(写真は、義経の身代りとなって殺された佐藤兄弟の妻たち)
図説 地図とあらすじでわかる!おくのほそ道 (青春新書INTELLIGENCE 399) | |
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そもそも、芭蕉の「奥の細道」の目的には、本来の”白河の
関”などの「枕詞」(まくらことば)の地をたどって行く
こと以外に、もう一つの目的がありました。
それは、兄・頼朝から追討された弟・義経の逃亡の足跡を
たどることでした。
「奥の細道」の根底に流れるのは”無常観”で、義経の一生
はまさに栄枯盛衰そのもの、それが芭蕉に世の無常を
感じさせたためでした。
そして、ここ「医王寺」に芭蕉が立ち寄ったのは、義経を
救った佐藤継信、忠信の兄弟を弔うためでした。
平泉の藤原秀衡の下で旗揚げした義経に従い、兄・継信は
屋島の合戦で義経の矢面に立って討ち死にし、弟・忠信は、
京都で義経の身代わりとなって敵を欺き自害しました。
そして、義経に最後まで忠誠を尽くしたこの佐藤兄弟の
菩提寺がここ「医王寺」なのです。
義経は、頼朝に追われる途中で、弁慶と共に「医王寺」に
立ち寄り、兄弟の父の佐藤基信に兄弟の武勲を伝えました。
佐藤兄弟の妻たちは、自分たちの悲しみを押さえて、2人の
子供を失った姑・乙和(おとわ)を慰めますが、それでも、
姑は深い悲しみに打ちひしがれたままでした。
そこで、2人の妻は、佐藤兄弟の形見の鎧兜を着て、夫の
帰還を装い、「継信・忠信ただいま、凱旋致しました」と、
姑に武将姿の姿を見せて喜ばせました。
この逸話は、婦女子教育の教材として、昭和初期まで国定
教科書に載っていたそうです。
ということは、昔の人は全員、この逸話を学校で習って
いたんだ!
驚き!
歌舞伎や人形浄瑠璃の「義経千本桜」の「狐忠信」のモデル
が、この弟・忠信だそうです!
パック旅行のバスは、福島県の飯塚温泉の近くにある
「医王寺」(いおうじ)に到着しました。
医王寺は福島市にあり、中世初期に信夫郡を支配した
佐藤氏の菩提寺です。
境内には、佐藤兄弟の墓とされる板碑が残されています。
上の写真は、佐藤継信と佐藤忠信の墓とされる板碑です。
上の写真は、佐藤兄弟と義経(中央)の石像です。
次頁の写真は、椿薬師堂と、その裏手にある「乙和の椿」
ですが、討死にした兄弟の母・乙和の悲しみが乗り移り、
花が咲く前に蕾のまま落ちるそうです!
驚き!
この寺の宝物殿には、弁慶の笈(おい)と義経の太刀が宝
として残っているそうです。
「寺に入りて茶を乞えば、ここに義経の太刀・弁慶が笈(注)
をとどめて什物(じゅうもつ:代々伝わる宝物)とす。」
(奥の細道)
(注)笈(おい):行脚僧が経巻などを入れて背負う道具。
安宅の関所での源義経への詮議で、山伏姿の弁慶が
背負っていた笈から勧進帳をとりだして読み上げた
のは有名。
”笈(おい)も太刀も 五月(さつき)にかざれ
帋幟(かみのぼり)”(芭蕉)
(弁慶の笈と義経の太刀を所蔵するこの寺では、端午の
節句には、武勇で聞こえた二人のこの遺品を、紙幟と
ともに飾るのがよいだろう。)
上記の「医王寺」とは別に、奥州街道沿い(白石市)に、
佐藤兄弟ゆかりの「田村神社・甲冑堂」があります。
パック旅行のバスは、「医王寺」の翌日、この「甲冑堂」
にも立ち寄りました。
甲冑堂は、社務所の宮司さんに声をかけて、鍵を開いて
もらわないと拝観できません・・・
宮司さんは、足元も覚束ないくらいのかなりのご高齢なの
ですが、すごい記憶力で、佐藤兄弟について熱く語って
くれました。
併設の資料館も、鍵を開けて頂いて見学しました。
(継信の妻の楓と忠信の妻の初音の像)
(楓・初音と姑の逸話が記載された戦前の国定教科書)
芭蕉も、ここを訪れて、 「馬牛沼の下、鐙越しという岩
あり、この岩より下りて二町程右の方に、継信・忠信の
妻の御影堂あり」と記しています。