難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「太平洋戦争」 「白村江の戦い」終戦後の考察 その3

2020年11月24日 | これ何?

 「太平洋戦争 終戦後のドサクサ」との
   類似性を考察する。 その3

   (令和2年11月24日 補筆中)
  

昭和22年
  1月20日 学校給食実施 米国から食料援助された、
        とっても不味い脱脂粉乳利用
  <不味い、飲めないと言って、学校帰り、ドブに
   捨てていた子が、沢山いました。
   貧乏な私は、好き嫌いなく。)

  3月30日 全国選抜中等学校野球大会 復活

  3月31日 教育基本法 学校教育法 制定 6334制
        小学校 中学校義務教育となる。

  5月 3日 日本国憲法 施行

  7月26日 この ブログ作者 光信 生誕

 11月 1日 NHKラジオクイズ番組「二十の扉」放送開始
        「ご名答!」で、印象が残っています。

 11月 6日 青空集団お見合い 希望社の主催で開催

昭和23年
  1月26日 帝銀事件 発生

  3月21日 第1回NHKのど自慢 始まる。

  4月 4日 GHQ 祝祭日の国旗掲揚を許可。

  4月28日 4~9月のサマータイム法公布
        人気が悪く、27年4月1日廃止

  5月 1日 海上保安庁設置

  5月 1日 美空ひばり 10才 デビュー

  5月12日 母子手帳、厚生省から配布

  6月23日 昭和電工事件 発覚

  9月18日 全学連 結成

 10月 1日 警視庁「110番」を設置

 11月12日 東京裁判 東条英機ら死刑

昭和24年
  1月 1日 GHQ 国旗の掲揚を許可。

  1月26日 法隆寺金堂が火災、壁画12面焼失。

  2月20日 能代市大火、2237戸焼失。

  2月27日 国宝 松山城焼失。

  3月31日 東京消防庁「119番」設置

  4月    1ドル=360円 固定為替相場制

  6月 1日 JIS規格が誕生

  6月    ビヤホール復活

  7月 6日 下山事件発生 国鉄関連 3事件発生

  9月15日 主婦連合会(しゅふれん)結成

 11月 1日 「人は右、車は左」対面交通実施

 11月 3日 湯川秀樹 ノーベル賞日本人初受賞

 12月 1日 お年玉つき年賀状、初発売

昭和25年
  1月 7日 1千円札発行(聖徳太子肖像)

  4月15日 公職選挙法公布

  4月22日 第1回ミス日本に山本富士子

  6月    朝鮮戦争勃発 ~(28年 休戦)
        日本に朝鮮戦争軍需景気到来
 <この軍需景気で、戦後復興の光が見え、現在の日本経済の
  基礎が構築できた。
  そして、それ以後現在に至る、極東地区の政局地図が
  確定された。>

  7月 2日 金閣寺、放火のため全焼

  8月    警察予備隊(現自衛隊) 発足

  9月 3日 ジェーン台風、死者不明者539人
  <近所のしっかりした大家さんの家に、近所の子と
   避難していて、皆んなで窓のガラス越しに、見ていると
   貸家の私の家の瓦が、まるで平紙のように、めくれ
   上がり、ヒラヒラと飛んでゆきました。>

 11月10日 NHK東京テレビジョン、定期実験放送開始。

昭和26年
  1月 3日 第1回NHK紅白歌合戦放送

  4月11日 GHQ マッカーサ 連合軍最高司令官を罷免

  4月19日 ボストンマラソン日本人初参加 田中茂樹 優勝

  6月 3日 NHKテレビ初の実験実況中継(プロ野球)
       開始

  9月 8日 サンフランシスコ講和条約 締結

  9月 8日 日米安保条約 締結

昭和27年
  1月13日 輸入ビルマ米に、大量の黄変米発見。

  4月 1日 手塚治虫「鉄腕アトム」漫画雑誌 少年で
       連載開始

  4月10日 NHK「君の名は」放送開始。
 <東京大空襲をバックにした、恋愛ドラマで、家の母や、
  近所のおばちゃん達が、ラジオの前で座り込み、
  時々涙を流しながら聞いていた、事を思い出しました。
  よくラジオで、この放送時間になると、銭湯の女湯が
  ガラガラになると、笑っておられました。>

  4月28日 サンフランシスコ講和条約 発効
         GHQ廃止
         7年間続いた連合国による日本占領の終了

        戦傷病者戦没者遺族等援護法 成立
        傷痍軍事への本格的な支援がようやく、
        開始された。

 <お彼岸や、お盆に、お婆ちゃんによく連れて行って
  もらえた、四天王寺さん(大阪 聖徳太子建立寺)
  その参道でよく見ていた、傷痍軍人さん。
  この傷痍軍人さんの話を、現役時代、若い社員に
  何気なく、話をしたとき。

 「???。」「なんですか、それ?」

 「ほら、よくお彼岸や、お盆に、お寺さんに行ったら、
  参道に数人が並んで、寄付をお願いしている、
  白い服を着て手足などに、戦争の後遺症で傷害を
  持っておられる、グループが居ただろう。」

 「そんなん、見たことありませんよ。」

 「えっ! そうか、君たちは、バブル景気以降の世代は
  傷痍軍人を見ていない世代なんだ。」
 「白い病院服を着た、旧軍人が、アコーデオンや、
  バイオリン、ギター等を鳴らして、軍歌の
  ♪勝ってくるぞと勇ましく‥‥♪ の露営の歌や、
  ソ連(現ロシア)に捕まり、シベリヤに抑留された兵が
  作ったと言われる、
  ♪今日も暮れゆく、異国の空に‥‥♪ 等を、もの悲しげに
  憂愁を漂わして、演奏していたんだ。」
 「そのアコーデオンの曲に誘われて、参拝者は募金箱へ、
  寄付したんだよ。」

 

 

 

 「へー、一種の路上エンタメですね。」
 「今の赤十字街頭募金街等の様相とは、随分違いますね。」

 「日本人の精神文明の根本にある、を考えると、
  その人達の苦悩が、今でも、私には見えるようだね。」
 「それをしなければならない、生活の困窮が想像
  できるよね。」
 「ちなみに、日本傷痍軍人の会は、平成25年に、
  天皇陛下をご招待し、結成60周年記念を開催し、
  同時に、会員の老齢化のため解散したそうだね。」

  この傷痍軍人のページを書こうと、インターネットで、
  色々写真を探したりしていて、知ったんですが。
  この街頭募金に、変な情報が流れていたようなんですね。
 「戦争に行って、怪我したわけではないのに、
  傷痍軍人と偽っている。」
 「寄付して貰わなくても、国から沢山手当てを
  支給されているのに。」
 「あの中には、朝鮮人が沢山入っている。」

  私が小さいとき、近所に、戦争から怪我をして帰って
  こられた、傷痍帰還兵さんが、何人もおられ、戦場の
  凄さ醜さを、帰還兵さんや、その奥さん
  (オバチャン)から、聞かされており、国から支給
  されるのが、ほんの、お悔やみ程度で、とてもそれでは
  生活できるものではないと、サンザン聞かされて
  いました。
  それに、その手当は、兵役時代の階級位により、
  つまり、二等兵か、上等兵、それ以上の、大佐、等の、
  士官クラスとでは、とても違いがあり、
 「命を懸けて、日本のために、戦ったのに
  違いは無いはずなのに。」

  と、よくボヤいておられました。
 <この項加筆推敲中> ーH29-07-27 追筆ー

 11月10日 皇太子 明仁(平成天皇)
        立太子礼挙行。

昭和31年
  2月   「もはや戦後ではない。」
  経済評論家 中野好夫 文藝春秋に投稿
  同年発表の経済白書に、流用された。

昭和34年 4月10日 皇太子御成婚(平成天皇)
  明仁親王と、平民(一般庶民の事) 正田家(日清製粉)の
  長女 美智子さんとの御成婚。
  従来の皇室に対する、民衆の思い込みが、大きく変わり、
  戦後の一大変換点で、将に、
  この御成婚パレードにより、戦後が終焉した
  と思っています。
  御成婚パレードが、当時としては想像すらできなっかった、
  テレビで実況中継されるとの報道に、期待感は異常に
  高まりました。
  でもまだ、テレビは高級品で、ほんの一握りの裕福な
  家でないと、取り付けられてはいませんでした。
  私の家のような、貧しい家では、テレビは夢のまた
  夢の電化製品でした。
  でも、小学校のクラスでも、御成婚パレードへの期待が
  高まり、実況中継の話で持ちきりになり、特に、  
  女生徒が目の色を輝かして、結婚相手の、美智子さんが
  平民(皇室とは無縁の市民)である事に興味を掻き
  立てられて、カップルの馴れ初めが、テニスコートだとか、
  色々報道され、ワイワイと、にぎやかに騒いでいました。

 「どうする?」
 「学校が特別に、講堂に有る、テレビを開放して
  くれるそうやで。」

 「神社の側の、酒屋さんでも、皆に見えるように、
  テレビの場所を道側に、取り付け直してくれるそうやで。」

  この酒屋さんでは、レスリングの中継がある時、店の前へ、
  皆が詰めかけ、「力道山ガンバレ、空手チョップや!」
  と盛り上がり。昭和31年のメルボルン五輪では、
  この時はまだ、衛星中継がなく、音量の高低する、ラジオの
  実況放送を、店の前に設えたラジオで聞き、水泳のヒーロー
  山中選手と、オーストラリア、ローズ選手との対決に、
  店の前は大興奮、負けてしまって、涙を出す人も沢山おり、
  何を隠そう、小学生の私も皆につられて泣いていたことを、
  今、懐かしさで、少し涙ぐみながら、思い出します。
  この時、聞いていた、皆さんはどうでしたか?
  <閑話休題>

  昭和34年当時は、テレビを持っている家は少なっかたと、
  記憶しています。
  50人ほどのクラスで、5、6人ぐらいだったと思います。
  この時は、仲の良かった、お金持ちの級友が、
  声をかけてくれて、5人ぐらいで、見に行かして
  もらいました。
  僕達、5人に、近所の大人達も来て、一緒にパレードを
  見ました。
 「わー、屋根の無い、馬車や!!」
 「美智子様、白いドレスで、とっても綺麗!」
 「先導しているのも、騎馬隊や。」
 「騎馬隊ってまだ有ったんや!」
 「美智子様が、お優しい笑顔で、沿道の人達に
  手を振ってはる!」



  ここまで書いて、キーが止まってしまいました。
  パレード投石事件を、思い出してしまったからです。


  そしてこれが、千三百年前の天智天皇時代から、
  根底にある、天皇制への、日本人のしがらみなのです。
  平成天皇の御成婚パレードすら、ご存知ない世代の方も、
  このブログに、お越し頂いているようですので。
  御成婚が、公に発表されたときの、状況は、美智子様の
  愛称「ミッチー」にちなんで、「ミッチー・ブーム」
  (ウキペディア)に 詳しいので、是非一読して下さい。
  そして、この御成婚が、終戦十余年後の日本の女性に与えた
  衝撃は、今このブログを御覧頂いている、若い女性には
  想像もできないものでした。
  終戦後まだ、家柄が重要視されていた時代に、
 【皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと
  言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から
  選ばれる皇室の慣例を破り、初の平民出身皇太子妃として
  注目の的となったのです。
  昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったと
  されています。
  これに対して正田家は家柄が違い過ぎるとして当初、
  固辞の姿勢を見せた】
   (ウキペディアより)

  つまり、「好き同士になったら、本人達の意志で。」
  というのが当たり前の今の時代、若い世代の人達には、
  想像することすら、出来ないでしょうが、当時は
  結婚要件に、人柄よりも、家柄が、大きく縛り付けて
  いたのです。
  そのような、当時の風潮を、打ち破ってくだされたのが、
  皇太子さまで、平成天皇さまでした。
  今の、人柄が一番大事とされる、当たり前の結婚感を
  作っていただいたのです。
  最近は、お金も大事となって来ているのが、少し寂しい
  ですよね。   (^_^;)

  ミッチー・ブームが起こる前までは、よく母や、近所の
  おばちゃんが、知り合いに結婚の話が有ると、あの家の
  血筋はどうだ、あの子の家系はどうだと、まるで結婚する
  ためには、それが、一番大事なことだとでも言うように、
  大きな声で話していました。
  でも、ミッチー・ブームの後には、その話をしなくなった
  という記憶がよみがえってきました。
  家柄の頂点、天皇家へ思いが変わった為だと思い
  当たりました。

  この風潮が将に変わろうとしていることに、気が付かない、
  19才の大学受験(同志社大学)に失敗し、東京で浪人生活を
  していた、地方名家の青年が、税金の無駄遣いを口実に、
  馬車に石を投げ、美智子様を、引きずり下ろしてやろうと
  したと、捕まってから言っていたらしいですね。
  この事件が、日本人に天皇家の意義と、必要性をむしろ
  知らしめたと思います。

   余談になるかもしれませんが、皇太子の御成婚以来、
  家柄を、声ダケク、言う人は極端に少なくなったのですが、
  隣国に対する、差別意識は無くなる気配がありませんね。
  まあ、悲しいことに、隣国の人も、同じようですな風潮
  ですので、暫くは続きそうですね。
  この風潮を、一部のズルイ政治団体に利用されることを
  心配するのですが。

  もう一つ無くしてしまいたいのが、差別ですよね。
  今の若い人に、差別の別称を言っても、
 (え〇、〇人、〇ゆび、等)分からない人のほうが多いので、
  いづれ無くなってしまうものだと、期待しているのですが、
  残念ながら一部の人達には、いまだその亡霊、妄想に
  取り憑かれている人達が居て、とても残念です。
  実は、お恥ずかしい話なのですが、今年94歳で
  亡くなった、私の母が、この事には非常に敏感で、
  姉が青春時代、良い青年を家に連れてきても、
  そのことを一番心配し、少しでも可能性があれば、
  どんな良い青年でも、結婚に大反対し、
  姉を泣かせていました。
  友だちに聞いても、やはり同じ年代の親は、
  同じ妄想に取りつかれている人が多いと思えました。

      平成29年11月26日 追記



平成29年
  3月18日 戦中、戦後を波瀾万丈に生き抜いた、
 ブログ作者の母、信子 老衰により、死去 享年94歳
「戦後のことを書くのなら、私の人生を忘れずに伝えて。」と
言われているような、心の声が伝わってきました。


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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。




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