ボストン便り

伝統的であると共に革新的な雰囲気のある独特な街ボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。

フクシマ便り(1)

2011-05-24 07:53:15 | その他
一時帰国

 ボストンから2週間にわたる一時帰国中の5月15日から17日に、福島県の相馬市、南相馬市、飯館村を訪れました。相馬市に住む知人を訪ねるというのがもともとの動機でしたが、この地域の支援に震災の初期から関わっている東大医科研の上研究室と星槎グループのご協力で相馬市に滞在し、さまざまな関係者―医療関係者、学校関係者、首長、行政職員、ボランティア等―にお会いすることになりました。
 海外の目から見ると、どうしても日本というのはひと塊に見られてしまいます。放射能の問題がまだ解決していないこの時期の日本に行くことを、ボストンの友人や知人に伝えると、アメリカ人も日本人も、どうしてわざわざ危険なところに行くのか、気を付けてね、という反応が返ってきます。日本もある程度は広いので場所によって異なるということが、距離の遠さから分かりづらくなっているのでしょう。また、日本でのマス・メディアの報道とアメリカでのそれとが、特に放射能に関しては異なるということもあるでしょう。危機を煽るかのようなアメリカの報道は批判されるべきものですが、安全を誇張するかのような日本の報道も反省すべきなのではないかと思います。
 かく言う私も、ボストンからうかがい知る日本の状況は不透明で、本当のところはどうなのだろうと思っていました。まず入った東京では、いつもと変わらない人混みと喧騒の日常があるようでした。ただ、小さいお子さんを持つお母さんとお話ししたりすると、不安が全く払拭されているわけではないことも感じとられました。


相馬市訪問

 相馬市の知人、尾形眞一さんは、311の震災の後に知り合ったばかりですが、メイルで何度かやり取りをするうちに親しくなり、今回訪問することになりました。ボストンで子どもたちの行っている学校からの募金やメッセージをどこに送ろうかと探していたところ、相馬市の中村第二小学校を紹介して下さったのも尾形さんでした。
5月15日の早朝、地震、津波、原発事故という3つの災害が一時に襲ってきた場所に、今行くという重みを感じつつ、相馬市に向けて車を走らせました。途中の道筋では、栃木県保健センターや日本財団などの医療支援車両、「災害派遣」という旗を付けた島根ナンバーの自衛隊車など、被災地の支援に向かうたくさんの車を見かけました。
迎えてくださった尾形さんは、薬剤師の資格を持つ福島県保健所職員で、高校生と中学生のお父さんでもあります。妻の由恵さんは栄養士の資格を持つ相馬市保健センター職員です。ご自宅には、双葉郡浪江町から避難している高校生を預かっていらっしゃいました。尾形さんとご家族、そしてこの地で出会った沢山の方々のお話から、3月11日から今までの医療、暮らし、教育がどのようになってきたかをうかがい知ることができました。


311からの医療

24時間救急医療
 尾形さんは県の職員で普段は会津若松に単身赴任をしていらっしゃいますが、震災後は自宅に戻り、この地域の医療援助に奔走しました。かつての職場であった公立相馬病院に行くと、患者さんがあふれていて、まるで野戦病院のようだったといいます。
 相馬病院では院長の決断で、3月11日当日から24時間救急外来を開始し、病院入口に診察室を設置しました。患者が運ばれてきたら、すぐに処置できるようにとの配慮からです。廊下にもベッドを並べて何人もの患者に休んでもらっていました。
 病院職員も被災している状況でしたが、ひとりも現場を離れなかったといいます。相馬病院は全国に応援を頼みつつ、市内の開業医の医師たちにも声をかけて、共に救急医療に対応したとのことです。

薬の流通
 医療が回ってゆく中、薬がないという状況が出てきました。大手の経営する薬局が、店舗を閉鎖してしまったのです。尾形さんは日本薬剤師会や県の災害対策本部に応援を要請しましたが、動きは鈍く、県に至っては、申請書を出すよう言われたり、電話やファックスが停電で使えないのに、電話することを求めたり、ファックスを読んでいないかなどと言われたそうです。
 そこで尾形さんは、経営が異なっていても、互いに薬を融通しあい処方箋に対応できるようにと開いている薬局に掛け合い、賛同を得て薬のルートを作りました。この尾形さんの活動を聞きつけ、会社から避難を命じられ閉店を余儀なくされた小さいお子さんのいるある管理薬剤師は、薬局の鍵を尾形さんに託して避難していきました。
 多くの方々や心ある会社の協力により薬は何とか確保されましたが、今度は薬剤師の圧倒的不足という事態になりました。ある薬局では、通常1日5枚くらいの処方箋をさばいていたのですが、一気に1日100枚の処方箋が回されてくるようになりました。そこで尾形さんは、友達や知り合いの薬剤師に声をかけ、福島市などから相馬市に来てもらい、対応できるようにしました。また、警戒区域である原町から避難している薬剤師や、原町に留まって職を失った薬剤師にも声をかけて、相馬の店舗での調剤に当たってもらいました。

原発からの避難
 尾形さんはかつて、福島第一原発に近い浪江町の保健所で原子力防災の担当もしていました。モニタリング・ポストでの放射能の測定、ホウレンソウなど葉物のスクリーニング、万が一の時、住民に配るヨウ素の管理なども一手に引き受けていました。常時スクリーニングできるように、何軒かの農家に頼んで真冬でもホウレンソウを栽培してもらい、当初錠剤だけしかなかったヨウ素を、子ども用には飲みやすいようにシロップにしたりもしたそうです。
 尾形さんが、警戒区域である福島第一原発から半径20キロ圏内の双葉町や浪江町や大熊町などの医療職の方々と連絡を取り合うと、水素爆発が起きた時、地震による停電で、電話もファックスもテレビも使えなかったため、そこにいる人たちには全く情報が入らなかったことが分かりました。避難しろと言われても、どうして逃げなくてはいけないのか、病院職員や住民も全く分からないまま混乱に陥っていたそうです。
 警戒区域にある病院から避難所に向かうバスの中では、元々重病で移動に耐えられなかった何人もの方が亡くなりました。先発の患者に避難所まで付き添い、残っている患者を迎えに行こうとした医師が、制止されて再び町に戻れなかったこともありました。残された患者だけを見て、この医師のことを逃げたと報道するメディアもありましたが、事実は戻ることを許されなかったのです。医療機関に避難するという事前の話だったのに、実際は高校の体育館に連れて行かれ、硬い床の上で寒さを耐えなくてはならない患者もたくさんいらっしゃり、中には命を落とした方もいらしたそうです。

原発30キロ圏内
 警戒区域となった南相馬市立総合病院副院長の及川医師は、110人の入院患者がいる状況で、病院に入っていた50の業者がいなくなる中、残った医師や看護師たちと医療を守りました。配給された僅かなおにぎりでは足りないので、おかゆにして薄め、量を増やして患者に配りました。トイレ掃除も自らでしたといいます。この時、病院というのは、医者と看護師だけではまわっていないのだとつくづく思ったといいます。
 この病院の液体酸素のタンクは小さいためにすぐになくなり、1週間、酸素のない状態が続きました。行政に頼んでも駄目だったのですが、大阪から来たタンクローリーが、本来のルールとは異なるやり方で酸素を供給してくれました。この時は本当にうれしかった、と及川医師はおっしゃっていました。

住民の健康診断
 飯館村は、原発からの距離は30キロから50キロ圏なのですが、3月15日の爆発時の風向きと地形の影響で高い放射線量が観測されています。そこで計画的避難区域に指定され、既に自主避難している方々に加え、順次避難してゆくことになっています。
 被ばくによる健康被害に大きな不安を持つ村民が、他所の地域に避難する前に、不安を聴き取りながら健康診断をすべきと考えた村長は、東大医科研の上昌広医師の研究室に連絡をしました。
 上研究室は、震災直後に地震ネットワークというメーリング・リストを立ち上げ、医療支援を中心に、物的支援のコーディネートや教育支援など、様々な援助をボランティアで行っています。特に原発による被害を受けた市町村へは、研究員を派遣して継続的に支援を行っていて、4月半ばには相馬市職員ら600人の検診や、放射能やヘドロによる健康被害に関する住民への説明会などを行ってきました。飯館村長は相馬市長からこの話を聴き、国の依頼で県でも健診をすることにはなったものの住民が離散してしまう前の実施は難しいため、上研究室に依頼したのでした。
 研究室の坪倉医師が5月16日に飯館村役場を訪れ、21日と22日の週末に、特に放射線量の高い3つの地区の18歳以上の住民、約700人の健診をすることが決まりました。体重測定や採血の他、村長から住民の不安を聴いてほしいというリクエストがあったので、問診の形で健康相談として15分くらい時間が取れるよう、地元の医師会と協働しながら行うことになりました。健診当日は2日で合わせて28名の医師が協力したとのことでした。この健診活動は、この地域のいろいろな場所で、今後も継続的に行われるとのことです。

フクシマ便り(2)

2011-05-24 07:50:51 | その他
311からのくらし

物資が来ない
 3月15日の爆発の後、1週間余りは、相馬市や南相馬市などには、食料やガソリンなどの物資が来なくなりました。相馬市の場合は30キロ圏外なのですが、風評で入ってこないのです。多くの食料品店が開かない中、尾形さんの家の近くのスーパーは3月12日からずっと開いていました。しかしそれでも、しばらく生鮮食品は手に入りませんでした。
 南相馬病院の及川医師は、この期間に7キロ体重が減ったとおっしゃっていました。また相馬市の横山さん(難民を助ける会、相馬市在住のボランティア)は、飴玉だけでこの時期を乗り切ったといいます。
 相馬市は避難命令を出していないのです。相馬市の立谷秀清市長は、避難命令を出すべきかどうかという選択を迫られた時、出した時の混乱の方が大きいと即時に判断し、避難命令を出さなかったのです。市長室でお話しする機会があった時、立谷市長は、それでもその時、頭の中では避難すべきか否か、その結果どうなるのかをいろいろ考え、かろうじて避難すべきでないという考えが6割だったとおっしゃっていました。そして「避難はしない」と口に出した時から、避難しない気持ちが10割になったそうです。そしてそれは、「判断ではなくて決心だった」ということでした。
 立谷市長はこの決心の後、毎週発行しているご自身のメール・マガジンに「ろう城」と題する記事を載せました。「米と味噌と梅干さえあれば、生きてはいける」という言葉で締めくくられるこの文章は、多くの人の心を打ちました。これは、市長が市民と共に、この地にとどまり、この地を守ってゆく覚悟を表明したものでした。

放射能への不安
 多くの住民は、重苦しい不安を感じながらこの地に住んでいます。5月16日の夜、東大医科研の坪倉医師による地区住民への説明会に同行しました。医師の立場から放射線の健康被害について説明するという趣旨の集まりで、60名以上が集まりました。小さいお子さんを持つお母さん達は1列目に陣取って、熱心に話を聴いていました。
坪倉医師からは、医学で分かっていることと分かっていないことが丁寧に説明され、避難するかしないか、どの程度用心したらよいのかといったことは、放射能による健康被害と暮らしの快適さを考えて、自分で判断せざるを得ないのではないかという率直な意見が述べられました。
 この説明会には、保健センターに栄養士として勤務する尾形由恵さんも出席していました。妊婦さんなどから放射能の胎児への影響や避難した方がいいかなどの相談を受けることがあるといいます。そういう時には彼女も、今のところ相馬は避難区域になっていないので、避難する必要はないけれど、安心は人それぞれによって違うので、最終的にはご自身で考えてくださいと言わざるを得ない、とおっしゃっていました。
 質問の時間になると、たくさんの方が手を挙げてそれぞれの悩みを打ち明け、質問をしていました。みんな放射能への対応とそれまでの生活を守ることとの間で悩んでいらっしゃるようでした。この地域の方々は、この季節になると山に入って山菜を取ることを楽しみとしており、田植えの時期も始まっています。相馬は海の恵みを受け入れる漁業の町であるとともに、人と自然が共に助け合う里山なのです。山菜は汚染されている可能性が高いので、食べないことをお勧めしますという答えに、ずいぶん前に定年退職したという元教師の女性の当惑した顔が忘れられません。

放射能による差別
 この地で聞いたショックだったことは、放射能を理由にこの地域の方々が差別されていることです。福島ナンバーの車で他県に行くと、ガソリンを入れてくれなかったり、洗車してくれなかったりということが起こっているというのです。また同じ福島県の中でも、他の地域で制服のクリーニングを拒否されたという話も聞きました。避難していっても、この地域からだということでアパートを貸してもらえないということもあるといます。
 子どもたちの間でも、あからさまな差別があるといいます。避難先の学校で、「放射能がうつるから近寄るな」と言われた子どもも何人もいるといいます。どうして避難地域の子どもを受け入れるのだという保護者が、学校に抗議をしたりもするそうです。
 及川医師の妻で、二人の男の子のお母さんである昌子さんは、「もう福島の外には行けないと思った」、とおっしゃっていました。

「福島だけ独立国になっちゃったみたい。私たちは外に出ちゃいけないのかなと思ったり。人のうわさは75日というけど、そのうち下火になるのかな。いつ下火になるのかな。私たちはいいんですけど、子どものことを考えると。外で傷つくんじゃないかと思って。福島というだけで、心に傷を負わないかな、とか。
でも東北人なので我慢しちゃうんです。口が重いんですよねえ。これじゃいけないですよね。私たち、こんなばい菌みたいに生きていかなくちゃいけないの?私たち、福島から出ていけないの?」

 放射能が恐ろしいものだという印象だけが与えられているので、あまり勉強をしていない人は放射能が伝染すると思っているようなのです。地震、津波、放射能という3つの災害に加えて、4つ目の災害、偏見による差別という問題で、この地域の人々を苦しめてはいけないと強く思いました。
 昌子さんは、お話をされている間に差別する方がおかしいと気づき、この状況を訴えて変えてゆく為に「新聞に投書します」とおっしゃっていました。このたくましさを私は心から尊敬します。この地域の親御さんの代表の声は、必ずや多くの人々の元に届くことでしょう。


フクシマ便り(3)

2011-05-24 07:48:16 | その他
311からの子どもたち

スクール・バスでの通学
 屋内退避となっている南相馬市の一部や原町では、小学校から高校まで半数くらいのこどもたちが避難しました。残った半数の子どもたちは、南相馬市の鹿島区や相馬市の学校などにスクール・バスで通っています。たとえば相馬高校では、全校生徒は600人ですが、相馬農業高校から400人くらい、原町高校から300人くらいが、県が用意したスクール・バスで通っています。先生たちも一緒に来ていて、理科室や音楽室などの特別教室や、体育館を仕切りで区切った教室で、原則としてそれぞれの学校が独立して授業を行っています。つまり一つの校舎に、3つの学校が入っているという訳です。
 相馬高校では、2週間ほど始業式が遅れましたが、夏休みを削って後れを取り戻すとのことでした。子どもたちを長年見続けてきた武内先生は、これからの子どもたちの心の状況に一抹の不安もあるようでした。
「今は緊張しているから大丈夫かもしれないけれど、今後はメンタルの問題が出てきますね。生死を越えて、食べ物があって、何を失ったとかがだんだん見えてくるんですよね。」
 相馬高校ではこれまで、担任が生徒一人一人の話を聴いて、気になる生徒のことは注意深く見守ることにしているとのことでした。親が原発作業員という子どもたちもいるので、簡単に原発事故のことを話題にしたり、まして非難したりすることはできないということでした。
 それでも、授業は粛々と行われていました。高村先生の案内で見学させていただいた日本史のクラスでは、グループに分かれ、戦国大名の財力や兵力、立地や周囲との関係性などを調べ、大名同士の勝敗を競うというユニークな授業が行われ、生徒たちは楽しそうに意欲的に取り組んでいました。

遺児・孤児
 相馬市は地震による被害は少なかったものの、津波の被害は甚大で、避難誘導のために10名の消防士の方が殉職され、遺児は11名に上ります。それ以外にも親御さんを亡くした子どももいて、18歳未満の遺児と孤児と合わせると44人になります。
そこで相馬市では、そうした子どもたちが18歳になるまで毎月3万円ずつ支給することを決め、義援金を募るために基金口座を作りました。目標総額は2億円で、不足する場合は市の一般財源で賄い、越えるようだったら孤児が大学に行く場合の奨学金にするそうです。相馬市の立谷秀清市長はメール・マガジンでこのように書いています。
「我われ残された者たちが、親の無念の代わりを果たすことなど、とても出来ないことだが、万分の一でもの償いと思い、生活支援金条例を作ることとした。」
 全国から、そして世界から、子どもたちのために募金が集まることを願ってやみません。


311から未来に向けての構想

「新しい村」
 相馬市では、従来から高齢者が閉じこもりや寝たきり、孤独死になってしまわないように、いろいろな試みをしていました。その一つが「ライフネット相馬」です。市民である限り、誰からも声をかけられないという状況がないよう、高齢者同士が声をかけ合い、希望者には昼食を届けるというサービがス行われていました。この試みをしばらくやっているうちに、声をかけられている人が、自分から声をかける人になるという現象も起こってきました。
まさに軌道に乗ってきた時に、この災害が降ってきたのです。災害直後は合計4400人の方々が避難所で過ごしました。立谷市長はすぐに、孤独死を絶対に出すまいと心に決めました。直ちに被災者全員の生活状況を調査すると、110人の方が単独世帯になったことが分かりました。最高齢は93歳の男性で、こうした方々の中には、自分だけが助かったことを悔やんでいる方もいたとのことです。
かねてから、高齢者が互いに支えあえるような共助生活を構想していた市長は、この構想を基に、震災仮設住宅ではなくて、復興永久住宅を提供したいという意欲を語ってくださいました。プライバシーを尊重した個室が、食事のできる集会所を取り囲む空間。食事は高校生がクラブ活動として作ったらどうか。お互い声をかけ合える暮らし。介助が必要となった時もずっと暮らせる仕組み。避難してきている他の自治体住民も受け入れる。立谷市長はこれを「新しい村」と呼んでいます。この「新しい村」の構想が実現することを願っています。

これからの子どもたちへ
 子どもたちのためには、相馬フォロワーチームというボランティアの組織が立ち上がりました。中心になるのは、相馬市出身で、長年難民を支援してきたパワフルな女性、横山さんです。 
彼女はちょうどカンボジアに難民支援に行こうと準備していたところ、震災に遭いました。主な活動は、避難所を回り、子どもたちの様子を見て、どんな問題があるのかを見つけ出すことですが、その他にも、困っていることを見つけては、それに対処しようと奔走していました。訪ねて行ったその日の横山さんは、1階は津波の被害に遭いながら、2階は大丈夫だからと元の家で暮らす人たちに、物資が届いておらず孤立化しているという情報を聞き、その場を探し出して、対応にあたっていました。
 横山さんと一緒に活動するのは、警戒区域から避難している臨床心理士や、星槎グループの職員の方々です。星槎グループは、保育園・幼稚園から大学までユニークな教育施設を展開しており、会長の宮澤保夫さんは、「自分が求められることをやる。必要としている人に、必要なものを届けるのが自分のためになる」という考えから、相馬市内に宿舎を借りて、星槎グループの職員や東大医科研の上研究室のボランティアが寝泊まりする場所を提供しています。私も滞在中は、脇屋さんや大川さんに大変お世話になりました。
 これからの未来を担う子供たちが、安心できる環境の中で、のびのびと過ごせることは大人たちの責任です。育った地域に誇りを持ち、しっかりと足場がある状態で、広い世界に飛び出して行ってもらいたいものです。中村第二小学校の子どもたちとボストンの学校の交流も、菅野校長をはじめとした先生方の協力と生徒たちの気持ちで進みそうですし、これからの子どもたちに期待したいと思います。


おわりに

 尾形さんは、津波に襲われた地区を案内してくれました。地震から2か月たって、すこしずつ片付けが進み、道路は通れるようになってきましたが、抜けるように青く晴れた空のもと、海からかなり遠い田んぼの中に、とつぜん大きな漁船がひっくり返っていたり、壊された家や電柱などがうずたかく積まれたりする光景が広がっていました。泥だらけのランドセルやぬいぐるみもありました。10メートルから17メートルの、黒い壁のような波に襲われた人々の恐怖はいかほどのものだったのか、本当に胸が痛くなりました。
 この地が、これからどのように元の日常を取り戻し、かつてのように愛される町になるのか、それはこの地の人たちだけの問題ではない、と強く思いました。また、放射能に対する不安、被曝を避けるために避難すべきか、それまでの生活を守るためとどまるべきか、こんな悩みをこの地の人だけに押し付けてはいけないと思いました。
 この地の復興のためには日本中の人々の協力が必要で、逆にこの地が復興できるかどうかで日本中の人々の力が試されていると思います。さらにこれは、もはや国内の問題ではなく、世界中から理解と英知と支援を集め、協力してやっていく問題だとも思いました。(その意味を込めて、表題では「福島」ではなく「フクシマ」としました。)
 今回、様々な不安が重くのしかかる状況でも、被害の最小化、復旧、復興に向けて希望を忘れず対策を講じている地域の人たち、高校生、行政に関わる人々、ボランティアに沢山のことを教えられました。ここには、自然災害、放射能事故、行政とボランティア、差別、健康と生活の質、その他にもたくさんのテーマが湧いて出ています。ここからの学びと教えは、人類の共通の財産にすべきと言っても過言でないと思います。私たちに何ができるかを考え、関わってゆく(コミットしてゆく)ことで、私たち自身もたくさんのことを得ることができると思いました。

追記:この原稿の一部は、出張先の大阪空港の待合室で書きましたが、おりしも東日本大震災のチャリティコンサートが行われていました。大阪は東京よりも震災と遠いと思いこんでいたので、そうではなかったことを嬉しく思い、犠牲者に捧げるG線上のアリアを聴きながら、日本各地で行われているであろうこうした活動の思いが被災地に届くことを願ってやみません。

<参考ウェブサイト>
相馬市震災孤児等支援金
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_J.html

English: Donations to the Soma City Earthquake Disaster Orphan Scholarship Fund
http://www.city.soma.fukushima.jp/0311_jishin/gienkin/tunami_orphan_E.html


パブリック・ヘルス(みんなの健康)のために(1)

2011-05-04 10:24:36 | 健康と社会

公衆衛生/パブリック・ヘルス

 私の現在所属しているところは、パブリック・ヘルス・スクールです。パブリック・ヘルスは日本語では公衆衛生と訳されていて、従来の疫学や統計調査を研究しているところというイメージがありました。しかしパブリック・ヘルスには文字通り、「公共の健康」「みんなの健康」、という意味があります。医療が目の前の一人ひとりの患者を対象にしているとしたら、パブリック・ヘルスは大勢の人を対象にするといいます。そして一人ひとりへの視線と大勢への視線、どちらの視点も重要だと考えます。
みんなの健康を守るためには、医療知識や良い技術があるだけでは十分ではありません。医療制度(代表的には健康保険、医療費)、衛生的な生活環境(上下水道の整備、ごみ処理)、栄養(バランスのとれた適量の食事)、社会制度(道路での事故を予防するための交通規則、作業中の事故を予防する安全規則)、予防のための健康診断、ヘルス・リテラシー(健康に関する知識や理解する能力)など、様々な角度からの取り組みが必要になってきます。つまり、みんなの健康というのは、みんなで守ってゆくことで可能になるというのがパブリック・ヘルスの発想なのだと思います。

東海村の教訓

 渡米する前の3年間、看護学生を対象に、社会学と生命倫理学を合わせたような講義を受け持っていました。毎年、講義の終盤にNHKの番組『被曝治療83日間の記録~東海村臨界事故~』(2001年放送)をクラス全員で見て、議論をしてもらいました。ここには、医療、看護、公衆衛生において大事なことが沢山詰まっていると考えたからです。
この番組は、1999年に起こったJCO東海村の原子力発電所事故で被曝した方の83日にわたる闘病の記録、そして医師や看護師たちの数々の挑戦と挫折の記録です。被曝した方は、原料であるウラン化合物の粉末を溶解する工程で、臨界が起きて大量被曝をしました。発電所では、正規のマニュアルとは異なる簡便な手順が日常的に行われるようになっており、この日もバケツから柄杓で溶液を扱うという作業を行っている時に臨界となったのです。
この方は、最初入院してきたときは、ちょっとひどい日焼け程度で、自分で歩けるくらいだったのに、その後、急激に体調を崩しました。妹さんから造血細胞の移植が行われて、いったんは成功したかに見えたものの、やがて自身の細胞自体が放射能を発していたためか、妹さんからの細胞が破壊されてゆく事態になりました。
画面に映し出された、ぼろぼろになった染色体の写真を今でも良く覚えています。通常、同じ長さの染色体が1対となり、23個並んでいるのですが、この方の染色体は、途中で千切れたり、不規則に別の染色体と結合したりしていました。DNAが完全に破壊され、人の体を作る設計図が失われていたのです。

医療の限界

 ご家族の希望を受けて、医療者はできる限りの治療を試みました。しかし、医療ができることは限られ、最終的に治療手段が無くなり、事故から83日後の1999年12月21日、多臓器不全によって亡くなりました。8シーベルト以上の放射能を浴びていたとのことです。
番組には、折に触れて医療者の言葉が差し挟まれていました。正確な言葉は思い出せませんが、ある看護師は「私は角膜の保護をしたいのではない、浸出液をきれいにしたいのではない。この方を助けたい、と思っているのだ」と言っていました。最後には、この方を担当した医師が、このような事態を招いた安全管理体制の不備を強く批判して、「原発関係者に猛省を促したい」と言っていました。
 この番組の映像が始まってしばらくすると、多少ざわめいていた教室は水を打ったように静かになります。みんな画面に食い入るように見て、終盤ではすすり泣く声も聞こえてきます。実習を始めたばかりの看護学生には、きつい内容だったかもしれません。でも、自分がこの立場だったらどう振る舞うか、ご家族の気持ちはどうだったかなど真剣に考えてくれていることが、議論を通してわかり、医療者としての心構えの一部を用意することができたのではないかと思っています。それはすなわち、健康を守るためには、医療だけでは限界があること、健康・命を大切にするような社会の意識や仕組みが大切であるということです。
 こうしてJCO東海村の原発事故に当たった医師や看護師たちを通して、私自身、改めて人々の健康は社会全体で守るという視点が大事だと考えるようになりました。それがパブリック・ヘルスの概念にも通じると認識されるようになったのは、だいぶ後になってからでした。

福島原発事故と健康安全管理

 今度の震災では、地震と津波という予測困難な事態が起き、福島第一原子力発電所は大きな事故を起こしました。JCOの事故から12年、原発関係者は作業員の健康や命をどのように守るようになってきたのでしょうか。残念ながら、今までの報道や関係者の話から伺い知るところによれば、作業員への健康安全管理は十分に行われていないようです。
 4月12日の朝日新聞では、作業員は本来一人一人が放射線量を測る携帯線量計を持つことになっていますが、3月中は放射線量を測る携帯線量計が不足し、グループで1台だけ持たせる状態が記されていました。体内被曝量に至っては、検査をしていないのでわからないという状況が長く続いています。4月28日には産経ニュースが、厚労省が原発作業員の年間被曝量の上限を撤廃したことを伝えています。
 厚労省では、3月中旬に作業員の緊急時の上限を100ミリシーベルトから250ミリシーベルトに引き上げていますが、特にこの時、健康安全管理を強化したという話はありませんでした。年間被曝量の上限撤廃の際も同様、リスクを上げた分だけ安全対策を設けたという話は聞こえてきていません。

パブリック・ヘルス(みんなの健康)のために (2)

2011-05-04 10:21:38 | 健康と社会
造血幹細胞の事前採取と保存

 このような状況の中、3月25日に虎の門病院の谷口修一医師は、万が一作業員が高レベルの被爆をした時の治療に備えて、自分の造血幹細胞を事前に採取することを提唱しました。また、細胞採取にあたっては通常は5日間かかりますが、未承認薬を用いることで、短期間で用意ができると提案しました。
被曝量が500ミリシーベルを超えるとさまざまな臓器に障害が起こり始めるといいます。特に血液を作る機能は失われやすいので、その細胞を移植するという治療がとられます。ただ他の人の細胞を移植すると拒絶反応の心配があります。そこであらかじめ本人の細胞を採っておいて保存し、高レベルの被爆をして移植が必要となるリスクに備えるというのが、今回提唱された方法です。これは谷口プロジェクトと呼ばれています。
谷口医師は急遽首相官邸に呼ばれ、虎の門病院は原発作業者の自己幹細胞事前採取の体制を整えていることを報告し、仙石官房副長官から未承認薬を使用する際の全面的支援の約束をとりつけました。そして3月29日には虎の門病院にて記者会見をしました。
しかしその直後、原子力安全委員会と放射線医学総合研究所の専門家への二度にわたる照会(3月25日、3月29日)の結果、政府は現時点では自己幹細胞事前採取は必要ないと表明しました。日本学術会議東日本大震災対策委員会も4月25日に、「(事前採取は)不要かつ不適切」と発表しました。この方針は、5月1日現在に至るまで変わっていません。不必要論の背景は、1.移植するほどの危険なところで作業することはない、2.国民のコンセンサスがない、3.採取そのものにリスクが伴う、といったものです。

国内外で高まる関心

 この原発作業員の健康リスク管理としての自己造血幹細胞事前採取の提案に関する論文は、4月15日にイギリスの権威ある医学雑誌ランセットのオンライン版に、提出してから異例の速さで受理、掲載されました。それを受けて、アメリカではニューヨーク・タイムス、サイエンス、タイム誌、フランスではル・モンド、ドイツや中国や韓国でも新聞雑誌等で取り上げられました。
このような高い関心の背景には、世界的に見て放射能の被爆に備えて造血幹細胞を事前に採取した例が未だないことが挙げられます。各誌ともこの方法に対する賛否のスタンスは少しずつ違いますが、総じて、専門家の意見を引用しつつ、実施に当たっては不確実な要素も多いけれど、方法として考慮に値するといったような論調が展開されています。
 日本でも、新聞や雑誌で取り上げられるようになり、原発作業員の被曝の危険性への対処としてどのような方法なのか、現在政府や東電がどのような対応をしているのかといったことが紹介されています。
政府はこれまでのところ、幹細胞の採取は必要ないという態度を続けています。高レベルの放射能に被曝するほど危険な所には行かせないからだといいます。しかし、原子力発電は安全だと言われてきたのですが、今回予測を超えたことが起こって事故になりました。谷口氏らは、予測できない危険に対して警戒して準備をしておくことは必要で、医療専門職として正しいと信ずる最善のことをしたいという気持ちでこの提案をしているといいます。
谷口プロジェクトでは、ホームページを設け、内外のこのプロジェクトに対する報道や原発作業員の健康に関する情報を刻々と知らせています。また最近では、一般の方にも理解しやすいように、平易な言葉での解説もホームページに載せています。さらにこの方法の危険性と利益とに関する情報を作業員の方に分かりやすく伝え、その上で本人の希望を聞くというインフォームド・コンセントの準備もしています。透明性と説明責任が重要だと考えているからです。それは、日本学術会議に対して、公開討論会を呼びかけているところにも表れています。

「獅子のような心を持つ力ある者」

 311以降のボストンでは、週末になると至る所で日本を支援するチャリティ・コンサートが開かれています。今日5月1日には、私の住んでいるチェスナット・ヒルという町にあるユダヤ教の寺院、テンプル・エメスで行われました。この辺りは、第二次世界大戦中にリトアニア領事の杉原千畝氏によるビザ発給で、ナチス・ドイツから難を逃れた方々やその子孫の方々がたくさん住んでいらっしゃいます。
コンサートの始めに、ラバイ(ユダヤ教の指導者)は杉原氏に言及し、「彼は6,000人のユダヤ人の命を助けてくれました。その子孫が今や4万人近くになっています。今度は私たちが日本人を助ける番です」とおっしゃっていました。第二次大戦中の日本はドイツと同盟国であり、杉原氏は外務省から「ユダヤ人難民にビザを発行してはならない」との回訓を受けていました。しかし彼は、こうした政府の命令に反して、自らの信念であったヒューマニズムと博愛主義を貫き、ユダヤ人にビザを発行してきたのです。テンプル・エメスには杉原氏を讃える顕彰碑があり、「獅子のような心を持つ力ある者」という碑銘が刻まれています。杉原氏のなしてきたことは、私にとって幹細胞事前採取を提唱する医療者たちの姿と重なりました。
人道的な立場をとり、専門職としての責任を感じていたとしても、政府の反対することを推し進めることに逡巡があったことは想像に難くありません。この苦しい心の内は、杉原氏自身も手記で書いていますし、通説によれば彼はこの件が元で、外務省から辞職に追い込まれています。幹細胞採取を勧める医療者たちも同じです。彼らのメイル交換の中からも、制裁を懸念する気持ちがうかがえました。
さらに言えば、現行の政策に反対の論陣を張っている、リハビリテーション診療報酬制限撤廃を訴えたり、ポリオの不活化ワクチンを推進したりする医療者や患者たちも、同様の不安な思いを持っているといいます。それでも彼ら/彼女らは、自らが正しいと思った道を、「獅子のような心を持つ力」によって進んでいっています。
 
医療ガバナンスとパブリック・ヘルス

 近年、医療専門職たちが、政策や制度に対して意見を表明したり、異議申し立てをしたりしている様子がいろいろな場所で見うけられます。目の前の患者を助けるためには、社会全体の仕組みが整ってゆくことが必要と考え、実際に行動を起こしているのです。
また、患者の側も自分たちの望む医療、医療政策、医学研究の在り方を明確に訴え、行政や医療者を動かそうとしています。こうした医療専門職や患者の動きは、みんなの健康をみんなで守るという、パブリック・ヘルスを推し進めるムーブメントなのではないかと思われます。
このムーブメントには、哲学や宗教学や生命倫理学などの人文科学系研究者、経済学や政治学や社会学や人類学などの社会科学系研究者も入ってくるでしょう。医療専門職と患者と人文・社会系研究者とは、従来はそれほど協働することはなかったかもしれません。しかし互いの分野を知り尊重し合いながら、みんなが良く生きられるための社会を作り上げてゆこうとしています。こうした動きは、医療や健康に関することを関係者みんなで話し合い、共通の目標を立てて実現しようとする医療ガバナンスという概念にとても近いと思われます。 
社会科学系研究者の端くれとしての私にできることのひとつは、既存の政策や制度を変えてゆこうとする医療専門職や患者の声を聴き取り、社会的な意味づけをして、文字に書いて公なものにする(パブリッシュする、刊行する)ことだと思います。これが、私が参画(コミットメント)できるパブリック・ヘルスの形なのではないか。ユダヤの言葉イディシュで歌われるコーラスを聞きながら、そう考えました。


朝日新聞(原発作業員の検査)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201104110626.html

産経ニュース(原発作業員の年間被曝量上限撤廃)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110428/dst11042802000002-n1.htm

MRIC (谷口修一「なんとしても原発作業員は守らねばならない」3月25日)
http://medg.jp/mt/2011/03/vol85.html

日本学術会議の自己造血幹細胞事前採取に関する見解
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/shinsai/pdf/housya-k0425.pdf

作業員の安全管理に関するランセットの記事
http://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736%2811%2960519-9/fulltext

谷口プロジェクトのホームページ
http://www.savefukushima50.org/

杉原千畝の手記
http://www.chiunesugihara100.com/visa-kotob.htm

テンプル・エメスの杉原千畝の記念碑
http://www.templeemeth.org/AboutUs/InsideOurWalls/SugiharaMemorialGarden/tabid/167/Default.aspx