今年の旧正月は2月19日ですが、神道や風水は立春を新年と見立てております。旧暦ですから毎年変わりますしね・・・・。
だから、おいら的には今日が新年一日目にあたります。やっと2015年がやってきました。小さくあけましておめでとうございます。なのです。
今日からは負を払拭して、なるたけ楽しい出来事を綴っていこうと思います。
自分としては自分の身の上に起こった不幸すべてをそうした悪いモノのせいにはしていません。自分の愚かさや責任も感じています。ただそれを上回るほどの事象が発生したのも事実で、それは常に心身を脅かし、心休まることはありませんでした。やられたたらやり返す。そんな喧嘩上等な気持ちでいたわけでもありません。倍返しするほどおいらには知識も力もありませんからね。でも起こった事、それに対処することは、憎しみをぶつけるような悲しい作業でした。言葉にしたら、それは主語をなくし、感情に落ちるのは、相手にぶつけた醜い言葉になってしまいます。『●●さんが大嫌い』と声にして非難したとします。でも心に残るのは『大嫌い』だけなのだそうです。
誰かの悪口を言った後に、なぜだか罪悪感が湧くのはこの『大嫌い』の感情だけが心に落ちるからです。誰に対して発した言葉なのか、感情は理解できないのだとか。だから結局はすごく難しい解釈になりますが、相手の幸せを願えという無理難題にも一理あるのですね。誰かの不幸を願えが自分が不幸になり、例えば憎い敵であっても、相手の幸せを願えば、自分が幸せになり救われるということなのかもしれません。だから相手にぶつけた言葉は、まんまおいらに跳ね返り苦しくて辛い気持ちになったのも事実です。
どんな防御も、この脳生理学の現象を阻止することは出来ないでしょう。心の中で相手を「憎い」と思うだけで同じ効果もあるようです。だから、悪いことを企んでいる人間はそもそも感情が切れておかしいのか、相手も誰かを憎んだ分、自分の放った言葉の数々に苦しんでいるわけです。まあ、相手方は蟻の列を乱すみたいに楽しんでいますから、もしかすると先天的な脳の障害や病気がある人なのかもしれませんね。そういう相手と闘うのは、普通の神経と常識を持っている人ならば不可能でしょう。大嫌いが好きな人って、おそらく多くはいないと思う。もし罪悪感が湧いたら、自分の醜さに気が付いて、その度に心を改めるでしょう。それが出来ない脳みそをいくら責めても無意味と同じ。悪を楽しむ心は、おいらにはありません。もしコンプレックスがあって、そういう構造の闇の心に変化したとしても、それは悪事を働く理由にはならないと思う。病院に行くべきだ。
自分自身を例に挙げても、神の存在を意識するようになると、なんだか不埒な心や感情や気持ちは消えて、誰かの幸せを祈ることが出来るようになった。他人を蔑んでいるだけの自分が愚かに思えたんだ。だから、神を奉仕する立場の人がおのれの醜い感情に溺れてしまうのは不思議でしょうがない。心(脳)を病んでいるからなんだろう。
時々思いました。例えば努力で越えられない壁があったとして、自分ならばどうしただろう。もう学ぶことも諦めて、歳だ歳だと年齢に甘えて、それを周囲にも求めては同情を買う姿勢。人間って、それで本当に満足できるものなんだろうか。少なくともおいらは、それでも努力したと思う。努力しても報われないこともある。でも報われたいから努力するわけでもない。だから失職した仕事に関しての未練はもうない。おかしなくらいない。後悔しないように毎日頑張ってきたからだろうと思う。
周囲から可哀想に思われてる、そんな自分に甘えたら、自分は自分じゃなくなる気がした。それがプライドや誇りなんだと思う。彼は可哀想な自分自身を認めてくれず、擁護してくれない相手を逆恨みした。頑張って生きてる人に足枷をつけた。自分を追い抜かせないために・・・・・。でももうそんな心が弱い人間の事はどうでもいい。惜しみない努力で、おいらも心の闇と闘ってきた。死を甘く夢視る自分を罰してきた。事故にあって「なんであのとき死ななかったんだろう。もしあのときに死んでいればこんな未来はなかっただろう」と嘆く経験をした人は多いだろう。おいらもその中のひとりだった。でもいつだって弱い自分に負けたくなくて努力した。堕落して死を受け入れた方が楽だと思うときもあった。自分に負けたくないと思うことは、自分に勝つってことではない。一緒に支えながら生きていくと言うことだ。
誰かを呪うことは犯罪じゃない。それが成就されても因果関係は証明されない。現行法では裁けない。
自分ならば罪の意識に苛まれてしまうだろう。でもそれを罪とも思わない人間が居て、その人がたまたま神職だった。罪や穢れの塊みたいな人間なんだろう。自分にしてもそうだけど、そこまで周囲に関心持ってもらえるようなキャラクターじゃないでしょう。すべてが敵に思えるのは自意識過剰だからです。誰もあんたのことは関心ない。本当はそれが悔しくて悲しくて仕方がないんでしょう。でもね、他人を苦しめて楽しんで、そしてまた失った行くんです、人間らしさ。人としての在り方。他人の不幸でしか、自分の幸福を知る由がないなんて、それはもう人間とは呼ばない。例えば脳に疾患があったとしても、罪穢れが生きがいになるのなら、それはもう神職でもないし、同じ人間と見做すことは、おいらには出来ない。
―――呪われた者の権利として主張してる訳じゃない。おいらを知ってる人、知らない人もいる。でもおそらく知ってる人がプログを読んでくれていたら、おのずと誰の事を書いているのか分かるだろう。心の中に「この人は危険だ」と認識出来ればとりあえず対処はできる。近づかなきゃいいんだから。思いあがりですが、啓蒙してるつもりもあったんです。呪い殺されるかもしれない人の日記と思う人もいるだろうし、呪いから脱する日々を綴った記録だと見てくれる人もいるでしょう。でも同じような苦しみの中にいる人もいるんじゃないだろうかと思いました。そういう邪悪な人間に出会ったら、事故にでも遭ったと思って逃げ出した方がいいと思う。他人の命を慈しめない人間の形をした異形のモノは確かにこの世の中には居たりするんだ。
憎しみがあれば、いつまでもその人は心の中に居座り続ける。憎しみをコントロールできずに悩んできたし、自分を持て余してた。でも愛してる訳じゃないから、憎しみってヘンですよね。関心もないし、興味もないし、元々好きでも嫌いでもない人間を憎み続けるなんて不可能です。
だって人間はいつか死ぬために生きているのではなく、生きているから生きているだけなのだから、心の中にある、そのモノの正体を突き止められたら、それでいいんです。憎めば憎むほど、相手に似て来ます。それに気がついたから、引き返すことが出来ました・・・・。
新年一発目もこうなりましたが、これはこの一年の反省です。
今年の抱負は、自分を生きること、です。
自分の命をないがしろにせずにまずは自分のために生きること。それが出来なかったばかりに弱い部分を突かれました。まだまだ万全じゃありませんが、楽しい自分を探す旅を始めようと思います。くさくさもあるでしょう。いらいらもするでしょう。でもそういう自分をまとめ上げて人生を楽しめる自分になろうと思います。
だから、おいら的には今日が新年一日目にあたります。やっと2015年がやってきました。小さくあけましておめでとうございます。なのです。
今日からは負を払拭して、なるたけ楽しい出来事を綴っていこうと思います。
自分としては自分の身の上に起こった不幸すべてをそうした悪いモノのせいにはしていません。自分の愚かさや責任も感じています。ただそれを上回るほどの事象が発生したのも事実で、それは常に心身を脅かし、心休まることはありませんでした。やられたたらやり返す。そんな喧嘩上等な気持ちでいたわけでもありません。倍返しするほどおいらには知識も力もありませんからね。でも起こった事、それに対処することは、憎しみをぶつけるような悲しい作業でした。言葉にしたら、それは主語をなくし、感情に落ちるのは、相手にぶつけた醜い言葉になってしまいます。『●●さんが大嫌い』と声にして非難したとします。でも心に残るのは『大嫌い』だけなのだそうです。
誰かの悪口を言った後に、なぜだか罪悪感が湧くのはこの『大嫌い』の感情だけが心に落ちるからです。誰に対して発した言葉なのか、感情は理解できないのだとか。だから結局はすごく難しい解釈になりますが、相手の幸せを願えという無理難題にも一理あるのですね。誰かの不幸を願えが自分が不幸になり、例えば憎い敵であっても、相手の幸せを願えば、自分が幸せになり救われるということなのかもしれません。だから相手にぶつけた言葉は、まんまおいらに跳ね返り苦しくて辛い気持ちになったのも事実です。
どんな防御も、この脳生理学の現象を阻止することは出来ないでしょう。心の中で相手を「憎い」と思うだけで同じ効果もあるようです。だから、悪いことを企んでいる人間はそもそも感情が切れておかしいのか、相手も誰かを憎んだ分、自分の放った言葉の数々に苦しんでいるわけです。まあ、相手方は蟻の列を乱すみたいに楽しんでいますから、もしかすると先天的な脳の障害や病気がある人なのかもしれませんね。そういう相手と闘うのは、普通の神経と常識を持っている人ならば不可能でしょう。大嫌いが好きな人って、おそらく多くはいないと思う。もし罪悪感が湧いたら、自分の醜さに気が付いて、その度に心を改めるでしょう。それが出来ない脳みそをいくら責めても無意味と同じ。悪を楽しむ心は、おいらにはありません。もしコンプレックスがあって、そういう構造の闇の心に変化したとしても、それは悪事を働く理由にはならないと思う。病院に行くべきだ。
自分自身を例に挙げても、神の存在を意識するようになると、なんだか不埒な心や感情や気持ちは消えて、誰かの幸せを祈ることが出来るようになった。他人を蔑んでいるだけの自分が愚かに思えたんだ。だから、神を奉仕する立場の人がおのれの醜い感情に溺れてしまうのは不思議でしょうがない。心(脳)を病んでいるからなんだろう。
時々思いました。例えば努力で越えられない壁があったとして、自分ならばどうしただろう。もう学ぶことも諦めて、歳だ歳だと年齢に甘えて、それを周囲にも求めては同情を買う姿勢。人間って、それで本当に満足できるものなんだろうか。少なくともおいらは、それでも努力したと思う。努力しても報われないこともある。でも報われたいから努力するわけでもない。だから失職した仕事に関しての未練はもうない。おかしなくらいない。後悔しないように毎日頑張ってきたからだろうと思う。
周囲から可哀想に思われてる、そんな自分に甘えたら、自分は自分じゃなくなる気がした。それがプライドや誇りなんだと思う。彼は可哀想な自分自身を認めてくれず、擁護してくれない相手を逆恨みした。頑張って生きてる人に足枷をつけた。自分を追い抜かせないために・・・・・。でももうそんな心が弱い人間の事はどうでもいい。惜しみない努力で、おいらも心の闇と闘ってきた。死を甘く夢視る自分を罰してきた。事故にあって「なんであのとき死ななかったんだろう。もしあのときに死んでいればこんな未来はなかっただろう」と嘆く経験をした人は多いだろう。おいらもその中のひとりだった。でもいつだって弱い自分に負けたくなくて努力した。堕落して死を受け入れた方が楽だと思うときもあった。自分に負けたくないと思うことは、自分に勝つってことではない。一緒に支えながら生きていくと言うことだ。
誰かを呪うことは犯罪じゃない。それが成就されても因果関係は証明されない。現行法では裁けない。
自分ならば罪の意識に苛まれてしまうだろう。でもそれを罪とも思わない人間が居て、その人がたまたま神職だった。罪や穢れの塊みたいな人間なんだろう。自分にしてもそうだけど、そこまで周囲に関心持ってもらえるようなキャラクターじゃないでしょう。すべてが敵に思えるのは自意識過剰だからです。誰もあんたのことは関心ない。本当はそれが悔しくて悲しくて仕方がないんでしょう。でもね、他人を苦しめて楽しんで、そしてまた失った行くんです、人間らしさ。人としての在り方。他人の不幸でしか、自分の幸福を知る由がないなんて、それはもう人間とは呼ばない。例えば脳に疾患があったとしても、罪穢れが生きがいになるのなら、それはもう神職でもないし、同じ人間と見做すことは、おいらには出来ない。
―――呪われた者の権利として主張してる訳じゃない。おいらを知ってる人、知らない人もいる。でもおそらく知ってる人がプログを読んでくれていたら、おのずと誰の事を書いているのか分かるだろう。心の中に「この人は危険だ」と認識出来ればとりあえず対処はできる。近づかなきゃいいんだから。思いあがりですが、啓蒙してるつもりもあったんです。呪い殺されるかもしれない人の日記と思う人もいるだろうし、呪いから脱する日々を綴った記録だと見てくれる人もいるでしょう。でも同じような苦しみの中にいる人もいるんじゃないだろうかと思いました。そういう邪悪な人間に出会ったら、事故にでも遭ったと思って逃げ出した方がいいと思う。他人の命を慈しめない人間の形をした異形のモノは確かにこの世の中には居たりするんだ。
憎しみがあれば、いつまでもその人は心の中に居座り続ける。憎しみをコントロールできずに悩んできたし、自分を持て余してた。でも愛してる訳じゃないから、憎しみってヘンですよね。関心もないし、興味もないし、元々好きでも嫌いでもない人間を憎み続けるなんて不可能です。
だって人間はいつか死ぬために生きているのではなく、生きているから生きているだけなのだから、心の中にある、そのモノの正体を突き止められたら、それでいいんです。憎めば憎むほど、相手に似て来ます。それに気がついたから、引き返すことが出来ました・・・・。
新年一発目もこうなりましたが、これはこの一年の反省です。
今年の抱負は、自分を生きること、です。
自分の命をないがしろにせずにまずは自分のために生きること。それが出来なかったばかりに弱い部分を突かれました。まだまだ万全じゃありませんが、楽しい自分を探す旅を始めようと思います。くさくさもあるでしょう。いらいらもするでしょう。でもそういう自分をまとめ上げて人生を楽しめる自分になろうと思います。
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