一時帰国
ボストンから2週間にわたる一時帰国中の5月15日から17日に、福島県の相馬市、南相馬市、飯館村を訪れました。相馬市に住む知人を訪ねるというのがもともとの動機でしたが、この地域の支援に震災の初期から関わっている東大医科研の上研究室と星槎グループのご協力で相馬市に滞在し、さまざまな関係者―医療関係者、学校関係者、首長、行政職員、ボランティア等―にお会いすることになりました。
海外の目から見ると、どうしても日本というのはひと塊に見られてしまいます。放射能の問題がまだ解決していないこの時期の日本に行くことを、ボストンの友人や知人に伝えると、アメリカ人も日本人も、どうしてわざわざ危険なところに行くのか、気を付けてね、という反応が返ってきます。日本もある程度は広いので場所によって異なるということが、距離の遠さから分かりづらくなっているのでしょう。また、日本でのマス・メディアの報道とアメリカでのそれとが、特に放射能に関しては異なるということもあるでしょう。危機を煽るかのようなアメリカの報道は批判されるべきものですが、安全を誇張するかのような日本の報道も反省すべきなのではないかと思います。
かく言う私も、ボストンからうかがい知る日本の状況は不透明で、本当のところはどうなのだろうと思っていました。まず入った東京では、いつもと変わらない人混みと喧騒の日常があるようでした。ただ、小さいお子さんを持つお母さんとお話ししたりすると、不安が全く払拭されているわけではないことも感じとられました。
相馬市訪問
相馬市の知人、尾形眞一さんは、311の震災の後に知り合ったばかりですが、メイルで何度かやり取りをするうちに親しくなり、今回訪問することになりました。ボストンで子どもたちの行っている学校からの募金やメッセージをどこに送ろうかと探していたところ、相馬市の中村第二小学校を紹介して下さったのも尾形さんでした。
5月15日の早朝、地震、津波、原発事故という3つの災害が一時に襲ってきた場所に、今行くという重みを感じつつ、相馬市に向けて車を走らせました。途中の道筋では、栃木県保健センターや日本財団などの医療支援車両、「災害派遣」という旗を付けた島根ナンバーの自衛隊車など、被災地の支援に向かうたくさんの車を見かけました。
迎えてくださった尾形さんは、薬剤師の資格を持つ福島県保健所職員で、高校生と中学生のお父さんでもあります。妻の由恵さんは栄養士の資格を持つ相馬市保健センター職員です。ご自宅には、双葉郡浪江町から避難している高校生を預かっていらっしゃいました。尾形さんとご家族、そしてこの地で出会った沢山の方々のお話から、3月11日から今までの医療、暮らし、教育がどのようになってきたかをうかがい知ることができました。
311からの医療
24時間救急医療
尾形さんは県の職員で普段は会津若松に単身赴任をしていらっしゃいますが、震災後は自宅に戻り、この地域の医療援助に奔走しました。かつての職場であった公立相馬病院に行くと、患者さんがあふれていて、まるで野戦病院のようだったといいます。
相馬病院では院長の決断で、3月11日当日から24時間救急外来を開始し、病院入口に診察室を設置しました。患者が運ばれてきたら、すぐに処置できるようにとの配慮からです。廊下にもベッドを並べて何人もの患者に休んでもらっていました。
病院職員も被災している状況でしたが、ひとりも現場を離れなかったといいます。相馬病院は全国に応援を頼みつつ、市内の開業医の医師たちにも声をかけて、共に救急医療に対応したとのことです。
薬の流通
医療が回ってゆく中、薬がないという状況が出てきました。大手の経営する薬局が、店舗を閉鎖してしまったのです。尾形さんは日本薬剤師会や県の災害対策本部に応援を要請しましたが、動きは鈍く、県に至っては、申請書を出すよう言われたり、電話やファックスが停電で使えないのに、電話することを求めたり、ファックスを読んでいないかなどと言われたそうです。
そこで尾形さんは、経営が異なっていても、互いに薬を融通しあい処方箋に対応できるようにと開いている薬局に掛け合い、賛同を得て薬のルートを作りました。この尾形さんの活動を聞きつけ、会社から避難を命じられ閉店を余儀なくされた小さいお子さんのいるある管理薬剤師は、薬局の鍵を尾形さんに託して避難していきました。
多くの方々や心ある会社の協力により薬は何とか確保されましたが、今度は薬剤師の圧倒的不足という事態になりました。ある薬局では、通常1日5枚くらいの処方箋をさばいていたのですが、一気に1日100枚の処方箋が回されてくるようになりました。そこで尾形さんは、友達や知り合いの薬剤師に声をかけ、福島市などから相馬市に来てもらい、対応できるようにしました。また、警戒区域である原町から避難している薬剤師や、原町に留まって職を失った薬剤師にも声をかけて、相馬の店舗での調剤に当たってもらいました。
原発からの避難
尾形さんはかつて、福島第一原発に近い浪江町の保健所で原子力防災の担当もしていました。モニタリング・ポストでの放射能の測定、ホウレンソウなど葉物のスクリーニング、万が一の時、住民に配るヨウ素の管理なども一手に引き受けていました。常時スクリーニングできるように、何軒かの農家に頼んで真冬でもホウレンソウを栽培してもらい、当初錠剤だけしかなかったヨウ素を、子ども用には飲みやすいようにシロップにしたりもしたそうです。
尾形さんが、警戒区域である福島第一原発から半径20キロ圏内の双葉町や浪江町や大熊町などの医療職の方々と連絡を取り合うと、水素爆発が起きた時、地震による停電で、電話もファックスもテレビも使えなかったため、そこにいる人たちには全く情報が入らなかったことが分かりました。避難しろと言われても、どうして逃げなくてはいけないのか、病院職員や住民も全く分からないまま混乱に陥っていたそうです。
警戒区域にある病院から避難所に向かうバスの中では、元々重病で移動に耐えられなかった何人もの方が亡くなりました。先発の患者に避難所まで付き添い、残っている患者を迎えに行こうとした医師が、制止されて再び町に戻れなかったこともありました。残された患者だけを見て、この医師のことを逃げたと報道するメディアもありましたが、事実は戻ることを許されなかったのです。医療機関に避難するという事前の話だったのに、実際は高校の体育館に連れて行かれ、硬い床の上で寒さを耐えなくてはならない患者もたくさんいらっしゃり、中には命を落とした方もいらしたそうです。
原発30キロ圏内
警戒区域となった南相馬市立総合病院副院長の及川医師は、110人の入院患者がいる状況で、病院に入っていた50の業者がいなくなる中、残った医師や看護師たちと医療を守りました。配給された僅かなおにぎりでは足りないので、おかゆにして薄め、量を増やして患者に配りました。トイレ掃除も自らでしたといいます。この時、病院というのは、医者と看護師だけではまわっていないのだとつくづく思ったといいます。
この病院の液体酸素のタンクは小さいためにすぐになくなり、1週間、酸素のない状態が続きました。行政に頼んでも駄目だったのですが、大阪から来たタンクローリーが、本来のルールとは異なるやり方で酸素を供給してくれました。この時は本当にうれしかった、と及川医師はおっしゃっていました。
住民の健康診断
飯館村は、原発からの距離は30キロから50キロ圏なのですが、3月15日の爆発時の風向きと地形の影響で高い放射線量が観測されています。そこで計画的避難区域に指定され、既に自主避難している方々に加え、順次避難してゆくことになっています。
被ばくによる健康被害に大きな不安を持つ村民が、他所の地域に避難する前に、不安を聴き取りながら健康診断をすべきと考えた村長は、東大医科研の上昌広医師の研究室に連絡をしました。
上研究室は、震災直後に地震ネットワークというメーリング・リストを立ち上げ、医療支援を中心に、物的支援のコーディネートや教育支援など、様々な援助をボランティアで行っています。特に原発による被害を受けた市町村へは、研究員を派遣して継続的に支援を行っていて、4月半ばには相馬市職員ら600人の検診や、放射能やヘドロによる健康被害に関する住民への説明会などを行ってきました。飯館村長は相馬市長からこの話を聴き、国の依頼で県でも健診をすることにはなったものの住民が離散してしまう前の実施は難しいため、上研究室に依頼したのでした。
研究室の坪倉医師が5月16日に飯館村役場を訪れ、21日と22日の週末に、特に放射線量の高い3つの地区の18歳以上の住民、約700人の健診をすることが決まりました。体重測定や採血の他、村長から住民の不安を聴いてほしいというリクエストがあったので、問診の形で健康相談として15分くらい時間が取れるよう、地元の医師会と協働しながら行うことになりました。健診当日は2日で合わせて28名の医師が協力したとのことでした。この健診活動は、この地域のいろいろな場所で、今後も継続的に行われるとのことです。
ボストンから2週間にわたる一時帰国中の5月15日から17日に、福島県の相馬市、南相馬市、飯館村を訪れました。相馬市に住む知人を訪ねるというのがもともとの動機でしたが、この地域の支援に震災の初期から関わっている東大医科研の上研究室と星槎グループのご協力で相馬市に滞在し、さまざまな関係者―医療関係者、学校関係者、首長、行政職員、ボランティア等―にお会いすることになりました。
海外の目から見ると、どうしても日本というのはひと塊に見られてしまいます。放射能の問題がまだ解決していないこの時期の日本に行くことを、ボストンの友人や知人に伝えると、アメリカ人も日本人も、どうしてわざわざ危険なところに行くのか、気を付けてね、という反応が返ってきます。日本もある程度は広いので場所によって異なるということが、距離の遠さから分かりづらくなっているのでしょう。また、日本でのマス・メディアの報道とアメリカでのそれとが、特に放射能に関しては異なるということもあるでしょう。危機を煽るかのようなアメリカの報道は批判されるべきものですが、安全を誇張するかのような日本の報道も反省すべきなのではないかと思います。
かく言う私も、ボストンからうかがい知る日本の状況は不透明で、本当のところはどうなのだろうと思っていました。まず入った東京では、いつもと変わらない人混みと喧騒の日常があるようでした。ただ、小さいお子さんを持つお母さんとお話ししたりすると、不安が全く払拭されているわけではないことも感じとられました。
相馬市訪問
相馬市の知人、尾形眞一さんは、311の震災の後に知り合ったばかりですが、メイルで何度かやり取りをするうちに親しくなり、今回訪問することになりました。ボストンで子どもたちの行っている学校からの募金やメッセージをどこに送ろうかと探していたところ、相馬市の中村第二小学校を紹介して下さったのも尾形さんでした。
5月15日の早朝、地震、津波、原発事故という3つの災害が一時に襲ってきた場所に、今行くという重みを感じつつ、相馬市に向けて車を走らせました。途中の道筋では、栃木県保健センターや日本財団などの医療支援車両、「災害派遣」という旗を付けた島根ナンバーの自衛隊車など、被災地の支援に向かうたくさんの車を見かけました。
迎えてくださった尾形さんは、薬剤師の資格を持つ福島県保健所職員で、高校生と中学生のお父さんでもあります。妻の由恵さんは栄養士の資格を持つ相馬市保健センター職員です。ご自宅には、双葉郡浪江町から避難している高校生を預かっていらっしゃいました。尾形さんとご家族、そしてこの地で出会った沢山の方々のお話から、3月11日から今までの医療、暮らし、教育がどのようになってきたかをうかがい知ることができました。
311からの医療
24時間救急医療
尾形さんは県の職員で普段は会津若松に単身赴任をしていらっしゃいますが、震災後は自宅に戻り、この地域の医療援助に奔走しました。かつての職場であった公立相馬病院に行くと、患者さんがあふれていて、まるで野戦病院のようだったといいます。
相馬病院では院長の決断で、3月11日当日から24時間救急外来を開始し、病院入口に診察室を設置しました。患者が運ばれてきたら、すぐに処置できるようにとの配慮からです。廊下にもベッドを並べて何人もの患者に休んでもらっていました。
病院職員も被災している状況でしたが、ひとりも現場を離れなかったといいます。相馬病院は全国に応援を頼みつつ、市内の開業医の医師たちにも声をかけて、共に救急医療に対応したとのことです。
薬の流通
医療が回ってゆく中、薬がないという状況が出てきました。大手の経営する薬局が、店舗を閉鎖してしまったのです。尾形さんは日本薬剤師会や県の災害対策本部に応援を要請しましたが、動きは鈍く、県に至っては、申請書を出すよう言われたり、電話やファックスが停電で使えないのに、電話することを求めたり、ファックスを読んでいないかなどと言われたそうです。
そこで尾形さんは、経営が異なっていても、互いに薬を融通しあい処方箋に対応できるようにと開いている薬局に掛け合い、賛同を得て薬のルートを作りました。この尾形さんの活動を聞きつけ、会社から避難を命じられ閉店を余儀なくされた小さいお子さんのいるある管理薬剤師は、薬局の鍵を尾形さんに託して避難していきました。
多くの方々や心ある会社の協力により薬は何とか確保されましたが、今度は薬剤師の圧倒的不足という事態になりました。ある薬局では、通常1日5枚くらいの処方箋をさばいていたのですが、一気に1日100枚の処方箋が回されてくるようになりました。そこで尾形さんは、友達や知り合いの薬剤師に声をかけ、福島市などから相馬市に来てもらい、対応できるようにしました。また、警戒区域である原町から避難している薬剤師や、原町に留まって職を失った薬剤師にも声をかけて、相馬の店舗での調剤に当たってもらいました。
原発からの避難
尾形さんはかつて、福島第一原発に近い浪江町の保健所で原子力防災の担当もしていました。モニタリング・ポストでの放射能の測定、ホウレンソウなど葉物のスクリーニング、万が一の時、住民に配るヨウ素の管理なども一手に引き受けていました。常時スクリーニングできるように、何軒かの農家に頼んで真冬でもホウレンソウを栽培してもらい、当初錠剤だけしかなかったヨウ素を、子ども用には飲みやすいようにシロップにしたりもしたそうです。
尾形さんが、警戒区域である福島第一原発から半径20キロ圏内の双葉町や浪江町や大熊町などの医療職の方々と連絡を取り合うと、水素爆発が起きた時、地震による停電で、電話もファックスもテレビも使えなかったため、そこにいる人たちには全く情報が入らなかったことが分かりました。避難しろと言われても、どうして逃げなくてはいけないのか、病院職員や住民も全く分からないまま混乱に陥っていたそうです。
警戒区域にある病院から避難所に向かうバスの中では、元々重病で移動に耐えられなかった何人もの方が亡くなりました。先発の患者に避難所まで付き添い、残っている患者を迎えに行こうとした医師が、制止されて再び町に戻れなかったこともありました。残された患者だけを見て、この医師のことを逃げたと報道するメディアもありましたが、事実は戻ることを許されなかったのです。医療機関に避難するという事前の話だったのに、実際は高校の体育館に連れて行かれ、硬い床の上で寒さを耐えなくてはならない患者もたくさんいらっしゃり、中には命を落とした方もいらしたそうです。
原発30キロ圏内
警戒区域となった南相馬市立総合病院副院長の及川医師は、110人の入院患者がいる状況で、病院に入っていた50の業者がいなくなる中、残った医師や看護師たちと医療を守りました。配給された僅かなおにぎりでは足りないので、おかゆにして薄め、量を増やして患者に配りました。トイレ掃除も自らでしたといいます。この時、病院というのは、医者と看護師だけではまわっていないのだとつくづく思ったといいます。
この病院の液体酸素のタンクは小さいためにすぐになくなり、1週間、酸素のない状態が続きました。行政に頼んでも駄目だったのですが、大阪から来たタンクローリーが、本来のルールとは異なるやり方で酸素を供給してくれました。この時は本当にうれしかった、と及川医師はおっしゃっていました。
住民の健康診断
飯館村は、原発からの距離は30キロから50キロ圏なのですが、3月15日の爆発時の風向きと地形の影響で高い放射線量が観測されています。そこで計画的避難区域に指定され、既に自主避難している方々に加え、順次避難してゆくことになっています。
被ばくによる健康被害に大きな不安を持つ村民が、他所の地域に避難する前に、不安を聴き取りながら健康診断をすべきと考えた村長は、東大医科研の上昌広医師の研究室に連絡をしました。
上研究室は、震災直後に地震ネットワークというメーリング・リストを立ち上げ、医療支援を中心に、物的支援のコーディネートや教育支援など、様々な援助をボランティアで行っています。特に原発による被害を受けた市町村へは、研究員を派遣して継続的に支援を行っていて、4月半ばには相馬市職員ら600人の検診や、放射能やヘドロによる健康被害に関する住民への説明会などを行ってきました。飯館村長は相馬市長からこの話を聴き、国の依頼で県でも健診をすることにはなったものの住民が離散してしまう前の実施は難しいため、上研究室に依頼したのでした。
研究室の坪倉医師が5月16日に飯館村役場を訪れ、21日と22日の週末に、特に放射線量の高い3つの地区の18歳以上の住民、約700人の健診をすることが決まりました。体重測定や採血の他、村長から住民の不安を聴いてほしいというリクエストがあったので、問診の形で健康相談として15分くらい時間が取れるよう、地元の医師会と協働しながら行うことになりました。健診当日は2日で合わせて28名の医師が協力したとのことでした。この健診活動は、この地域のいろいろな場所で、今後も継続的に行われるとのことです。