空に問う。

空に問うても果てがない

無には至れないかな?

2015-01-13 21:13:05 | 日記
部屋の神棚は自分なりに考えて、ラフな仕様にしました。どこへ行っても持ち運べるような・・・・。心が定まっていないせいで、ブレてブレてダメ人間になっていますけど・・・・・。ぱっくりとガラスで切った傷もなんとなく癒えていて、良い調子になってきたんだろうに、心が重くてしょうがない。これは神様のせいでもなんでもない。自分がずっとイジけてるから、心が折れたまんまなんだろう。イジけるとロクなことなんてない。誰のせいにしたって起こってしまった現実は変えられない。惨めな自分を憐れんで楽しようとしてるみたい。プチ鬱なんだと思うけど、これは自分で立ち上がるしか方法がない。

今は、色んな意味で、自分と「神様」を引き離してる。傷つくのを恐れてるからからかなぁ?必要とされなかったかつての自分を引きずってる。だからうまい言葉が浮かんでこない。でも考えてみると嫌々生きてるのは昔と同じだな笑。騙し騙し生きてるから辛くなる。そりゃあそうだ。居場所なんて探してただけだから・・・。

でも、楽しいことが見つからなくなって本当にどれくらい経ったんだろう。

仏の風刺週刊紙シャルリー・エブドの銃撃事件。本当に痛ましいテロ。言論の自由を奪う行為だと・・・・。でも、ほかの国のほかの神様を揶揄して米を買う行為ってなんなんだろう?本当に笑いになっているんだろうか?昔から風刺画って文化っぽいけど、笑えないのも多い。神を侮辱されて、自分たちの存在を否定されるって構図は日本人には分かりにくいけど、もし”大切な人を傷つけるような罵声”を耳にしたら腹が立つでしょう?日本人が思う八百万の神の概念と、イスラム教のムハンマド(預言者ね)の神の概念はもちろん違うけど、大切な存在を侮辱されると腹が立つでしょ?欧米の「自分たちがすべて正しい」って物差しで見ると、アラブやアジアは未開の地なんだろうけど、優秀な民族が他者をこけ下ろすことでしか優劣を見極められないのであれば、それが正しいとは思えない。まあ暴力に訴えたことは過ちだと思うけど・・・・。だから他人の価値観や信仰を侮辱するようなやり方をマスメディアが認めてはいけないんじゃないのだろうか?昨年末に合ったソニーのハッカー攻撃と同じ。例えば一国の代表を暗殺するようなコメディ映画に意味があるのか分からない。

だって、自分がその立場にあって、笑いものにされたとしたら、そりゃあ絶対に腹が立つと思う。そこで笑えるのが大物なんだろうけど、モノマネと風刺画じゃ文化のレベルが違う。・・・・風刺週刊紙シャルリー・エブドは通常5万部の発行部数が300万部に増刷されるらしい。もちろん興味がないので見ることも買うこともないけど、不幸が富を生むんじゃ本末転倒してる気がするんだけど。

テロは徹底的に糾弾するべきだけど、相手の立場や文化や宗教を否定することももう止めないとね。実際にあの程度で言論の自由を叫んでるのは、ちょっと違う気がする。認め合えないのであれば干渉するのはナシです。逆に言えば言論も武器になりえたのだろうから・・・・・。まあ、日本人的な思考では到底理解できないテロ事件でした。でも犠牲者の方には心よりお悔やみ申し上げます。

だから・・・なのですが。

いくら本を読んで知識を得ても、ぜんぜん神様のことなどわかりません。そんなモノいないよ、と一笑に付されることが多いのが日本。でもその裏ではパワースポットで神社巡りやスピリチュアルなものにハマってる。それも宗教と言えば宗教なんだけど、日本人は個人的に行う行為については宗教とは見ないしていないし、集団で行う行為(氏神さんの例祭とかかな)に対しても、当たり前として受け入れ過ぎていて逆に「運気を手に入れる」って、どこか宗教っぽい感覚に対して自覚がないんだろう。知らず知らずに神を称えていると言うのに、自覚がまるでない。現世ご利益信仰が身に着きすぎているんだよね。そういうおいらもその一人笑。

今回、神棚を据えることになったのも、神主さん不在の神社にお神酒を持って新年の挨拶に行ったら、地区の総代の人たちが年始に合わせて、無料でお札を配っていたから。値段(玉ぐし料かな?)を訊いても言われないから、お金はあくまでも寄付みたいだった。地元の神社でいただく神札の倍額は寄付したけれど・・・。いただいた以上、無下には出来ないし、家の神棚で合祀するのも変な気がして、自分がお祀りすることにした。で、20年来通い続けてる神社で昨年祈願して貰ったお札があったので、一宮と三宮を祀ろうと思ったけど、二宮は少しだけご縁があったのし、お礼を兼ねて神棚を据える前に神札をいただきにいった。何故だか、ずっと顔を出せなかった笑。成り行きで、石見一二三宮が一堂にそろったわけです笑。だから神宮大麻もいただいて、形だけは正式な神棚にしました。お宮は現代風のモダン神棚。お水は毎日替えるけど、お米と塩は1日と15日で、榊は枯れたら交換って無理のないスタンスでお祀りすることにしました。

三宮さんの境内には、猿田彦命をお祀りしてる”足王神社”という神仏習合スタイル(権現さんです)の神社があり、ここの神札も初詣の際に無料でいただいた。ここに来ると、いつも泣きたい気持ちになって童心に返る。何故か、ホッとする神社なのです。摂社が独立した感じの神社なのですね。だから鳥居も別にあります。

ここ数年、現職の神主に祟られるとした超イレギュラーが出来事があったので、いろいろ神道のことを調べました。調べた結果、ちゃんとした手順を踏んで必要なものがすべて揃ったから完璧に呪詛(呪いと呼んでいいかは解かりません。調伏とでも言うのかな)が出来るだろうと思いました。まあそういう邪な神官ですから、本来その人が神と思い込んでいるのモノが神とは限りませんが、呪詛と同時に潔斎も行えるし、誰かの偽りの頼みにしてやれば神官自体にわざわい成すこともないのだろうと思います。現においらと敵対する役割を担ったのは、神主とおいらの直属の上司でしたし。同時にやるのでしょうね。〇〇さんがおいらを、おいらが〇〇さんを互いに疎んじているようにして。

まあ、詳しい手順は分かりませんが、表の世界でも暗躍されたのは事実でしょうし、語られた話の中には信じられないような嘘や欺瞞があった。でも、やられた本人ならばやった相手の検討はつくもの・・・・・。だって、その神主と揉めだしたあたりから雲行きが怪しくなったのは事実ですからね。けん制もされましたし、まるで自分が当てたバチみたいに他人の不幸を嘲笑っている楽しそうな姿を見たことがありますから・・・・・。でも人間性もないくせに神職という肩書だけで尊敬する社会っていうのも考え者だと思いました。こいつに正月や節分に祈願を受ける氏子さんたち気の毒ですね。みんな不幸になるでしょう。

悪いのは、この神主と神主の無くなった父。普通の八幡宮だから、祀ってる神様も検討がつく。おいらの家の氏神さんも地元の八幡宮。だからふと思いましたね。神主にはそれ相応なバチが当たればいいけど、その八幡宮の神様自体には罪はないのだから、そこは分けて考えるべきと。人を憎んで神を憎まずです。そのスタンスならば、神を疎ましく思うことはないと気が付きました。外道は外道。外道に奉仕されている神さんも気の毒に思います。

実は三宮さんに”意識して”通い始めたのは昨年からなんです。ながくなるので端折りますが、500年くらい前に遠い先祖がこのお宮で神職をしていたよう。けど、なんら実感はありません。正一位の神社で神主さんがいないなんてひどい有り様。だから地元の商売が「???」なのもわかります。三宮(さんくう)神社と地元民は呼んでいますが、正式には「大祭天岩門彦神社」。いったい何人の人が知っているんだろう・・・・。

先祖が奉じていたのもきっと何かのご縁だろうと思い、今は通ってる。一人でも忘れなければ神は居てくれるだろうと思うから。まあ三宮だから、石見地方を代表する神様であり、浜田市においては総氏神さんでもある。まあ、あんまり偉そうに言えない笑。おいらも昨年まで、ずっと長い間忘れていたうちの一人だから・・・・。でも三宮さんの拝殿の前に立っても何も感じない。「ある」ことはわかるんだけどね。・・・でもお隣にある小さなお社の足王神社の前では何だか素直になれる。弱い自分でも許してもらえるような気がする。小さなころは親戚のばあちゃんに連れられてよく足王神社には通っていたみたいだから、三宮神社の印象がなくても「ああ、足王さんがあるところ」っていつも思っていた。けど、本当に心の片隅にありながら、お詣りしなかった。それは本当に不思議でならない。忘れようとしていたと言うか、あえて避けていたというか。

人が忘れると神は消えると言います。人々が忘れ去り、朽ちた神社は日本全国に無数にあると訊きます。小さな地方都市の神社の神主さんは副業を持っている。お賽銭や祈願の収入だけでは食べていけないからだ。だから社務所に神主さんが常駐してるお宮は少ない。しかし正月や節分には神主さんが居て、お札やお守りがいただける。だけど家の神棚の神札は別で用意していたので、せめて肌守りがあればいいなと思っていたら、神札を無償でいただいたわけだ。

この2年は本当にいろいろあって、幾度となくいろんな神社に足を運んだ。不安が増していたので、思いつく神社に参った。二宮である多鳩神社に足を運んだのも20年ぶりくらいだった。でも多鳩神社の宮司さんとの会話の中で、三宮が市の総氏神さんだと教えていただいた。で、参拝した直後に先祖の話を伯父さんから訊いた。これもなんだか不思議な縁だな。

三宮さんの中に足王神社という神仏習合の神社がある。三宮神社の摂社が独立したのだろう。猿田彦命が祭神だが、同時に足王権現として祀られている。小さなお社の前には石造りのろうそく台と線香たてがある。住んでるところとは離れているので来る機会はなかったけど、親戚のおばあちゃんが足王神社を厚く信仰していたので小さなころに何度か、この神社の方へはきた記憶がある。三宮さんと言われるとピンと来ない時があるけれど、足王さんと訊くとすぐに分かる。おいらの中で三宮は、足王さんのあるところの神社だった。まあ、ここまで時間を有したけれど、不思議なご縁に導かれていたのも事実。ぼんくらなので、やっと導かれたけど、もう少し早く知りたかったな。せめて、この2年の最初の方で解かっていたら、こんな惨めな結果にはならなかったと思うけど、それは仕方ない。神として、総氏神として、昔ご先祖が神職として仕えていたとしても、おいらはその存在を忘れ去っていたのだから・・・・・・。本当に失礼なことをしてきたと思う。まあ、それが判明したからといって、ご利益や光明がもたらされたわけでもないけど・・・。そんなもんだろう。

しかし、あれほど強力な呪詛があったのに、家族に死人が出なかったのは、そういう護りもあったに違いない。もちろん20年間崇敬してきた神社の神のご神威だろうと思う。何重にも目を掛けて貰えたから、とにかくこの神の祟りや呪いでは誰も死ななかったんだろう。でも、割に合わないと感じてる自分が居るのも確かだ。そういう心境で向き合うべきではないと思ったから、神と共にいない自分になろうと決めた。これからの人生が不安だらけになったからだ。それに死んでも仕方ないとすでに人生を諦めていたからだ。自分の魂なんて超軽いし、所帯をもっているわけじゃないから困る者もいない。死を覚悟しながら、呪いと向き合っている内に、神の矮小さを感じたのもまた事実だった。なんら応えては貰えない。それはその時の自分にとっては、耐えられない気持ちだった。けど、それは素直な感情だった。願いを叶えてくれない神は不要になった。

だからこそ、願いを叶えない神を知ることが出来た。それは水や空気やそういう性質の存在と同じものなんだろうと。生き物を根底から支える力こそ、神様なんだろうと。ここで神なんて信じないとならなかったことこそ救いかも知れない。ロクな職にはありつけなくても、今度こそそういう有り余る自然を感じながら生きていたいと思えた。


まあ、足王神社には信奉会もあるから、正月ならばもしかすると肌守りがいただけるかなと期待していたら、足王さんも三宮さんも神札もいただくことになった。神社とは少し距離を置くと決めていたけど、やっぱりこういう運命なんだなぁと諦めた。でもおいらに出来るのは、神さんを忘れないことのみ。そして神さんを伝えていくこと。願い事なんてしないし、叶えても貰えないだろうし、愛されているとも思えない。でも忘れなければ、神」はこの地に留まって暮らす町を故郷を暖かく見守ってくださるような気がする。

とにかく地元の神様を「忘れない」と心に決めた。はじめて故郷を大切に思った。だからもうどこにだって行けそうな気がする。

今はグダグダで何も決めてないけど、一人でもいいから毎日感じて忘れないことを誓った。そのうち嫌でも何とかなるだろうし、するだろう。これはおいらの問題だから神さんは関係ない。

まだお招きして(来てもらえたと思いたい)3日目だけど、どうなろうとどこへでも一緒に行ってもらおう。信じるものが、この空白を埋めてくれると信じながら・・・・・。

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