ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

ホリデー・シーズンによせて―共同体の意義(1)

2010-12-23 09:41:42 | 健康と社会
3つのホリデー

11月下旬の感謝祭が終わるのを待ちかねるように、ボストンの街はすっかりホリデーの飾りつけを始めました。店のショー・ウインドーはもちろん、普通の家も窓辺に天井まで届くツリーを置いたり、屋根や窓枠に電飾を張り巡らせたり、庭に置物を飾ったりしています。
こちらでは12月を「ホリデー・シーズン」として祝いますが、それはこの時期、キリスト教のクリスマスChristmasだけではなく、ユダヤ教ではハヌカHanukkah、アフリカ系アメリカ人コミュニティではクワンザKwanzaaを祝うからです。
ハヌカというのは、ユダヤ教の火にまつわる伝説に由来していて、9本(あるいは7本)の蝋燭を立てた燭台(メノーラと呼ばれる)を飾って8日間祝います。毎晩1本ずつ蝋燭に火が灯され、子どもたちは小さなプレゼントをもらいます。
またクワンザというのは、他所の社会からの借り物ではない、黒人独特の祭りを作り出そうという趣旨で1960年代のアメリカで始められた比較的新しいホリデーです。7本の蝋燭を立てた燭台を飾り、7日の間祝います。シンボル・カラーは、赤と緑と黒。クワンザとはスワヒリ語で「初物の収穫」を意味するということです。
ニューヨークに住んでいた頃、親しくしていたユダヤ人の年配の友人は、自分はユダヤ教だから12月だからといって特に何かを祝うことはしないと言っていましたが、ハヌカがこんなに盛大なお祭りになったのはこの頃のことだといいます。クワンザもしかり。華やかなクリスマスの影響なのでしょう。ただし、12月に祝ったことがないと言っていた彼も、つい最近になって、ラジオ・シティで毎年恒例に行われているロケッツのクリスマス・ショー(ラインダンスで有名)を、孫と一緒に初めて見に行き、こういうものもいいものだと言っていたのは印象的でした。

それぞれの儀式

宗教や信仰が異なるとお祝いする行事も異なりますが、夫婦で異なる宗教を持つ人たちはどうしているのでしょう。日本でも時々、夫婦で宗教を異にしている人がいますが、世界的には結婚するからには一つの宗教にするのが一般的、と日本にいる頃は思っていました。しかし、どうやらそうでもないらしく、アメリカでも夫婦で別の宗教という人は結構います。
「ボストン・ペアレンツ」という町の図書館や病院の待合室などによく置いてある無料のコミュニティ誌の12月号では、「ホリデー・シーズンに二つの信仰を上手にやり繰りする方法」という記事が載っていました。例えば、父親がユダヤ教、母親がキリスト教の場合、クリスマスあるいはハヌカをどう祝うかは、悩ましい問題になるといいます。メノーラを飾るか、それともクリスマス・ツリーを飾るのか。サンタ・クロースがプレゼントを持ってくるという話は子どもにしてもいいのか、しない方がいいのか。それぞれの祖父母にはどう対処するのか。このような問題がありますが、その筆者は、どうして違うのかを家族で話し合い、いろいろな歴史や文化があることを学び、それぞれを尊重できるようになるいい機会と捉えることを勧めていました。そして、子どもたちにはどちらの宗教の行事も、文化として体験させてみてはどうかと書いていました。
今日、クリスマスはもちろんハヌカやクワンザも、当初の宗教的、伝統的、信仰的な意味が薄れて、数々の贈り物、盛大なパーティ、豪華なドレスが独り歩きする商業主義になってしまったという批判が常に付きまとっています。しかしこのお祭り騒ぎは、家族、あるいは主教を共にする人々や職場の仲間など―これらは共同体と言えるでしょう―が集まり、親愛の情を確認する儀式という、象徴的で重要な意義を持っています。

共同体の伝統と儀式

共同体の意義として最近印象的だったのは、子どもの自立を祝うユダヤ教の儀式です。ユダヤ教(すべてではないそうですが)では、13歳になると男の子はバーミツバBar Mitzvah、女の子はバツミツバBat Mitzvahという儀式を行います。この日までに子どもたちはユダヤの法律と伝統を受け継ぐための様々な準備をしてきます。それらは、例えばヘブライ語を学んで経典(トゥーラ)を読めるようになったり、人格発達のためのカウンセリングを受けたり、といったことです。
当日は、男の子はスーツにネクタイ、女の子はふわふわの白いドレスという、まるで結婚式のような装いで式に臨みます。招かれる側も当然服装はフォーマルで、ご祝儀を持っていきます。7年生(日本の中学1年生)になる娘は、このごろ毎月のようにお友達のバーミツバないしバツミツバに招待されているので、こちらの準備も大変です。
午前中のシナゴーグでの儀式では、男の子はスーツの上に白地に青色の線の入ったガウンをまといます。そして男女とも壇上で、ヘブライ語で書かれた巻物状になっているトゥーラと呼ばれる大きな経典を読み上げたり、自分の日々の生活への省察を語ったりします。わが子の立派な姿を見て、涙ぐんでいるご両親もしばしばいます。式が終わると、同じ建物内の集会場でキダッシュという料理が振る舞われ、楽団も入ったりして宴会が始まります。
そして夜は別の場所(レストランのパーティ・スペースやゴルフのクラブ・ハウスなど)に改めて集まってダンス・パーティが開かれます。パーティは深夜の10時か11時頃まで続くので、これを機会に子どもが夜遊びの味を覚えてしまうと批判的な保護者もいます。しかし、この日を境に子どもたちは、法律と伝統と倫理に自分で責任を持ち、あらゆるユダヤ共同体の生活に個人として参画することができるようになります。ですから、子どもは自立した存在として、夜遊ぶことにも、勉強することにも自己で責任を持つよう期待されるのです。

ホリデー・シーズンによせて―共同体の意義(2)

2010-12-23 09:34:46 | 健康と社会
共同体の中の居場所

 日本でも、通過儀礼と言えるような儀式があると思いますが、ぱっと思い浮かぶのは入学式や卒業式など、学校に関係するものばかりです。そうではなくて子どもが地域社会の一員として認められるようなきっかけになるものは何かあるでしょうか。
確かに日本には二十歳になる時に成人式がありますが、ティーン・エイジャーになりたての頃に、自立した存在になるための儀式があってもいいかもしれません。かつては元服や十三参りなどがありましたが、現代においてもう一度意義を見出してゆくことも大事かもしれません。地域の共同体の中に個人として居場所があるということは、悩み多き思春期に精神的なサポートを得られる意味のあることだと思います。
ニューヨークにいた頃によく知っていた教会では、毎週冊子が配られ、そこには誰の子どもが生まれたとか、誰が入院したとか、遠くに引っ越した誰々が教会を訪ねてきたとかが書かれています。また教会では宗教以外の催し物、たとえば退職男性の昼食会、女性の読書会、子どものアート・ワーク会など、いろいろ用意されています。クリスマス、イースターなどといった季節の行事も、教会に集まる人々の手で行われていました。こうした諸々のことによって、子どもも大人も共同体内に居場所があるという気持ちにさせられるのは間違いないでしょう。

共同体は失われたか

ところで11月中旬、今年で第5回目を迎える「現場からの医療推進協議会」が開催されましたが、すでに渡米した後に始まった会なのでまだ一度も参加したことがなく残念に思っておりました。毎回医療に拘わらず様々な分野の方々が話をされるので、興味深く思っていたところ、今年は社会学の宮台真司氏の「どこでボタンをかけ違えたのか」という講演が「ロハス・メディカル」のウェブで紹介されているのを読みました。
彼は「生産点よりも消費点における人々の利害に注目した政治運動というのは日本でまだ起こったことがないんですね。これからも、このままでは多分起こらない。というのは、あとで結論の方で言いますけど、日本の社会が再生する可能性はないという風に思います」と言っていました。たしかに「日本には、共同体が国家への抵抗拠点となる構えが全くない」(宮台氏)というのは、かなり当たっていますが、私としては近年の患者運動のなかに、対抗的な姿勢が見えるのではないかと思っています。

医師の専門職共同体

そして医師という専門職の共同体も、患者という「消費点」における人々の利益に寄り沿うことができるようになった時、抵抗拠点になれる可能性があるのではないかと思っています。
社会学の専門職論が示唆するところによると、「専門職」とは「共同体の中の共同体community within community」(W. グード)として、自律した存在であることが期待されている集団のことです。この「専門職」を特徴付けているのは、T. パーソンズによれば他者利益を追求する「利他主義altruism」です。「専門職professional」は、近代資本主義社会の典型的な人間像である私的利益を追求する「実業家businessman」とは異なり、他者利益を追求するという性格を持つからこそ意味があるのです。パーソンズは、この「専門職」のプロトタイプを医師であると考えていました。他者利益とはもちろん患者の利益です。
しかし、1950年頃にパーソンズが「専門職」を良きものとして捉えた後、1970年代になってE. フリードソンらは、医師専門職というのは独占的権力を持つ抑圧集団であると批判的に捉えるようになりました。この捉え方は多くの医療社会学研究者を魅了しました。そして以後、医師が医師以外の職種や患者を支配抑圧する状況を暴き出すような研究が盛んに行われました。ただし近年そういった批判も落ち着いてきて、E. コールマンやM. サックスなどによって、医師の「利他主義」や医療における「ガバナンス」の在り様が冷静に分析されるようになってきています。
中村利仁氏が「MRIC Vol. 378 ナチスドイツとヘルシンキ宣言」で書いていられたように、ニュルンベルク裁判では、たとえ国家の命令であっても、医師は専門職としての倫理に則って判断すべきであったことが示されました。専門職はたとえ国家に抵抗することになっても、患者のために行為することが期待されているのです。
日本の専門職に、このような構えはあるのでしょうか?そもそも、日本に医師の専門職共同体はあるのでしょうか?既存の医師集団は「専門職」の「共同体」と言えるのでしょうか?医師専門職が共同体を確認するための儀式も必要なのかもしれません。

<参考資料>
Freidson, E., 1970, Professional Dominance: The Social Structure of Medical Care, Chicago: Atherton Press.
Goode, William J. 1957 Community within a Community:The Profession, American
Sociological Review 22:194-200
Kuhlmann E., Allsop J., and Sacs M. (2009) Professional Governance and Public Control: A Comparison of Healthcare in the United Kingdom and Germany, Current Sociology, 57(4), 511-528.
Parsons,Talcott, 1951 The Social System, Free Press.=1974佐藤勉訳『社会体系論』青
木書店
Saks, M. (1995) Professions and the Public Interest: Medical Power, Altruism and Alternative Medicine, London: Routledge.
宮台真司氏の「どこでボタンをかけ違えたのか」
http://lohasmedical.jp/news/2010/11/17140140.php
中村利仁氏の「MRIC Vol. 378 ナチスドイツとヘルシンキ宣言」
http://medg.jp/mt/2010/12/vol-378.html