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ハイカーズ・ブログ(徘徊者備録)

「あなたの趣味はなんですか?」
「はい、散歩です」

「こうなる前からですか?」
「はい」

アイディンティティ

2010-06-25 10:58:03 | 晩年学
そうだ、サムライになりたかったのだ。

河島英五の歌だったと思う。飼い犬が首輪をはずされると不安そうな顔をする・・というような歌詞があった。

私も某企業を38年に及ぶ永年勤続ののち、お払い箱になった時は、このポチのような気分になったものだ。

人は自由になりたい欲求より、帰属の欲求、組織の一員でいたい欲求のほうが強いのだろう。

社章をつけ、名札をぶら下げ、名刺を持たされ、「私は○○の○○です」と名乗ることができた。

名刺はアイディンティティの確立に欠かすことのできないアイテムだ。
いまや名刺はパソコンで簡単に作れる時代だ。

浪人になった私は、なんと名乗ろう。バイト先の名刺を作っても面白くない。
昔の肩書きが忘れられず、元○○という名刺を持っている人の話も聞いたが、これは少し寂しい生き方だと思ってしまうし、私にはそんな誇れる過去はない。

趣味の名刺が楽しいだろう。
私は「武道家」と名乗りたいのだが、これは身分詐称、偽装表示になりかねない。確かにいろいろ武道に手を染めているが、家人に言わせると「あなたは武道愛好家だろうが、武道家ではないでしょう?」とずばり言われてしまった。口だけは達人だ。

しかし、名刺に武道愛好家では、相撲取りをひいきにする旦那衆みたいで様にならない。

(エッセイスト?の)土屋先生の言によれば、名刺の肩書きは組織の中の地位を書くのが自然だそうで、勝手に適当な団体を作ればいいと教えられる。

武道練習生の私は、言い換えれば研究家だ。そうだ、武道研究会だ。会員はまだ一人。○○塾というのも今の流行だ。そうなれば私は塾長だ。

とりあえず入れ物を先に作って、うろうろしていると、面白そうだと覗いてくれる人も出てくる。そうなるとまんざら羊頭狗肉でもなくなるから不思議だ。

そんななか偶然書店で見つけた雑誌。月刊秘伝の特集
サムライになる・・

答えが見つかった。(簡単すぎるか)
私は「サムライ」になりたかったんだ。
サムライとして死んで行きたい・・と思っているんだろう自分に気がついた。



ご趣味が豊富でお羨ましい・・

2010-06-25 08:52:22 | 晩年学
海竜社
中野孝次著

うつくしい老年のために

徒然草 第百三十四段
老いぬとは知らば、何ぞ、閑かに居て、身を安くせざる。

老年は時間のすべてが自分のためにあるのだから、何をしてもいい。
しなくてもいい。
何もしないで、何にも煩わされることなく、閑かにしているのが一番いいというのも、たしかに一つの生き方だ。
「心身永閑」こそ、兼好がなにより重んじたことだ。


しかし、その一方で、自由な老年なればこそ、好きなことに思い切り打ち込んでみたい、という気持ちも私にはある。

何でもいいが、自分が本当に好きなことをして、死ぬまでの日々を充実させたい。

これはおそらく誰にでもある願いだろう。

江戸時代には隠居後、自分の好きな俳句に打ち込んで、やがて一流の宗匠になったという人もずいぶんいた。

だが、それをするには、何よりもまず自分が本当に好きなことを持たなければならないが、案外そういう人は少ないのである。

あれにもこれにも手を出して「ご趣味が豊富でお羨ましい」などといわれる人は、まず無趣味と同じとみていい。

また、それがはやりだからみんなのすることを自分もする、というのも本物の趣味とは言い難いだろう。

日本百名山を目標に、それを達成することに情熱を傾けている人も多いらしい。
自由な老年になってまでまだ数字の世界にとらわれているわけで、こういう人は本当に山が好きで登山するとはいえないだろう。

本当の趣味とは、それをせずには生の充実感が得られないものをいう、と私は思っている。


何でもいい。
それが真の好きになれば、どんな事だって輝きだし、人生を満たしてくれる。

言葉の真価

2010-06-21 14:32:49 | 武道関連
月刊秘伝7月号
武道者徒歩記 日野晃

言葉の真価

「自分探し」なる言葉がメディアから流れて久しいが、そんなものは探さなくても過去の自分の出来事と、それに取り組んだ自分、その時の心理を思い出せば自分のすべては分かる。

自分にとって一番信用のおけないのは、自分である、という所まで掘り下げられないのだ。
落ち込みが足りないとも言える。
落ち込みが足りないのに、すぐにその落ち込みを回避しようとする。
その結果が短絡的な事件であったり、自殺というところに流れているのだ。

自分にとって一番信用できない自分というのは、自分の出した言葉「死ぬ気でやります」を実現しようとするのを妨げる言葉、「楽しくないから辞めます」と言った自分のことだ。

つまり、自分の最初の思いを妨げたのは自分であり、その自分は信用できない、ということだ。

つまり、自分の出した言葉は「思っただけ」ということを理解できないのだ。
もう少し違う角度で言えば、その時々の自分自身の気分に惑わされているということである。
気分というのは曖昧なもので、一寸したことで良くもなるし悪くもなる。
そんな曖昧な気分に惑わされていては、何かを目指すことも実現することも無理だ。
それも子供の要素の一つだ。

大人と子供

2010-06-21 14:04:58 | 武道関連
月刊秘伝 7月号
武道者徒歩記 日野晃

日野晃
1948年生まれ。中学時代は器械体操で東京五輪の強化選手に選ばれる。
ケンカに明け暮れた少年時代を経た後、ジャズ・ドラマーとしてショービジネスの世界で活躍。
同時に武道の世界も追求し、空手修行を経た30歳のとき、武道に本格的に取り組むための実験道場を大阪に開設。
さらに深く追求するため現道場のある和歌山県熊野に移り、自力で道場を建設。
実践と独自の武術研究から導き出された上達のメカニズムから年老いても衰えない真の強さを指導している。

ちょっと長くなるが、紹介する。

大人と子供

私が演出した舞台が終わった。
つくづく感じるのは、舞台は本当に残酷な物だということだ。
ワークショップで習ったこと、それ以前に習っていること、それらだけが舞台に現れるのではなく、逆にそれを行為している己が赤裸々に舞台に現れてしまうのだ。

気取っている人はそのように、
自己陶酔している人はそのように、
ダンスの様なことをしている人はそのように、
勘違いしている人はそのように、
つまり、その人となりや、舞台に立つという覚悟の有無のような物がすべて見えてしまうのだ。

もちろん、それは教室の受講風景でも同じだ。教室は本番ではない。
しかし、その人にとっての本番、つまり、どこで使うかを見据えている人と、
稽古のために稽古をしている人とは全く違う。
稽古のために稽古をしている人、つまり、教室が本番の人は、そこでの現象に取り組む。
あるいは運動に熱中してしまって、まるで稽古にならない。

どこで使うかを見据えている人は、その現象の要素や本質を探り出そうと取り組んでいる。
つまり稽古になっているという違いがある。

基本的には教室は,気付く場に過ぎない。
そして、それぞれが気付くための言葉を出すしかない。
たかだか、週に1回や2回、2時間やそこらやったところで、何ができるはずもないからだ。
教室は、自分のやろうとしていること、やっていること、練習してきたことを検証する場、そして、自分の何かに気付く場なのだ。

というようなことを自覚している人を、大人と呼んで差し支えない。

強い意志、思い切りのよさも大人のひとつの要素だ。

ある意味で背水の陣を引ける人、リスクを背負える人を大人と呼ぶ。
そんな人たちは稽古に励む。

自分になりきって生きる

2010-06-12 12:16:02 | 晩年学
老年の愉しみ  中野孝次  海竜社

ゆったりと自分のリズムで、自分のしたいことをして生きる。
したくないこと、気のすすまぬことは、世間がなんと言おうとしない。

老人のわがままといわば言え、自分の好きに振舞うのが老人の特権なのだ。

ただし、この特権の行使は当然ながら犠牲を伴う。

わがままに、自分の好きに振舞う代わり、世間からの恩恵は一切断念しなければならない。

そしてその代わりわれわれは、何ものにも拘束されない、自由で、自分の最も好ましいことばかりして、充実している毎日を持つことになる。

誰もこうしろと命じる者もいない。

自分の生活の主人は自分しかいない。

天上天下唯我独尊であって、自分がかねてからしたいと願っていたとおりの行き方ができるとは、なんと言う幸せであろう。

もしかすると人間は、社会への義務を果たし終えたそれから解放された老年になって初めて、本当の自分という人間になるのかもしれない。

老年の日々を自分になりきって生きる人こそ幸いなる哉。

ただし、それは必ずしも容易ではないのである。
生涯を会社一筋に生きて自分の欲望を持たずに生きてきた人は、とかく自由になっても自分だけの生き方を見つけられぬことが多い。

自分流に生きるとは、何よりもまず自分がなければできないのだ。

その意味では老年は自分を発見するときだとも言える。

才に走らず

2010-06-12 12:00:10 | 晩年学
老年の愉しみ

中野孝次  海竜社


社会は過去から未来に向けてまっすぐな棒のように動いてゆくものだというかのように、いつも先頭を走っていたがる連中がいる。

一歩でも人より遅れまいとあらゆる情報に神経を尖らせ、他人の呼吸をはかって弱ったとみれば一気に追い抜こうと試みる。

とにかく人をつっころばしてでも、裏切ってでも、たえず先頭集団を走りぬこうと試みる。

そんなふうにただもう先へ先へと息せき切って走る続ける人間、集団、国家がある。

そして事実ある程度はそういう連中は所期の成果を挙げているかのように見える。

抜け目ない顔つきをし、身だしなみよく、弁舌さわやか、どんな情報にも精通していてきかれれば立て板に水を流すように答えてみせる。

目端がきき、頭が切れ、なんでも心得ていて、やり手とか才人とかはこういう人かと感心させるような人間が、男にも女にもいる。

彼らは変わり身が早くより先に時代の流れを読み、常に先へ先へと向かっている。彼らはあるところまでは確かにそれで成功する。

が、人生の面白いところは、ではそういう連中が人生劇の最後の勝者になるかといえば、必ずしもそうはならないことである。

人生とは彼らの思い込んでいるように先に出た者が勝とはきまっていなかったのだ。
それは、あるいは社会の時間、すなわち歴史は、なるほど過去から未来へ向けて棒のように進んでいるかもしれないが、人間の生きる生涯の時間、すなわち人生の時間は、そんなふうな構造ではなく、むしろトラックを何週もするような具合にできているからだ。


太極拳特集

2010-06-03 21:59:21 | 晩年学

太極スタイルが休刊になった(読者投稿に写真やら一杯送ったのに無駄になった)そこを補填するかのように月刊秘伝の特集。私はおりしも今太極拳にはまりきっている。空中遊泳が出来ると信じる○○教信者のように。今別の角度から押されたらイチコロだろう。
6月4日 教室の先生が二段の免状をもらってきてくれる。
そして先般のC級指導員の合格通知が届く。

高野山参詣登山

2010-06-03 13:50:51 | 歩行禅(ウォーキング編)
5月30日(日)
朝から快晴。第26回高野山参詣登山~世界遺産高野山町石道180町をたどる~
駅のポスターでチェックしていた。当日受付ありとあったので、晴れたら行こうときめていた。
大きなおにぎり二つ握ってもらい出発。
九度山駅でおりて、受付場所のコミュニティ広場へ。
参加費500円。名札、踏破証、護摩木などを頂く。

慈尊院で出発式。8時半スタート。180町約20kmの道のりを歩く。
早速119段の階段を登ると丹生官省符神社、勝利寺は無視して六本杉まで一気に登る。今回で3回目なのだが、今日はなんと体が軽くどんどん足が前に進む。
経験はないが薬をやったらこんなハイになるのだろうか。駆け出したいような気分。日頃の大腰筋トレーニングが効いてきたのか。
矢立のチェックポイントで11時半。JAさんがジュースのお接待。おいしかった。
これ以後熊の生息地域らしく熊除けの鈴をつけて歩く。
赤い大門が見えたときは、やれやれと思う。


ゴールの大伽藍についたのは13時20分。
踏破証に押印してもらい、愛染堂に護摩木奉納、なんて祈願したとおもいますか?家内安全がポピュラーですが私の場合は「武道上達」
根本大塔の前のベンチで、おにぎり二つ、バナナ二本、6Pチーズ一個 コーヒー飲んで一息つく。
遍照尊院さんで無料入浴サービス。宿坊はかなり泊まり歩いたがここは初めて。
すごい大きな立派なお風呂で疲れが吹っ飛ぶ。
霊宝館も無料拝観サービスがあり、一回り見学。
知り合ったおばちゃんとしゃべりながら帰途に着く。
まだ写真沢山あります。フォトチャンネルβみてください。