難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

女の戦い?「壬申の乱」大展開!

2020年11月29日 | 歴史

女の戦い?「壬申の乱」
 作成開始 令和元年10月29日
 追記      2年 1月27日   

 再開 新展開  2年 3月 7日 
    追記      3月24日
    再考性中   11月4日

 {万葉集の原文を、素人の筆者が読み解いて、
  「蒲生の里での宴」の光景が違ってきます。
   太平洋戦争終了後の昭和26年の日本を
   想定し、驚いて下さい。}


☆「壬申の乱」を現在に引っ張ってきて、ブログを進めて
いるのですが。
 ブログの現地探索中に、「桑名郡家」の場面で私のような
歴史好きにとっては、思いもよらない会話に遭遇して
しまったのです。
 「壬申の乱」散策中の夜に、三重県桑名駅前の居酒屋で、
隣の席に座られていた地元の人から。

「えっ、何のお話? 壬申の乱て何でしたっけ??」
「その中に、この桑名市の地名が出てくるのですか?
 えっ、歴史の時間に習った、日本書紀の中に書かれて
 いるのですか?」
の言葉でした。 
 私や、歴史好きが思っている認識と、今のごく普通の
人達とでは、「壬申の乱」についての、認知度の違いが、
とても大きいことに愕然としたのです。

 それで、今回のこのブログのはじめに、私が勝手に
妄想している、「壬申の乱」を書いておかねばと思い、
ごく簡単に、私が認識している範囲で、整理してみたいと
思い立ったのです。

「壬申の乱」をインターネットで検索(要約)

「壬申の乱は、西暦672年6月24日から7月23日、に起こった
 古代日本史上、最大の内乱である。
 天智天皇の太子・大友皇子に対し、皇弟・大海人皇子が
 兵を挙げて勃発した。
 反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例の
 少ない内乱であった。
 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申にあたる
 ことによる。」

    (。ŏ﹏ŏ) 

 これで、「壬申の乱」の輪郭が頭の中に浮かんできますか?
「壬申の乱」に興味を持て、そのユカリの地を訪れたいと
思いますか?
 私が、「壬申の乱」に興味を持ったのは、50年以上も昔、

中学のクラス担任で、社会科の独身新任教師で日教組の熱心な
組員だった、清水先生から、
「実はこの「壬申の乱」はとても面白い経緯と経過が
 あったんだぞ」
と、

突然まさに急にそれまでと違う、話し方で、校長でも気に
されているのか、教室の周りを気にしながら、授業を続けられた
のです。

「実は、この壬申の乱は、今から1300年も前に、天皇家の
 後継争いの、いがみ合いであり、しかも裏に、
 
当時絶世の美女、額田王姫(ぬかたのおおきみ)の、
 取り合いが関係しているんだぞ。」
「余りにもその実態が、男女関係でドロドロしていて、その後の
 日本の歴史が、大きく変わった事件 乱だったものだから、
 幼い中学生には無理と、他の中学校では、詳しく教えて
 ないんだぞ!」

 このとき、「当時絶世の美女」の言葉に、飛び切り関心の
 強い中学生達が、感受性を強めて聞いた授業内容に、その後で
 調べたことを交えて記載してゆきます。



 この絶世の美女、今で云えば、吉永小百合石原さとみ
新垣結衣、それ以上の美人を想像してください。

もしかしたら、天然ボケの 綾瀬はるか のイメージと重なる
かもしれません。
 去年の(令和1年)暮れの紅白歌合戦の司会でも、最初に
トチッてましたね。
「アッ!トチってしまった。!」の顔が可愛かったですね。

 まず、弟の 大海人皇子;後の天武天皇が見初め、自分の
嫁にし、十市女王;後の大津皇子妃をもうけています。
 もちろん、絶世の美人は子供を産んだからといって、
その魅力が、衰えることはあり得ないのです。
もともと 歌(和歌、短歌)を作ることが得意で、それの
歌会で出会った、大海人皇子の腹違いの兄、中大兄皇子;
後の天智天皇;が惚れてしまい、大海人皇子に
「額田王を俺に譲ってくれ。」と兄貴の権威を使って、
無理やり奪い取ってしまったのです。
 当時は、「壬申の乱」の少し前に戸籍謄本は出来たばかり、
もちろん家庭裁判所は無い時代ですから、一夫多妻制度が
一般的で、大海人皇子にも、中大兄皇子にも額田王妃以外に、
多くの女房が居たことは、簡単に想像できますよね。
一夫多妻制が普通に認められていても、その女房同士で、暗黙の
競い合いがあったことは、今の一夫一妻制の女房族でも、近所、
親戚同士の競い合いは凄いものがあったと。
(女房様ゴメンナサイ。m(_ _;)m)
容易に想像できますよね。
 その容姿と、歌造りの才能は宮廷内でも脚光を浴びており、
当時の女帝 斉明天皇に信頼されて、天皇の行幸の際には身近に
同行するメンバーでした。

 当時日本は、東アジア極東地区の多くの国(百済、新羅、
高句麗、唐、等(済州島等))が入り乱れ、最大最悪の
朝鮮半島の事変に、手を出してしまい、唐、新羅の連合軍に
対して、日本の同盟国百済を救うという名目で、
女帝 斉明天皇の命で喧嘩を売ってしまい、初めから結果が
分かっていた通りに、4万人以上の日本兵の壊滅という
大敗北を、攻めって行った 「百済の白村江」で起こして
しまったのです。
 実は、この4万人の兵の数なのですが、歴史に興味を
持っておられる方でも、当時の朝廷とは、緊急性切迫感の
認識が違うと思うのです。
それは、その当時の日本の総人口数が、今とは比較でき
ないくらい少ない、 550万人〜600万人だったから
なのです。
 今の20分の1、つまり単純換算、4万人✕20倍= 80万人
もの大事な兵を失くしてしまったのです。
 因みに、今の自衛隊は総数27万人とされていますので、
自衛隊3個分を失くしてしまったのです。

 その朝鮮半島での戦いに、飛鳥から九州太宰府へ向かう、
船旅の最中に
 熟田津(にきたつ)に船乗りせむと 月待てば
  潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (万葉集)

 (準備はできた、さあ行け!!)

 全軍を鼓舞する威勢のいい歌ですよね、これは学校で習い
ましたよね!
 熟田津は、四国愛媛県松山の、道後温泉の港です。
 唐と戦える軍勢と、船舶が整う迄の間、道後温泉で準備待機
していた、斉明天皇、大海人皇子、中大兄皇子、藤原鎌足らの
高官と将軍たちに、戦いの気合を入れた歌ですね。

 でも残念ながら、この後の歴史をたどると、良い事は少しも
ありません。

1)九州に着いて直ぐ、女帝 斉明天皇 崩御。
 (死因について、毒殺などの謎が多くあるとされています。)

2)中大兄皇子を中心に進めてきた、百済救援を今更
 止められずに、 朝鮮出兵を強行。

3)663年(ムッムザン)8月28日 百済 「白村江の戦い」
 に惨敗。 命からがら撤退。

4)飛鳥の宮まで逃げ帰る。
  戦力のあまりの違い、兵器の威力の違いを知ってしまって、
  唐の報復が怖くて、怯えていたようですね。

 この状況は、昭和20年 今からホンの70数年前
  太平洋戦争末期の、日本の大本営幹部らの、不安な気持ちと
 ソックリだと想像出来てしまいますね。

5)「白村江の戦い」の後、一年も経たない664年5月
 あの今も昔も変わらずに、しつこい中国人(唐人)が、
 忘れて許してくれることは当然無く!
 唐から、郭務悰(かくむそう)を代表に使節団が来訪。
 北九州到着後直ぐに、中大兄皇子達が逃げ帰っていた、
 飛鳥の宮まで押し掛けて来た。
 使節団に怖気づき、朝廷は日本の負けを認め、唐の臣下の
 位置に、なることを受け入れ、使節団を歓待し、お土産を
 持って帰ってもらう。

 「日本書紀」には使節団と表記されていますが、実態は、
 昭和20年代の日本を占領した、米国の「進駐軍」だよね。
 1300年前の日本にも、GHQ マッカーサー元帥が来たん
 だよね。
  船から降りる時に、パイプを咥えていたのかなー。
 中大兄皇子と唐の郭務悰が一緒に並んだ記念の絵を、
 無理やり書かされたのかなー。
 (中国の何処かに残っていたりして?!)

6)「白村江の戦い」の戦後史 詳細は 別ブログ
「白村江の戦い」敗戦後 を御一読ください。

 日本書紀の中には、この後も、今も昔も変わらない唐の
 しつこさとして、使節団がほとんど毎年、九州大宰府に、
 訪れていることが書かれています。
 今も昔も、中国人はしつこいというのが、よく分かりますね。
 不気味なのは、一度に2000人もの使節団が、来たことも
 有ったようなんです。
 (なんの目的で、2千人:換算4万人 もやって来たんで
  しょうね。)

 もう一つ気になるのは、白村江の戦いで唐と組んでいた、
 新羅の使節団も、独自に遣ってきているんです。しかも
 毎年のように何回も。
  何故気になるかと言いますと、「白村江の戦い」の後、
 滅ぼした百済の利権の取り合いから、唐と新羅の関係が悪く
 なり、戦いになってしまうのです。
  同盟国同士から、戦い相手に変わってしまっているのです。

7)唐の侵攻を恐れ、都を、飛鳥から近江の大津京に移し、唐の
 使節団が帰った後、次の唐の使節団が来る前の間に、全国から
 兵を駆り集め、万葉集でお馴染みの、防人(さきもり)
 として、九州の守りを固め、太宰府の守りを固め、山城を
 幾つも造ったのです。

8)唐の進駐軍が帰って留守の合間に。
 668年 1月 中大兄皇子即位、天智天皇となられる。

 日本書紀には、即位の表記の後、「前後合わせて4人の姫を
 お召になった。」とされていますが、その中に、額田王姫の
 名はありません。??
 その年の5月 大津の宮の近くの、蒲生の里で、息抜きで
 行われた、リクリエーションの狩猟の最中に、後世に残る、
 恋歌が読まれています。
 そうです、ここで日本人なら誰でも知っている恋歌が!
     (^_^;)

   茜さす 紫野行き 標野行き
    野守りは見ずや 君が袖振る

  (あかねさす むらさきのゆき しめのゆき
      のもりはみずや きみがそでふる)

       額田王姫

   紫の匂える妹を 憎あらば
     人妻ゆゑに 我恋めやも

  (むらさきのにおえるいもを にくあらば
      ひとづまゆゑに われこいめやも)

       大海人皇子
 

蒲生野 万葉の森船岡山公園
  (滋賀県東近江市糠塚町)
 恋歌の遣り取りを描いた、大きなモニュメント


 薬草づみをしている額田王姫に、
 狩猟中の大海人の皇子が手を振っています。

 この歌は、中学校の国語の時間、高校の古文の時間に習い
ましたよね。
何故、日本史の時間では無かったんでしょうね。
 私は、この歌が、日本の歴史を変えてしまったと思って
います。でも最近の馬鹿な学者が何人も、この歌の評価を
下げよう下げようとしているようです。
 曰く、
「この歌は、狩猟の後の飲み会の席上で、ザレ歌として発表
 されたもので、他愛のない恋歌です。
 しかもこの時、額田王姫は四十歳前後、色恋の価値が無い
 年齢です。」

 この趣旨の意見が、学会の主流であるかのように流布されて
いるのです。
そしてまことしやかに、
「講演会でこの学説を講演すると、聞かれていた、
 オバサンから、強い非難の意見が何度もありました。
 ハッハッハ。」

 女の情の深さ、好きな男を思う心がまるで解っていないダメ男ですね。
きっと自分の女房の気持ちも読み取れないで、苦労ている
はずです。

 江戸時代の北町奉行、大岡越前守が、裁判中の男女絡みで、
女の恋に対する気持ちが、どうしても解らず。
自分の高齢の母親に
「オナゴが男を思う気持ちは、何歳ぐらいまで
 あるんだろうか?」

と聞いたところ、母親は恥ずかしそうに、火鉢の炭を火箸で
いじくり続けており。
それを見てやっと、
「あっそうか、死して灰になるまでか!」
と言う話が残っていますが。
オナゴ集は怖いですよ、又その執着心の深さが女の人の価値
なんでしょうね。

 この考えを元に、蒲生の狩猟の後の宴席を、想像して
見ましょうよ。
ちなみに、天智天皇はこの狩猟の催しの直前に即位しており、
即位のお祝いを兼ねていたようですね。`
おそらくその宴会には、近江朝 大津宮の主だった高位高官は
参加していたと思えますよね。
 そんな大事な宴会の、どのタイミングで、額田王姫がこの
歌を自ら読んだのでしょうね?
想像しただけで、ドキドキしますね。

 人の口の軽さ具合は、1300年前であろと少しも変わりない
と想像できます。
 大海人皇子が、額田王姫に手を振るのを見ていた口の軽い
役人から、天智天皇は、その様の告げ口を聞いていたと
想像できてしまいますよね。
 このような口の軽い男は、いつの時代にも居ますよね!
(私が過ごしてきた人生の中で、知っているだけで、5人は
 顔が浮かびます。)

 皆さんはどうですか?

 これから先の物語は、男女の心の模様に、引きずり出された
物語です。
今までも色んな人が、この時の光景を、物語に創作しています。
男女の心の模様に、日本では時代変化はないと決めつけて、
話を続けます。

 告げ口を聞いた天智天皇は、心の中で、
「あの二人、まだそんなことをしていやがったのか。」
「宴会の席で皆にぶちまけて、大恥をかかせてやろうか!」

 宴会もたけなわ盛り上がってきた処で、今日の狩猟の行事を
歌にしてみましょうか、ということになり、どうやら、
大海人が自分に手を降っていた軽い冗談を、天智天皇に
チクられていることを、察していた額田王姫が、
 それでは私からと、自ら書いた歌札を読み上げます。

 

  茜さす 紫野行き 標野行き
   野守りは見ずや 君が袖振る


 宴席に参加していて人達は。
「えっ、天智天皇の女房に、手を振るなんて人がいるの?」
「ウソー!」
「もしかしたら、大海人じゃあないのか?」

「そっ、オレオレ、軽い気持ちでね。」

 紫の匂える妹を 憎あらば
  人妻ゆゑに 我恋めやも

 大海人の心の声、
「俺から、額田王姫を奪いやがって、ざまあみろ。」

 天智天皇の心の大声。
「大海人の皇子のバカ、皆が心許している、宴会の最中に、
 なんて歌を大きな声で歌いやがるんだ。」
「これでは、額田王姫が昔 貴様と、関係が在ったのが
 丸バレじゃあないか。」
「額田王姫の機嫌を取るために、貴様と額田王姫の間に
 生まれた、十市女王を、俺の息子の大友皇子に嫁がし、
 子供まで(葛野王:かどの)生まれているのに、
 俺の努力を無視しやがって。」
「お前には絶対、額田王姫も皇位も渡さんぞ 、
 俺が生きている間も、死んでからも。!!」


「わあ、すごい怖い顔をして、こちらを睨んでる。
 何か怖い仕返しをしてきそうやな、当分用心しておかないと
 えらい目に遭いそうやな。」


「わー、二人とも睨み合って、
 あの人(天智天皇)本当に怒ったみたい。
 これで当分、大海人の皇子さんとは会えないみたい。」
   (-_-;)




 この後、まるで歴史小説でも書いているように、
テレビドラマみたいに
「日本書紀」には、この後、体を壊した、天智天皇が、
近江の宮の宮廷に大海人の皇子を呼び寄せて、繰り広げ
られた二人の、駆け引き、やり取りが、一部始終書き込まれ
ています。



 蒲生の里での狩猟パーティーから、近江の宮での駆け引き会談
までの、気になる経過が日本書紀の記されています。
 私がなぜ気になるかといいますと、現在21世紀の
韓国、北朝鮮の行動と重なってしまうからです。

668年9月
 新羅の使者来日、貢を奉った。

同年11月
 絹などを新羅の使者に賜る。

同年 月不明 
 新羅の僧、沙門道行が(熱田神宮から?)、草薙の剣
 (くさなぎのつるぎ)を盗んで新羅へ逃走。しかし途中で
 風雨にあって行方に迷い、また戻った。
(えっ? テレビ中継された、令和の天皇ご即位の式典に出てきた
 あの剣が、盗まれたことがあったんだ!)

 式典の途中で、侍従たちがうやうやしく三種の神器として
 目の高さに捧げ持って運んでいたあれですよね?
 あの草薙の剣は、オリジナルの剣をコピーし、崇神天皇の
 時代に作られた、形代(同じものとして作られたもの)で、
 盗まれたのは、熱田神宮に収められている、オリジナルの剣の
 ほうで、令和の天皇の御即位の式典で捧げ持っていたのは
 この時作られた形代で、本来のものでは無いようです。
 (この由来の違いは、私には理解できません。)
 (で、この盗難騒ぎはどうケリがついたんだろう?)
 この盗人の僧は、この年の、9月にやって来た新羅の使者の
 中にいたのでしょうか?
 もしそうなら、草薙の剣が、天皇家と深い関わりのある剣と
 知って、わざわざ、熱田神宮から盗んだと考えてしまえます
 よね。?
 でもなんで??
  天皇の権威を象徴する国の宝を、朝鮮人 新羅の僧に盗まれて
 しまうなんて。
 何故わざわざ、こんな日本国の威信を下げてしまう、
 恥ずかしい事件を、日本書紀に記載したのでしょうか??

669年(翌年) 5月
 天智天皇は山科野に遊猟。
 大海人の皇子、中臣鎌足ら群臣がことごとくお供に従う。
(蒲生の里での、額田王姫とのいざこざを乗り越えたのかな?)
(余計なことが気になるタイプの私、
 今回も女性陣による、薬草つみはあったのでしょうか?)


 同年 9月
 新羅が来日、貢を献った。
 国の宝、草薙剣を盗み出して、自分の国 新羅へ持ち去ろうと
 した、その国の使者が、どの面下げてやって来たのでしょう。
 答えは簡単です。「何食わぬ顔をして」ですね!

 同年10月
 中臣鎌足が病床に伏し、10日に、天智天皇ご自身で病床に
 見舞われる。
 鎌足の憔悴が激しいのを見て。
「ーーー ーーー、
 もしなにかしてほしいことがあれば、言うが良い。」

「私のような愚か者に、今更何の申し上げることが
 ございましょう。
 ただひとつ、私の葬儀は簡素にしていただきたい。
 生きて軍国のお役に立てなかった者が、
 死にあたって重ねてご迷惑を、おかけすることが、
 どうしてゆるれされましょう。」

 この病床からの言葉は、偽りも照れもない真の言葉ですよね。
 「軍国のお役に立てなかった」と言うことは、百済の戦いでの
 敗北は、自身のせいであると、言い切ったんだ。
 責任を自分一人でかぶったんだ。

 5日後、同年10月15日
 大海人皇子を遣わし、大臣の位と、藤原姓を賜って
 藤原の内大臣と称した。(藤原氏の始まり。)

 この時までに、鎌足の、病床での
「軍国のお役に立てなかった」の言葉は、
 大海人皇子に伝わっていたでしょうか??
 これから私の迷推理が始まります。

 もし伝わっていたのなら、宮廷内にくすぶっている、
 百済の戦いの大敗戦の責任問題は、中臣鎌足が全て被って
 くれて、自分は逃れられたと、安堵していたことでしょう。

 もし伝わっていなければ、いずれ、大敗戦の責任問題が
 前面に出てきて、命が危うい鎌足亡き後、兄 天智天皇は、
 責任を自分一人に押しつけて、額田王姫の事もあり、
 なにか言い掛かりをつけて、命が狙われるかもしれないと、
 恐れて居たのではないでしょうか?
 「危なくなったら、額田王姫を引き連れて、吉野へ、
  逃げようか?」


 翌日、10月16日、中臣鎌足が亡くなる。
 春秋五十(五十歳)

 中大兄皇子と、大海人皇子の間を取り持っていた、大事な
 柱を無くす。

 つまり、この年の5月に行われた、山科野の遊猟に
 大海人の皇子が参加していたのは、
 藤原鎌足の取り持ちが在ったからで、仲介者がなくなった二人
 の間は?

同年  月(? 月日記載なし。)
 大唐から、郭務悰ら二千人を遣わしてきた。

(二千人(人口現在に換算 四万人) も、
  何か気になりますよね!)


671年 9月 藤原鎌足崩御から、2年後
 天智天皇が病に。
 時代が大きく動き始めます。
 その間、額田王姫はどう関わっていたのか、日本書紀に
記載なし。
 個人的には一番知りたいことですよね。

 私が妄想し始めたのは、人間関係の状況の変化です。
藤原鎌足が亡くなるまでは、天智天皇が最も信頼できたのは、
 大激変をともに過ごしてきた、大海人皇子と、藤原鎌足では
なかったでしょか?

 信頼していた藤原鎌足を、その病床に見舞いにゆき、
その病状を間近に見て、
鎌足から「軍国のお役に立てなかった」と深い詫びを入れられ、
わずか数日で亡くしてしまい、それからわずか二年後に、
今度は自らの症状が危うく案じられる時、人はこの時、
どうしたらいいと、思うでしょうか?
 自らが生きてきて、国のためにと、決断を下したことを、
「よかった!」と身内、仲間に判断してほしいと思った
はずです。
 自分が一番後悔している、百済出兵の罪を、鎌足が全て
被ってくれ、自分が死んだ後の、この宮のことや、身内
息子の大友皇子のことは心残りではあるけれど、それは
残されたものが、考えれば良いことだと、心から思った
はずです。
 自分の人生の、総仕上げをするつもりで、大海人の皇子を
自分の病床に、招いたのではないでしょうか。

 自分の思い描いていた、一番美しい引き際を思い描き。

 ここで私は、日本書紀の不思議の一つを見つけて
しまいました。
 それは、日本書紀 巻第二十七 天智天皇の項と、
日本書紀 巻第二十八 天武天皇の項に記載されている、
この病床での記載が、不思議に違っているのです。

 自らの症状が重篤なのを知った、天智天皇は、自分の寝室へ
招いた部分では。
 天智天皇の項では、ただ東宮(大海人皇子)を召した。
と記載されているだけです。
 天武天皇の項では、使者(蘇我臣安摩侶)を遣わして東宮を
召し、御殿に---------
 かねて東宮に好意を持っていた安摩侶は、ひそかに東宮を
振り返り、
 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!! 映画によく出てくる「シーン」
そのもの。

「おことばに御用心なさいませ。」 と申し上げた。
 東宮は、なにか陰謀があるのではないか、と警戒したのです。

 一番信頼していた、鎌足を亡くし、病床の心細い自分の
後を継いでくれるのは、東宮だけと確信していた、天智天皇は、
病室で、
「私の病は重い、後のことはお前にまかせる。」
 (天智天皇の項)
と言われた。

 ここで余計なことが気になる私は、この病室の模様です。
部屋の中にいて、二人の会話の行くへを、かたずを飲んで聞いて
いた人は、どんな人だったかが、とても気になりだしたのです。

 天智天皇の、息子 大友皇子、正式皇后 倭姫王 は当然同席
しているはず。
 病床の介護をしている女房達と、東宮(大海人皇子)に招来を
伝えた 安摩侶。
 そして、東宮が王位継承を受け入れた時、謀反として、
討ち取ろうと用意していた、大友皇子の信頼している
家臣5人集
(左大臣蘇我赤兄臣、右大臣中臣金蓮、蘇我果安臣、
 巨勢人臣、紀大人臣)
 そして、天智天皇の病床を心配している愛妻達。
 愛妻達の中には、当然、額田王姫は居たはずですよね。

 そしてこの後、大海人の皇子は、あの鎌足の最後の言葉、
百済出兵の誤りを自分一人で引き受けた。
「軍国のお役に立てなかった。」を聞いていなかったと
判断してしまえる態度を、みんなの前で表してしまったのです。

「残念なことに、私はもともと病気がちでございます。
 ーーーーーー。」
「天下のことはすべて皇后 倭姫王におまかせになり、
 大友皇子を皇太子に、お立てなさいませ。
 私は今日から出家の身となり、陛下のために仏事を努めようと
 思います。」

 (天武天皇の項)

 つまり、東宮は安摩侶の言葉を信じ、うかつに皇位を受けては
身が危ないと察知し、出家することで逃れようとしたと、
想像できますね。

 翌々日の10月19日、出家し、近江の宮を離れ、
吉野に向かった。
 この旅立ちを見送るため、大友皇子の家臣5人集は
宇治まで見送った。
 その帰り、有名な言葉が飛び出します。
「虎に翼をつけて放すようなものだ。」

 これが、日本書紀に書かれている事を元に想像した、
「壬申の乱勃発前」の大歴史ドラマの初項です。

 私や、額田王姫が大好きな歴史ファンは、これで満足
できるはずはありません。そうです、その病床の場に居た
であろう、額田王姫や、愛妻達はどう動いたのか?
 何を期待し、何に失望したのか?
知りたくて仕方がないのですが、知る手立ても、文献も
残っていません。

 11月10日 
 対馬国の司を先導者にして、大唐から、郭務悰ら二千人の
 使節団が来日。
 (ややこしい時に、やって来ましたね。)

 11月23日 
 大友皇子を中心に、家臣 五人集が集まり、
 「反東宮」で団結を誓いあった。

 12月 3日 
 天智天皇 崩御

 12月17日 
 来日中の、新羅の遣いが、帰途のついた。
 (急遽、日本の政局激変を報告するために、帰ったと、
 想像するのが自然ですよね。)

翌年672年3月17日
 筑紫に滞在していた、唐の使節団 郭務悰らに、天智天皇が
 お崩れになったことを伝えた。
 (新羅の行動から、3ヶ月遅れ! 
  この差は大きいと思えますよね。)

 5月28日 
 高麗(唐に破れ、新羅に亡命中)から使節団。
 (天智天皇死後の政局を、調べるために来日と見るのが
  妥当でしょう。)

 5月30日 
 唐の使節団 郭務悰らは甲(よろい)、冑(かぶと)、弓、
 矢らの軍需品その他を、近江朝から受け取り、帰途についた。
 この回の離日以降、郭務悰の消息はプッツリと途切れ、
 行方不明です。
 (筑紫に居た 唐使節団は、日本海経由で(舞鶴?)近江朝に
  出入りしていた、新羅の動きを、把握できて
  いなかったと想像できますよね。)




 令和1年11月

(このドラマを、どこまでこのブログに書けばいいか、
迷っています。
 私はこの中に、想像できそうな額田王姫の焦りをーーーー。)

 沢山の歴史学者、歴史作家、額田王姫大好き学者が
とても沢山の筋書きの面白い話が作られています。
 私はどこに足を置けばいいのか、迷っています。
しばらく時間をいただきます。




 令和2年1月

 壬申の乱と額田王姫の絡みを見極めたくて、謎を探れば
探るほど、闇が深まります。いやむしろ謎そのものが霞んで
くるのです。

 このブログの知人からは、
「何をダラダラしてんの? ミンナ、万葉集のせいにして、
 三人の絡み合いでケリをつけたらいいじゃない!」
(三人: 天智天皇、天武天皇、額田王姫)
「壬申の乱も面白いけれど、『歌声喫茶 ピープルズ』の
紹介ブログを早く、もっと面白おかしく展開をしてよ!」と、
男前の円広志似さんや、
美人を絵で書いたような、綾瀬はるか似さん、から急かされ
ています。

 確かに、ブログに、このページを立ち上げたときは簡単にと
考えていたのですが、つい(ウカツにも)この史料の中心に
なっている、歌が全て、万葉集から引っ張り出されたもの
ですから、万葉集に興味が惹かれ、少し本屋で、万葉集
解説書の立ち読みをしてしまったのが、まさにウカツの
始まりでした。

 額田王姫が歌を読んだ、その時代、(千三百年前)まだ仮名が
無かったのです。
正規文書は、唐の様式の漢文で書かれていましたが、一般の
人には、難しすぎるので、地名や名詞は漢字を遣い、漢文で
習った、レ点(返り点)を使って文章を行ったり来たり
するのは面倒だから、日本人が普通に、シャベルような
順番で、テニヲハを漢字で代用したのです。

 それで取り敢えず、蒲生の里での歌を原文で書いてみます。

 額田王姫の歌
 茜草指 武良前野逝 標野行
  野守者不見哉 君之袖布流

 読めますか?

 大海人皇子が続けて読んだ歌
 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者
  人嬬故尓 吾戀目八方

 これも難しいですね。

 私は何が何やら、取り敢えず、????でした。
でも、これが、皆が知っている歌を額田王姫と大海人皇子本人が
宴会の席上で、皆の前で、歌詞札に書いた原文なのです。


 この後の、蒲生の里での歌の迷推理は。
今混迷中で、永くなりそうですので、逐次
「額田王姫へ、袖を振ったのではない!」
ブログを立ち上げ、進めてゆきたいと心に強く言い
聞かせています。
 その名推理の後、この「女の戦い? 壬申の乱」を
再開したいと思っています!
 すみません!!



 令和2年3月7日 新章突入!!

 「額田王姫へ、袖を振ったのではない!」 の
ブログで「蒲生の里での歌会」を想像する内、額田王姫の
原文に出会い、額田王姫が伝えたかった、本当の心を
知ってしまい、このブログの「女の戦い?「壬申の乱」」で
描いた文章を、すべて訂正しなければならなく成って
しまいました。

 今までの「蒲生の里での歌会」で、流布されているシナリオは
すべて間違いです。

 平安時代に時の政府が、額田王姫の歌の原文を、故意に
書き換えていたためです。
「何でそんな面倒くさいことしたのー。」
 タテマエは、使い易いひらがなが一般化し、逆に万葉仮名が
面倒くさく、使われなくなり、万葉集が読みづらいと、
すたれて来たため、時の政府が、率先して、万葉集を、
平仮名を使って、読みやすく書き換えたのです。
 このおかげで、古代を代表する文学が、後世に引き継がれた
のです。
勿論それに伴う、歴史事実も伝わっていったのです。
 ここで気になるのは、いつの世も、時の政権は、自らに都合が
いいように、物事を進めるのですよね。
 当然 平安時代の政権も、
都合が悪いことは、「隠す、消し去る、書き換える。」
三悪政
を実行したのですよね。

 飛鳥時代で、最も伝えたくない歴史事実は何でしょうか?
朝鮮の百済に攻めって行って、唐にコテンパンに負けたこと
ですよね。
 負けただけでなく、戦いの直後に、使節団が飛鳥にまで
押しかけてきて、唐の臣下になることの、署名まで
させられてしてしまった、ことなのですよネ。
 「えっ! 何の事」と思ってしまいますよね。

 話は続きます。
 正式な国史の続日本紀に書かれているのですが、百済で
唐に負けてから、百年以上も後の、778年、桓武天皇の
一代前のお父さん 光仁天皇の在位中に、
唐に派遣していた、遣唐使の帰国にクッツイテ、
唐の正式な使者が、奈良の都に堂々とふんぞり返って
遣ってきた
んだよね。
(想像しただけで、胸糞悪くなりますよね。)
 勿論正式な使者ですから、時の天皇に、正式な会見を
要求してきますよね。
 対応する、宮廷の大慌て、大混乱が目に見えるようですね。
百年以上も前の、百済での惨敗のため、臣下になる謝罪文を
出さされたのを知っている、官僚が会見の段取りをして、
当日、天皇は、御座の上座から下座に降り、
唐の使者を上座に上げ、唐の使者が仰々しく唐の皇帝の
親書文を読み上げるのを、頭を下げて聞かれた。

のですよね。
 その状況を見て、日本の臣下の何人かが、悔し涙を流した
書かれています。

 この悔しい会見が在ったから、次の代の母親が百済系の息子、
桓武天皇が、都を奈良から、794年(泣くようぐいす)
今の京都 山科に平安京を創り、遷都した理由の一つと
されていますね。
 (よっぽど悔しかったんでしょうね。)

 どうしても、百済 白村江の戦いを、闇に葬りたかったん
でしょうね。
 そのためには、額田王姫が、蒲生の里で歌った、

 茜草指 武良前野逝 標野行
  野守者不見哉 君之袖布流
 の

 武良前野逝 の歌の真意である、
「良き武人が逝ってしまった。」は、短歌のド素人の
このブログの作者(ワタシ、漢字書き取りはいつも、
赤点ギリギリ)にさえ読み取ることができるのですから。

 上の句は、
「命令されて攻めて行った百済で、良い武人が
 沢山赤く血に染まって、 亡くなってしまいました。」

となり、下の句は、
「亡くなってしまった兵士は、貴方の指示された
  通りに百済に攻めて行ったのですよね。」

 普通に読み取れてしまいますよね。

 額田王姫(ぬかたのおおきみ)が、百済での惨敗からたった
6年後の、蒲生の里での宴会で、その心の惨めさを歌ったと、
普通の日本人なら、誰でも簡単に、読み解けるはずですから。
「原文のままでは、絶対に不味い。」となり、
「うまく書き換えてしまえ。」

 茜さす 紫野行き 標野行き
  野守りは見ずや 君が袖振る

 何食わぬ顔で、平仮名に書き換えるついでに、
 逝き行き
入れ替えてしまったと、容易く想像できまよね。

 武良前野逝が→紫野行き に変わっているのを、
知る由もない、千百年後の江戸時代の文人は、この歌を見て。

「もお、私に気づいて欲しくて、皆の前で、手を振って!
 だめでしょ、バカ!」

と読み解き、額田王姫(ぬかたのおおきみ)は、なんて
天真爛漫な女流歌人だったんだなと、理解してしまった
のです。
 後世の日本人に、百済で唐に負けたことを、覆い隠して
しまえて、書き換え作戦は大成功と成りました。

 ここから、このブログの本流に戻ります。

 ここまで、このブログを妄想してきて私は、蒲生の里での
宴会の時に、額田王姫の歌が、百済白村江惨敗の悔恨歌だと、
大海人皇子は、気づいていたと想像するのです。
 なぜなら、大海人皇子の返歌

 紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者
  人嬬故尓 吾戀目八方

 紫の匂える妹を 憎あらば
  人妻ゆゑに 我恋めやも

 大海人皇子が、悔恨歌と、気づいていたから、あえて
皆の前で、チャラチャラした、恋の返歌をして、宴会の
雰囲気を胡麻化してしまったんだと想像してしまいました。
 大海人皇子は、心の中で強く思ったはずです。
「額田王姫とは、これからは、決して
 関わらないようにしよう!」

 どの様に考えても、この恋歌の返歌は、天智天皇の即位の
お祝いを兼ねた宴会の席の歌としては、不味いですよね。
 それでも敢えて、白村江の戦いの話が出るのを抑える為に、
軽い恋歌を読んだのだと、思えました。

 この歌会の後、大海人皇子は額田王姫と関わりを絶ち、
大津の宮から吉野への逃避行の時には、一番信頼できる、
鸕野讃良皇女(うののさららひめ)を連れていった、
理由ですよね。

 そして、見捨てられたと気づいた、額田王姫は自分の娘婿で
天智天皇の息子、大友皇子に付いて、近江朝廷側として、
支援したと想像するのですが、
「女性読者様、如何でしょうか?」

ー続くー

 「蒲生の里での歌会」の真相は
「額田王姫へ、袖を振ったのではない!」 のブログをご覧ください。
私の迷推理がご理解いただけます。




 大海人皇子に多くの女房から一人見込まれ、大津宮から吉野へ
都落ちに付いて行き、「壬申の乱」の発生に伴い、吉野から、
たった男20人、女10名の合わせて30人ほどの心細い逃亡に
付き添った、鸕野讃良皇女(うののさららひめ)
 後の持統天皇です。






「壬申の乱」を令和元年に探索 -その1- へ戻る




 今回のブログのページを作ろうと思った瞬間です。
◎「歌声喫茶って 知ってます。」




◎ 古代史 のんびり散歩     スタートページ です。
              (新作順表示)
◎ 目次ページ    (創作順表示)
◎ 「難波宮ッテ?」   古代史感のすれ違い
   
メイン ブログです。




 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。


 


コメントを投稿