たそがれおじさんのぐうたら人生(TOGZ) 

「とかち」をこよなく愛するおじさんが自転車で巡る十勝野風景を発信(十勝が丘展望台から日高山脈眺望12/2)

TOKOMURO Cafe & 浦幌炭鉱道々の秋(曇り空)

2019年10月25日 | 日記

今日もアジト十勝太に行きました

 

昨日菜園のすべての作業が終わったので

今日行く理由は特になかったのですが...

 

昨日の作業で

行かなければならないことになってしまったのです!

 

というのは...

耕運機を移動する際に

草刈機に触って

先の方がコンテナハウスの窓に当たってしまいました

 

ガラスが割れてしまいました!!

 

窓枠を外し

ガラス屋さんで入れてもらうことにしました

 

幸いにも

朝一でガラスを入れてもらうことができました!

 

明日の天気予報は雨

一刻も早く窓を入れなくては...

 

ということで

今日も十勝太行となりました

 

せっかく行くのだから

最近報道でも取り上げている

TOKOMURO Cafeに行って

 

その後は

 

浦幌炭鉱跡への道々

特に興味があるのは

池にある立ち枯れの木群

(美瑛の「青い池」になぞらえ 「青くない池」)

 

最後は留真温泉に...

 

そんな予定で

アジトを出たのが

13:30

 

旧常室小学校跡にある

TOKOMURO Cafe

 

教室を改装

広い空間とBGM

落ち着いた感があります

 

ランチは...

黒千石のキーマカレー

ドリンク付き(コーヒーにしました)

 

美味しかったです

(雰囲気でおいしかったかも)

 

デザートは

浦幌産インカのめざめでつくった

モンブラン

今日(25日)、27日、28日

限定の

デザート

 

おくさんは

白いオムライスとサツマイモのパフェ

 

スタッフの皆さん

町の協力隊

全員道外の若手さんでした

 

おじさんも

隠れ協力隊(を自認)

 

一度は来てみたかった

TOKOMURO Cafe

まずは来れてよかった!

 

スタッフの皆さん

柔軟な発想で

浦幌スタイルを発信してくださいネ!

 

おじさんは応援します!

 

カフェを出るころは

午後3時になっていました

 

今日の留真温泉は難しくなりました

 

空は曇っていますが

秋を楽しんで行こう...

 

大豆畑と山の紅葉

 

陽が出ていたら

絶景でしょう

 

道を覆うような林

 

ここも絶景

 

先に行くほど

紅葉も深みを帯びています

畑おこしのトラクターと紅葉

 

畑地を離れ

奥に入って行きます

こんな光景も目を引きます!

 

曇っていてこの光景

晴れていたら

クラクラするだろうな!!

 

来ました

池と立ち枯れの木

 

 

 

 

 

 

青くはありませんが

晴天時には

空の青さは水面にどのように映るのだろう

 

それと

立ち枯れの木はどのような環境下で

こうなるのか?

不思議...

 

旧炭鉱社宅跡

 

3棟が残っています

 

時の経過を現していて

リアル!

 

保存するのもいいですが

そのままの姿こそが

歴史を伝えているのでは...

 

当時は

3000人を超える人々が暮らしていたとか

 

ここまで来ると

カラマツの黄葉も

はっきり確認できます

 

旧炭鉱街に入ると

あちらこちらに...

その場所が

当時はどのような状況かわかります

(病院・神社・学校など...)

 

橋脚の跡

 

トンネルの跡

 

以下は

「自己満足 北海道」さんのHPをコピーさせていただきました

 

浦幌炭鉱(炭砿)は、釧路炭田西端、浦幌川支流常室川沿いに26キロ上流の台地に存在していた。

大正2年、浦幌でいくつかの砿山を経営していた古河鉱業(明治28年に探砿)を大和鉱業株式会社が買収して、同7年より常室、留真、毛無の3ヶ所で開鉱したが、炭層不安定、輸送設備不備であった。明治末期から大正前半は日本の各産業界は黄金時代を迎えていたが、第1次世界大戦が終了すると大正8年より不況が深刻化もともない同10年に出炭も鈍り休山する(同12年の説もある)。

昭和8年7月に再開し、はじめ留真坑のみで出炭していたが、馬車で浦幌市街まで運ぶのは不便なため、常室川上流の双運坑、その3キロ上流太平坑を開鉱した。このとき浦幌市街から毛無事務所まで馬車軌道が出来た。(毛無は双運坑のことか?)同10年からはトラックで搬出開始した。

昭和11年10月浦幌炭鉱は、三菱雄別炭砿鉄道株式会社の経営となり、山向こうの音別町尺別炭砿の管下になった。12年までは索道で出炭物を尺別選砿所に送っていたが、6キロにわたる尺浦通洞(トンネル)が同16年11月に開通し石炭輸送の近代化がはかられた。

また日中戦争が始まり、昭和14年より朝鮮人労働者が入り(浦幌と尺別と合わせて1000人以上いたとされる)出炭をしていたが、昭和19年政府非常増産緊急措置により尺別炭砿の休止と同時に休山し、坑内夫1000人余は国策令によって妻子を置き九州の三菱系炭鉱へ強制転換させられた。これによって尺浦通洞を使用したのはわずか2年半であった。

終戦後23年6月太平鉱を中心に出炭を再開した。同25年、この地区は730戸にまで家が増え浦幌炭砿小学校と中学校が増設され、同28年には浦幌高校炭砿分校も開設され、炭鉱最盛期には毎日映画も上映されていたが、同25年には再び尺別炭砿に併合されている。

最盛期を過ぎると国内炭の需要減少が一気に進み、昭和28年に希望退職者300人をつのり、同29年10月に浦幌炭鉱は幕を閉じる。従業員は雄別、尺別、茂尻へ配置転換され、尺別に転換された人は通洞を通って働きに出ていたが、翌年通洞を管理する問題より尺別に職員は移住する。これに伴い昭和30年高校の分校は廃校、同32年に小中学校とも廃校となり他校の分校となる。

昭和42年には、この地より全ての人が去り、分校も廃校となり無住地となる。

 

この文面から

この地は

大正2年から昭和42年まで

およそ半世紀

石炭産業とともに

人がいた歴史がある跡ということです

 

浦幌の町の歴史の一面でもあります

 

 

TOKUMURO Cafeから

浦幌炭鉱跡へ

 

現実と過去

それをつなぐ道々の風景

おじさんにとっては

素晴らしい時間となりました!!


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