ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

パワーゲームとしてのアメリカ医療(1)

2010-02-14 12:34:45 | ヘルスケア改革
前回は歴史学の視点から、アメリカ医療がそもそも経済的利益を追求するために発展してきたというストーリーを紹介しました。今回は、誰が医療におけるヘゲモニーを持つかをめぐるパワーゲームという観点からアメリカの医療を見ていきたいと思います。

医師による専門職支配

前回見たように、1980年ごろまで医師の専門職化は確実に進んでいきました。医師は、専門的な知識を持ち、高度な教育を受け、自律性を備えた専門職として、開業、病院勤務、研究、教育、行政、財団、健康当局、保険会社、そのほかの機関へと働き場所を増やしていきました。医療におけるあらゆる領域において統括者として君臨することになり、社会学者エリオット・フリードソンの言葉を借りれば、医師の「医療における専門職支配」という構図が作られてきました。医師たちは、医療をめぐるパワーゲームの勝者となったのです。
1966年のヘンリー・ビーチャーの人体実験を批判する告白、1972年に明らかになった研究のため黒人梅毒患者を治療せず経過観察を続けたタスキギー事件を経て、1970年代以降のバイオエシックスの勃興によって、医療が生命倫理学者や法学者の手に渡ったと歴史学者デイビッド・ロスマンは指摘します。たしかにこのストーリーはうなづけるところもあります。ただし、バイオエシックスに関心の高い医師たちも同時に多くいました。バイオエシックスの医師たちへの浸透は、医師という職能団体が、倫理的・公共的であれという専門職の条件をより満たすために効果的であったとも考えられます。
このようにして医師による専門職支配は最高潮を迎えますが、やがて状況は変化してゆきます。

医療ビジネスマンの台頭

まず大きな転機は、健康維持機構(HMOs:Health Maintenance Organizations)の登場によるマネジド・ケアの台頭でした。HMOsは既に1920年代から登場しており、マネジド・ケアというのは、HMOsで使われていた、コストを最小限に抑えつつ質の高い医療を提供しようとする手法という名目であり、保険会社に患者への医療サービス、病院ケアの管理を任せるというシステムです。
1973年ニクソン大統領の時に、健康維持機構法が通り、本格的にマネジド・ケアが拡大し始めました。マネジド・ケアでは、主治医がゲートキーパーとして最初に患者に対応し、必要があれば専門医に紹介することになりました。また、不必要な受診や入院を減らすことにインセンティブが働くようにしたので、患者の受診回数や在院日数は急速に短くなってゆきました。ちなみに現在アメリカでの年間受診回数は3.8回で、日本は15.8回、在院日数はアメリカでは7.8日、日本では33.8日ということです。また、病院に対する支払い総額の上限が定められるようにもなりました。この結果、病院はより効率性を求めるようになりました。こうして医療は公的利益(non-profit)を追求するものから、私的利益(for-profit)を追求するものへと変わってゆきました。
病院経営陣は、経費節約に励み、一番予算の大きい人件費の削減に取り組み始めるとともに、保険会社と交渉できる力をつけるために病院同士の合併を進めました。その結果、実際に現場で働いている医療専門職たちは、解雇されたり、合併のやり方に腹を立てたり新しい体制が気に入らなかったりで病院を去る、という状況に追い込まれました。
 このように経済効率を優先しないと立ち行かない制度の下で、医療におけるパワー・バランスは、医療専門職から非医療専門職でMBA(ビジネス修士号)を持つ医療経営陣に傾いてゆきました。

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