母方のご先祖は桜島の大噴火の時、桜島から都城に逃げ延びて土着したとお袋から聞いた。
お袋幼少のころは大邸宅の子女だったとのことであったが、祖父の散財によって財をなくしたとのこと。その墓はひっそりとしている。
ただ、お袋は大正15年(1925年)生まれであるから、1914年(大正3年)の大正の大噴火の時ではなくその前の140年前の桜島安永の大噴火と推察する。
吉都線谷頭駅前の通りに面して、しまうつりの碑と石川理紀之助の胸像が並んで建てられています。
100年たっても移住者の生活は苦しく前田正名の要請をうけ秋田の農聖といわれた理紀之助とが自費で1902年から再興に取り組み6か月で復興。その裏付けがネットでHITした。
桜島ドライブインのHPに桜島噴火の歴史記述がある。この中で『安永8 (1779)年10月1日、南岳の南側中腹から爆発が起こり、井戸水が沸騰、海水は紫色に変わり、激しい鳴動が小石や灰を一面に飛ばしました。あたりは真っ暗、火山雷まで引き起こり、死者は140人余りに及びました。噴火口は高免と古里の2カ所で、当時の模様を描いた絵が残されています。この噴火で海底噴火や隆起が起こったため、6つの島が現れました。現在でも残っているのは新島(雄島)、岩ばかりの硫黄島、獅子島、中之島といった島々です。
この噴火で、住民たちは宮崎県の山田町谷頭(たにがしら) などへ移住しました。とある。
谷頭には30数家が移り住み、十字路の一角に移住の記念碑が建っています。高さ2mぱかりの粗末な自然石で、正面には"しまうつりの碑"、左側には安永8年に桜島が噴火したこと、裏には移住者の氏名が刻まれています。桜田、桜森、島盛、新島と桜島に縁のある姓で、明治になって農民も姓が許されるようになったとき、桜島を懐かしく思って付けられたのでしょう。記念碑の根元には桜島の溶岩が積んであります。』宮崎県山田町谷頭とは現在の都城市山田町谷頭のこと、おじさんが谷頭に住んでいます。
今から約240年前のお袋が生まれる前約150年前の桜島安永の大噴火の時のことである。
その150年で財を無し祖父で財をなくしたということになる。
お袋が言うには、谷頭に大きな門があって屋敷へは結構歩いたと聞いた。まだまだ調べなければいけないことが山ほどある。
曽祖父までは、謄本でなんとかたどり着けたが、それ以降がかいもく見当がつかない。
この写真は、
HPから参考にさせていただいたものである。
ま、ぼちぼちしらべるか?