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01/16北陸街道の旅-7(小松宿からあわら温泉ヘ)

2024-01-16 20:15:23 | 旅日記

〇小松宿からあわら温泉ヘ

本日は、JR小松駅からJR加賀温泉駅まで電車移動、その後、大聖寺宿、細呂木宿を経て金津宿(あわら温泉駅)までの24kmを歩行する計画でした。大聖寺宿を過ぎ細呂木宿を目指す際、10kmの方向違い(片道5km)をしていることに気が付き、タクシーを使用して加賀・越前国境を越え、JR細呂木駅まで行く結果となりました。そのため、JRあわら温泉駅までは電車利用となりました。残念なのは、方向違いしたばかりに楽しみにしていた「御国境名号の碑」「細呂木関所跡の碑」「一里塚跡名号碑」等の旧跡をを見ることが出来なかった事です。

◇JR加賀温泉駅

加賀市内の駅では特急列車が最も多く停車し加賀温泉郷各地(片山津温泉、山代温泉、山中温泉、加賀橋立温泉)へのバス路線が発着している。

目の前には、白山が迫っていました。

●大聖寺宿へ向い、加賀路を耽々歩きます

●敷地一里塚

加賀国の場合、北陸街道南端の橘茶屋から北端の倶利加羅峠まで一八里(七四キロメートル)で、その間一八ケ所に一里塚があった。その一つである。

●冨樫の馬塚

足利時代、遠征帰りの富樫三郎成衡は吹雪によって遭難したが、どこからか餅をくわえて来た愛馬により、飢えをしのぎ一命を取り留めた。しかし翌日、当地に来ると馬は一歩も進まなくなったので、腹を立てて切り殺したが、なぜ動かなくなったのか調べてみると、近くの藁屋の主人が馬にかみ殺され、そこには餅が散乱していた。成衡は、馬は主人を助けるためとはいえ、人を殺したことに罪を感じて動かなくなったと悟り、塚を築き馬を供養したという。

 

●菅生石部神社

 加賀国では一ノ宮である白山比神社に次ぐ二ノ宮の格式(越前国では三ノ宮)を得て広く信仰されるようになり、境内を含む福田の庄が京都の北野天満宮領になったことから天神信仰との結びつきが強まりました。歴代領主や為政者からも崇敬され木曾義仲、足利義持、豊臣秀吉、前田利家、山口玄蕃、富樫昌家などから社領の寄進や社殿の営繕などが行われています。江戸時代に入ると歴代大聖寺藩主前田家や本藩である加賀藩主前田家から崇敬され(前田家の遠祖は菅原道真だった為、特に天神信仰には厚く保護されました。)、随時社殿の改修、造営が行われ、多くの寄進や奉納が行われています。菅生石部神社は明治29年には国弊小社に列しています。

●大聖寺宿

大聖寺川に架かる敷地天神橋を渡ると、大聖寺前田氏10万石の城下町、宿場で栄えた大聖寺に入ります。ここは加賀藩の分家で、加賀三代藩主の三男利治が大聖寺藩7万石の藩主となり、後に10万石となったそうです。


   

●大聖寺藩関所跡

●路を間違えた地点

左へ行くべき所、橋を直進し5km歩行(往復10kmのロスを生じた)

●タクシーでJR細呂木駅へ

●やっと、あわら温泉へ到着

40軒余の宿が整然と建ち並ぶ温泉街・あわら温泉。
開湯は明治16年、『関西の奥座敷』として中京・京阪神のお客様に親しまれており、年間100万人を越す浴客が訪れる北陸有数・福井屈指の温泉です。

01/16北陸街道の旅-7(小松宿~あわら宿)

 

 

 

 

 

 

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