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01/29萩往還紀行-1(萩城下町、萩上級武家屋敷、萩城址)

2024-01-29 16:09:49 | 旅日記

高校時代の友人二人と共に、萩往還(萩から湯田温泉)を歩きました。毛利輝元が参勤交代の際、利用した基幹道路で

す。一日目は、萩観光をしました。その中の、萩城下町、萩上級武家屋敷、萩城址の模様を掲載します。

1.萩城下町

  メイン通りは豪商の「菊屋家」久保田家」等の商家で占められていました。

其の横の路地に「江戸屋横丁」「伊勢屋横丁」「菊屋横丁」等があり御殿医、  

又、約200-300石取りの下級武家屋敷があったようです。

 「江戸屋横丁」には、木戸孝允(桂小五郎)の旧宅、菊屋横丁には、

高杉晋作誕生地の屋敷が見られました。

○木戸孝允誕生地

○御殿医(青木宅)

○高杉晋作、伊藤博文勉学所

 

 

 

 

○高杉晋作誕生地

○豪商:菊谷家住宅

2.萩上級武家屋敷(堀内地区)

 「萩城城下町」を北の方向に更に進むと、昔上級武士が住んでいた屋敷群が、現在、(堀内地区)保存地として 

 保護されていました。  

  そこに入るためには、堀を渡り更に「北の総門の番所での確認行為を受ける必要があったとの事であります。               

 「北の総門」を出ると、幅の広い登城道が数本位、並行して整然として、萩城址へ向かって走っています。

  一つ一つの屋敷の規模も大きく、「萩藩支藩藩主」ならびに「永代家老クラス」の屋敷であったことが伺われました。  

   第一次長州征討時、幕府側が勝利し、その恭順のために「長州藩は三家老の首級」を幕府側に差し出したと

本で読んだ事がありますが、その家ではないか?と思われる屋敷が散見されました。パネルでは1万石に近い

禄高が表現されていました。 どの屋敷の中にも、夏みかんが植え付けられているようで、その緑色が白い壁と石垣 

と調和し美しく素晴らしいものでした。

 

○北の総門

○パネルには、1万石の録高が表示

3.萩城址

 その登城道に沿って真直ぐに歩行しますと、15分位で右手に毛利輝元公の墓所である「天樹院」がありました。

 時間の都合で立ち寄らずそのまま直進しますと萩城址の入口にあたる「指月橋」に到りました。

橋を渡り、右手の方向に行くと石垣の前に「輝元公像」がありました。更に石垣に囲まれた道を前進すると、急に前方が開

け、左右を大きな堀に囲まれた「萩城址」が目の前に現れました。

 内堀と天守閣跡の石垣が左右に展開しています。左側の天守閣跡地には、五層五階の「望楼型天守閣」が、そびえ

立っていたらしい。その一層目は200畳広さであったそうです。なぜか、明治7年に解体されたようです。  

○指月橋

 

○天守閣跡

01/29萩往還-1(萩城下町、萩城址、)

 

  

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