「難波宮って?」 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「白村江の戦い」 敗戦後

2017年07月16日 | 歴史
「白村江の戦い」敗戦後 その1 

「白村江の戦い」敗戦後


このとても興味のわく、歴史を調べようと、インターネット、図書館、
大きな本屋さんに、行って、調べました。
そして、この部分の情報がとてもとても、少ないことを気づかされました。


やはり、唐に負けたという、とても辛い恥ずかしい事実を出来るだけ、
後生に伝えたくなかったのでしょう。


特に、素人の私にはとても知りたい、唐のGHQ進駐軍司令長官、
郭務悰(かくむそう)の動向が解る史料が探しても探しても、
見つからないのです。
私は、団塊世代で、戦後教育を受けた、日本史に普通に疎い、普通の現代日本人です。
私は、定年後、古代日本史に興味を持ち、特に大化の改新以後を集中して
勉強していったのですが、それまで全く知らないことが多く私を待ち受けていました。
その内の驚愕するほど、知らないことを見つけてしまいました。
そうです、私は全く、唐の使者 郭務悰(かくむそう)を知りませんでした。
この郭務悰が、「白村江の戦い」の後、唐の代表として、日本に乗り込んできて、
太平洋戦争の後、アメリカの代表として、日本を統治した、GHQのマッカーサーと
同じ立場の人間であったなんて、聞いたことも、教わったこともありませんでした。
このブログを訪問いただいている皆様も、初見と言われる方もきっと
多いと思うのです。


 私は大型書店で、今の中学 高校の教科書や、参考書をめくって見たのですが、
郭務悰の記載は、見つけることが出来ませんでした。
「白村江の戦い」の文字すら、記載されていない本が、沢山ありました。
 試しに書店で、韓国の教科書の日本語訳があり、見ましたが、想像通り、
「白村江の戦い」の、「白」の字すら見つけることは出来ませんでした。


 ただ、以前読んだ、藤原不比等を主人公にした、歴史小説で、
リアルに唐の進駐軍が書き込まれていました。
歴史小説で、これほど当たり前に書かれているのだから、
「白村江の戦い」の戦後は、ありふれた、分かり切った出来事で、
参考に出来る資料はいくらでも出てくると、思っていました。


甘かった!


 なぜ私が、こんなに「白村江の戦い」の終戦後に興味を持ってしまったかと
言いますのは、それが余りに昭和20年の終戦(敗戦)状況に
酷似していたからです。
「えっ? 何のこと?」 と言われると思います。


 私が、「これはどう言うこと?」 と感じたことを、綴っていきます。
読み終えていただき、その後で、とても寒い気持ちを思い起こさせて
しまうかも知れませんが、なにとぞご容赦ください。
それは、貴方がまじめに物事を、世の中の出来事を理解しようとされている
素直な方だからです。
このブログにお越しいただきありがとうございます。


 考えてみれば、昭和20年の終戦後70年以上過ぎた今、
私たちは、どれほど正確に記憶し、終戦後に起こった、出来事で
感じた、その寒い気持ちを後生に伝え、残せてきたでしょうか?


 特に、私のような、終戦ベビーブームに生まれた団塊世代はもちろん、
戦中世代、戦前世代はもっと、心の何処かに、辛い思い出をしまい込んで
いる人が多いと思います。
でも、この世代の我々が高齢になった今、その辛い思い出を、
後世に伝える努力を、してこなかったんじゃーないか、と思うんですが。
私は「いや、そんな余裕は無かった。」というのを、言い訳にしてきました。
皆さんはどうですか??


 そう言えば、私が中学校の社会科日本の歴史の時間、
高校の日本史の時間に、学年末の2月頃、信頼していた担任の先生から
「この後の、大正以後のページを、授業する時間が無くなったので、
各自で教科書を読んでおいて下さい。入試の問題には出ないから。」と言われ、
日本の戦後をしっかりと、教わった記憶がありません。
確かに、入試の問題には一切出ませんでした。


 今の入試には、「サンフランシスコ平和条約」昭和25年と言うぐらいは
出題されるのでしょうか?。
でも、その平和条約で、日本が独立できたのは、隣国で勃発した朝鮮戦争が
大きく関係していることまで、教わりましたか。


そうです、将に同じ状況が、1300年前の「白村江の戦い」終戦後に
起きていたのです。
「?? エッどう言うこと?」、と思われますよね、私も定年後、日本古代史を
勉強するまでは、少しもこの歴史的事実を知りませんでした。


 それでは、本題に入ります。


 


「白村江の戦い」の後の状況が、太平洋戦争終結の時の状況に
酷似している事を列挙していきます。


私の記憶の奥底に、まだ残っている、身近な戦いの終わりから整理してみます。


 昭和20年8月15日 太平洋戦争 敗北宣言
日本中皆が涙した、「玉音放送」
その後 1ヶ月も経ないで、悲しみの涙も乾かない内に、連合国の占領軍進駐、
マッカーサー元帥 パイプをくわえて、厚木に着陸、進駐軍(GHQ)日本占拠開始。
マッカーサー元帥と、昭和天皇との会談、二人並んでの記念写真。
 この写真を見て、多くの日本人が、
「アアー、日本は、アメリカの臣下の国に
成り下がってしまったのだ!」

 戦中派、戦前派の落胆は、如何許だったでしょう。 


 日本はその後、昭和25年サンフランシスコ平和条約締結後までの
6年間、進駐軍の統治下に置かれました。


 その6年間の屈辱、悔しさ、腹ペコさ、プライドをズタズタにされた虚無感!
思い出しても、虫ずが走ると言われる、戦中派 戦前派のお話よく聞かされました。

 連合国と和平条約を結べて、形だけでも、独立国に成れたのは、
隣国 朝鮮で、連合国と、ソ連 中共(中華人民共和国)の
代理戦争として、それぞれ、韓国(大韓民国)と、北朝鮮が紛争になり、
朝鮮戦争が勃発した為、日本を、戦争軍事物資の連合国側の供給国に、
するためであったとされていますよね。
「あっ そうだったの。」 と言われる方は、幸せな世代の人達です。


 日本が大きな戦争で、敗北したのは、太平洋戦争以前では 1300年前
大唐に負けた、ムッムザン663年「白村江の戦い」 なのですよね。
では、「白村江の戦い」で大敗亡してしまった時はどうだったんだを
当時の状況をよく後生に伝えてくれている、「日本書紀」の記載から、
推測していきたいと思います。


 「白村江の戦い」の後、一年も経過しない、664年5月 
 唐から、郭務悰を代表に、使節団が来訪。
事実上、日本は占領状態になったようなんです。
 その状態は、天智天皇が崩御した後、と仲の悪くなった新羅の文武王が、
旧百済地区から、大唐軍を、671年に一掃してくれたおかげで、
大海人皇子と、大友皇子との、後継を争った壬申の乱の
勃発直前に、郭務悰日本を離れざるを得なかった。
 672年までの、8年間続いたと、解釈するのが、矛盾がないと思えます。


 このブログを訪問いただいている、皆様もそうだと思うのですが、
唐軍が日本を8年間も進駐していた。しかも、その進駐が終わる原因が、
と連合を組んで、日本 百済を打ち負かした、その新羅が、に反抗し
が占領していた、百済地区を奪い取られた為、日本から手を引かざるを
えなくなり、やむなく 郭務悰は日本から引き揚げた。
しかも、郭務悰が引き上げたから、抑えが無くなり、壬申の乱が起こり、
新羅派と思われていた、大海人皇子が勝利し、天武天皇に即位できた。
これら総ての出来事は、私にとって、思っても見ないことでした。


 日本にとって大事な二つの戦いの後、「敗戦後」に類似性が在るなんて、
その裏に、朝鮮情勢が大きく関わってきていたなんて。
それを指揮していた、マッカーサー元帥のことも、
ましてや、郭務悰のことも、学校では
 詳しく教えてもらっていないですよね。


 出来事を整理するため、「日本書紀」の記事を元に、
年表を作ってみました。
 年表を見ていただいて、当時の切迫した状況を想像してください。


 年表に書かれた数字、特に人数は年表の中にも書いているのですが、
今の日本の価値観ではなく、当時 663年の日本を基準に想像してくださいね。
 かなり信用できる当時の人口調査で、日本の人口は500万人~550万人。
しかいないのですよね、だから、人は労働力として、貴重で、国内で
負けた方を、皆殺しにするなんて事は、考えもしないことだったんですよね。
 簡単に考えてみて、今の人口の20分の1 なんです。
つまり、単純に換算して、百済で壊滅した日本の兵は 
 4万人×20倍= 80万人以上
唐の郭務悰の使節団は
 2千人×20倍=4万人
そのように考えれば、壊滅した日本の兵の数も、使節団もとんでも無い、
人数だと、私は思ってしまったのです。


 一度親友に、この事を話したら、もう一つ、理解してくれないのです。
それで、「百済で壊滅したのは80万人以上、今の自衛隊の数は、
約27万人だよね。
やって来た、4万人以上の、使節団てあり得る? 占領軍だよね?」
それを聞いたて、その友達は、
「えっ、何で? そんな事、何も学校で教わってないよ。」
「本当の話??」
「日本書紀」にハッキリと書かれてる事を話すと。
「俺たちが、学校で習った。日本史は何だったんだ?!」
彼の持っていた、日本国という物差しが、大きく崩れてしまったようでした。
彼は実は、昭和40年代の学生時代、学園内で左派系が幅を利かしている中で、
硬派で(今の若い人にこの言葉が解かるだろうか?)、国粋的な右派の
言動を自負していました。
彼にとって、中国 唐に敗れて、臣下の礼を取ったなんて、あっては成らない
事だったんです。
日本人としての自負を強く持ち、真面目に70年近く、人生を送ってきた、
彼のこれからの老後を、少し心配してしまいました。
余計なことを教えてしまったと、反省しています。


 年表を見ていただいて、664年に進駐軍司令長官 郭務悰が日本に遣って来て、
日本から去っていった、672年までを見ていただいて、想像力のお強い方は
きっと気付かれたと思います。
「日本書紀」に書かれている、内容に、ある法則があることを。


664年からの8年間を、より詳細に、想像したいと思います。

 年表を見ていただいて、664年に大唐国 進駐軍司令長官 郭務悰が日本に遣って来て、日本から去っていった、672年までの8年間、数次の派遣使の記載内容で、想像力のお強い方は、きっと気付かれたと思います。
「日本書紀」に書かれている内容に、ある法則があることを。
神代時代の神話や、不確かな聖徳太子以前の、伝承話は、真意は知らないけれど、伝わっいることを、総てそのまま記載します。と言う編集姿勢なのですが、大化の改新から以降は。
伝わっている、日本に関連ある出来事は、事実をそのまま記載します。
但し、朝廷に都合が悪いことは一切記載しない、
と言うことです。


(1)664年 5月 唐から派遣使 郭務悰 到着
     663年8月28日 白村江で惨敗、日本の派遣軍壊滅後、
     9ヶ月後の来訪。
     敗戦後、其れが、どう今後に影響があり、
     何が自分達を、何が日本国を襲うのかを、飛鳥の宮廷内に
     理解できていた指導者は、居なかったのではないかと、
     容易に想像できますよね。

     将に、昭和20年 9月マッカーサー元帥来日時と同じ、
     大混乱が簡単に想像できますね。

     郭務悰は、上表文を収めた箱を宮廷に奉った。
     上表文の内容は容易に想像出来ますよね。

    「今後、唐に刃向かう事の無いように、
     日本は、唐の臣下として、唐を敬うように。
     そうすれば、今回のことは、許して遣わす。」

     要約すれば、そう言うことが書かれていたのでしょうね。
     もしかすれば、古い物を、大事にしまい込むのが大好きな、日本人
     いまも、宮廷の何処かに、眠っていたりして。 (-_-;)

     その、上表文を貰った、宮廷は大騒ぎになったでしょうね。
     恐らく、「白村江の戦い」の敗北後、その事態の重大さを
     正確に認識できていた日本人、宮廷の高官は、多くは居なかったのでは
     ないでしょうか?

     直接その悲惨な惨敗を見ていない、高官は、会議の席で
     「何故、唐に頭を下げなければ、ならないのだ!」 と
     「だから私は、百済に派遣するのを反対していたんだ!」
     「今そのことを言っても、話が進まないだろう。」
     「唐使が、飛鳥まで来て待っているんだぞ。」
     今も会社の会議で、よくある光景ですが。
     大声を出している光景が、目に見える様です。
     1300年経っても、日本人の習性は変わりません。
     その内の一人でしょうか? 蘇我の連大臣が、同月の、5月に、
     亡くなったと、記載されています。(邪魔者は消せ、でしょうか?)

    10月 郭務悰等を送り出す勅をお出しになった。
     (降伏 謝罪文をついに出して、)郭務悰らに饗宴を賜った。
     やっと、負けを認めたと言うことですよね。

  664年12月 郭務悰らは帰途についた。
     やれやれ、やっと帰ってくれた。

 此処までで、「日本書紀」に記載されていない、大切な数字があるのです。
 この時の、郭務悰 一次派遣軍の人数が記載されていないのです。
もし、少人数なら、宮廷が使節団をバカにし、真面目に対応しなかったかも知れません。
私の想像では、やはり2千人規模ではと思うのですが、皆さんのご意見はどうでしょうか?


 この後、郭務悰と使節団が帰った、667年12月から、第二次派遣使が来訪する、
668年 9月までの、一年足らずの間の記載内容が、飛鳥宮廷の慌て振りを表しています。 (>_<)

 手薄の兵力を補うため、急遽 防人(さきもり)を東国や各地からかり集め、
朝鮮半島に近い、北九州の守りに就かせたとされています。
 ちなみに、防人が九州の拠点に行くまでの、旅費は全て自腹、手弁当で、
駆り集められたと言われています。随分不満がたまったでしょうね。
もしかしたら、壬申の乱でその鬱憤が爆発したのかもしれません。
 九州各所にのろし場を作り、唐が攻めてきた時に、いち早く飛鳥に
知らせるようにしました。
筑紫の太宰府に、大きく長い、堤の水城を造り、長門や筑紫に、
基城 大野城などを、百済亡命技師に指導させて、造らせたと、
随分正直に書かれています。
 今でも、その遺跡は観光地として、残っていて、今の私達日本人にも、その時の
慌て振りを、想像させてくれますよね。

 私も、太宰府に行き、見てきました。
水城の、堤の高さ、堀の深さと幅の広さと、近くを走っている、九州自動車道を
貫き、その先、遠く彼方まで、続く光景に圧倒されました。
太宰府の後ろにそびえる山を利用した、大野城のその作りの堅牢さ、
敵の攻撃に対する、周到さに感心してしまいました。
恐らく、百済亡命技師の、高くこなれた、山城築城技術の指導がなければ、
造れないと素人の私でも思ってしまいました。


(2)665年 9月 唐から 第二次派遣使  到着
    劉徳高らを遣わしてきた。もちろん郭務悰同行。
   総員 254人 (今回は人数が詳しく残されている!)
   664年12月に日本を離れてからわずか、10ヶ月
   忘れさせてはくれない、大唐国。
   そして、日本の防衛体制が、整い始めたのを察知したかも知れませんね?

   同年12月 劉徳高らは、饗宴を賜り、物を賜り、帰途についた。
    郭務悰が帰途に就いたとは記載されていない。
   一次派遣使と、第二次派遣使の唐使の居ない間に、日本が防衛体制を
   整えていたのを、見つけてしまっていれば、
   目付役として、郭務悰は、派遣大使(進駐軍)として居残り、目を光らしたはず。
   何処で?、飛鳥の何処か、難波の宮の迎賓施設、太宰府の迎賓施設。
   1300年前に、想像を巡らすのは、とても楽しいですね。


 目障りな、唐の使節団が帰った。
 高麗(高句麗)の使節団が、貢ぎ物を持って来朝。
 ともに、大唐に虐められている仲間同士、がんばろうね。
 耽羅(済州島)の使者が来朝。
 あの、済州島から? 仲間に成れれば誰でもいい。

667年2月 斉明天皇と、間人皇女を、陵に合葬。
    葬儀中、高麗(高句麗)百済(亡命百済人)新羅の人々が
    葬送の道中で発哀した。
    我々は仲間ですよ、と言いたい訳なんでしょうね。

  3月 飛鳥の宮から近江大津京へ遷都
    唐軍が怖くて、派遣使(占領軍)が怖くて、より内陸に避難?
    使節団が居ない、この時期に遷都したというのは、とても分かり易いよね。
    まるで、後世の人に、「この苦しい状況をわかってよ!」
    言っているように思えてしょうがないのですが、皆さんは如何ですか?


(3)11月 唐の第3次 使節団が唐の統治国 百済より到着。
    日本から、親善のため、唐に行っていた、遣唐使を送ってきてくれた。
   同月 帰途に就いた。
    人数の記載無し、アッサリ帰ったみたいですね。
    案の定、近江朝は国防を固めます。

 同月、高安城(奈良県生駒郡)、屋嶋城(香川県讃岐)、金田城(対馬)を築城。
   国防をより固めた。

668年1月 中大兄皇子 皇位に就かれる。天智天皇 
   やっと天皇に就けた。


(4) 4月 唐の属国 百済より 第4次 使節団が来朝。
    天皇即位の御祝いかな。
   同月 使節団は帰途に就いた。
    人数の記載無し、今回もアッサリ帰ったみたい。


  5月5日 宮廷は後世に詳しく伝えられている、蒲生野(滋賀県)に遊猟。
    弟の大海人皇子や、諸王、中臣の鎌足、及び群臣、皇女、
    そして、額田王姫(ぬかたのおおきみ、当時一番の歌人、もちろん美人)
    が参加、従った。
    わー楽しそう、時空ワープが出来れば、皆さんも一緒に参加したいよね。
    「白村江の戦い」敗戦以後の、煩わしい出来事を忘れて、
    羽目を外したかったんでしょうね。
    そして出ました、日本史の時間、古文の時間に必ず習った、あの歌が。

   額田王姫
    「茜さす(あかねさす) 紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き
     野守は見ずや 君が袖振る」


   返歌 大海人皇子
    「紫草(むらさき)の 匂ヘる妹(いも)を
     憎あらば 人妻故に 我恋いめやも」


    このブログを御覧頂いておられる皆様は、この歌の意味は、
    よくご存じだと思いますが、私の懐かしい中学校時代の社会科の
    授業を思い出して、教えられた意味を書いてみたいと思います。
    歴史の先生は、担任の新任独身教師 清水先生
    ニックネームは、少し小柄だったので、ポケットモンキー
    懐かしいなー。

   ぬかたの おおきみ
    キラキラした光が射して、紫に染められた野原に行き、
    遊猟の場所として、決められ、守られている野原を、
    私は薬草の採取をしながら、何人かの女官と楽しく歩いていましたら。
    馬に乗って、猪狩りをしているあなたが、私を見つけ、
    私に気付いて欲しくて、貴方の袖を大きく振られましたわね。
    でもそのしぐさを、この催しを取り仕切っている、
    私の夫、天智天皇様に見つかってしまたら
    後の言い訳が、とても大変で御座いますわよ。(オッホホホホー。)

   おおあまの おうじ
    貴方が居ると、そこの周りが、とても美しい草花の香りがするようです。
    そんな素敵な貴方を、憎いと思う人が居るわけはありません。    
    そんな素敵な貴方、むかしは、私の連れ合いであった貴方、
    今は故があって、私の元から、他の人妻になってしまい、
    野守(天智天皇)に、預けてしまったから
    余計に、私は貴方が恋しくてたまらないのです。

   こんな感じでいいでしょうか? 清水先生
    如何お過ごしでしょうか? お元気で長生き、お祈りします。

 滋賀県に、万葉の森 船岡山公園があり、この歌のやり取りを、大きな
 モニュメントにしてあります。その時のやり取りを楽しく想像できます。


 唐の使節団が居ないこの時期に、隣国と友好関係を。

    7月 高麗(高句麗)が越の道(北陸 日本海経由)で調をたてまつった。
    唐による、高句麗包囲網のため、日本海経由で、北陸から滋賀の近江朝へ

    9月 新羅の王(文武王)に調を一船分賜った。
    頼みは、新羅のみ、唐と新羅の分断を狙ったのかも知れないですね。

   10月 大唐の将軍 英公が高麗(高句麗)を、討ち滅ぼした。
    わー日本の防波堤だったのに。日本への要求が大きくなるー!!

   11月 新羅の王に調を賜った。
    高麗(高句麗)が滅び、頼りは新羅のみ。

669年 3月 耽羅(済州島)が王子らを遣わしてきた。

    9月 新羅が貢ぎ物をたてまつった。

669年 遣唐使派遣
   まだまだ、必死だ!

   10月 中臣鎌足 死去


(5)669年 大唐が第五次 派遣団を送ってきた。
   郭務悰ら2000余人を遣わしてきた。
   キター! 進駐軍の本隊が。現代に換算して、4万人以上
   帰った記載無し。


    9月 新羅に遣いをした。


671年 正月 高麗(高句麗)が貢ぎ物をたてまつった。
   あれっ、高麗は668年10月に、大唐に打ち滅ばされたのでは?
   高麗の遺民が反旗を起こし、それを新羅が助けて、新羅領内に、
   亡命政府を擁立したようです。
   つまり、新羅領内から派遣されてきた。

    1月 唐が 第5次使節団を、李守真を使者として派遣して来た。
   人数不明

    2月 唐の統治国百済から使者派遣

    6月 唐の統治国百済から使者派遣

    7月 李守真、百済の使者ともに帰途。
   第5次使節団の、行き来が多いのは、新羅が、高麗を
   支援したかも知れませんね。

    8月 高麗の使者が帰途に就いた。
   高麗が再興できたのだから、新羅と仲良くしていれば、
   唐を怖がらなくても良くない?
   と考えた一派が居たかも知れません。

    9月 天智天皇病にかかられる。

   10月 大海人皇子 譲位を断り、吉野へ。
   唐を怖がらなくてもと言う空気を察知したのかも知れませ。

   11月 唐国 第6次使節団 九州に到着
    郭務悰ら600人、百済送使1400人 船 47隻で 
   九州に到着。同乗で筑紫の君薩夜麻 九州に帰る。
   わざわざ記載された、筑紫の君薩夜麻が気になります。
   唐に抑留中に洗脳され、唐の手先にされたのかも?
   唐の、怖さを知らすために、送り返されたのかも知れません。

   12月 天智天皇 急死 (暗殺説あり)
   唐派の人達には、一番悪いタイミングでしたね。


671年 月不明(調べたのですが解りませんでした。)
   新羅 文武王 唐軍を、旧百済領から一掃、朝鮮半島の覇権を握る。


672年 3月 近江朝は筑紫に遣いし、天皇崩御を
   郭務悰に告げた。
   郭務悰らは、喪服を着け、三度挙哀の礼を行う。
   郭務悰は、この時筑紫に居たんだ。

    5月 郭務悰らは甲・冑・矢や貢物を賜り、帰途に就いた。
   唐の百済領を、新羅に取られたのは、2千人もの兵力を、
   日本に割いた為と、責任問題になるのを恐れ、武具の貢ぎ物を持って、
   帰ったのでしょう。
   でも、彼の帰る百済領は最早無く、その後の消息は不明ですね。

    6月 壬申の乱勃発
   大海人皇子派の圧倒的軍勢で、相手方を殲滅。
   急遽挙兵した割には、圧倒的な兵と軍備を揃えられたものだ。
   まるで郭務悰の帰国を待っていたような日程。 

672年 天武天皇 即位
   即位後、天武天皇崩御までの14年間、遣唐使無し。 何故に?
   唐と新羅が 朝鮮半島の覇権で関係悪化。両国から 通交を求められ、
   天武天皇は、新羅との関係を重要視した。?
   新羅との使者のやりとり活発化。


「白村江の戦い」の敗戦後10年やっと唐の重石が外れたと言うことでしょうか?
   日本書紀には記載されていない、一般人(我々のご先祖様達)の辛い思いは、易化ばかりだったでしょうか?
戦いに駆り出されて行って、帰ってこない息子、夫を思い悩む光景が、目に見えるようです。

 昭和20年、終戦後(敗戦後と言わない日本人)の光景と同じだったでしょうね。


 それでは、対比するため、
太平洋戦争の終戦後を、年表を作って、確認したいと思います。

昭和20年8月15日 終戦

     9月    進駐軍司令 マッカーサー来日

 ーーーーーーーーー

昭和25年      サンフランシスコ平和条約締結

あれ? 自分の身の上で起こり、近所のオッチャンに聞いてきた話なのに、
全然出て来ない?!
よく勉強し直して、投稿を続けます。恥ずかしい。m(_ _)m
ご期待ください チャンチャン。(誤魔化してます!)


只今悪戦苦闘、作成中! ー平成29年3月14日ー


 突然ですみません。
 太平洋戦争に、自分の人生を翻弄された、私の母が 平成29年3月18日に
九十四歳で、老衰により、姉と、私に見送られて、他界いたしました。
このブログを作成している将に、彼女の人生を苦難の中に突き落とした、終戦後を
書き起こそうとしていた矢先でした。
何か強い運命的なものを感じてしまいました。
 母の人生は将に、「波乱万丈」、私に文才があれば、壮大な、大河ドラマを書き
上げられると思うのですが。
太平洋戦争に翻弄された、戦中、戦前の世代の日本人の多くの方は、
自分では想像すら出来なかった、ドラマを苦闘して生き、そして亡くなって
行かれたのだと思います。
 母の人生は、またブログを変えて、創ってみたいと思います。

 ブログの字数制限がありますので、太平洋戦争 終戦後は
その2として推敲します。


◎「白村江の戦い」 敗戦後? その2 へ
    完成度20%以下 追記校閲中




◎ 難波の宮 古代史 年表 2017年作成 (追記校閲中)


◎「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その1->


◎ 「白村江の戦い」 のなんで? (前振り)へ


 ◎ 百済 白村江を求めて 韓国へ ーその1ー


 ◎ 百済旅行プラン ー旅行予定ーその2ー 




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 ◎ 「難波宮ッテ?」 古代史感のすれ違い    メイン ブログです。




  すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


 

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-07-07 12:10:21
私だって40歳にも満たないですが、教科書で郭務宗がやって来たという内容を勉強したことは、有りませんでした。成人してから、趣味で古代史の勉強をやり始めてから知りました。いろいろ知ってから思ったのですが、教科書に書かれていない内容のほうが多いんですね。白村江の戦いは不思議なことに、敗者が誰なのか分かりません。百済は王が連行された事が記録されていますが、日本側は具体的に連行されたのは筑紫君薩野馬なんです。また、郭務宗がやって来たのは畿内の飛鳥や大津ではなく北九州の太宰府なんです。いや進駐軍ならその国の首都を押さえるはずじゃないのか。と思いますよね。 しかも戦後に多数の城や土塁を築くだけの体力がこの国にあったのでしょうか。あんな要塞群を短期間で造るのは不可能だと思います。何故、畿内の責任者が連行されずに北九州の豪族が連行されるのか、具体的、合理的見解が未だに出されてないんですよ。

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