NOW現状打破!写真28 内藤基裕ブログ

写真の賞をとる!まで更新され続けるブログ!!

急ですが最終回です。

2006年07月23日 23時06分50秒 | Weblog
 先日送った新世紀は駄目でした。

 電話がこないから。

 



 残念です。

 バッテンを認めて

 再出発しようと

 思います。


 


 再出発にあたり

 このブログも閉鎖します。

 賞を取るまで

 続けるつもりでしたが

 それはホームページ開設に引き継ぎます。

 形的にはに移転をいうことになります。




 100回程続けたブログ。

 大風呂敷になってしまいすいません。

 どうしても言葉中心のため

 言ったものが撮れずじまいになってしまい

 言葉が先攻するブログになったかもしれません。

 その程を

 新設のホームページは改善し

 写真を中心にお送りしたいと思います。

 回数は減るかもしれませんが

 ポートフォリオを作るたびに

 掲載したいと思います。

 


 ただ、もう少し時間がかかります。

 時期的には8月からがメドです。

 このブログを見てくれた

 すべての方

 今度はホームページで会えたら嬉しいです。

 


 と言うことで

 近日、出来た報告を

 もう一回、こちらでもしますので

 後一回、お付き合い御願いいたします。

 

 

2006年07月17日 23時58分48秒 | Weblog
 夏は何処かに行きたい。

 でも、やらなくてはならないことが多すぎ。

 特に仕事。

 デジタルになって

 仕事は膨大になった。

 

 週1回、海か山に

 触れれれば

 やり過ごせるはずなのだが。

2006年07月17日 23時57分06秒 | Weblog
 夏は何処かに行きたい。

 でも、やらなくてはならないことが多すぎ。

 特に仕事。

 デジタルになって

 仕事は膨大になった。

 

 週1回、海か山に

 触れれれば

 やり過ごせるはずなのだが。

久々読みました。

2006年07月13日 00時15分46秒 | Weblog
 詮じつめて言えば、このピンナップ・ヌードの女に私は女の外皮しか感じない。

 そこには個人性も密室性も、要するに想像力の介入することのできる

 一切のものが全く欠落しているのだ。

 (反対に性にもし人間的な何かがあるとするならば、

 それが想像力ときってもきりはなせぬものだというその一点だけだ。)

 あるのは表面と外皮だけ。

 いかにも女たちは微笑みかけ、その太腿をそれを眺める者に向かって開いているかに見える。

 だがそれは悪しき錯覚である。

 この盲点の中の女たちはけっして私やあなた、

 要するに一人一人の男に向かって開いているのではない。
 
 それは万人に向かってなのだ。

 この公共性は全くのところ商品の存在形態そのままである。

 商品もそのつややかさと衛生性を消費者の万人に向かって開いているのである。

 要するに私はグラフィズムの中の一切の性が否定され、

 超越されねばならないものと考える。

 なぜなら性はあくまでも個人的で直接的なものでなければならないはずだから。

 たとえ今、性が歪められ、ディストートされたものであるとしても、

 その現実から出発するしか方法はない。

 その現実を忘れさせ、衛生性と公共性という美名の下で性の解放を

 あたかも達成されたかのように提示するめくされグラフィック・セックスを粉玉せよ。

 性とはやることであってけっして見ることではない。

 網点の中の百万のグラマラスな女体より、

 一人の偏平でがに股の他ならぬこの女をやってやってやりまくれ。


 中平卓馬の写真論 グラフィズム幻想論より抜粋

Pot cast 

2006年07月07日 00時14分43秒 | Weblog
 村上隆の芸術道場(Pot castバージョン)より

 ビートたけしのお笑いウルトラクイズ

 創世過渡期VO1,DVD編から抜粋

 「たけしさんはホントなんだろっ、すごいっちゃーすごいんだけど

  やっぱりー、なんでしょうね、

  人間が動物になる瞬間をよく知ってるっていうかな?

  動物になっていったいなにをやらかすか!?

  それはルールの中にいた人間がやるはずの

  ないことなんだけど、でもTVの前にいるのも

  同じ人間な訳で、そこでその人間が違ったポテンシャルを発揮する時に

  起こる笑いというかな?

  ワニにどれだけ近寄れるかとか(爆笑)!!」

  

 

中田英寿

2006年07月04日 01時19分09秒 | Weblog
 中田が引退した。

 たんなるスポーツニュースとして

 受け取れなかった。

 

 

 それは

 サッカー選手以上に

 社会に人間性がはみ出ていたからだ。



 
 長嶋以来の

 日本人のメンタリティーに

 なると思う。