ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その7)( 「須賀川」: 福島県 ) 2017.11.14


(写真は、須賀川を訪れたときの芭蕉と曽良の像)   

奥の細道の旅ハンドブック
久富 哲雄
三省堂



芭蕉は、 白河の関を越えた2日後に、「須賀川宿」に入り
ます。

芭蕉は、ここ「須賀川」で、「相楽等躬」(さがら
とうきゅう)を訪ねますが、等躬から大いに歓迎されたこと
もあり、須賀川に7泊もしています。
当時の須賀川は、奥州街道の宿場町で、宿場としての問屋
などの機能はもちろん、この地方のタバコを集荷する商人
などが集まり活況を呈していました。

芭蕉が須賀川を訪れた頃は、こうした繁栄の中で、等躬らの
俳諧をはじめとする文化が開花していました。

芭蕉が、等躬宅に着くと、直ぐに、等躬に「白河の関越え
では、どんな句をお詠みになったのですか」と尋ねられます。

「長い道のりを旅してきて、身も心も疲れ、白河での詩人
たちの感慨が身に沁み、俳句を詠むまでに思いが巡りません
でした。」と前置きして詠みました。

”風流の 初めや奥の 田植うた”

(白河の関を越えたら聞こえてきた陸奥の田植え歌、
 それが奥州路に入っての風流の最初のものだ。)

 (注)相楽等躬
  等躬の本名は、相楽伊左衛門といい、中世の白河領主・
  結城氏の子孫で、須賀川の代官の家柄でした。

  等躬は、問屋の仕事をしながら、その商業活動の
  ために、江戸へ度々出かけていました。
  その間に、江戸での俳諧活動に参加し、芭蕉とも交流が
  ありました。
  その後の等躬は、奥州俳壇の宗匠の地位にあり、芭蕉に
  多くの情報を提供して、芭蕉の「みちのく歌枕の地」
  探訪の旅を助けました。

次に、芭蕉は、等躬の友人で、等躬宅の近くに庵を結んで

いた隠世の僧「可伸(かしん)」を訪ねます。

町の片隅でひっそりと暮らすこの僧に芭蕉は心惹かれ、その
心境に感じ入って句を詠みます。

”世の人が 見つけぬ花や 軒の栗”

(西方浄土にゆかりあるという栗の花は、これといって

人の目を引くところはないが、それは世俗を捨てて、

ひっそりと暮らす主人の人柄そのものだ。)


我々のパック旅行のバスは、福島県の「須賀川」に到着
しました。
須賀川は、中世には、二階堂氏が支配していましたが、

伊達氏に滅ぼされました。
二階堂氏が支配していた時代の須賀川城の本丸跡には、

写真の二階堂神社がありました。

須賀川の町自体が、須賀川城を破壊して作られたそうで、
現在は、お城の痕跡は何もありません。
江戸時代に入ると、須賀川には代官が置かれ、城下町という
よりも、宿場町、町人町として栄えました。
町の中心部にあったという、芭蕉が宿泊した当時の「等躬宅」
は現在は残っていませんが、等躬の菩提寺の「長松院」に
等躬の墓があります。
ツアーバスは、先ず、等躬の墓があるという下の写真の
「長松院」へ向かいます。



 ”あの辺は つくばね山哉 炭けふり”(等躬)

 (等躬が知遇を受けていた磐城平藩主を訪ねた際に、
  炭焼きの煙が盛んに立っているのを目にして、あの辺り
  が筑波山かな、と詠んだ句だそうです。)

入口の大きな石柱から入って行くと、本堂の左手に、
前頁の写真の等躬の句碑がありました。

案内に沿って本堂の裏手に向かいます。

本堂の裏手には、写真の真新しい巨大なピラミッド型の
墓(?)がありました。

その巨大なピラミッドの裏手に、相楽家の代々の墓が並び、
その中に下の写真の「相良等躬の墓」がありました。



バスツアーは、長松院を出て、「十念寺」へ向かいます。








(”風流の 初めや奥の 田植うた”)

(句意については前述)

十念寺の境内には、上の写真の「芭蕉の句碑」があり、
その左手に下の写真の「市原多代女(たよめ)」の辞世の
句碑がありました。

”終に行く 道はいづくぞ 花の宴”   

多代女は、須賀川出身の江戸末期女流俳人で、芭蕉の句碑は
この多代女によって建立されたそうです。


バスツアーは、十念寺を出て、「可伸庵」(かしんあん)跡
へ向かいます。

可伸庵は、NTT須賀川の裏手の狭い路地にあり、次頁の
写真の様に小さな休憩所と栗の木と芭蕉の句碑がありました。




”世の人が 見つけぬ花や 軒の栗”
(句意については前述)

可伸庵から須賀川のメインストリートに出ると、芭蕉逗留
300年を記念して建てられたという次頁の写真の「芭蕉
記念館」がありました。

芭蕉関連の掛け軸を展示し、奥の細道の放映を行って
いました。

須賀川を発った芭蕉は、途中、「石河の滝(乙字が滝)」
に立ち寄ってから郡山へ向かっています。

我々のバスツアーも、石河の滝に立ち寄ります。

バスを下りて、細い道を進むと、階段の下に「滝見不動堂」
が見え、滝の音が響いて聞こえます。

滝見不動堂の右手に、「石河の滝(乙字が滝)」が
見えました。






滝見不動堂の脇の杉木立の中に、前頁の写真の芭蕉と曽良

の像と、上の写真の芭蕉句碑がありました。

”五月雨(さみだれ)は 滝降り(ふり)うづむ みかさ哉” 

(この五月雨の降り方では、さぞや石河の滝は、水嵩に
 耐えかねて埋まったようになっていることであろう。

 水嵩(みかさ)は、”みずかさ”つまり水量のこと。)



奥州街道を少し外れた乙字ヶ滝の見物を終えた我々の
バス旅行は、奥州街道沿いの「安積山」へ向かいます。

小高い丘の安積山の階段を上って行きます。

芭蕉は、ここ安積山(あさかやま)で、「どの草が

”花かつみ”なのか」と地方の人に聞いて回ります。

奥の細道の旅に立つ前、芭蕉が門人に送った手紙には、
「塩竈の桜、松島の朧月、あさかのぬまのかつみ」と
書いており、花かつみへの芭蕉の関心の強さが分かります。

「花かつみ」とは古来、安積山とともに、「みちのく」の

歌枕とされていたいた花だからです。

しかし、地元の人々に尋ね歩いてもでも、誰も「花かつみ」

を知らず、日が暮れてしまいました。

和歌の世界では、あまりにも有名な花ですが、ところが
その花がどんな花なのか、江戸時代の頃には、本当は誰も
知らなかったのです。


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コメント一覧

ウォーク更家
乙の字には見えない
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
う~ん、乙字ヶ滝の由来は、滝が乙の字の形をしているからとのことですが、乙の字にはだいぶ無理がある様な気がしました。

我々は、バス旅行で、おしゃべりしながらの移動なので、須賀川から乙字ヶ滝への距離がどのくらいだったか、よくは覚えていません(-_-;)。
hide-san
乙の字
https://blog.goo.ne.jp/hidebach/
乙字ヶ滝は乙の字に見えましたか?

須賀川からは距離があったように思いました。
ウォーク更家
芭蕉だけでなく曽良も
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、これまでの奥の細道で、半分くらいの像は、芭蕉だけでなく曽良も加わっていたと思います。

曽良は、単なる従者ではなくて、芭蕉門下の立派な俳人として、都度、芭蕉と共に句を詠んでいますし、奥の細道を捕捉する様な感じの随行日記も残していますよ。

そうですね、石河の滝は、ミニ・ナイアガラという感じでした。
iina
ミニ・ナイアガラ
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d4d7808ef766b31a76cb136fa3bbffc1
いまは、奥の細道というと芭蕉だけでなく曽良も像に加わるのですね。
    曽良は、単なる従者ではないというのですか ❔

「石河の滝(乙字が滝)」が見えそうな滝見不動堂にも、ふたり連れでした。
                                  此処の滝は、「東洋のナイアガラ」と呼ばれる大分の原尻の滝とよく似ています。

こんなところに景勝地というので、友に連れて行ってもらったのが「龍王峡」でした。なかなかの景観でした。おすすめです。

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