依存症・・・おいらはさしずめ神道依存症。
30の頃・・・なんにもなかった。で、団体に属するのは性に合わないし、アレルギーもあるんで、ある神社を個人的に崇拝した。
一度目は助けて貰えたのかも。
でも度重なる不運(自分の力が及ばない大きな力かなぁ)に、助けて貰ったことはなかった。
小さな雪玉を坂の上から転がすように、小さな出来事がどんどん大事になる。
世の中には矛盾や不条理が溢れているけど、どこかで整合性が取れてると思ってた。でも手ごたえがどんどんなくなっていって・・・心からいろんなものがこぼれて行って・・・死ぬことへ収束していった。
批判でもいいんだ。手ごたえがないよりはマシだから。評価でなくてもいいんだ。頑張れば頑張るほどダメになるって、本当に人間の精神を破壊する。
それでも風水を取り入れることでなんとか取れていたバランスも、邪悪な神主の助言により打ち砕かれた。それは役員を呪っているんだと・・・。命の限りを知ってしまうと人は生にしがみ付く。それを利用したのかなぁ・・・。本当は役員の神経衰弱も精神疾患も、この男の呪詛のせいだと思うけど、それを証明することはおいらには出来ない。
それを証明するためには呪詛した本人が死に至るしか方法がないからだ。
まあ神道の呪詛を密教で祓おうとした時期もあったし、それが有効だった時もある。でも自分を祟っているモノが神であるとは思わなかったから、密教の奥底にある。言葉で語れないものって言うことに理解を示すことが出来なかった。頭が悪いし、修行してるワケでもないから、怖くなったんだ。
おいらの人生はやたら宗教に干渉されてる。影響を受けてる。
おいらは宗教団体に属したことはない。
それは凄いでしょう。もちろん主なる新興宗教から勧誘は受けましたよ。走りの頃のオウム真理教にも。
でも関心がなかった。解脱なんてものや悟りが自分の虚無な心を鎮めるとは思えなかった。
でも今はまだ重度の神道依存症だし、何とか今まで費やしてきた時間や費用の元を取り戻そうとしてる。それを自覚してる分だけ、愚かしいし情けない。
神道にさえ近づかなければ、おいらは救われていただろう。
自分で何度も書いてるんだよね。
「呪うのも神 守るのも神」
相殺されなきゃ帳尻が合わないのに、打算ばかりだった。
それでもこの広い世界にたった一人でもおいらを救う神がいるんじゃないかと思い込んでいた。
そんなものはいるはずもない。国家神道が国民を殺した総数を考えてみればわかることなのだ。
時々、誰かが救いはしたけど、きっと心が安らぐことはなかっただろう。生きていて申し訳ない気持ち。
おいらはそんな風に感じながら40数年を生きてきたから、最初から幻想だって分かっていたのに。
おいらがいま幸福でないことが絶対的な答えなのに・・・認めようとしない。このまんま心が折れると死んでしまうのではないかと考えたりもする。
神など信じるよりも前に人を信じるべきであったし、人を信じることが出来ない人間が神を信じられるはずもない。
いま必死で探してるのは、心の空白や虚無を満たす存在。もうここまで解体して暴いて披露したら、神道では埋められないし、仏教でも密教でもキリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でも無理だろう。
どんな宗教のどんな教義でも、もはや埋められないんだ・・・。
宗教の限界を知ってしまってる。
おいらの誕生日は四つ葉のクローバーと同じ意味がある。
希望、信仰、愛情と幸福。
どれ一つ「ない」
もう一回、14の頃に戻れたら教会へ行きたいなぁ・・・。
生きてることを申し訳なく思う自分を赦して欲しい・・・。
たぶん、許して欲しかったんだと思う。
自分を救えるのは自分だけ。
人を救えるのは人だけ。
自分を救うものが別に神でも良かったんだけど、日本の神は許しを与えるようなものではない。
恐れ敬うものなのだ。
全部分かっていて、なんでのめり込んだんだ。自分に原因があるじゃないか。
なんで器用に棲み分けた。
神社の子は神の子だろう。
憑き物筋の子供ではない。
もう、スタート地点で誤ってる。
神社の子は神の子で、憑き物筋の家の子供でもある。
分けることで、勝とうとしたんだ。自分が信じる神の方が格上だと思ったからだ。
おいらは先祖が神職だっただけで、神の子として生まれたわけではない。
しかし憑き物筋の家の末裔だったけど、憑き物筋としても本領を発揮するような家柄でもない。
子孫がいる以上は、どうあがいても向こうの勝ち。
信じるものは救われる。
否。
信じるものはバカを見ると思っていた。そんな風に育てられていたな。
自分の限度や限界に気がつかない。
愚かしいなぁ。
こういうものを書いてるうちは、どうほざいても神道依存症だ。
神には何かがあると思ってる。
でも実はおいらみたいに空っぽなのが神道なんだ。教えがないから、悪事を働いても裁かれない。
神を律する法理はないから、人の道ではない。
神が歩くだけの道をひたすらに追うのが神道。
教えがないということは実際に怖いことだ。
前を歩いているのが、神であるという保証さえもない。
このまんま気が狂えたらいいんだけど、正気すぎる。
母が昔こういって腹を立てた。
「神社で何十万使っても、一個もいいことないネ」
神をバカにされたから怒ったんじゃない。
言い当てられたから、ムキになったんだ。
これなのかなぁ・・・先祖からのメッセージ。
神社には近づくな。
神には近づくな。
神を信じたことでおいらはおいらを不幸にした。
こんだけ仏が溢れているのに、無視をした。無理をした。無為にした・・・。
何も信じなくても大丈夫って事だね。
究極の答えだ。
希望、信仰、愛情と幸福。
言葉に縛られていたのかも。
信じないとうまくいく・・・。
信じるものがなくて、本当は良かったんだね。
30の頃・・・なんにもなかった。で、団体に属するのは性に合わないし、アレルギーもあるんで、ある神社を個人的に崇拝した。
一度目は助けて貰えたのかも。
でも度重なる不運(自分の力が及ばない大きな力かなぁ)に、助けて貰ったことはなかった。
小さな雪玉を坂の上から転がすように、小さな出来事がどんどん大事になる。
世の中には矛盾や不条理が溢れているけど、どこかで整合性が取れてると思ってた。でも手ごたえがどんどんなくなっていって・・・心からいろんなものがこぼれて行って・・・死ぬことへ収束していった。
批判でもいいんだ。手ごたえがないよりはマシだから。評価でなくてもいいんだ。頑張れば頑張るほどダメになるって、本当に人間の精神を破壊する。
それでも風水を取り入れることでなんとか取れていたバランスも、邪悪な神主の助言により打ち砕かれた。それは役員を呪っているんだと・・・。命の限りを知ってしまうと人は生にしがみ付く。それを利用したのかなぁ・・・。本当は役員の神経衰弱も精神疾患も、この男の呪詛のせいだと思うけど、それを証明することはおいらには出来ない。
それを証明するためには呪詛した本人が死に至るしか方法がないからだ。
まあ神道の呪詛を密教で祓おうとした時期もあったし、それが有効だった時もある。でも自分を祟っているモノが神であるとは思わなかったから、密教の奥底にある。言葉で語れないものって言うことに理解を示すことが出来なかった。頭が悪いし、修行してるワケでもないから、怖くなったんだ。
おいらの人生はやたら宗教に干渉されてる。影響を受けてる。
おいらは宗教団体に属したことはない。
それは凄いでしょう。もちろん主なる新興宗教から勧誘は受けましたよ。走りの頃のオウム真理教にも。
でも関心がなかった。解脱なんてものや悟りが自分の虚無な心を鎮めるとは思えなかった。
でも今はまだ重度の神道依存症だし、何とか今まで費やしてきた時間や費用の元を取り戻そうとしてる。それを自覚してる分だけ、愚かしいし情けない。
神道にさえ近づかなければ、おいらは救われていただろう。
自分で何度も書いてるんだよね。
「呪うのも神 守るのも神」
相殺されなきゃ帳尻が合わないのに、打算ばかりだった。
それでもこの広い世界にたった一人でもおいらを救う神がいるんじゃないかと思い込んでいた。
そんなものはいるはずもない。国家神道が国民を殺した総数を考えてみればわかることなのだ。
時々、誰かが救いはしたけど、きっと心が安らぐことはなかっただろう。生きていて申し訳ない気持ち。
おいらはそんな風に感じながら40数年を生きてきたから、最初から幻想だって分かっていたのに。
おいらがいま幸福でないことが絶対的な答えなのに・・・認めようとしない。このまんま心が折れると死んでしまうのではないかと考えたりもする。
神など信じるよりも前に人を信じるべきであったし、人を信じることが出来ない人間が神を信じられるはずもない。
いま必死で探してるのは、心の空白や虚無を満たす存在。もうここまで解体して暴いて披露したら、神道では埋められないし、仏教でも密教でもキリスト教でもイスラム教でもヒンドゥー教でも無理だろう。
どんな宗教のどんな教義でも、もはや埋められないんだ・・・。
宗教の限界を知ってしまってる。
おいらの誕生日は四つ葉のクローバーと同じ意味がある。
希望、信仰、愛情と幸福。
どれ一つ「ない」
もう一回、14の頃に戻れたら教会へ行きたいなぁ・・・。
生きてることを申し訳なく思う自分を赦して欲しい・・・。
たぶん、許して欲しかったんだと思う。
自分を救えるのは自分だけ。
人を救えるのは人だけ。
自分を救うものが別に神でも良かったんだけど、日本の神は許しを与えるようなものではない。
恐れ敬うものなのだ。
全部分かっていて、なんでのめり込んだんだ。自分に原因があるじゃないか。
なんで器用に棲み分けた。
神社の子は神の子だろう。
憑き物筋の子供ではない。
もう、スタート地点で誤ってる。
神社の子は神の子で、憑き物筋の家の子供でもある。
分けることで、勝とうとしたんだ。自分が信じる神の方が格上だと思ったからだ。
おいらは先祖が神職だっただけで、神の子として生まれたわけではない。
しかし憑き物筋の家の末裔だったけど、憑き物筋としても本領を発揮するような家柄でもない。
子孫がいる以上は、どうあがいても向こうの勝ち。
信じるものは救われる。
否。
信じるものはバカを見ると思っていた。そんな風に育てられていたな。
自分の限度や限界に気がつかない。
愚かしいなぁ。
こういうものを書いてるうちは、どうほざいても神道依存症だ。
神には何かがあると思ってる。
でも実はおいらみたいに空っぽなのが神道なんだ。教えがないから、悪事を働いても裁かれない。
神を律する法理はないから、人の道ではない。
神が歩くだけの道をひたすらに追うのが神道。
教えがないということは実際に怖いことだ。
前を歩いているのが、神であるという保証さえもない。
このまんま気が狂えたらいいんだけど、正気すぎる。
母が昔こういって腹を立てた。
「神社で何十万使っても、一個もいいことないネ」
神をバカにされたから怒ったんじゃない。
言い当てられたから、ムキになったんだ。
これなのかなぁ・・・先祖からのメッセージ。
神社には近づくな。
神には近づくな。
神を信じたことでおいらはおいらを不幸にした。
こんだけ仏が溢れているのに、無視をした。無理をした。無為にした・・・。
何も信じなくても大丈夫って事だね。
究極の答えだ。
希望、信仰、愛情と幸福。
言葉に縛られていたのかも。
信じないとうまくいく・・・。
信じるものがなくて、本当は良かったんだね。
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