位置し、直径20メートルほどの
池の中に岩(沖の石)が露出しています。

”わが袖は しほひ(潮干)に見えぬ おきの石の 
 人こそしらね かわくまぞなき” 

( 千載和歌集: 二条院讃岐 )

上記の二条院讃岐の歌は、恋に涙するわが身を、乾くことが
ない海の中の石に例えています。

歌中の「おきの石」(沖の石)は、”しほひ(潮干)に見えぬ”
からも分かるように、潮が引いても姿を見せない(我々が見る
ことが出来ない)”海底の石”であって、目に見える特定の石
を詠んだものではありません。

にも拘らず、江戸初期、領内の歌枕の名所の整備を行っていた
仙台藩が、歌中の普通名詞である「沖の石」を、強引に、
ここ興井の石だとして、固有名詞にしてしまったのだそう
です。

出た~!、またまた、仙台藩の強引な町興しが・・・

4代藩主・伊達綱村の時に、歌枕「沖の石」として当地に
定着させてしまい、更に、ここに、代々「奥の井守」
(おくのいもり)なる職を置いて、この景観の保護のための
手厚い体制をとったそうです。

う~ん!、伊達綱村の「歌枕の保護」への熱い想いは、
半端ないって!、ですねえ~・・・!

我々のパック旅行のバスも、末の松山に到着しました。



「末の松山」(すえのまつやま)は、住宅街の中の
「末松山・宝国寺(ほうこくじ)」の本堂の裏手の、
墓地に隣接した小さな丘の入口にありました。

写真の様に、推定樹齢480年、樹高19メートルの
連理の枝の形の大きな松がそびえていました。

そして、この松が、前述の様に、領内の名所整備を
行っていた仙台藩が「末の松山」だと定めたものです。

「末の松山」から、住宅街の中の道路を渡り、南へ
少し坂を下ると、そこに写真の「沖の石」が現われました。



民家の間に、突然、海の磯が出現した様な風景です。
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バスで行く「奥の細道」(その13)( 「多賀城(日本100名城)・壺の碑 」: 宮城県 )    2018.3.14

2018-11-25 22:34:05 | Weblog

(写真は、多賀城跡)


もともと、芭蕉の「奥の細道」の旅の目的は、「歌枕」の地
を訪ね歩くことでした。

にも拘らず、しのぶもじ摺り石は土に埋もれ、白河の関は
どこかも分からなくなってしまっている、という具合に、
荒れ果てた歌枕の地を見て、芭蕉は侘びしい気持ちで旅を
続けていました。

しかし、ここ「多賀城跡」に来て初めて奈良時代に建立
された「 壺の碑(つぼのいしぶみ) 」に遂に出会えた!、
と感激し涙を流します。

もともと、ここ「多賀城」は、奈良・平安時代を通じて、
陸奥国の国府が置かれ、蝦夷(えみし)の攻撃を防ぐ
ために、東北各地に設置されていた城柵の中心的な存在
でした。

つまり、当時、多賀城までが「日本」で、その奥は「蝦夷の
国」だった訳で、多賀城は、蝦夷の勢力圏との境界に位置
する最前線の軍事拠点でした。

多賀城は、外側は900メートル四方で、南・東・西の門
があり、内部には政庁のほかに兵士の宿舎などがあり
ました。

その後、802年の坂上田村麻呂による蝦夷討伐により、
この蝦夷との境界が、多賀城から更に北進していき
ました。

このため、10世紀頃には、多賀城は、蝦夷に対する軍事
拠点としての役割を終え、荒廃していきました。

一方、平安末期の歌学書には、坂上田村麻呂が蝦夷討伐
の時、鉾(ほこ)で、”ここが日本の中央である”旨を
書き付けたのが「壺の碑(石文:いしぶみ)」だと記載
されていました。

そして、古代から、西行や源頼朝などが、歌枕で「壺の碑
(つぼのいしぶみ)」として詠んでいたものの、「壺の碑」
そのものは、長い間、所在地不明の謎の歌枕でした。

そして、何と!、江戸初期に、ここ多賀城跡から、
「多賀城碑」なるものが発見されたのです!

高さ196センチ、幅92センチの「多賀城碑」の碑面には、
平城京や各国境から多賀城までの距離、多賀城の創建や
修造の説明、そしてこの碑の建てられた年月日の141字が
刻まれていました。

多賀城跡からのこの「多賀城碑」の発見は、長い間所在
不明だった著名な歌枕「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と
結び付けられ、江戸初期に、全国的に大きな話題とり、
広く世に知られました。

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


芭蕉は、仙台で加右衛門から贈られた「多賀城」の名所
絵図を頼りに、多賀城跡の南門近くにあるという「壺の碑
(つぼのいしぶみ)」へ向かいます。

多分、芭蕉も、この多賀城跡での”壺の石碑・発見”の
ビッグニュースを耳にしていたのでしょう、発見された
ばかりの「壺の石碑」と体面します。

この時は、「壺の石碑」は、未だ発見されたばかりの
野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で
覆われていました。

芭蕉は、この碑だけは、古代から変わらぬ姿を留めて
いると、時を超越する感動に心を揺り動かされ、「これも
旅のおかげであり、生きていればこその幸せ」、と
感激のあまり涙します。

「おくのほそ道」のクライマックスシーンの一つです。

当時、徳川光圀は、「大日本史」編さんのために派遣
した家臣から、壺の石碑の碑面が苔で覆われているとの
報告を受け、仙台藩主・伊達綱村に、碑を保護する覆屋
(おおいや)の建設を依頼します。

これを受けて、間もなく覆屋が建てられ、今日に至る
まで、碑が覆屋に守られています。


我々のパック旅行のバスも、多賀城跡に到着しました。

多賀城の建物は残っていませんが、綺麗で分かり易く
環境整備されており、政庁跡などは当時の礎石が
しっかりと残っています。








また、政庁復元の模型や、説明書きも随所にあるので、
当時の様子をイメージし易く、古代ロマンを感じます。


一方、建立から1,200年も経つという多賀城跡で発見
された「壺の碑(つぼのいしぶみ)」は、あまりの
保存状態の良さから、逆に、長く真偽論争にさらされて
きました。

特に、江戸末期~明治初期と、明治後期~昭和初期の
2度、真偽論争が活発化し、このときは、2度とも、
以下の理由により、偽作説が優勢でした。

 ①「壺の石碑」とは、「壺」という土地にある石碑と
  いう意味なのだが、ここは壺という土地ではない。

 ②この「多賀城碑」が歌枕の「壺の碑(つぼの
  いしぶみ)」と結びつけられたのは江戸初期の
  ことであり、この時、古来からの歌枕を領内に
  置きたいという仙台藩の強い意図があり、仙台藩
  が作らせた偽作である。
   
  ⇒ う~ん、当時も、現在と同様に、町興しのため、
    仙台藩が、”こちらの石碑が本物”的な宣伝活動
    を繰り広げたんでしょうかねえ~・・・

しかし、昭和44年、綿密な多賀城跡の調査と検証が
実施され、その結果、碑は奈良時代のもので間違いない
と結論されました。

そして、平成9年、石碑の覆堂の解体修理に際して、
碑の周囲の発掘調査を行った結果、古代の据え付け跡
が確認されました。

この事により、碑は、建碑当初からこの場所にあった
可能性が強まり、碑の真作説を後押ししました。

その結果、平成10年、国の重要文化財(古文書)に
指定され、真偽論争に一応の決着がつきました。
それでも、一部にはまだ偽作説がくすぶっているらしいです。

現在、次頁の写真の「壺の石碑(国重文)」は、
群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑
(なすのくにの みやつこのひ)と共に、日本三古碑
の一つとされています。







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バスで行く「奥の細道」(その12)     ( 「宮城野」 : 宮城県 )  2018.3.14

2018-11-24 08:17:55 | Weblog

(写真は、榴岡天満宮の牛の親子 )


図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399)
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芭蕉と曽良は、伊達家のお膝元、仙台( 宮城野 )に入ります。

仙台は、当時、伊達正宗のひ孫の伊達綱村が藩主でした。

芭蕉は、仙台に4~5泊するつもりで、そのために2通の
紹介状を携えていました。
しかし、1通の宛先の仙台藩士は、折り悪く病気のため宿泊を
断られ、もう1通の宛先の俳人・三千風(みちかぜ)も留守で
会えませんでした。

途方にくれた芭蕉は、仕方なく、宮城野の旅籠に飛び込みで
宿泊します。

俳人・三千風(みちかぜ)には留守で会えませんでしたが、
三千風の弟子の「加右衛門」(俳号:加之(かし))と
出会います。

当時、仙台藩は、領内の歌枕の名所の整備に力を入れて
いましたが、「加右衛門」はこの作業に加わっていました
から、仙台に於ける芭蕉の”歌枕探訪”の案内人としては
最適でした。

加右衛門の案内で、芭蕉は、「陸奥国分寺跡・薬師堂」、
「榴岡天満宮」などの仙台市内の歌枕の地を見物して回ります。

加右衛門の案内で訪れた木下(きのした)の「薬師堂」は、
辺り一帯に、萩がうっそうと茂り、露が落ちていました。

”みさぶらひ 御笠と申せ 宮城野の 木の下露は 
 雨にまされり”

(お供の方よ、笠を被る様に、ご主人に申し上げてください。
 宮城野の木の下の露は、雨よりも激しいのですから。)
と、芭蕉は、その昔に詠まれた上記の歌の情景を想像
しながら、”これが宮城野の木の下露か!”と、感慨に
ふけりながら、薬師堂の辺りを散策します。

仙台での歌枕探訪を満喫した芭蕉は、いよいよ仙台を出立する
際に、加右衛門から心のこもった贈り物を受け取ります。

それは、これから向かう松島や塩釜などの名所絵図と、
紺に染めた緒の草鞋(わらじ)でした。

ちょうど今の端午の節句のあやめ草を連想させる、紺の麻の
緒の付いた風流な草鞋を喜んだ芭蕉は、加右衛門のことを
「心憎いほどの風流人」と褒めて1句詠みます。

”あやめ草 足に結ばん 草鞋(わらじ)の緒”

(あやめ草の様な紺の染緒の付いた草鞋を履いて陸奥の旅に
 出発するのだ。)


その翌朝、芭蕉は、仙台の城下町の町割りの基点とされた
「芭蕉の辻」から東方への道をとり、塩釜を目指して
旅立って行きました。

仙台藩は、その威光を街道を行く人々に見せるために、
「芭蕉の辻」の四つ角の全てに、城郭風の高楼を備えた建物
を建てていたそうです。

ん?、「芭蕉」は初めて仙台に来たのに、既に、城下町の
中心の地名が「芭蕉の辻」になっていたのは何故?

実は、ここ「芭蕉の辻」には、伊達政宗のスパイとして働き、
その恩賞として、この辻の四隅の城郭風の高楼を授かった
”芭蕉という名の虚無僧”が住んでいたそうです。

諸説あるものの、いずれにせよ、ここ「芭蕉の辻」と
「松尾芭蕉」とは無関係だそうです。

そうだったんだ~。


我々のパック旅行のバスも、名取川を渡って、仙台の市街地に
入りました。

「木の下(きのした)」地区の「陸奥国分寺・薬師堂」へ
向かいます。

(仁王門)



(鐘楼)

奈良時代に創建された「陸奥国分寺」は、1189年、源頼朝が
奥州・藤原氏を追討した際の兵火によって焼失してしまい
ました。

1607年、伊達政宗は、「陸奥国分寺」跡を整備し、同時に
「仁王門」や「鐘楼」などを再建すると共に、新たに「薬師堂」
を建立しました。

焼失した陸奥国分寺の中心部の跡は、次頁の写真の桃山様式の
「薬師堂」の境内として残りました。







バス旅行は、陸奥国分寺を出て、「榴岡(躑躅岡)天満宮」
(つゝじが岡天満宮)へ向かいます。

榴岡(つゝじが岡)は、奥州合戦の際に、奥州藤原氏・四代の
藤原泰衡が、源頼朝軍を迎え撃つために本陣を築いた地だ
そうです。

歌枕にもなっている榴岡天満宮は、昔は、その名の通り、
ツツジの名所でしたが、仙台藩四代藩主・伊達綱村が、
枝垂れ桜を植えて以来、桜の名所として知られています。





境内には、たくさんの句碑、歌碑が並んでいますが、
下の写真は芭蕉句碑です。



句碑の右側の下に、小さな字で、
”あかあかと 日はつれなくも 秋の風 ”と、
芭蕉の句が刻まれていますが、この碑の側面に、寛保三年
(1743年)建立とあります。


榴岡天満宮を出て、仙台市の中心の「芭蕉の辻」へ
向かいます。


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バスで行く「奥の細道」(その11)     ( 「実方中将の墓」 : 宮城県 )  2018.3.13

2018-11-23 10:33:19 | Weblog

(写真は、ぬかるみ道のため「実方中将の墓」へ行くのを断念
する芭蕉と曽良 )

平安時代中期の公家「藤原実方(さねかた)」は、36歌仙の
一人で、「小倉百人一首」にも名を連ねる和歌の名人です。

なかなかの美貌の持ち主で、かの清少納言をはじめ、20人
以上の女性と関係があったとも言われ、かなりのプレイ
ボーイだったみたいです。
驚き!

光源氏のモデルとして、一番有名なのは、前回ご紹介した
「もじ摺り石」の「源融」ですが、他にもいろいろ説があり、
この「実方」もその一人だそうです。

ある時、一条天皇の面前で歌会があり、実方の歌について
藤原行成が批判したため、2人で口論となり、怒った実方が
行成の冠を奪って床に投げ捨てる、という事件が起きました。

実方は、天皇の怒りを買い、「陸奥の歌枕を見てまいれ。」
と、左遷を命じられました。

陸奥守として東北に赴任した実方が、ある日、「笠島
道祖神社」の前を馬で通ろうとした時の話しです。

地元の人々が、神前なので馬から降りて下さいと懇願した
にも拘わらず、実方は「なんの、こんな神!」と無視して
通り過ぎようとしました。

すると、突然、馬が暴れて、実方は落馬し 何と!、そのまま
亡くなってしまいました!

うそっ~?!

蔵人頭になれないまま陸奥守として亡くなった実方は、
その怨念により、雀に転生して、御所の殿上の間の台盤の
上の食物を食べたそうです。

また、都の賀茂川の橋の下に、実方の亡霊が出没するとの
噂も流れました。


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奥州街道沿いに、城下町・白石を過ぎて、笠島(かさしま)に
入った芭蕉は、ここ「笠島の道祖神社」の神罰で落馬して
死んだという、実方中将の墓を訪ねたいと願います。

当時は、この実方中将の墓自体が、「笠島」として歌枕に
なっていたのです。

西行法師がここを訪れた際に、”朽ちもせぬ その名ばかりを
とどめ置きて 枯野のすすき 形見にぞみる”と詠みました
が、芭蕉は、この西行が詠んだすすきが未だある、と地元の人
に教えてもらいます。

芭蕉は、実方中将の墓へ向かいますが、雨が降って道が悪い
ことや長旅の疲れのため、「このぬかるみの道では、笠島を
訪れることは出来ない」と断念し、無念の思いで句を
詠みます。

”笠島は いずこ五月の ぬかり道”

話は3か月前に戻りますが、芭蕉が、奥の細道の旅に江戸を
発つ際に、笠島出身の芭蕉の門人が、餞別の句として、
”武隈の 松みせ申せ 遅桜”を贈りました。

(芭蕉が、笠島に着く頃には、もう桜も散っているだろうが、
せめて武隈の松だけはお見せしたいものだ。)

この話しを踏まえ、芭蕉は、実方中将の墓の近くの「武隈
(たけくま)の松」(二木(ふたき)の松)に立ち寄って
句を詠みました。

”桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し”

(二木の松は、奥の細道の旅の今日までの3か月越しに私
 を待っていてくれた。)

(「二木の松」が歌枕 で、「松」は「待つ」に、「三月」は
「見つ」に掛け、「二木」(ふたき)は「三月」(みつき)
に数を揃えています。)


我々のパック旅行のバスは、「実方(さねかた)中将の墓」へ
向かいます。

芭蕉が立ち寄りを断念したという実方の墓は、仙台の南の
名取市の田園地帯の山際にありました。





小川に架かる実方橋を渡ると、訪れる人も少ない感じで、
実方を偲んで訪れたという西行が追悼歌に詠んだ
「形見のすすき」がありました。

(”朽ちもせぬ その名ばかりを とどめ置きて 
  枯野のすすき 形見にぞみる”   西行)
悲運の死を遂げた「実方中将の墓」は、木の柵に囲われて、
次頁の写真の様にひっそりとした場所にありました。

(左奥は実方の歌碑)

(実方の墓標)
墓の周辺には、実方を偲んだ前々頁の写真の「西行の
歌碑」と、下の写真の「芭蕉の句碑」がありました。



(”笠島は いずこ五月の ぬかり道”  芭蕉)

パック旅行のバスは、「実方中将の墓」を出て、近くの
「武隈の松」(「二木の松」)へ向かいます。

平成26年に「おくの細道の風景地」として国名勝に指定
された「武隈の松」は、根方が二木に分かれた形の老松で、
現在の松は七代目ですが、芭蕉が見たのは五代目の松らしい
です。



(”桜より 松は二木(ふたき)を 三月越し” 芭蕉) 

二木の松の前の歩道を少し歩くと、神社の参道の入り口が
あり、「竹駒神社」がありました。


竹駒神社の境内には、次頁の写真左の”桜より 
松は二木(ふたき)を 三月越し”の芭蕉句碑があり
ますが、これは1793年の芭蕉百回忌に立てられた
ものだそうです。

竹駒神社の竹駒稲荷は、 伏見稲荷、笠間稲荷と共に、
日本三大稲荷の一つだそうです。





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バスで行く「奥の細道」(その10)    ( 「医王寺」: 福島県 ) 2017.11.15

2018-11-22 05:40:59 | Weblog

(写真は、義経の身代りとなって殺された佐藤兄弟の妻たち)

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そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”白河の
関”などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行く
こと以外に、もう一つの目的がありました。

それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡を
たどることでした。

「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生は
まさに栄枯盛衰そのもの、それが芭蕉に世の無常を感じさせた
ためでした。

そして、ここ「医王寺」に芭蕉が立ち寄ったのは、義経を
救った佐藤継信、忠信の兄弟を弔うためでした。

平泉の藤原秀衡の下で旗揚げした義経に従い、兄・継信は屋島
の合戦で義経の矢面に立って討ち死にし、弟・忠信は、京都で
義経の身代わりとなって敵を欺き自害しました。

そして、義経に最後まで忠誠を尽くしたこの佐藤兄弟の菩提寺
がここ「医王寺」なのです。

義経は、頼朝に追われる途中で、弁慶と共に「医王寺」に
立ち寄り、兄弟の父の佐藤基信に兄弟の武勲を伝えました。

佐藤兄弟の妻たちは、自分たちの悲しみを押さえて、2人の
子供を失った姑・乙和(おとわ)を慰めますが、それでも、
姑は深い悲しみに打ちひしがれたままでした。

そこで、2人の妻は、佐藤兄弟の形見の鎧兜を着て、夫の帰還
を装い、「継信・忠信ただいま、凱旋致しました」と、姑に
武将姿の姿を見せて喜ばせました。

この逸話は、婦女子教育の教材として、昭和初期まで国定
教科書に載っていたそうです。

ということは、昔の人は全員、この逸話を学校で習って
いたんだ!
驚き!

歌舞伎や人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」のモデル
が、この弟・忠信だそうです!



パック旅行のバスは、福島県の飯塚温泉の近くにある
「医王寺」(いおうじ)に到着しました。





医王寺は福島市にあり、中世初期に信夫郡を支配した
佐藤氏の菩提寺です。

境内には、佐藤兄弟の墓とされる板碑が残されています。


上の写真は、佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑です。




上の写真は、佐藤兄弟と義経(中央)の石像です。



次頁の写真は、椿薬師堂と、その裏手にある「乙和の椿」
ですが、討死にした兄弟の母・乙和の悲しみが乗り移り、
花が咲く前に蕾のまま落ちるそうです!
驚き!
 


この寺の宝物殿には、弁慶の笈(おい)と義経の太刀が宝
として残っているそうです。

「寺に入りて茶を乞えば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(注)
をとどめて汁物とす。」(奥の細道)

(注)笈(おい):行脚僧が経巻などを入れて背負う道具。
   安宅の関所での源義経への詮議で、山伏姿の弁慶が
背負っていた笈から勧進帳をとりだして読み上げた
のは有名。


”笈(おい)も太刀も 五月(さつき)にかざれ 
 帋幟(かみのぼり)”(芭蕉)

  (弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の
節句には、武勇で聞こえた二人のこの遺品を、紙幟と
ともに飾るのがよいだろう。)






上記の「医王寺」とは別に、奥州街道沿い(白石市)に、
佐藤兄弟ゆかりの「田村神社・甲冑堂」があります。

パック旅行のバスは、「医王寺」の翌日、この「甲冑堂」にも
立ち寄りました。





甲冑堂は、社務所の宮司さんに声をかけて、鍵を開いて
もらわないと拝観できません・・・
宮司さんは、足元も覚束ないくらいのかなりのご高齢なの
ですが、すごい記憶力で、佐藤兄弟について熱く語って
くれました。

併設の資料館も、鍵を開けて頂いて見学しました。



(継信の妻の楓と忠信の妻の初音の像)


(楓・初音と姑の逸話が記載された戦前の国定教科書)

芭蕉も、ここを訪れて、 「馬牛沼の下、鐙越しという岩あり、
この岩より下りて二町程右の方に、継信・忠信の妻の御影堂
あり」と記しています。
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バスで行く「奥の細道」(その9) ( 「しのぶもじ摺り」石 : 福島県 )  2017.11.15

2018-11-21 11:30:09 | Weblog

(写真は「しのぶもじ摺り石」)

芭蕉の「奥の細道」の目的は、「しのぶもじ摺り」などの
「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行くことでした。

芭蕉が、奥州街道を外れて、わざわざ「しのぶもじ摺り石」
を見物に行ったのは、「信夫(しのぶ)」の里が有名な
「歌枕」であり、そこに「文知摺石」があったからに
他なりません。

平安時代、嵯峨天皇の皇子の中納言・源融(みなもとの
とおる)は、按察使(あぜち:監督官)として、陸奥国に
赴任していました。

その源融が、ある日、「文知摺石」を訪ねて「信夫の里」
にやって来ました。

源融は、村長の家に泊まり、美しくて気立てのやさしい村長
の娘の「虎女」(とらじょ)を見初め、虎女もまた源融の
高貴さに心を奪われました。

こうして、二人の愛情は深まり、源融は、そのまま1ヶ月余り
も、村長の家に逗留しましてしまいました。

やがて、源融を迎えるための使いが都からやって来ます。
別れを悲しむ虎女に、源融は再会を約束し、都に旅立ちます。

再会を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、「文知摺
(もじずり)観音」に、百日詣りの願をかけます。

やがて満願となりましたが、都からは何の便りも
ありません。

嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、文知摺観音の「文知摺
(もじずり)石」の面に、慕わしい源融の面影が彷彿と
浮かんで見えました!   

懐かしさのあまり虎女がかけ寄ると、それは一瞬にして
かき失せてしまいました。

そして遂に、虎女は病の床に臥せてしまいました。

ちょうどこの時、都から、源融の歌が寄せられたのでした。

 ”みちのくの 忍ぶもちづり(注) 誰ゆえに 
  乱れ初めにし 我ならなくに ”
 (小倉百人一首:河原左大臣・源融)

 (「もじ摺り石」の乱れ模様の様に、あなた以外の誰の
ために、心を乱す私でありましょうか。)

源融の歌をひしと抱きしめながら、虎女は、その短い生涯を
閉じました。

(注)「信夫 文知摺(しのぶ もじずり)石」:「信夫」は
  福島市内の地名で、「文知摺石」は、信夫の里の「文知摺
  (もじずり)観音」の境内にある巨石。

  「文知摺」とは、石に絹布をあてがい、その上から
忍(しのぶ)草の草木汁を摺り(すり)付けて、石の表面の
乱れ模様を染めたもので、当時、信夫地方の特産品として
都の貴族達にも珍重された。

  「文知摺石」を磨くと、表面が鏡の様になるので、
「文知摺石」は、別名「鏡石」とも呼ばれた。

因みに、この「源融」は、紫式部の「源氏物語」の
「光源氏」のモデルだそうです。
驚き!


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芭蕉が、ここ「信夫の里」を訪れたときには、歌枕として有名
だった「文知摺の石」は、何と!、半分ほど土に埋まっていた
そうで、村の子供が、その経緯を次のように語ったそうです。

この石は、昔は、山の上にあったのですが、ここを通る人たち
が、畑の麦の葉っぱを無断で取って荒しては、この石に擦り
つけて試していました。

地元の人々がこれを嫌い、石を谷に突き落としたので、石の
上面が下になってしまい、半分ほど土に埋まってしまい
ました。

芭蕉は、いかにもありそうな事だと、嘆息しながら句を詠み
ました。

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺(ずり)”

(田植えをする早乙女たちの素早く器用な手さばきに、忍草を
 取っては擦り出していた、昔の手振りがしのばれる。)


パック旅行のバスは、「文知摺石」がある福島市内の「文知摺
(もじずり)観音」に到着しました。



江戸時代には福島藩主の堀田正虎が、明治時代には信夫郡の
郡長が、ここの「文知摺」石の周辺を整備したそうです。


(堀田正虎の顕彰碑)


「文知摺観音」の入口に、上の写真の「芭蕉像」と、次頁の
写真の「芭蕉句碑」がありました。

”早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺”


(もちずり観音堂)


上の写真が、源融の顔が写ったと言う「信夫文知摺り石」
です。


文知摺り石の前には、上の写真の様に、「綾形石」という
もう一つの薄くて平らな石が置いてあり、実際には、
この平らな石で、布地を押し当て模様を付けて染めたらしい
です。


上の写真は、虎女と源融の墓です。


(河原左大臣・源融の歌碑)


(文知摺観音の多宝塔:重文)

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バスで行く「奥の細道」(その8) 安達ケ原の鬼婆(福島県) 2017.11.15

2018-11-20 22:41:22 | Weblog

(写真は、奈良時代に「鬼婆」が住んでいた「岩屋」。)

今回は、「安達ケ原の鬼婆」を訪れますが、先に、その
「安達ケ原 」の「鬼婆(おにばば)伝説」について、以下に
ご紹介します。

ここ安達ケ原の「鬼婆」は、京都のある公家屋敷の乳母
でした。
長年、手塩にかけて育てた姫の病気を治したい一心から、
「妊婦の生肝(いきぎも)を飲ませれば治る。」という易者の
言葉を信じ、遠くみちのくに旅立ち、ここ安達ケ原の岩屋に
たどり着きました。

そして、木枯らしの吹く晩秋の夕暮れ時、生駒之助
(いこまのすけ)・恋衣(こいぎぬ)と名のる旅の若夫婦が
一夜の宿を求めてやって来ました。

その夜ふけ、恋衣が急に産気づいたため、生駒之助は産婆
を探しに出て行きました。

鬼婆は、この時とばかりに、出刃包丁をふるって、苦しむ
恋衣の腹を裂き、「生肝」を取り出しました。

恋衣は、苦しい息の下から、「私は、幼い時に京都で
別れた母を探して歩いているのです。」と語り息を
ひきとりました。

鬼婆は、亡くなった恋衣のお守り袋を見て、昔、別れた
自分の愛しい娘であることに気付き、驚きのあまりに気が
狂い、鬼と化してしまいました!

以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、肉を食らい、
いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」と言われる様になり
ました。

数年後、何も知らずに宿を求めた紀州熊野の僧・東光坊は、
岩屋の秘密を知り逃げ出しますが、鬼婆はすさまじい形相で
追いかけて来ます。
東光坊は、もはやこれまでと、如意輪観音が入った笈(おい)
を降して祈願すると、観音像が空高く舞い上がって、一大光明
を放ち、白真弓(白木のマユミで作った弓)で鬼婆を射殺して
しまいました。

鬼婆は、阿武隈川の川岸に埋められ、その塚は「黒塚」と
呼ばれる様になりました。

奥州街道の道筋ではありませんが、江戸時代、二本松地方を
通る多くの旅人が、「安達ケ原(あだちがはら)の鬼婆」伝説
の地に立ち寄る様になりました。

芭蕉も、奥州街道から外れて寄り道しています。

私は、「安達ケ原」は、奥州街道の「二本松宿」の近くにある
と思っていました。
しかし、調べてみると、二本松宿から4キロ余り離れており、
徒歩往復に2時間かかることが分かりました。

という訳で、1日徒歩5キロ制限の私は、今回の「奥の細道」
の「安達ケ原の鬼婆」も、バスツアーのお世話になります。


(バスの中)

鬼婆が住んでいたという「岩屋」が境内にある「観世寺」
(かんぜじ)に着きました。





観世寺の境内にある色々な岩の前には、それぞれ説明の立て札
が立っています。

上の写真が、鬼婆が暮らしていたという岩屋で、張り出した岩
が笠のような屋根になっています。
ここで、旅人が来るのを虎視眈々と待っていたのでしょう。


上の写真は、鬼婆が旅人を殺した時に出刃包丁を洗った
という「出刃洗いの池」です!
怖っ~・・・

上の写真は、「蛇石」で、この石には、参詣人の安全を守って
くれる白蛇が住んでいたそうです。

上の写真の「安堵石」は、悩み事を聞いてくれるという石
です。

次頁の写真の「胎内くぐり」は、巨岩が組み合わさった、
かろうじてくぐり抜けられる隙間のある岩なので、スリムな
体型でないと無理みたいです・・・


境内の「宝物資料館」では、鬼婆ゆかりの品々の展示が
見られます。


写真撮影は禁止ですが、ここの岩屋から出土したと言われる
鬼婆の使った出刃包丁、人肉を煮た鍋、生き肝を入れた
ツボ等、おどろおどろした品が並んでいます。

更に、鬼婆が殺戮する生々しい場面の絵巻も・・・

背筋がぞっ、ぞぞ~。



観世寺の前の阿武隈川の河原には、写真の「黒塚」が
あります。


黒塚には、杉の大木がそびえていて、その根本に「黒塚の
石碑」があります。


ここには、退治された鬼婆の亡骸が埋められているそうです。



(NHK・BS「鬼伝」から)



(NHK・BS「鬼伝」から)



(NHK・BS「鬼伝」から)



(NHK・BS「鬼伝」から)
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バスで行く「奥の細道」(その7)( 「須賀川」: 福島県 ) 2017.11.14

2018-11-19 17:32:34 | Weblog

(写真は、須賀川を訪れたときの芭蕉と曽良の像)   

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂


芭蕉は、 白河の関を越えた2日後に、「須賀川宿」に入り
ます。

芭蕉は、ここ「須賀川」で、「相楽等躬」(さがら
とうきゅう)を訪ねますが、等躬から大いに歓迎されたこと
もあり、須賀川に7泊もしています。
当時の須賀川は、奥州街道の宿場町で、宿場としての問屋
などの機能はもちろん、この地方のタバコを集荷する商人
などが集まり活況を呈していました。

芭蕉が須賀川を訪れた頃は、こうした繁栄の中で、等躬らの
俳諧をはじめとする文化が開花していました。

芭蕉が、等躬宅に着くと、直ぐに、等躬に「白河の関越え
では、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられます。

「長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、白河での詩人
たちの感慨が身に沁み、俳句を詠むまでに思いが巡りません
でした。」と前置きして詠みました。

”風流の 初めや奥の 田植うた”

(白河の関を越えたら聞こえてきた陸奥の田植え歌、
 それが奥州路に入っての風流の最初のものだ。)

 (注)相楽等躬
   等躬の本名は、相楽伊左衛門といい、中世の白河領主・
   結城氏の子孫で、須賀川の代官の家柄でした。

   等躬は、問屋の仕事をしながら、その商業活動の
   ために、江戸へ度々出かけていました。
   その間に、江戸での俳諧活動に参加し、芭蕉とも交流が
   ありました。
   その後の等躬は、奥州俳壇の宗匠の地位にあり、芭蕉に
   多くの情報を提供して、芭蕉の「みちのく歌枕の地」
   探訪の旅を助けました。

次に、芭蕉は、等躬の友人で、等躬宅の近くに庵を結んでいた
隠世の僧「可伸(かしん)」を訪ねます。

町の片隅でひっそりと暮らすこの僧に芭蕉は心惹かれ、その
心境に感じ入って句を詠みます。

”世の人が 見つけぬ花や 軒の栗”

(西方浄土にゆかりあるという栗の花は、これといって人の目
 を引くところはないが、それは世俗を捨てて、ひっそりと
 暮らす主人の人柄そのものだ。)


我々のパック旅行のバスは、福島県の「須賀川」に到着
しました。
須賀川は、中世には、二階堂氏が支配していましたが、伊達氏
に滅ぼされました。
二階堂氏が支配していた時代の須賀川城の本丸跡には、写真の
二階堂神社がありました。

須賀川の町自体が、須賀川城を破壊して作られたそうで、
現在は、お城の痕跡は何もありません。
江戸時代に入ると、須賀川には代官が置かれ、城下町という
よりも、宿場町、町人町として栄えました。
町の中心部にあったという、芭蕉が宿泊した当時の「等躬宅」
は現在は残っていませんが、等躬の菩提寺の「長松院」に
等躬の墓があります。
ツアーバスは、先ず、等躬の墓があるという下の写真の
「長松院」へ向かいます。



 ”あの辺は つくばね山哉 炭けふり”(等躬)

 (等躬が知遇を受けていた磐城平藩主を訪ねた際に、
  炭焼きの煙が盛んに立っているのを目にして、あの辺り
  が筑波山かな、と詠んだ句だそうです。)

入口の大きな石柱から入って行くと、本堂の左手に、
前頁の写真の等躬の句碑がありました。

案内に沿って本堂の裏手に向かいます。

本堂の裏手には、写真の真新しい巨大なピラミッド型の
墓(?)がありました。

その巨大なピラミッドの裏手に、相楽家の代々の墓が並び、
その中に下の写真の「相良等躬の墓」がありました。



バスツアーは、長松院を出て、「十念寺」へ向かいます。






(”風流の 初めや奥の 田植うた”)

(句意については前述)

十念寺の境内には、上の写真の「芭蕉の句碑」があり、
その左手に下の写真の「市原多代女(たよめ)」の辞世の
句碑がありました。

”終に行く 道はいづくぞ 花の宴”   

多代女は、須賀川出身の江戸末期女流俳人で、芭蕉の句碑は
この多代女によって建立されたそうです。


バスツアーは、十念寺を出て、「可伸庵」(かしんあん)跡
へ向かいます。

可伸庵は、NTT須賀川の裏手の狭い路地にあり、次頁の
写真の様に小さな休憩所と栗の木と芭蕉の句碑がありました。




”世の人が 見つけぬ花や 軒の栗”
(句意については前述)

可伸庵から須賀川のメインストリートに出ると、芭蕉逗留
300年を記念して建てられたという次頁の写真の「芭蕉
記念館」がありました。

芭蕉関連の掛け軸を展示し、奥の細道の放映を行って
いました。

須賀川を発った芭蕉は、途中、「石河の滝(乙字が滝)」
に立ち寄ってから郡山へ向かっています。

我々のバスツアーも、石河の滝に立ち寄ります。

バスを下りて、細い道を進むと、階段の下に「滝見不動堂」
が見え、滝の音が響いて聞こえます。

滝見不動堂の右手に、「石河の滝(乙字が滝)」が
見えました。






滝見不動堂の脇の杉木立の中に、写真の芭蕉と曽良の像と
芭蕉句碑がありました。

”五月雨(さみだれ)は 滝降り(ふり)うづむ みかさ哉” 

(この五月雨の降り方では、さぞや石河の滝は、水嵩に
 耐えかねて埋まったようになっていることであろう。

 水嵩(みかさ)は、”みずかさ”つまり水量のこと。)



奥州街道を少し外れた乙字ヶ滝の見物を終えた我々の
バス旅行は、奥州街道沿いの「安積山」へ向かいます。

小高い丘の安積山の階段を上って行きます。

芭蕉は、ここ安積山(あさかやま)で、「どの草が”花かつみ”
なのか」と地方の人に聞いて回ります。

奥の細道の旅に立つ前、芭蕉が門人に送った手紙には、
「塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみ」と
書いており、花かつみへの芭蕉の関心の強さが分かります。

「花かつみ」とは古来、安積山とともに、「みちのく」の歌枕
とされていたいた花だからです。

しかし、地元の人々に尋ね歩いてもでも、誰も「花かつみ」を
知らず、日が暮れてしまいました。

和歌の世界では、あまりにも有名な花ですが、ところが
その花がどんな花なのか、江戸時代の頃には、本当は誰も
知らなかったのです。
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バスで行く「奥の細道」(その6)(「白河の関」:福島県)    2017.10.11

2018-11-18 11:11:34 | Weblog

(写真は白河関跡)
 
”都をば 霞とともに 立ちしかど  秋風ぞ吹く 白河の関”

(春霞の季節に京都を発って、秋風が吹く頃にようやく
白河関に着いた。)

今回は、上の能因法師の句で有名な「白河関」を訪れます。

「白河関」(しらかわのせき)は、奈良時代から平安時代に
機能していた”国境の関”で、蝦夷(えみし)の南下を
防ぐために築かれていました。

太平洋岸の「勿来(なこそ)の関」、日本海岸の「念珠
(ねず)が関」と並ぶ”奥羽三古関”の一つです。

その後、律令制の衰退と共に関所としての機能を失いました
が、辺境「みちのく」の入口としてのイメージは、 その後も
「歌枕」として残り、ずっと多くの歌人に詠まれ続けました。

ここを通過した能因法師など、時代を代表する歌人たちは、
必ずここで歌を残しています。

そういう訳で、芭蕉としても、歌枕の聖地として、どうしても
訪れねばならない場所でした。
しかし、驚くことに、江戸時代には、関の跡がどこなのか全く
判らくなってしまっており、芭蕉は、関跡を探しながら、
あちこち尋ね歩くハメになってしまいました。
(曽良の随行日記)

芭蕉は、 ”白河の関越えんと”と、意気込んで来たものの、
結局、白河関跡がどこなのか最後まで判明せず、期待に
反して、分からないままで白河の関を超えざるを得なくなり
ました・・・
張り切って、「白河関」を目指して来た芭蕉にとっては、
白河関跡がどこか判明しなかったのは、さぞやショック
だったでしょうねえ~。

芭蕉がここでの句を残していないのは、ホントに不本意だった
からでしょう。

代わりに、曽良が下記の句を詠んでいます。

 ”卯の花を かざしに関の 晴着かな”  (曽良)

 (「白河関を越える際には正装する」、という故事に
   基づいて、白を連想させる卯の花をかざして、晴着を
   着たようにして関を越えよう。)

現在の「白河関跡」の場所を、「白河の古関跡」と認定した
のは、松平定信で、芭蕉から100年も後のことです。

知恵伊豆と呼ばれた定信が、場所を断定して石碑を建てた
くらいですから、現在の「白河関跡」の位置は、間違いないと
思われます。

私は、「白河の関」は、奥州街道の「白河宿」の中にあると
思っていました。
しかし、調べてみると、白河宿から南に10キロも離れた
ところにあり、何と!、白河宿からバスで30分も かかる
ことが分かりました。

という訳で、1日徒歩5キロ制限の私は、今回の「奥の細道」
の「白河の関」も、バスツアーのお世話になります。


我々の乗る「バスで巡る奥の細道」のバスは、「白河の関」に
着きました。

白河の関跡の入口を入った右手に、松平定信が建立した写真
の「古関蹟碑」があります。

当時、白河藩主だった松平定信が、1800年に、この場所が、
「白河関跡」に間違いないと断定した際に建立した碑が、
前頁の写真の「古関蹟碑」(こかんせきひ)です。


上の写真は、「幌掛けの楓」で、前九年の役で、源義家が、
白河関を通過する際に、「幌(ほろ)」(注)を、 この
カエデの木に掛けて休憩したそうです。

(注)次頁の写真の様に、馬上の武者は、背後からの矢を
吸収するために、背中に大きな袋状の布を背負っていますが、
この布を「母衣(ほろ)、または幌(ほろ)」と言います。

(NHK歴史秘話ヒストリアから)

右手に「古関蹟碑」を見て、石段の参道を上ると写真の
「白河神社」があります。

社殿は、仙台藩主・伊達政宗が奉納したものだそうです。

白河神社の社殿の脇には、能因法師、平兼盛、梶原景季の
上の写真の3句を刻んだ「古歌碑」 が建っています。

 ”都をば 霞とともに 立ちしかど  秋風ぞ吹く 白河の関” (能因)  

 ”たよりあらば いかで宮こへ告げやらむ 今日白河の 
  関を越えぬと” (平兼盛)

 (平兼盛が、歌枕の白河関を越えた感激を、都の知人に
   どうやって知らせようか、と詠んだもの。)

 ”秋風に 草木の露を はらわせて 君がこゆれば 
  関守もなし”  (梶原景季)  

(源頼朝が、1189年、奥州平泉の藤原氏を攻める途上、側近
の梶原景季が、白河関の社殿で詠んだもの。)



白河神社に参拝した後、ぐるっと遊歩道を廻って、「白河関の
森公園」へ向かいます。


遊歩道沿いの写真の土塁や空堀は、古代の白河関の関所として
の防禦施設の遺構だそうです。

「白河関の森公園」は、白河関跡に隣接した公園として整備
されています。



この公園の入口近くには、芭蕉と曽良の像が置かれています。
白河の関は、別名「二所の関」とも呼ばれていたそうで、相撲
の「二所ノ関部屋」は、ここから名付けられそうです。
その関係でしょうか、白河関の森公園には、「相撲の
けいこ場」がありました。
我々のバスは、昼食をとるため、白河関跡の近くの「南湖
(なんこ)公園」へ向かいます。

南湖公園は、1801年、白河藩主・松平定信が、大沼と
呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、松、桜、楓
などが 四季折々に楽しめる庭園として築造しました。
南湖公園は、これまでの大名庭園と異なり、武士から農民まで
身分に関係なく、全ての領民に開放されたことから”日本で
最初の公園”と言われています。
大正13年、「南湖公園」として国の史跡名勝となりました。


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バスで行く「奥の細道」(その5) (遊行柳:栃木県)     2017.10.11

2018-11-17 08:16:32 | Weblog

(写真は遊行柳 )

「遊行柳」は、 時宗の宗祖である一遍上人(遊行上人)が、
旅の途中で使用していた柳の杖が、ここに根付いて柳に
なった、という伝説に由来します。

芭蕉は、奥州街道の芦野宿の外れにある「遊行柳」(ゆぎょう
やなぎ)と呼ばれる柳を見に行きます。
芭蕉が尊敬する西行法師ゆかりの柳だからです。

西行法師が詠んだ柳は、冒頭の写真の様に、今でも田の畔に
残っています。

”道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ
 立ちとまりつれ”(西行法師)

(旅に疲れて、道の脇の清水が流れている柳の木の下で、
 しばらく休もうと思って立ち止まった。)

西行のこの歌は、謡曲「遊行柳」の舞台で詠われたため、
これにより、芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られ
歌枕の地になっていました。
芭蕉は、親交のあった芦野地方の領主の芦野氏から、「私の
領内にある遊行柳を見せたいものです」と度々言われて
いました。
ぜひ一度見たいものだと思っていたのだが、ついに今日、この
柳の陰に立ち寄ることが出来た、と芭蕉は感無量になります。
芭蕉は、柳の木の下で、しばしもの思いにふけります。

”田一枚 植えて立ち去る 柳かな”

 (有名な柳の陰で西行法師を偲んでいると、いつの間にか
  時間が過ぎ、気がつくと人々は田を一枚植え終えて
  立ち去ってしまった。)

いつの間にそんなに時間がたったのか、と芭蕉は我に返り、
この場を立ち去りました。

我々のバス旅行は、田んぼ道からの遊行柳への入口を入って
行きます。






那須湯泉神社の参道脇の左手の石囲いの中に、冒頭の写真の
「遊行柳」がありました。



「遊行柳」の傍らに、上の写真の芭蕉の「田一枚
植て立去る柳かな」の句碑がありました。

現在の遊行柳は、何代か植え替えられています。

でも、周辺は、多分、芭蕉の時代から変わらない一面の田んぼ
です。
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バスで行く「奥の細道」(その4)(「殺生石」:栃木県)   2017.10.11

2018-11-16 10:01:37 | Weblog

(写真は、殺生石の”妖怪・九尾の狐”)

芭蕉は、14日間も逗留した黒羽の浄法寺家をあとにして
「殺生石」へ向かいます。
黒羽の城代家老の浄法寺高勝が、用意した馬で送って
くれました。
この馬を引く男が、「短冊に一句書いてくれませんか」と芭蕉
にせがみます。
芭蕉は、風流なことを望むものだ、と感心して、一句詠んで
書いてあげます。

 ”野を横に 馬牽むけよ(うまひきむけよ) ほととぎす”

 (どこかでホトトギスが鳴いている。ホトトギスの鳴き声
  が聞こえる方向に馬を差し向けて、聞こうではないか。)


我々のバス旅行も、黒羽から殺生石へと向かいます。

(バスの中)

「殺生石」(せっしょうせき)は、平成26年に国指定「奥の
細道の名勝地」に指定されました。

その荒涼とした情景は、我々の持つ那須高原の穏やかな
イメージとは異なる独特の雰囲気です。

私は、青森の恐山の風景を思い出しました。

草木が一本も生えていない「賽の河原」(さいのかわら)の
中の緩やかな木製の歩道を、その一番奥にある「殺生石」を
目指して上って行きます。



写真は、「千体地蔵」で、お地蔵様が約800体も並んで
います。
このお地蔵様は、何と!、1人の石工職人によって作られた
ものだそうです!

上の写真は、「盲目蛇石(めくらへびいし)」です。

説明版によると、その昔、五左ヱ門という湯守が、目の見え
ない大蛇と出会い、その大蛇が冬を越すための小屋を、ここに
作ってあげました。

その後、その大蛇は見当たらなくなりましたが、代わりに、
ここに「湯の花」が出現したそうです。

それを見た村人達は、大蛇に感謝して、蛇の首に似たこの石を
「盲目蛇石」と呼んで、大切にしたそうです。

上の写真は、その出現した「湯の花」で、周辺には、温泉
特有の硫化水素ガスの臭いが漂います。


ようやく、写真の「殺生石」(せっしょうせき)に着き
ました。


以下は、この「殺生石」と「九尾の狐」(きゅうびのきつね)
についての有名な伝説です。

 平安時代、鳥羽帝の愛する妃に「玉藻」(たまも)という
 美人がいましたが、実は、この妃は「九尾の狐」の化身
 でした。
 「九尾の狐」とは、唐から飛来してきた”9本の尻尾”を
 持つ”狐の妖怪”です。
 
 玉藻は、鳥羽帝の命を奪って、日本の国を我が物にしようと
 したため、帝は、日に日に衰弱して床に伏せるようになって
 しまいました。
 
 しかし、陰陽師の阿倍泰成が、その妃の正体を見破って
 しまいます!
 そこで、「玉藻」は、「九尾の狐」の姿となって、ここ
 「那須野が原」に逃げ込みます。

 朝廷は、上総介広常(かずさのすけ ひろつね)と三浦介
 義純(みうらのすけ よしずみ)の両名に、九尾の狐の
 退治を命じます。 
 命を受け那須野が原へ向かった2人は、この地で、見事に
 九尾の狐を退治しました。

 すると、殺された九尾の狐は、恨みを残したまま石となり、
 その怨念は毒気となって、近づく人や鳥獣を殺し続けた
 のでした。
 その石が、この「殺生石」(せっしょうせき)なのです。
 
曽良は、この殺生石を見て、下記の句と文を残しています。

 ”石の香や 夏草赤し 露あつし” (曽良)

 「殺生石は温泉の出づゆ山影にあり。石の毒気いまだ
  滅びず、蜂、蝶のたぐひ真砂(地面の砂)の色の
  見えぬほど重なり死す」

「殺生石」の左手の山側に、「那須温泉(ゆぜん)神社」
が見えています。

殺生石から、那須温泉神社を目指して行きます。



那須温泉神社の境内には、更に「九尾稲荷神社」があり、そこ
には、下の写真の”妖怪・玉藻”の化身である「九尾の狐」が
祀られていました。


待てよ・・・、確か、大田原宿の大田原神社の狛キツネ
には、尻尾が何本もあったゾ・・・?

そうか、 (名探偵コナンの口調で
「謎は全て解けた」、 そうだったんだ!

大田原宿の大田原神社にあった、次頁の写真の不気味な
狛キツネは、この「九尾の狐」だったんだ!!

(大田原宿・大田原神社の狛キツネ:(奥州街道・大田原宿))
道理で、狛キツネにしては、気味の悪い妖怪の様な表情をして
いた訳だ。
那須温泉神社の創建は630年で、那須与一が、屋島の戦いの
折に戦勝祈願したそうです。
ここには、「君が代」の歌詞に出てくる下の写真の
「さざれ石」が祀られています。

中山道の下諏訪宿の下社秋宮で見た下の写真の「さざれ石」
と同じ感じです。

(下諏訪・下社秋宮の「さざれ石」:(中山道・下諏訪宿))

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