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もりおか暮らし物語 盛岡ブランド日誌

盛岡ブランドは市民一人ひとりの暮らしの活動から生まる物語です。ひとりの盛岡大好き人間の盛岡自慢の情報日誌です。

啄木終焉の地2

2006-07-21 14:17:56 | 啄木・賢治
 啄木終焉の地に建っている碑は、東京都が建てたものである。説明版(写真)に詳しく解説がある。団平坂の説明版にも啄木のことが書いてあり、次の短歌が記されている。


 えん先にまくらださせて、
 ひさしぶり
 ゆふべの空にしたしめるかな
啄木直筆ノート最後から2首目の歌である。

啄木終焉の地

2006-07-20 14:42:53 | 啄木・賢治
 長期出張中のことを書こう。
 時間をやりくりし、文京区小石川の啄木終焉の地を訪ねた。
 30年以上前に、小石川の近く、文京区春日町に1年ほど住んだことがあるが、啄木終焉の地が近くにあることはしらなかった。盛岡出身者は「啄木と賢治のことは当然知っている」と東京で知り合った友人たちは思い、何とかそれに応えようと、なけなしのお金で、角川文庫の宮沢賢治「注文の多い料理店」と新潮文庫の「石川啄木集」(上下)を買い、読み始めた頃である。今も、この本は我が家にある。ちなみに「石川啄木集」は29版、「注文の多い料理店」は14版後の開廷版、どちらも当時、超ロングセラーであった。
 さて、啄木終焉の地だが、団平坂のそば、小石川図書館の近くの閑静な住宅地の中にひっそりとあったので、探すの難渋した。小石川図書館に寄って、場所を訪ねると、親切に教えてくれ、簡単なチラシも渡してくれた。さりげなく、親切だった。週末には何人も啄木ファンが訪れるのであろう。応対も慣れたものだった。碑の前でしばしたたずみ、最後の時を思った。4月13日、節子夫人、お父さんの一禎さん、友人の若山牧水さんとに看取られて啄木は亡くなった。その時、娘の京子ちゃんは外で桜の花びらと遊んでたという。京子ちゃんはどの辺で遊んでたのだろうか、京子ちゃんを探しにでた牧水さんは、どんな顔で京子ちゃんを見つめただろうかと、想像してみると、私もなんだかこみ上げてきた。

短歌甲子園

2006-06-16 07:33:54 | 啄木・賢治
 啄木顕彰を研究者・愛好者だけではなく広く全国に、そして次代につなげようとという趣旨で、全国高校生短歌大会(短歌甲子園2006)が開催される。このほど岩手日報にも概要が掲載された。
 西には正岡子規の故郷松山市で、俳句甲子園が開催されている。最初は小さな大会だったが、会を重ねるごとに認知度が高まっている。短歌甲子園もまた、育て上げるものだろう。

 教室の窓より遁(に)げて
 ただ一人
 かの城址(しろあと)に寝に行きしかな

 気持ちがよくわかる歌だ。このような思いを学生時代にいだいた人も少なくないだろう。啄木の出身校盛岡中学(現、盛岡一高)は、当時、盛岡城跡(後、岩手公園)近く、石割桜の側(現、岩手銀行本店等)にあった。5分も歩かないところに荒れ果てた石垣だけの城跡があった。

 今の高校生たちはどんな短歌をつくるのだろうか。願わくは技術に走ることなく奔放な歌をつくってもらいものだ。そして、次の啄木の誕生を願おう。

北帰行

2006-06-15 07:06:00 | 啄木・賢治
 少し前「北帰行」(外岡秀俊著、河出書房新社)を古本屋でやっと探し当てて、読んだ。啄木の話題で上司からこの本を紹介された。昭和51年12月発行だから、30年前の著書だ。著者は現在、朝日新聞東京本社編集総局長、大学4年生の時の作品である。一人の青年が、啄木の歌集「一握の砂」を手に、夜行列車で北に向かう。盛岡、渋民、函館、札幌、釧路・・・。一握の砂に記されている、啄木ゆかりの町が、この小説の舞台となる。
 本の主人公は、「私にとって、啄木は固有名詞ではなく一個の普通名詞にほかならなかった。・・・誰もが、青春という魔性の言葉を、特定のイメージを通じて濾過されてから受け容れるように、私もまた、啄木というイメージを通して、私の青春にしっくりとした重みと手触りを与えようとしていたのかもしれない」と語る。
 本の中の、盛岡は実に懐かしい。「盛岡の駅前に立つと、早朝の厳しい寒気が頬に刺さるように張りつめ、雪雲の下に白一色に覆われた街並みは、薄闇の構内から抜け出たばかりの私の眼に痛いほど鮮やかに焼き付いた」 新幹線ができるまで、誰もが経験した冬・早朝の盛岡駅の風景だ。
 本には、沢山の啄木の歌が載っている。数えてみると全部で18首。歌碑に刻まれている有名な歌が多いが、あらためて主人公と啄木の青春を重ね合わせてみると、「若い」というだけではない、「青春」という言葉が重みをもって感じられる。
30年前、なぜ、この本に出会わなかったんだろうか、と思った。
 同時に、啄木をたずねて盛岡に来る方々の「思い」をもっと感じなければ、と思った。

啄木歌碑第一号と宮沢賢治

2006-06-11 09:15:30 | 啄木・賢治
 やわらかに柳あをめる
 北上の岸邊目に見ゆ
 泣けとごとくに
 
 岩手山を背景にして北上川河畔の渋民啄木公園(鶴飼橋付近)にたっているこの歌碑は、啄木の文学碑第一号として有名だ。チャグチャグ馬コが終わり、夕方、啄木記念館と啄木公園に行ってきた。神奈川の観光客が歌碑をバックにして写真をとっていた。少し会話をしたのち、歌碑の後ろに回って、あることを思い出した。「大正十一年四月十三日無名青年の徒之を建つ」とある。4月13日は啄木の命日で、没後10年にあたる。この無名青年の中に宮沢賢治もいたことを思い出した。しかし、記憶は定かではない。・・・と思います、と観光客に話し、家に戻ってから調べてみた。
 歌碑は、東京と盛岡の文学青年たちが「啄木会」というものを結成し、募金し建てたものだという。その発起人たち「啄木会同志53名」の中に、宮沢賢治も名をつらねている。啄木会成立宣言文には「誰が大将でやるんでもない。皆啄木会全体でやるんだから会員全体の責任だ」と書いている。会費は50銭、「ある人はうんと出し、ない人はださなくていい」とも書いている。盛岡と東京で金田一京助氏や江馬修、土岐善麿氏らの文芸講演会を開催し、街頭募金をして資金を集めた。渋民村民や教え子らも碑の運搬などを手弁当で担ったという。
 宮沢賢治さんが啄木会でどんな役割を果たした定かではないが、思いは全て「無名青年の徒之を建つ」という言葉に込められている。
 (注/写真は5月上旬に撮影したものです)

啄木学級

2006-06-09 07:04:11 | 啄木・賢治
 石川啄木記念館の「啄木学級」というのを知っているだろうか。敷地内に移築された渋民尋常小学校の校舎の教室で、啄木のことを学ぶ。先生は、館長や学芸員など記念館の職員。遠来の観光客などを対象にかなり前から行われており、例年7月下旬から8月上旬の観光シーズンに行われる。
 この啄木学級を週末に定期的に開催できないか、という話がある。勿論、少人数で運営している記念館なので、要員的に定期開催は難しい。そこで、ボランティア先生をお願いしてはということになる。昔風にいえば、啄木と同じような「代用教員」である。講義時間はわずか30分ほどだが、昔ながらの教室は、啄木を想起させるには充分な舞台だ。若々しい代用教員を探してみよう。

啄木祭(6月3日)とあんべ光俊

2006-06-02 06:59:44 | 啄木・賢治
 毎年、この時期になると、盛岡市渋民で啄木祭が行われる。会場は姫神ホール。地元の子供達の楽隊や合唱団の演奏があり、年毎にかわるメーンの企画がある。今年のメーン企画があんべ光俊(みつとし)さんのコンサートだ。
 あんべさんは釜石出身。ヒット曲「遠野物語」で全国区のシンガーソングライターになった。平成4年~5年にかけては「イーハトーブの風」がヒットし、岩手県立大学の歌「風のモント」をつくっている。
 「イーハトーブの風」では私も思い出がある。この曲は、今は休止状態のAUNホール(中三デパート)の企画で誕生し、盛岡劇場の第一回市民創作舞台公演「KENJI]のテーマ曲として使われ、優れた合唱曲ともなり、国民文化祭いわてのイメージソングのひとつともなった。かつ盛岡市の企画で「岩手公園」で姫神・星吉昭さん野外ステージが組まれ、100人の小学生たちによる合唱「イーハトーブの風」は圧巻だった。これらの企画にプロデュース側の一員として関わったが、その期間を通じて、あんべさんの歌は、爽やかな透明感のある歌ではあるが、歌いこむごとに、そして聞き続けるごとに情感が深まる歌だと感じた。
 あんべさんは、イーハトーブの風ように、啄木というよりは「宮沢賢治」というイメージが強い。私も、「なぜ、啄木?」という思いはあった。しかし、あんべさんは、近年になって啄木の短歌に曲をつけて歌われるようになった。啄木が青春・望郷の歌人なら、あんべさんもまた、現代の望郷のミュージシャン(歌人)なのかもしれない、勝手に想像すると納得する。今度のコンサートでは啄木の短歌に曲をつけた歌が何曲か披露される。啄木との出会い、じっくり聞いてみたい。
 啄木祭あんべ光俊コンサートは、6月3日(土)午後1時30分から
 会場は、盛岡市玉山区渋民の姫神ホール 前売り2800円、当日3000円
 問い合わせは 石川啄木記念館019-683-2315
 盛岡市と玉山村が合併して半年。なかなか玉山地区に行く機会がない。この機会を利用し、啄木記念館や啄木歌碑第一号の渋民公園、啄木ゆかりの宝徳寺などを散策するのもいいだろう。
 

函館と啄木

2006-05-23 06:10:32 | 啄木・賢治
 函館の大森浜海岸には啄木像がある。そこから啄木一族の墓がある立待岬が見える。大森浜は砂浜で、地域の人は、こここそ「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたわむる」と啄木が歌ったところだという。この歌は、生前出された唯一の歌集「一握の砂」の冒頭を飾り、啄木一族の墓にも刻まれている。啄木研究の第一人者で、金田一京助さんらと啄木全集の編纂に関わった岩城之徳さん(個人)も、大森浜が、と言っているので、有力な説に間違いないだろう。函館で20日に行われたフォーラムでも、場所の特定をめぐる話がでた。
 そう思って、翌日、しみじみと大森浜にたたずんでみた。が、どうもしっくりこない。この歌は明治41年6月23日から24日にかけて作られている。東京で、収入もなく鬱々としていた時期で、突然、歌のイメージがわきあがり55首徹夜で書き上げた中の一首だ。だから詠われた舞台としての大森浜は、追憶の場でしかない。啄木の世界は、もっと広いのではと思った。東海の小島とは、世界から俯瞰してみた日本そのものではないか。「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」と詠った寺山修司の歌を思い出した。
 

図書館と啄木

2006-05-22 06:34:55 | 啄木・賢治
 井上ひさし氏の優れた戯曲のひとつに「父と暮せば」がある。その会話の中に、図書館の役割が出てくる。手元に戯曲がないのでうろ覚えだが、「真実を伝えていく」という役割だと記憶している。本を貸し出したり、閲覧するという役割の前提として、真実(歴史)を後世に伝えるための資料や文献を収集し、活用しなければならないということだろう。
 先日、観光で函館に行ってきた。五稜郭のそばに新しい図書館があったので寄ってみた。見事な図書館だった。開放的な書庫に感動した。(まだ、新しい岩手県立図書館をみていないので、比較はできないが)
 この図書館には啄木の直筆資料が沢山収蔵されているので有名だ。そこで、司書の方に尋ねてみた。その方の前の職場が「函館市文学館」で啄木のことも詳しい。
啄木資料のほとんどは「函館啄木会」からの寄託資料で、市のものではないとのこと。空調環境と防火、防犯体制の整った収蔵室をつくっているとのこと。
 その収蔵室に収められている直筆資料の一部が、函館市文学館で啄木生誕120年記念ということで公開されていた。それが、なんと啄木ローマ字日記をはじめとする日記類。ローマ字をはじめ丁寧な筆体でびっくりしたが、晩年は体の不調のせいだろうか、筆体がふぞろい気味である。直筆のもつ説得力はすごい。啄木はいいかげんな嘘つきでは決してない、と感じた。ひとつひとうの事象を丁寧に記述する。下書きをしたかのように訂正箇所が認められない。借金メモにしてもそうだろう。返す気のない借金を記述しておくであろうか。啄木のことを少し誤解していたような気がした。
 こうした資料を長年保存してきた函館の図書館の役割は大きい。

岩手公園

2006-05-13 08:49:53 | 啄木・賢治
 先日、岩手公園の秘密を知ろう!とうたった「盛岡城ツアー」のことを書いたが、このほど、盛岡ブランドの発信のため、岩手公園の名称が変更されるという報道があった。どんな名前になるのか、興味はつきない。
 さて、この岩手公園と啄木&賢治について、少し考えてみたい。啄木が盛岡の街を去ったのは明治39年春、代用教員になって渋民に戻った。岩手公園は明治39年9月15日開園で、啄木は岩手公園を見ていない。二の丸にある歌碑「不来方のお城の草に寝転びて空に吸はれし十五の心」は、昭和30年、啄木生誕70年を記念して建てられたものだ。揮毫した金田一京助氏はこの年、文化勲章を受けている。「啄木が生きていたら」と感慨深いものがあったに違いない。啄木の中学校時代の岩手公園はまだ岩手公園ではなく、ただの城跡、という風情だったと思われる。後、啄木はまだ見ぬ新しくなった岩手公園に夢を馳せて、小説「葬列」に岩手公園のことを書いている。
 賢治はハイカラになった岩手公園をハイカラになった近代的な盛岡の街並みと一緒に体験している。明治42年が盛岡中学入学なので、岩手公園は既に整っている。
そして、すぐに第九十銀行本店(現、啄木賢治青春館)や盛岡銀行本店(現、岩手銀行中の橋支店)が出来、大正2年には、東北初の近代劇場「盛岡劇場」が誕生している。文語詩「岩手公園」の最後にあの有名な一節がある。「孤光燈(アークライト)にめくるめき、羽虫の群れのあつまりつ、川と銀行木のみどり、まちはしづかにたそがるる」
 啄木・賢治ばかりではなく、多くの盛岡市民にとって、「盛岡城・岩手公園」は悠久の岩手山、秀麗な姫神山、清流中津川、母なる大河北上川とともに、「暮らしの象徴」なのである。