ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

子どもを守る大人の活動―相馬・南相馬再訪

2011-12-30 19:20:58 | 健康と社会
相馬の子どもたち

 12月25日のクリスマスの日、雪のちらつくボストンのローガン国際空港に降り立ちました。12月19日から21日までの短い福島県相馬市・南相馬市再訪の最終日も、ちょうどこんな雪の降り始めの天気でした。
 5月に訪れたこの地には、まだ海沿いから国道6号線にかけて広く津波の傷跡が残っていました。その頃と比べて、今回はだいぶ片付いてきているように見えました。家を失った方々は、震災直後の避難所からすでに仮設住宅に移っておられ、津波で壊された1階を補強して自宅に戻られた方もいらっしゃいました。
 この地域では、津波による被害に加えて、東京電力の原子力発電所の爆発事故に関連する放射能による被害も甚大です。避難区域のために未だに自宅に戻れない人は多数おられて、農業や産業の復旧の目途も立っていないところも多いという状況です。人体への中・長期的な影響は実態がよく分からない中、安全性を誇張する専門家がいるかと思えば、危険性を指摘する専門家もいて、人々の戸惑いが感じられました。そして、安心できる環境を求めて他の地域に避難する方、覚悟を決めてこの地に残る方、それぞれの選択をしていらっしゃいました。
 相馬の子どもたちはどうなっているのだろう。このことが、ずっと気になっていました。今回やっと訪れることができ、子どもたちを守ろうと立ち上がった沢山の大人たち―お父さん・お母さん、保育園や小中学校や高校の先生、塾経営者、相馬フォロアーチームなど―と出会いました。ここではそうした子どもを守る大人たちが語ってくれた活動、気持ち、課題などについて記していきたいと思います。


放射能の除染

 但野氏は、保育園と小学校に通う3人のお子さんのお父さんで市役所の職員でもあります。ご本人曰く「一介の木っ端役人」だったのが、震災を機に「自分でできる事をやろう」と思い、7月から活動を始めたとのことでした。最初は除染をやってみましたが、汚染された土の捨て場所がない中での作業に限界を感じ、現在は内部被曝を防ぐために、食品検査体制や環境濃縮の監視を進めようとするいくつかの市民団体の取りまとめ役を、ボランティアでなさっていらっしゃいます。
 折しも新聞では、自宅で採れた野菜や果物を食べている親と、スーパーで買った遠隔地のものを食べていた子どもでは、同じ家族でも体内のセシウムの値が20倍も異なることが報道されました。内部被曝を避けるためには、食べ物の選択が重要なことが改めて示されたのです。食品における放射性物質の濃度を測ることは、どんな食品が安全でどんな食品は避けた方がいいのかを、自分で判断するために、不可欠です。食品検査体制を整えようとする但野さんの活動は、まさに子どもたちを内部被曝から守るために必要なことでした。
 これと同時に但野氏は、相馬の農家を守ることにも尽力しています。そこで、放射能に汚染された土壌を改良する研究を企画している大学や研究機関の農学部や原子核物理の研究者と、相馬の農家や市民団体とのパイプ役を務めています。但野さんは、将来にわたる食の安全のため、子や孫の代に残せる農業を守るため、この研究が行われることに期待しています。
 放射能対策の情報発信やスロー・ナチュラルライフの提案をする「Team One Love」代表の酒井氏、子育てサロンを開催したりブログで情報を発信したりしている「そうま子どもさぽーと」の白石氏も、子を持つお母さんであり、この活動に関わっていらっしゃいました。


安心を創る

 相馬保育園園長の中江千枝子氏も、この活動に参加するおひとりでした。中江氏は、震災以来、子どもたちの外部被曝と内部被曝を防ぐため、できる限りのあらゆることをしてきました。
たとえば、保育園で出す給食の食材は、遠隔地のものか食品検査済みのものだけを使用し、飲料水は調理用も含めてすべてペットボトルを使用し、子ども達には水道水を一滴も飲ませていないとおっしゃっていました。一日に80から100リットル必要ですが、寄付を得たりしながら確保しているとのことでした。また、園長自ら屋根に上って高圧洗浄機で除染を行い、園庭も表土も大型重機で削って、2m80cmまで掘った穴に埋めました。しかし、それでも子どもたちを園庭では遊ばせず、今のところバスの乗り降り時に使用するにとどめています。
 また、独自で線量計を確保し、保護者に貸し出したりもしています。保護者自身に家庭内の線量を知ってもらい、子どもの安全のために役立ててほしかったからです。実際に、保護者が保育園の線量計を借りて、テラスにおいてあるベビーベッド付近を測ったら高い線量が出たので移動させた、ということもあったそうです。
 中江氏は、外で遊べない子どもたちの運動量を補うため、講師を呼んで体操教室を開いたり、室内で水のないプール遊びを実施したりもしています。毎年恒例の園庭でのそうめん流しも工夫して室内で行いました。ただそれでも運動不足のため、この頃、子ども達が転びやすくなったり、左右の手足を交互に前に出す行進ができなくなったりしてしまったと、心配そうな表情でおっしゃっていました。
 震災後間もないころ、食糧がなかなか手に入らなくなったとき、寄付でいただいたメロンパンをおやつに出したところ、子どもたちは手を付けようとしませんでした。家にいる家族と一緒に食べたいというのです。これに心を打たれた中江氏は、この素晴らしい子どもたちが健やかに育つことができる環境を作らなくてはならないと改めて思ったといいます。
 相馬保育園は、但野氏がお子さんを通わせている保育園でもあります。そして、但野さんご自身も卒園生です。40年間園長を務め、親子2代を知る園長の姿には、この地の子ども達を守ってきたという誇りと喜びが感じられました。


子どものこころのケア

 相馬フォロアーチームは、震災直後、子どもたちの心のケアが最重要だと考える相馬市長立谷氏の発案で結成された、スクールカウンセラーや心理職や保健師などの専門家によるNPOです。構成員は6名で、発達障碍児への教育を全国展開している星槎グループからも3人の専門家が、ボランティアでチームに参加しています。
 フォロアーチームの目的は、被災小中学校に心理ケアの専門家を派遣し心のケアを行い、学力の向上を支援することで、日々、試行錯誤を繰り返しながら活動しています。子どもたちの中には、震災の影響で夜眠れなくなった子や学校に来られなくなった子、落ち着きがなくなったり、イライラしたり、急に突拍子もない行動をとったりするようになった子も出てきているといいます。
 チームのメンバーで精神保健福祉士の吉田氏は、もともと対人関係が苦手であったり、変化への適応が難しかったり、独特の気質を持った子どもたちが、この新しい状況においてどのように対応していったらよいのかわからず、戸惑い、気持ちをコントロールできず「問題」とされる行動に出てしまうのではないかと分析します。そして、その子と関わりを持つ人たちとの関係を整えてゆくことで、問題を解決の方向に進めていこうとしています。
 教師の言葉に傷ついて、腹痛などの身体症状を訴える生徒もいたといいます。教師自身、かつての教え子が震災で亡くなったり、放射能の影響で妻子が遠方に避難したり、学校も継続されるかわからないので生活や雇用に不安を抱えたりしています。そのような状況で極度のストレスを感じ、そのはけ口が子どもに向かってしまっていることもないとは言えないということでした。
自主避難や家族を助けるために県外に行った教師も一部にはいました。ただしほとんどの教師は、震災後、休む間もなく在校生の安否を確認したり、生徒一人一人に面接して状況把握に努めたりして、教師としての責任を全うしてきました。二本松氏は、8月の人事で相馬高校校長になりましたが、「1000年に一度の災害なのだから、1000年に一度の対応をしなくてはいけない」といい、前例にとらわれる教育委員会と教育の現場との温度差に憤りを感じつつ、人を育てるという使命を掲げて、避難区域となった3つの高校を受け入れてきました。
 4つの高校が一つの校舎を共有する状況で、生徒たちのトラブルは一つも上がってこなかったそうです。不便もずいぶんあっただろうに、我慢してきたのだろうと、二本松氏は生徒たちに思いやりの心を感じたといいます。
 このように何人かの方のお話を聴くことで、表面に見える変化があってもなくても、子どもたちの心の揺れを、たくさんの大人たちが気にかけ、見守り、寄り添っている様子を知ることができました。大人たちももちろん苦しい状況にあるわけですが、なんとか子どもを守ろうと活動している姿に、何だか暖かい気持ちになりました。


仮設の中の見えづらい問題
 相馬フォロアーチームには、「難民を助ける会」に所属している横山恵久子氏も参加しています。横山氏は相馬市だけでなく、南相馬市や双葉町などの仮設住宅をこまめに回り、従来から持っているネットワークを発揮したり、新たにネットワークを作ったりしながら、現場本位での支援に奮闘しています。そんな横山氏は、仮設に住む子どもたち、特に女子中高生の居場所が必要だと訴えていました。
 仮設は住む家を失った方々が一時的に住むところですが、多くの方は家と共に職も失っています。津波に襲われた元の家の場所に家を建てることもできず、放射能への不安からこの地に住み続ける決断をすることも難しく、再就職のあてもなく、無為の日々を過ごしておられる方々がたくさんいらっしゃるといいます。そのような方が行ける場所は、昼間はパチンコ屋、夜は飲み屋ということで、中にはアルコール依存症のようになっている方もいるそうです。また横山氏の印象では、6割くらいの仮設入居者の方々が、夜眠ることができずに精神安定剤を飲んでいるということです。
 そのような中で、真っ先に影響を受けているのは子ども達です。ある家に寄り付かなくなった母親の子どもは、まだ幼児と言っていい年齢なのに、昼夜となく一人で仮設の敷地を出歩いています。横山氏は、その子が人形を地面に埋め、その上を踏みつけている姿を見て、このままではいけない、何とかしなければと思ったそうです。しかし、これまでの経験から横山氏が母親に声を掛けると、その子が母親に叩かれることを知っているので、静観せざるを得ないそうです。ネグレクトという虐待だと思うものの、児童相談所はなかなか動いてくれず、この先どのようにしたらいいか思案しています。
 いくつかの仮設では、女子中高生が酔っぱらった入居者に絡まれることもあるといいます。さらに、離婚や再婚が多い土地柄、血のつながらない父親と狭い仮設に同居しなくてはならない女の子たちの辛さも横山氏は知っていました。そして、せめて静かに一人になれる場所を提供したいと思っているのでした。
 相馬高校の養護教員である只野氏も、子ども達には居場所が必要だとおっしゃっていました。震災後、学校が通常より遅れて4月18日に始まった当時、学校に来るなり保健室を訪れる生徒がいました。避難所では一人で泣ける場所がなかったのでしょう。保健室にはカーテンで仕切られたベッドがあるし、その子にとっての居場所だったのだろうと只野氏は思っています。その生徒は両親が離婚し、祖父母に育てられていましたが、一人でいるときに地震が起き、4月になってからはお祖父さんが亡くなるという不幸が続いたといいます。
 もともとあった家族の問題や将来への不安感が、親による子どもに対する攻撃的な言動に表れてしまっていることも少なくないといいます。この絡み合った状況は、誰かが悪いという単純な構図ではなく、丁寧にひも解いてゆき、解決のための手段を早急に見付けなくてはならないでしょう。


これからの子どもたち
 南相馬市で震災前は3つの塾を経営していた番場さち子氏も、子どもを守る大人の代表です。震災直後も、放射能の影響があってもこの地に残る覚悟でしたが、病気を持つ親の避難に付き添い、南相馬を離れて避難所暮らしをしました。その後、東京に住む息子さんのところにしばらく行っていましたが、「先生、塾いつからやるの?」という言葉をかけてきた、たった一人の高校3年生の塾の生徒のために南相馬に戻ってきました。
 番場氏は、日本の将来を担うような医師や科学者を自分の手で育てたいと思って、南相馬で28年年間、塾の先生をしてきました。震災後、子どもたちが戻ってこない状況の中で、知人の弁護士に自己破産を勧められましたが、塾に生徒がいるうちは続けようと思い、今まで頑張ってきたのです。
 原町高校には、12月の時点で52%の生徒が戻ってきたといいますが、主に3年生で、2年生や1年生は3分の1くらいしかいません。この先、子どもたちが戻ってくるかどうか、むしろ新年度になって、南相馬から出てゆく家族もいるのではないかと番場氏は危惧しています。
 南相馬では、なかなか復興へのかじ取りがうまいっておらず、市民の不安は高まっているといいます。目抜き通りの店も半分くらいしか営業しておらず、子どもたちの好きだったマクドナルドも閉店しています。相馬フォロアーチームの活動にも興味を持ってくださった番場氏は、筆者に会うために相馬まで来てくださいましたが、帰りにたくさんのマクドナルドのハンバーガーをお土産に買っていきました。子どもたちの笑顔で迎えられたことは言うまでもありません。


福祉の僻地

 中村第二小学校の校長である菅野氏との面会は、5月以来2回目になります。中村第二小学校は、私の娘たちの通っていたボストンの学校で行った寄付とメッセージ・カードを届けたところです。420人いる生徒のうち、100人以上が仮設住宅に住んでいます。
 中村第二小では、9月上旬に校庭で運動会を行いました。屋外で開催することに関しては、事前に保護者に説明をして理解をしてもらったとのことでした。この運動会を機会に、先生も子どもたちも、やっと日常を取り戻してきたようだったと菅野氏は思っています。
菅野氏は、比較的重度の障碍を持つお子さんのお父さんでもあります。お子さんは20歳で、原町にあるピーナッツというNPOの運営する施設に通っていましたが、震災の影響で人手が足りなくなり、それまでの週5日から週2日しか行けなくなってしまいました。菅野氏は、この震災で、最も弱い人が一番大変な目に遭うのだと改めて思ったといいます。
 障碍児のための県立の施設は富岡町に集まっていましたが、原発事故の避難区域に入っているので全部使えなくなりました。そもそもこうした施設は高等部で終わってしまい、福島県には、その先のための公立の施設が全くないのだそうです。菅野氏はこれを指して「福祉の僻地」と言っていました。
 その先をみるNPOや民間の施設は、一生懸命やっていてもいつも慢性的に人手不足。放射能への不安から多くの職員が避難してしまっています。そうした中で、利用者である障害を持つ人は行く場所を失い、家族は途方に暮れてしまうのです。
 震災で弱者がさらに弱者になってしまうことは、阪神淡路大震災の経験から明らかになっています。番場氏の印象でも、成績の良い子や親の所得や学歴の高い子たちは、既に県外に転出し、戻ってこないようだといいます。そして、障碍があって移動が容易でなかったり、他県に移る経済的余裕のない人が残るということになっているようです。この辺りは厳密な検証が必要なことですが、この地の人の受けている印象として、事実とそんなにかけ離れていないのではないかと思いました。
 

子どもを守る市民の連帯

 この地に着いた初日の夜は、ちょうど相馬と南相馬の復興を願う市民有志による忘年会が南相馬の「だいこん」というレストランで開かれていました。私も坪倉医師と共にその場にお邪魔させて頂きました。その会は、南相馬市在住の高村氏を中心に、相馬市在住のTeam One Loveの酒井氏、南相馬災害FMの楢崎氏、東北コミュニティの未来・志援プロジェクトの中山氏、南相馬市の保育園の副園長、傾聴ボランティアなど、この地域の志ある方々が総勢30名ほど集まっていらっしゃいました。この地の方々から幾度となく、これまでのこの地域のしがらみなども聞いておりましたから、居住地の枠を超えた連帯に大いに感銘を受けました。
 さらにこの地域の方々と、外から入ってくるボランティアとの関係にも感慨を覚えました。但野氏は「ここまでの展開は坪倉先生の姿に感銘を受けたからできています」、とおっしゃっていました。坪倉医師は、東京大学医科学研究所の上研究室の医師で、震災直後から相馬に入り、南相馬市立病院の非常勤医となり、地域医療を守ってきました。南相馬市の子どもたちの尿検査をしたところ、セシウムが検出され内部被曝が明らかになり新聞などで報道されましたが、市当局の意向と合わなかったために、批判される事態になっています。そんな坪倉医師に対し、但野さんは「批判を受けながら、私達の子どものため奮闘してくれています。そんな時、俺って黙って見ていていいの、って気持ちになりました」とおっしゃっていました。
 この地域は、もともとあった医療や福祉や雇用や教育といったさまざまな問題が、震災でさらに色濃く出てきてしまった、と何人もの方々からうかがいました。しかし、子どもを守るという共通の目標を持つようになった今、市民たちはこうした問題を共に協力して乗り越えてゆこうという雰囲気になっていることがうかがわれます。 
 こうした人々の連帯は、もしかしたら、歴史的に長く続いてきたしがらみが解消され、ともに復興の道を歩むきっかけになるかもしれない。凍ったチャールズリバーを眼下に眺めながら、相馬と南相馬への希望を確かに感じました。

謝辞:今回の相馬・南相馬訪問に当たっては、星槎グループの尾崎達也氏、東京大学医科学研究所の上昌広氏、その他沢山の方々に大変お世話になりました。ここに感謝の意を表します。

アジアのヘルスケア改革

2011-12-30 19:18:39 | 国際保健
香港訪問

 「アジアの医療制度改革Health System Reform in Asia」と題する国際会議が、香港大学で2011年12月9日から12日まで開催されました。この会議を主催するのはニュージーランドとオーストラリアの研究者で、ELSEVIERとSocial Science and Medicineという出版社と雑誌がサポートし、ロックフェラー財団が協賛していました。アジアは未だコーカソイド系のリードがないと進まないものかという思いを抱きつつも、ポスターセッションでの発表もあったので、何とか日程を調整して香港に向かいました。
 初めて訪れた香港は、活気あふれる光の街でした。夜中の11時半に着いた巨大な香港国際空港では、旅行客も空港で仕事をしている人もほとんどが東洋系で、標識も漢字と英語で書かれていて、香港は中国の一部なのだということを実感しました。空港からリムジンで九龍半島のホテルに到着するまで、煌々と電気のついた高速道路、アパート群、ビル群が続きます。ふと、「節電」という意識はないのかと思いましたが、ちょうどクリスマス前だったので、いつにも増した電飾による飾りつけが、そんな懸念を吹き飛ばすかのように煌めいていました。


ヘルスケア改革の必要性

 香港大学は、九龍半島の向かいの香港島の山の傾斜に沿って位置しています。最寄りの地下鉄の駅からタクシーに乗って、大学の入り口に降ろしてもらうと、そこから会場の大講堂までは、階段とエレベーターで延々と上ってゆきます。
大講堂に集まったこの会議の参加者は500人くらいで、医療政策、医療経済、医療社会学、公衆衛生などを専門とする研究者や実務家が主でした。一部、医師や看護師の資格を持つ参加者もいましたが、参加者の多くは医療系の資格を持ってはいません。医療の直接の提供者でなくても、医療の制度や提供の在り方について、意見や提案ができるということをこの会議は示しているようでした。
 基調講演は国連社会開発調査研究所のS. クック氏で、大きく変動を遂げているアジアで、それぞれの国における社会的変化は何であるかを明らかにし、それに応じた保健医療政策を策定することの重要性を指摘していました。アジアの国々においては、近年の急速な経済発展で、ますます貧富の差が拡大しています。医師不足や医療費の高騰が進む中で、すべての人々に平等なアクセスが保証されるように、国民皆保険の導入や、公的保険と私的保険の組み合わせの模索など、各国で様々な医療制度の在り方が試行錯誤されています。基調講演に続いては、フィリピンや香港やバングラディシュでのヘルスケア改革の試みが紹介されました。
 

医療ガバナンス

 会議では、様々な国におけるヘルスケア改革の構想や実践が紹介されました。こうした発表を聞いていると、最も重要なキーワードのひとつは「ガバナンス(Governance)」でした。「ガバナンス」というのは、近年社会科学の公共論の領域で注目されている概念で、目標達成のために、官・民を問わず関連する複数の多様な集団や組織がパートナーシップで結ばれながら、管理・運営・調整を連携して行うという考え方のことです。「ガバナンス」には政治的支配という含意はなく、行政(ガバメント)とは異なる社会を運営する原動力として期待されています。
 こうした考え方によれば、医療ガバナンス(Healthcare Governance)を構成する諸主体は、医療提供者(Healthcare Provider)、政府(Government)、研究者(Academia)、市民社会組織(Civil Society Organization)、企業(Industry)などです。また国際医療ガバナンス(Global Health Governance)という構想もあり、そこには、上記に加えて世界保健機関(World Health Organization)、国際連合(United Nations)や世界銀行(World Bank)などの国際機関、NGO/NPO(Non-Government Organization / Non-Profit Organization)などの参画が望まれていました。
 各主体の参加の仕方や度合いは、それぞれの国の制度、ニーズ、主体の力量、主体間の関係性、文化、歴史的経緯などによって異なってきます。日本においてはどのような「医療ガバナンス」がふさわしいのか、いろいろ考えさせられました。


市民/消費者/患者/当事者の参加

 この会議では、ハーバードにおける2008年から2010年までの同僚で、現在は韓国に帰国してソウル国立大学で教鞭をとるジュワンと再会しました。彼は、産婦人科医であり、社会疫学や医療市民運動の専門家でもあります。今回の彼の発表は、韓国における「医療市民評議会」の社会実験についてでした。
 彼の研究チームは、インターネットや広報を通じて114人の一般市民を参加者として募集しました。そしてまず、韓国の医療制度の方向性としてどのようなものが望ましいかを聞く質問票に答えてもらいました。たとえば風邪の薬は公的保険でカバーできるようにすべきか、臓器移植や高額医療はどうか、保険でカバーされる対象を増やす代わりに保険料を値上げすることに賛成かどうか、などといったことを質問しました。その後、参加者に向けて医療制度に関する1日がかりの勉強会を開催し、講師と参加者は熟議(deliberation)をしました。最後に、再び同じ質問票に参加者に答えてもらいました。
 その結果、勉強会や熟議を経た後、人々は、それ以前とは違う意見を持つようになりました。つまり、以前の保険料は安ければ安いほどいいという回答は減り、代わりに支払う保険料が少しくらい上がっても、手厚くカバーされる保険の方がいいと答える人が多くなりました。また、実験的でも最先端の医療を受けたいという人は減り、すでに標準化した医療を受けたいという人が有意に増えるようになりました。結論として、市民の医療制度改革への参加は言うまでもなく重要なので、十分な情報が与えられ、専門家と議論する機会が与えられることで、より良い市民参加が可能になるということでした。
 とても共感できる発表でしたが、研究者が開く勉強会がバイアスのかかった内容でないか十分注意する必要があるのではないか、という疑問がわきました。そこで質疑応答の時間にその疑問をぶつけてみたところ、イギリスからの参加者も疑問を共有してくれました。ジュワンもその通りといい、今後勉強会のプログラムを工夫すること、さらに日本やイギリスなどでも同様の実験的調査をして、共に市民参加の医療を目指してゆこうと誓い合いました。


ヘルスケア改革の理念と現実

 最終日の一日前、香港大学に近いセントラル地区のレストランで会議参加者のための晩餐会がありました。時間に余裕があり、歩いていける距離と聞いたので、急な坂道を下ってその場所まで行くことにしました。
 その道筋で、昔ながらの香港の下町の風情を満喫できました。色とりどりの野菜が段ボール箱に山盛りになっている市場、切った肉が上から釣り下がっている肉屋、木くらげや魚介の干したものが店からあふれ出るように並んでいる乾物屋、何か判断が付きがたい様々な塊が大きなビンに詰められ薬として売られている伝統医療の店など。道行く人も普段着で、買い物のビニール袋を提げたその町に住むような人ばかりでした。
 このような街並みを興味深く歩いている途中で、鼓笛隊の音楽が聞こえてきました。何かと思ってみてみると、鼓笛隊のパレードの後に、さまざまな宗教団体の旗を持った人たちが連なり、デモ行進を行っているのでした。ちょうど私が向かう方向からやってきていたので、ところどころに宗教名の入った旗を持つ人々を含む長い隊列を、目的地に向かいながらずっと見てゆくことができました。
 隊列が進んでゆくと、宗教名だけでなくメッセージが書かれた旗もありました。どれも中国語で書かれていましたが、いくつかの旗には、下の方に英語も書かれていました。どうやらこうした宗教団体は、中央政府から弾圧されているので、デモ行進によって信仰の自由と弾圧の撤廃、人権擁護を訴えていることが分かりました。
 そうした旗の一つに、目を閉じて裸で横たわる男性の上半身の写真がありました。その胸から腹にかけては、縦や斜めに数本の長い手術の跡がありました。旗の下には、思想犯として中央政府に捕えられ、死刑となり臓器を摘出された、という趣旨のことが英語で書いてありました。
 中国では、政府に反対するような思想や信条を持つ人々が、思想犯として刑務所に入れられ、臓器を摘出されていることは、以前、コロンビア大学の医療史教授のディビッド・ロスマンが雑誌に書いていたので知っていました。男性の写真と解説文を読んで、すぐにこのことを思い出しましたが、実際に犠牲になった人の写真を見て、そしてそれに抗議する人々の列を見て、とても大きなショックを受けました。市民参加、医療ガバナンス、協働など、会議で熱く語られていた言葉が、あまりにも過酷な現実を前に、急に色あせてくるのを感じました。しかしこうした過酷な現実を変えるためには、人々の命や健康を守るためには、やはり市民も専門家も政治家もみんなが協力していかなくてはならないのだと思いかえしました。


アジアのヘルスケア改革

 デモが行われていた場所から10分も歩くと、海沿いの大きなショッピング・モールへの歩道橋がありました。モールを覗いてみると、そこにはシャネルやブルガリやフェラガモ、毛皮や宝石の店、高級スーパーマーケットなどが入っていて、流行の服に身を包んだクリスマスの買い物客でごった返していました。たった10分でこんなにも異なる二つの世界を見せてくれる香港は、この会議が企画された趣旨、すなわち今日ますます広がりゆく「格差」に対応すべく医療へのアクセスを平等にしようという動機を、身を持って感じるのに、まさにうってつけの場所でした。
 このような「格差」、人権侵害、基本的な医療や薬へのアクセスがなく健康が守られていない状況に、アジアの多くの国々が苦しんでいます。この会議に参加して、日本だけでなく、アジアのヘルスケア改革にも取り組んでいかなければならないと、改めて思いました。


<参考資料>
アジアの医療制度改革会議のホームページ
http://www.healthreformasia.com/

ディヴィッド・ロスマンが中国の臓器移植について書いた記事、ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス誌より。
http://www.nybooks.com/articles/archives/1998/mar/26/the-international-organ-traffic/


大統領のディナー:人々の声を聴くということ

2011-12-30 19:15:20 | 健康と社会
4人のゲスト

 11月のある木曜日、アメリカ大統領のバラク・オバマ氏は、ホワイトハウスにおいてディナーを主催しました。ゲストは、どこかの国の王様や首相ではなくて、教師としての退職金を取り崩しながら3人の息子を大学に行かせている女性、二種類のがんを患いつつ保険会社と支払いのことで闘っている母を持つシングルファザーの男性、3人の子どもの賛同を得られないまま新しい事業に取り組もうとしている初老の男性、そして2008年の選挙戦で民主党を応援した無名のアーティストの女性の4人です。オバマ氏は、ミシェル夫人と共にゲストを温かく迎い入れ、彼ら/彼女らの話を聴きました。背後に、同じ悩みや希望を持った多くの人々が控えていることを思いながら。
 このディナーの話は、「オーガナイジング・フォー・アメリカ」という、民主党オバマ支持者の登録しているメーリング・リストで流されたものです。この話のすぐあとには、実際にこのディナーに招かれたアーティストの女性がその時の様子を書いた文章が流されました。オバマ氏のディナーは、政治がワシントンのロビイストや利益団体に左右されるのではなくて、彼が「you」と呼びかける、一人一人の国民のためになされるべきことを象徴するものでした。


かつての闘い

 ディナーに招待して、困難に直面している人々の生の声を聞くとは、なんとスマートなやり方でしょう。これがアメリカ式というものなのでしょうか。ある意味でそうなのかもしれませんが、ここに至るまでには長い厳しい為政者と人々との闘争の歴史があったことも、アメリカ社会のもうひとつの真実です。
 つい最近、かねてより親交のあったマサチューセッツ脳障害者協会(BIA-MA)から、1990年に成立した障碍者差別を禁止する「障碍を持つアメリカ人法(American with Disability Act: ADA)」が成立するまでの、障碍者運動の一端を映し出した映像を紹介してもらいました。それは衝撃的な映像でした。足の不自由な方々が車椅子から降りて、ホワイトハウスの階段を腕の力で這い登る姿。警官に追い払われて散り散りにされないように、互いの車いすや体を太い鎖で縛っている姿。警官に車椅子を倒されて、地面に横たわる姿。「障碍を持つアメリカ人法」は、障碍者が、文字通り体を張って、命を懸けて成立させたものなのだと、震えるような思いがしました。
「障碍を持つアメリカ人法」が成立した時、署名をしたのは当時大統領だったジョージ・ブッシュ氏でした。その時の写真を見ると、署名をするブッシュ氏の両脇に、にこやかに微笑んでいるスーツ姿の車いすの障碍者の姿が映っています。このスナップ・ショットができるまでには、これほどまでの激しい闘いがあったとは、障碍者の歴史の光と影を見た思いがしました。


日本でもあった闘い

 翻って日本でも、障碍者たちは為政者や社会に向けて声を上げてきました。例えば1970年代後期の「青い芝」という脳性マヒの方々の運動は、日本における障碍者の歴史の画期になる出来事でした。事の次第は、1976年に神奈川県川崎市において、市交通局と東急バスが車椅子のままのバス乗車を拒否したことから始まりました。この処遇を不当だとして、1977年になって、「神奈川青い芝」等は激しい抗議行動を起こしました。
 当然当局は、抗議行動を抑えにかかり、闘争になりました。その激しさは、アメリカの障碍者たちの運動に勝るとも劣らないものでした。こうした運動は、国連の指定した1981年の国際障害者年に向けたいくつかの制度改正に影響を与え、日本の障碍者を取り巻く状況は少しずつ改善するようになりました。


運動とその成果

 青い芝の会の障碍者が、バス乗車拒否に対して行った抗議運動は、1960年代のアメリカにおける公民権運動を彷彿させます。アフリカ系アメリカ人の少女ローザ・パークスは、バスの座席に座っていた時に、車掌から白人のために席を譲れと言われましたが、これに従わずに罰せられました。ここから大きな問題が勃発しました。多くの市民がバス会社に対して、差別的な慣例に対してボイコット運動を始めたのです。この運動は瞬く間に全米に広がり、人種による差別を撤廃する公民権運動Human Rights Movementに繋がりました。この運動の拡がりと影響力は甚大なものがあり、その思想は今日のアメリカ社会を特徴づけるものとなっているといえます。
 我が家の娘たちも、幼稚園から小学校低学年に至るまで、毎年繰り返し2月の黒人遺産継承月間(Black Heritage Month)になると、ローザ・パークスやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの物語を学校で話し合い、差別を許さぬ心、不当なものに対してはたとえ子どもであったとしても立ち向かう勇気を学んでいました。この様子を見て、これこそがアメリカ教育の基本中の基本なのだと思いました。
 ただ、同じバスのボイコット運動でも、日本の青い芝の会とアメリカの公民権運動との間には決定的な違いがあります。それは、のちの社会での受け継がれ方です。ローザ・パークスは人種差別撤廃の偶像になり、アメリカ中の子どもたちが、その物語を授業で学び、ローザの勇気を讃えて、差別の悪を撲滅させようと誓っています。一方、青い芝の方は、その存在を知っている人は、ごくわずかの当事者か関係者だけにとどまっています。
 今日に至るまで、日本にも社会運動はいくつもありました。1960年代の安保闘争、70年代の公害に対する反対運動、80年代の消費者運動、90年の環境問題運動、福島第一原発事故後の今日では脱原発運動など。しかし、日本においてそうした運動は、どのくらい評価され、どんな成果を上げ、人々に語り継がれてきたでしょうか。すべてがそうとは言えませんが、多くの社会運動において、活動家や協力者が偏見にさらされたり、声を上げても聴いてもらえなかったり、実質的な効果がなかなか上がらなかったりしてきたように思われます。運動をしても社会は変わらないという経験は、声を上げる人々に諦めの念を抱かせてしまいます。声を上げる人々が諦念に陥ってしまい、闘いをやめる時、この国はどうなってしまうのだろう、と憂慮せずにはいられません。


「制度の谷間」からの叫び

 それでも今、大変な闘いに挑んでいる人たちがいます。いまだ病気が解明されていなかったり、検査の方法が分かっていなかったり、評価基準ができていないという医療側や行政側の都合だけで、身体の不具合を抱えながらも見棄てられるという、「制度の谷間」に陥った人々です。彼ら/彼女らは、自分たちの背後に、多くの患者(patient、苦しむ人)が、病人や障害者と見なされずに困難に直面していることを思いやり、身体の辛さをおして声をあげ、行動を起こしてきています。
 これまでMRICで何度か紹介してきた「筋痛性脳髄膜炎/慢性疲労症候群の会」の篠原三恵子さんは、その代表的な人物です。また、福島県在住で、3月の東日本大震災によって自宅が居住不可能になり東京に避難してこられた佐藤香織さんもそのひとりです。佐藤さんは、8年前から多発性嚢胞腎と多発性肝嚢胞を患っていて、一昨年には肝臓切除術を受けて60針も縫いました。また、デスモイド腫瘍のため開腹術も行い、他にも気管支喘息、難治性腹水、慢性疼痛、座位・立位・歩行困難、不安障害などを抱えていて、数メートルの自力歩行も困難な状態です。
 しかし、病名がリストに載っていないので障害者手帳は対象外となってしまい、行政からは何の社会的サービスも受けられていません。福島でも、居住している千代田区でも、行政の福祉担当者には支援的な態度で対応されるどころか、サービスはないと門前払いをされているのです。
そればかりではなく、行政の窓口では、理不尽な嫌がらせや、ハラスメントにあたるような言葉による攻撃を受けたともいいます。「区民でない」、「千代田区では認定されるのは『病状安定者』のみ。あなたはこの2週間、病状不安定で、入院の人は認められない」。このような言葉に、佐藤さんはどれほど傷ついたことでしょう。どこへ行っても手帳がないために、一般健常者扱いで、役所や病院から追い出され、住む場所の確保も困難で、幾度も死の恐怖にあったともいいます。千代田区では、これを見かねた近所の教会信者や主婦などが、相談に乗ってくれたり、世話をしてくださったりしているそうです。
 ホテルでの避難が半年以上と長期にわたり、立ち退かなくてはならなくなった時、佐藤さんは都営アパート(新宿区)が避難民への住居を提供しているということを知り、応募して引越しできるようになりました。ただ、その引っ越しの支援も行政はしようとしませんでした。数メートル歩くのも困難な人が、ひとりで引っ越しをできるわけがありません。何とかならないものかと、東京大学医科学研究所教授の上昌広氏に相談したところ、研究室で学生ボランティアを募集して下さいました。東京大学医学部2年の塚崎氏と宮脇氏が志願して下さり、引っ越しは無事に行われました。
 
闘わなくてもすむために

 なぜこのように、身体的にも、精神的にも、経済的にも最も大変な困難を抱えている人たちが、自ら闘わなくてはならないのでしょうか。それは、黙っていたままでは、社会の中で生きてゆくことができないからです。今日、病気や障害を持つ患者といわれる人々が、政治や行政や専門職にむけてさまざまな声をあげてきています。疾患に関する適切な医療を提供するよう、研究を進めるよう、そして適切な社会サービスを受けられるよう、働きかけをしています。
 こうした患者の思いは、私が知る限り、何かを全面的にしてもらおうという過剰な要求ではなく、社会参加をするために少しのヘルプがほしいという、切ない望みなのだと思います。移動やコミュニケーションが困難な患者は、社会的に疎外された状況に陥っています。そんな時、車いすがあったら、介助があったら、その人は社会の中に出てゆくことができます。これは人が生きる上で決定的に重要なことなのです。
 社会参加を促進するサービスは社会の側で用意してしかるべきだと思います。ノーベル経済学賞受賞者で、現在ハーバード大学教授であるアマルティア・セン氏は、人々がなにかを実際にできる自由(機会)があるかどうかを「ケイパビリティcapability」といいました。そして、こうした「ケイパビリティ」を妨げる政治的、社会的な障壁を取り除き、人々の自由や選択を広げる、すなわち「ケイパビリティ」を高める事が、人権という観点からもとても重要性なことを指摘しました。
 社会参加を妨げている障壁を取り除き、社会参加ができる状況にすることは、途上国においてだけでなく、どの国においても重要だと、以前セン氏とセミナーでお会いした時、インドなまりの早口の英語できっぱりとおっしゃっていました。(余談ですがアメリカでは、母国語なまりの英語を話す人の方が、流暢に英語を話す人よりも敬意を払われる傾向にある、と何人ものアメリカ人から聞きました。母国語なまりの英語は、大人になってから英語を学んだという努力の証で、複数語を話せる証拠だからだそうです。)
 現在の様に患者が闘わなくてはならないのでは、負担が大きすぎるように思います。アメリカ大統領が困っている人たちをホワイトハウスのディナーに招待して、彼ら/彼女らの話をよく聴いたように、日本でも首相官邸の晩餐会に招待するように、とまでは望みません。しかし、日本でも人権を大切だと考えるならば、少なくとも為政者や行政の人は、門前払いをするのではなく当事者の話をきちんと聴いてしかるべきだと思います。


<参考資料>
・障害を持つアメリカ人法(ADA)の歴史
http://www.youtube.com/watch?v=5-GgxIgNje0&feature=youtu.be

・医療ガバナンス学会MRIC vol.334、多発性嚢胞腎患者、佐藤香織(現在福島県から東京都へ避難中)、「千代田区『難病患者等ホームヘルパー派遣決定通知書』に対して要望書提出~難病患者に対して必要なホームヘルプサービスの提供について(要望書)」

謎に満ちた日本のポリオワクチン接種

2011-12-30 19:12:16 | ヘルスケア改革
ワクチン「拒否率」の上昇

 現在日本においては、ポリオワクチンを巡る議論が社会的問題となってきています。すなわち、ワクチンによるポリオ麻痺(VAPP)を避けるために不活化ワクチンを求める親たちと、生ワクチン接種を推奨し続ける政府とのコンフリクトが起こっているのです。
その結果、何が起こっているかと言うと、ポリオワクチン接種率の低下です。都内で小児科を開業されている宝樹真理医師は、渋谷区や港区や世田谷区の接種率は、今や5割に低下していると言います。予防のためには90%がワクチンを接種している必要があるといいますから、この接種率50%というのは明らかに危機的なものです。
 従来より現行の生ポリオワクチン接種に疑問を呈してきたテレビ制作者の真々田弘氏は、このワクチン接種率の低下を、「ワクチン拒否率」だといいます。親にとってみれば、安全性が確立されている不活化ワクチンがあって、諸外国ではすでに何年もルーティンで使われているのに、生ワクチンを打つことで我が子がポリオを発症してしまうことは、絶対に避けたいことなのです。
 しかし、どういう訳か日本では、未だに生ワクチンなのです。アメリカで子育てすると、日本とアメリカで、予防接種の数と回数が全く違うのに驚きますが、一つ一つ調べていくといろんな疑問に出くわします。ポリオもその一つで、調べれば調べるほど、謎が出てきます。


日本小児科学会の見解

 ワクチン接種率の低下を懸念して、日本小児科学会の予防接種・感染対策委員会は、2011年11月14日に「ポリオワクチンに関する見解」をホームページ上に掲載しました。その冒頭では、こんな風に書かれています。

「世界的にはまだ野生株ポリオの流行が存在する中、わが国においてはポリオワクチン接種率を高く保つ必要があります。IPV(不活化ポリオワクチン:筆者挿入) が導入されるまでポリオワクチン接種を待つことは推奨できません。」

 そして、生ワクチンによって実際にポリオに罹ってしまうことがあることを明記して、WHOのポジション・ペーパーを引用して、こんなことも書いています。

「世界保健機構(WHO)は生ポリオワクチンによるポリオ麻痺を予防するために、お母さんの免疫が残っている間に初回の接種をするように勧めています」


WHOの見解

 この日本小児科学会の見解を読むととても不思議な気がします。というのも、小児科学会が引用した実際のWHOのポジション・ペーパーの当該箇所を和訳すると、このようになります。

「母親由来の免疫がまだ残っている間に初回のOPV接種を提供することは、少なくとも理論的にはVAPPを予防するかもしれない。しかしながら、出生時接種の抗体出現割合のデータは非常なばらつきを見せている。低いところではインド(10-15%)、中間値のエジプト(32%)、高いところでインドネシア(53%)・・・」

すなわち、日本小児科学会は「WHOはお母さんの免疫が残っている間に初回の接種をするように勧めています」と書いているのですが、当のWHOは「母親由来の免疫がまだ残っているうちに初回の接種をすることは、少なくとも理論的には予防するかもしれません」と書いているのです。ここにはかなりのズレを認めざるを得ません。どうしてこのようにズレていることを、学会の見解として表明するのでしょう。とても不思議です。


WHOとの違い

 また、同じWHOのポジション・ペーパーには、生ポリオワクチンによるポリオの発症(VAPP)件数は、年間で100万人に4人と書いてあります。しかし、日本小児科学会の声明では、日本では100万人に1.4人と書いてあります。これも不思議で、日本小児科学会はいかなる根拠によってこのようなことを書いているのでしょうか。
 日本小児科学会の最大の不思議な点は、まだあります。WHOの世界ポリオ撲滅イニシアティブのスポークスマンであるオリバー・ローゼンバウアー氏は、生ワクチンによってポリオに罹ってしまうことはまさしく害悪なので、「ひとたびポリオの野生株の撲滅を達成できたら、経口ポリオワクチンをルーティンの接種で使用することは中止する必要があろう」と、2011年11月11日にオンラインのカナダ医師会誌で語っています。
これはいまさら新規に言われたことではなく、生ワクチンによって実際にポリオが発生する危険性は従来から言われていたからこそ、ポリオを撲滅した国(日本を除くほとんどの先進国)では次々に不活化ワクチンに切り替えているのです。それでは日本小児科学会は、このWHOの見解や、ポリオを撲滅した諸外国の状況を知らなかったのでしょうか。


生ワクチンによる被害

 現在、世界的にポリオを撲滅しようとする動きが活発で、ロータリー・クラブ、ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団、日本の外務省でさえ、莫大な資金を投入して、キャンペーンをしたり、予防接種を普及させようとしています。そのおかげで、たとえばかつてポリオ蔓延国であったインドは、WHOの推奨するポリオ撲滅戦略を全面的に受け入れて、2011年1月に1人の患者が発生しただけで、以降、ポリオの発症例は報告されていません。
 ところが日本では、2011年5月に発表されたように、生ポリオワクチンの接種によってポリオに罹ってしまった子どもがいるのです。どうしてこんなことが起きてしまうのでしょうか?ポリオ発症数をゼロにしたインドと未だにポリオ発症者のいる日本との違いはどこなのでしょう? インドはWHOの推奨を受け入れたからで、日本は受け入れていないからなのでしょうか?いったいどうして現在に至るまで日本では、ポリオが撲滅できないのでしょうか?
 謎は深まるばかりです。


【謝辞】
 ポリオワクチンに関する情報を提供して頂き、ご意見を聞かせて頂きました真々田弘氏、ポリオの会の皆様、宝樹真理氏に心からのお礼を申し上げます。また、感染症コンサルタントの青木眞氏のブログは大いに参考にさせて頂きました。ありがとうございました。

(参考資料)
日本小児科学会、予防接種・感染対策委員会による「ポリオワクチンに関する見解」。
http://www.jpeds.or.jp/saisin/saisin_111114.pdf
(2011年11月19日にダウンロード)
WHOのポジション・ペーパー「撲滅前時代におけるポリオワクチンとポリオ予防接種」
WHO,Polio Vaccines and Polio Immunization in the Pre-eradication Era: WHO Position Paper, Weekly Epidemiological Record, No.23, 2010, 85, 213-228.
http://www.who.int/wer/2010/wer8523.pdf (2011年11月19日にダウンロード))

「WHOはポリオ集団発生と関連するワクチンの廃止を熟考する」、カナダ医師会誌、オンライン、2011年11月11日発行
WHO Mulls Phase Out of Vaccine Linked to Polio Outbreaks, Canadian Medical Association Journal(CMAJ),
http://www.cmaj.ca/site/earlyreleases/11nov11_who-mulls-phase-out-of-vaccine-linked-to-polio-outbreaks.xhtml