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ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

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死んでも惜しくない一人

2010-05-25 09:57:36 | 晩年学
妻と罰  土屋賢二   文芸春秋

還暦になって気づいたことだが、六十歳以下の人が死ぬと、「まだ若いのにかわいそうだ」「これからというときに惜しい」といわれる。

それなら、老人が死ぬのはかわいそうではないのか。
老人が死んでも惜しくないのか。

口では、老人を大切にしようと言われ、電車でも席を譲られることになっているし、長生きしてねと言われているが、心の中では、いつ死んでもいいと思われているのではないか。

老人が死んでも惜しくないと考えられるのはなぜか。
理由はいくつか考えられる。

①「これから仕事をするというとき死ぬのは惜しい
 しかし仕事をしない人間は死んでもいいのか。
一日中日向ぼっこをしている猫は生きるに値しないのか。
わたしは今後、仕事らしい仕事はできないだろうが、若い頃はもっと仕事をしていなかった。
だが、仕事だけが人生ではない。
年をとっても、遊ぶことやサボることにかけては、まだ若い者に負けない自信がある。
それに、わたしは大器晩成の人間だ(なぜそういえるかというと、此の年になってもまだ大成していないからだ)。本来の力が花開くまでに、後、五十年はかかる。

老人は十分生きたではないか。したいことをする時間はあったはずだ。平均寿命を過ぎたら後は余った時間だ
だが、人生には「十分」も「余った時間」もない。目的を達成するために生きているなら、達成してしまえば後は「余り」だが、人間はただ生きているのだ。宇宙の営みに、「十分」も「余り」もないのと同じだ。
それに、わたしはしたいことがまだできていない(自由に金を使ったことも、平和な一週間を過ごしたこともない)。

③「もうすぐ切れる定期よりは、買ったばかりの定期を落としたほうがくやしい
たしかに、残り少ないものを失っても悔しさはそれほどでもないが、いちがいにそうだとは言えない。
最後の一口に残しておいたトロの刺身を人にとられたときは悔しいのではないか。
映画でも、始まってすぐ打ち切られるよりも、もう少しで終わりと言うところで打ち切られるほうがつらいのだ。


悔しいのは、どんな理屈を考えても、若い生命のほうが貴重に思えることだ