NOW現状打破!写真28 内藤基裕ブログ

写真の賞をとる!まで更新され続けるブログ!!

文章と写真

2006年05月29日 11時38分28秒 | Weblog
 文章と写真は

 その人のパーソナリティーが出やすい。

 写真も文房具並みに普及してきたから

 よけい顕著だ。





 二年前ぐらいにある人の写真を見る機会があった。

 






 わからなかった。


 わかろうとしたけど、わからなかった。

 ?

 だらけ。
 
 




 なんというのだろう。

 画面には対象物はうつっていなくて

 手巻き式フィルムカメラで

 一枚目を出すために数回シャッターを切って

 誤って写ってしまったカットというかなんか…。

 それが地面であったり、空であったり

 木々であったり、ビルであったり

 するんだけど見所がない。

 下手するとこれは裏か?と思うほど

 写ってなかったりする。














 3日前、ネットをしていて

 偶然見つけた。

 その人のホムペ。

 写真がホームページに掲載されていて

 やっぱり

 ??????

 だったけど

 どういうわけだか、懐かしかった。

 

 







 見終わり、ブログ?(日記?)らしきもの発見。

 見た。

 笑ったね。

 いや、逆に解けた。

 



 そこには引用に次ぐ引用、
 
 そして難解を極めた文章の羅列。

 城壁というか遮断というか

 眠気を誘うどころか

 永遠に眠りたくなるような文面。

 




 あっ読ませるきねーな。(笑)








 ホント、密接なんだなって思いました。

 


 


















 追記

 ポートフォリオを掲載したいと思う。

 写真を見れるようにしたいと思う。

 がんばって作るようにします。

 

 いつになるかはわかりませんが…。














 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

若いカメラマン

2006年05月27日 05時10分50秒 | Weblog
 形はどうあれ、写真を仕事にしたい人は

 意外に多い。

 でもそれは容易いことだ。

 作品を作らずとも

 就活をすればいい。

 世間的にはカメラマンになれるわけだから。

 そっちの方がなりやすい。









 写真を仕事にしたいという人は多い。

 

 




 

 

 

 

写真(銀塩)がなくなる話しのつづき

2006年05月23日 10時34分34秒 | Weblog
 いわゆる20世紀的な物の銀塩は

 衰退をしていくという話し、

 「ホントはそう思ってる」と「Web写真界隈に行ってきた」

 で書きました。

 あれは、物質的な衰退を言っているのではない、と

 思います。

 終わって当然なものだ!!とか

 ゾンビで半生命体だ!!とか

 発言は過激ですが、心境の的へ向けたものであって、

 物自体のなくなりを告げてはいない。

 フジ、コダックの倒産をいっているのではない。


 あれは、現在の写真の雰囲気、温度をいったものだと思っている。



 

 

風間さんに会った。

2006年05月22日 09時50分37秒 | Weblog
 写真家の風間健介さんという方がいる。

 毎日、井の頭公園で写真を売っている。

 風間さんのホームページをみて、そこにある日記が

 壮絶で、どんな人かと思い、散歩がてら実際会いに行ってみた。

 会ってみると、柔らかい感じの人だった。

 こんにちは と

 言った僕に ども とだけ答えてくれた。

 









 風間さんの路上写真は生活のためでもあるが
 
 パフォーマンスにもなっている。

 







 ちなみに上の写真は風間さんに留守を任された時、

 友達を座らせて撮った写真である。
 

 



 

 

過去から飛ぶこと

2006年05月20日 00時47分23秒 | Weblog
 昨日、郵便局からフジに写真を

 ファイルに15枚入れて出しました。

 道を撮ったものです。

 一度、環七や246をポートレート風に撮りたかった。

 で、それを撮って、まあ、見れるかなと思って

 出しました。














 話し変わりまして、本当にぶっ飛ぶ経験は10代のうちだといいます。

 今、同じものを見ても、捉え方がやはり若いうちは柔軟で

 驚きが大きいといいます。故に印象が強いと。





 写真作品を作る場合、過去にさかのぼって

 それをバネにして溝を跳ぶことになると思います。

 後ろから引っ張りだしてくるしかないと思います。

 到達点Aがあるとして現在地Bからの借用は不可能です。

 物理的に現在地Bから到達点Aまで、

 また、到達点Aからさらに先を引っ張ってくることは未来が見えることになるからです。

 確信的にあるのは技術だけだと思います。














 これが仕事の写真となると

 また様子が違ってくると思う。

 むしろ、逆だ。

 未来の、これから売り出す商品の、文字通り青写真を撮らなければならない。

 






 

 

 

 
 
 

実際は!!

2006年05月18日 00時51分25秒 | Weblog
 俺って奴はバカ垂れだ。

 目指す、真逆の物を撮影している。

 なんか、タイポロジー的に

 道とか撮っちゃってますよ。

 うぷっ。

 なぜに??

 自分でもわからん。

 気がつくと撮ってたというか、

 本人撮ろうとした時は面白いと思ったのでしょう。

 うああ

 見たことある風景!!

 あるあるあるあるあるある 






 

 









 こやつをフジに出す!!

 




 

 

 

歩道橋の上から撮影した時の気持ち

2006年05月17日 01時25分02秒 | Weblog
 内原さんのブログから

 梶井基次郎の「檸檬」を読みたくなり読みました。

 その中の「路上」より





 高い方の見晴らしへ出た。それからが傾斜である。

 自分は少し危ないぞと思った。

 傾斜についている路はもう一層軟かであった。

 然し自分は引き返そうとも、立留って考えようともしなかった。

 危ぶみながら下りてゆく。

 一と足下りかけた瞬間から、既に、自分は片手に泥がついてしまった。

 然しまだ本気にはなってなかった。

 起き上がろうとすると、力を入れた足がまたずるずると滑って行った。

 今度は片肘をつき、尻餅をつき、背中までも地面につけて、

 やっとその姿勢で身体は止まった。

 止まった所はもう一つの傾斜へ続く、ちょっと階段の踊り場のような

 場所になった所であった。

 自分は鞄を持った片手を、鞄のまま泥について恐る恐る立ち上がった。

 何時の間にか本気になっていた。

 誰かが何処かでみてやしないかと、

 自分は眼の下の人家の方を見た。

 それらの人家から見れば、自分は高みの舞台で

 一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった。

 誰も見ていなかった。

 変な気持ちであった。 

web写真界隈に行ってきた。

2006年05月13日 23時33分50秒 | Weblog
 ビジュアルアーツギャラリーでやってた。

 写真家、内原恭彦さんと山田大輔さん

 キャノンの高橋淳子さんを交えたトークイベント。

 話していた内容は、これからの写真の流れと

 新世紀のこぼれ話的なことに終始した。

 前者はやはり、web写真界隈というだけあって

 そのネットワークのありかたが問われた。

 で、写真(これまでの)って終わるの?に

 話しは徐々に流れていった。

 個人的に終わるだろうに1票だった。

 逆に終わるとこみたいって気持ちもあった。

 



 歴史的に戦争とかも昔はチャンバラで、次に鉄砲ってなったから

 やっぱ実践的な物が残っていくと思う。

 型としては残るけど、今、刀もって戦争する人いないもんなあ。

 かたち的にはかっこがいいんだけど。

 (たぶんスタウォーズがライトセーバーなのは

  絵的にいいからだと思う。)




 とにかく僕にとっては写真は実用でなくてならないと思ってるので。

 

 









 で、全体的にトークが昨日のブログをなぞるかたちになっていたので

 僕は時間の押し迫る最後に質問してみた。

 

 挙手




 「僕はなんかちまちまと残っていく銀塩より

  何か起こりそうなっていうか、なんだろ

  爆発的な、来たーっていうのみたいんです。」(僕)



 「そういうのは自分でやってください(笑)」(山田先生)



 「若いときだよねえ、10代とか来たーって感覚。なかなか出会わないなあ。」(内原さん)

 
 「えっ僕はまあ出会いますよ」(山田先生)


 「写真じゃなくてもいいんです!なんていうか、昨日のブログのゾンビの話しと

  絡めてお聞きしたいんですけど。」 (僕)


 「んー○○○~~~×××(聞き忘れた)答えになってないかあ?」(山田先生)


 






 僕的には今後の具体策というか売り出し品を聞きたかった。

 でも、そんなのあったら自分でやるよなあ

 言わないよなあ

 って思い返して

 ちょっと恥ずかしく、同時にそうだよなあって合点していた。

 

 

 

 

 







 

 

 


 


 

 
  

本当はそう思ってる

2006年05月12日 22時45分51秒 | Weblog
 山田先生のホームページを毎日見ていて

 写真は20世紀的な産物とよく言われている。

 最新の日記抜粋コピペ  ↓

 何度も書いていることだが、繰り返す。写真は二十世紀的なものだ。故に二十世紀と共に終わって然るべきものだ。しかし、終わっていることを知らないが故に存続しているものでもある。living deadであり、ゾンビだ。死んでいることを忘却しているが故に生き続けているぼろぼろの反-生命体だ。

   中略

 この消滅の兆しは同時に「二十世紀的な写真」(僕らが当然のように受け入れてきた写真だ)に先行した「十九世紀的な前-写真」の最終消滅を意味するものでもあった。十九世紀的な「前-写真」とは、そもそもが「光の痕跡を留める技術」として十九世紀初頭にニエプスが創出した技術だ。光をアスファルトの上に捕らえておくこと、銀板の上に捕らえておくこと、印画紙の上に捕らえておくこと。それが、ダゲレオ・タイプも何も貫く原理だった。その原理が崩れた。写真がWebに載る。Webは、ディスプレイに載る。このディスプレイは、しかし紙やアスファルトとは違い光を留めようとしない。それ自体が揺らめく光の束だ。発光体だ。Webを媒体とする時、写真は「光を拘束すること」を放棄した。光は、光のままに放置され、拡散するにまかされるようになった。


 今後、方向性は様々あるにしろ写真をやってく上で

 聞き流せない話しだと思う。

 明日、詳しく聞いて、次につなげていこうと思う。
 

昼休み写真

2006年05月07日 19時30分30秒 | Weblog
 小学校3年生からサッカーをはじめて

 高校までやった。

 スポ少や部活に入ると分かると思うけど

 それは生活の中心な訳で

 365日の350日は練習や試合で
 
 どの年代の時もそれだけ時間がさかれたと思う。

 でも、やっぱ部活とかになってくると

 だんだん嫌になって、筋トレの日とかは

 ホント、もう行きたくないってなる。

 んでもって、友達とバックレて

 遊ぶんだけど、その遊びがまたサッカーで(笑)。

 でもねえ、そういう時は

 時間とか忘れるくらいツボ入っちゃって

 ぼろぼろになるまでやるんです。

 (昼休みのサッカーとか体張ってたし)

 やってることは同じなのに

 モチベーション高かった。

 




 ずーとそんなことしてて

 大学入ってあの熱はどこかにいった。

 嘘みたく。








 高校でサッカーを辞めたとして

 かれこれ10年経とうとしている。

 

 なぜに?写真かわからないけど

 なぜに俺はサッカーしてたんだ??




 









 




 

 


 




 



 
 

 

 

 

川崎市岡本太郎美術館

2006年05月06日 00時34分05秒 | Weblog
 今日、川崎市岡本太郎美術館に行ってきた。

 会場は結構人がいた。

 いや、すごいいた、と思う。

 作品を観てると、次の人がどんどん来て

 観にくかったから。

 こういうのは美術館ではあまりない。

 僕は写真をやりはじめて行くようになったけど

 そう数多くは美術館には行かない。

 目星をつけていくようにしてるから

 ふらっとも入らない。

 ただ、川崎の岡本太郎美術館は逆だ。

 まわりの緑地をふらつくのが気持ちいいし

 プラネタリウムあるし

 ふらっとしたくなる。

 

 そういうのがあって人が多い様に思う。
 

 

 

 

WB(早稲田文学、Vol,03.2006.03フリーペーパー)

2006年05月03日 23時39分27秒 | Weblog
 新宿ベルグにおいてあったフリーペーパーより。

 はしょりつつ、歪曲してカキコ。

 高い鉄塔があって、地上100メートルほどに

 八畳のスペースがある。

 鉄柵があり、鉄塔自体も極めて頑丈。

 外敵もなし。天候にも左右されない。

 とにかく、考えうるヤバさは何もない。

 こんな場所で、ただいるだけのバイトがあったとして

 らくちんで、お金もいくらも払うというのに

 やらない人がいる。

 それはどういうひとか?

 高所恐怖症のひとである。


 安全をまもられているのに??

 絶対、ただ、いさえすれば、何も起こらないというのに??

 それは高所恐怖症は外からの攻撃で揺らぐ恐怖とは違う
 
 内在的な恐怖との対峙からくる恐怖だからである。



 つまり、あなたじしんが、不意に鉄柵から

 一躍したくなる衝動にかられるということ。

 誘惑に晒される「自由」を完封することの難しさ。

 100パーセント安全でも誘惑のヤバさはついてまわる。

 サルトル曰く、「自由」は「めまい」をおこす。

 こいつがやっかいだ。

 では、どうすればよいのか?

 その間、ゲームなり、鉄柵のスケッチなり、

 何かに没頭するというのが、ひとつの解決法である。

 そのバイトに、何らかの「目的」や「使命」や「役割」を

 感ずるも一策。

 いずれの場合も対峙の裂け目はふさがれ、

 現に私たちは「自由のめまい」を懐柔しながら生きている。

 さらに、積極的使用法として

 自己拘束→アンガー

 社会参加→ジュマン

 を「他者」を絡めて展開してゆく~~~…???

 こっから先はよく書いてることわからんし、意味分からんかった。

 以上

 撮影先の帰りの電車で乱読。

 風景撮影100枚。ROW!!



 

 

 

 

書き抜き

2006年05月01日 12時51分35秒 | Weblog
 写真作品を、カメラとレンズと印画紙で

 定義することはもはや不可能であろうし、

 不可能でないとしても不毛である。

 人が写真と見なすイメージは

 印刷物、絵画、版画、ヴィデオインスタレーション、

 CG、アニメーションフィルムにまで

 拡散し、しかもそれらのほとんどが
 
 カメラ、レンズ、印画紙といった技術から大きくはみ出している。

 さらに、さまざまな画像加工ソフトの

 巧妙さと精度が人間の判別可能性を越えてしまっている以上、

 写真が、現実を表象しているという前提は成立しえないし~…。


 清水穣 「白と黒で   写真と…」  P16より