難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

歌声喫茶 知ってます?

2021年02月08日 | これ何?
歌声喫茶って知ってます?

           初稿 平成30年12月28日
      追悼記  令和3年 2月 6日


 このブログをご覧頂いている、歌うのが大好きな
 皆さん、悲しいお知らせが、円広志 似さんから入りました。

 大阪歌声喫茶「ピープルズ」のオーナーでピアニストの
 大北整子さんが、2月4日に、亡くなられました。

 心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

 大北整子さんは、このブログに紹介していますので、
ご覧ください。

 今、日本中、世界中を襲っている、コロナの為に、
「ピープルズ」を休業して、家に引き込まれておられた
そうです。

 コロナめー
「ピープルズ」の継続を心配されておられたそうです。

 またお話できることがありましたら、このブログで、
 お知らせしたいと思います。






 歴史は重たいと思っておられる方は、
 歌声喫茶 歌うのは楽しい!




今の大阪にある数少ない 大阪歌声喫茶「ピープルズ」



 私のような、団塊世代(太平洋戦争終戦後に、戦地から帰国
した、復員兵によって、もたらされた第一次ベービーブーム
世代)や、その少し前の、子供の時に惨めな敗戦を体験した、
純真な気持ちで政治闘争に明け暮れた、血の気の多い
兄ちゃんや姉ちゃん達が、気持ちの憩いを求めて通った、
心の癒しの場所。その中の一つが、歌声喫茶でした。

 私が青春を過ごした大阪地区では、代表的なのは大阪梅田の
歌声喫茶「こだま」、東京地方では、私は行ったことが
ないのですが、歌声喫茶「ともしび」がよく若者が集う
代表的なお店だったと聞いています。
 大阪梅田の「こだま」では、小さなコンサート場のような
作りで、客席が2階作りになっていて、200人ぐらいは
入れたと記憶しています。
 真ん中のステージで、ピアノやギターが奏でられ、よく喋る
司会者が入場者をリードしてくれていました。
 会場に入るときに、入場料を払うと、手渡してくれる、小さな
歌集を見ながら、誰もが知っていて、口ずさめる歌を、みんなが
大きな声で合唱をする流れでした。
 今のように、歌いたかったら、カラオケが何処にでもある、
気楽な時代とは違って、好きな曲を、町中で大きな声で歌え
なかった時代です。
町中で、歌の好きな若者にとって、楽しく歌える数少ない、
憩いの場所でした。

 私と、歌声喫茶の出会いは、中学時代、私のクラスの担任で、
真面目で、教育に熱心で、日教組に入っておられた、
社会科の清水先生が、社会勉強になるだろうと、クラスの
仲間3人と、一緒に大阪市梅田の「こだま」に、連れて
行って貰えたのが、初めてでした。
 歌が大好きな私に取って、まさに天国に連れて行って貰えた
ような、とても楽しい記憶が今でも甦ります。
 それからは、高校時代、大学時代は時々(小遣いが少な
かったので) 就職してから、少ない小遣いから工面し、
職場の憂さを晴らしに、職場の仲間と一緒に連れ立って、
大声を出しに歌いに行きました。

 この文章を書きながら、その当時の夜の町の光景が甦って
きました。
 歌声喫茶「こだま」で2時間ほど声を枯らして歌い、
その後は、当時の、懐が有り余っていない、若い初任給
3万円位のサラリーマンの、夜の定石が待っていました。

 懐の寂しい若者が、通える安いカウンタースナック、
大阪地区の梅田では、飲み屋街の、阪急東通商店街
にあった、少し大きなカウンタースナックの「コンパ」で
職場の憂さを語り合ったものでした。

 歌声喫茶が懐かしくなり、久しぶりに(40年以上ぶりに)
大阪梅田の「こだま」を訪ねてみました。
 歌声喫茶「こだま」は何処にあったのか?
影も形も無くなっており、後で聞いた話では、高速道路が
(新御堂筋)通る工事の時、取り壊されてしまったそうです。
 スナックの「コンパ」は、ビルは残っていたのですが、
店の看板が見あたりませんでした。
 私は青春時代、夢幻(ゆめまぼろし)を見ていたので
しょうか?
私にとっては、とても懐かしく楽しい思い出なのですが。

 せめて、楽しく大きな声で歌える、歌声喫茶は無いの
かなーと、今風に、スマホのGoogleで検索してみましたら。 

歌声喫茶「ピープルズ」がヒットし、
そこのオーナーが、「こだま」でなんとピアノを弾いていた、
あの美人らしいのです。
「・・・・・・?」
「えーと、?? 記憶が少し怪しいのですが。」



今の数少ない 大阪歌声喫茶「ピープルズ」
 大阪市西区京町堀 曜日 木 土 日 06-6448-6764
  木曜日;毎週 午後2時 〜 午後4時まで。
  土曜日;毎週 午後6時 〜 午後9時まで。
  日曜日;毎月最終日曜日 午後1時 〜 午後4時まで。
  その他、各地へ出張開催予定あり。
  ホームページ大阪歌声喫茶「ピープルズ」で確認して
  見て下さい。
  出張開催地では、100人を超える参加者も沢山
  あるそうです。




 上の、歌声喫茶「ピープルズ」が目に入りました。
そのブログを開くと、

”昭和30年~50年代、
 若者達が燃えたあの感動を伝えたい。”

 このキャッチコピーに心を揺さぶれてしまいました。
「大阪梅田地区からそれほど遠くないし、一回覗いてみるか。」
とブログのスケジュールに、木曜日は午後2時からと書かれて
いましたので、
梅田から、地下鉄 四つ橋線に乗り、一つめの肥後橋で降り、
ブログの地図を頼りに、のんびりと歩いて行きました。

 その店のある場所は、ビジネス会社の立ち並ぶビル街で、
その付近で働いて居られる会社員が、昼や夜に食事や、
一杯ひっかける雰囲気の店が並んでいました。
 その店の風情は私が現役時代、よく同僚と会社帰り時間を
つぶした、馴染みのスナックを思い出しました。
「えっ、ここ?」
 歌声喫茶「こだま」(200人収容)を頭の中に描いていた
私は一瞬戸惑って入るのを躊躇してしまいました。


 店の前に、歌声喫茶「ピープルズ」の小さい看板があり、間違い無さそう?
だけど、店の前の道路に、椅子がたくさん出されており??

 店の前で、タムロされていた人達をかき分け、中に
入ってみました。


 中の広さはやはり、「こだま」の10分の1 ほどの広さで、
20人から、30人ぐらいが入れるのが、やっとかな?
 奥に長いカウンタのスナックで、その椅子が大きいので、
表に放り出して、代わりに小さい折り畳み式の椅子と、
小さいテーブルを並べて、出来るだけ沢山の人に座って
貰えるように、工夫されていました。

 店の中には、会を仕切って居られる、歌手の円広志さんに
よく似たオジさんが。

「あっ、初めての方ですか?」
「会費は、千円ですので、その紙の箱に入れてください。
 飲み物は、持ち寄りですので、
 近所の自販機で購入してください。」

 早速、会費を預けて、一旦外へ出て、近所の自販機で、
オレンジジュースを買って、店へ戻りました。
 店に戻ると、歌の本を2種類渡してもらえ、隣の席の女性と
膝をつきあわす近さで、座って待っていると、開始時間の、
午後2時になり、さっき入り口に居られた、別の楽しそうな
オジサンが、皆をリードして、歌声喫茶が始まりました。
 それから午後4時まで、「こだま」と同じテンポと雰囲気で、
沢山の懐かしい歌を、ピアノの演奏とともに歌い続けました。
 歌った曲の種類も、なんと懐かしいことに、あの時代の、
労働歌、ロシア民謡、それが終わって、参加者のリクエストで、
懐かしい私の青春時代の曲を、思い切り大きな声で、
歌い続けました。
「あーすっきりした、気持ちいい!」
 午後4時前の終了まじかになって、リーダーの合図で、
お互いの隣の人と、立ち上がって、手を取って、歌うという
フィナーレまで用意されていました。
 合唱が終わり、スマホのトピックで、私が利用している、
阪急電車が、「人身事故で運休しています。」と出て
いましたので、「早く帰らなくちゃー。」
と、店を出ようとしたのですが、他のお客さんから、
「この後、ミーティングが在るんですよ。
 是非参加してください。」
と、
呼び止められたのですが、
「阪急が止まっているようで、心配ですので、
 今日はお先に帰らせてもらいます。」

と、言って店を後にしました。

 心配した阪急電車は、30分ぐらいの遅れで、
家に帰れました。
 家に帰ってから、「ミーティングが在るんですよ。」
の言葉が気になりだし、
来週は、「その後のミーティングにも参加してみようか?」
と決めていました。

 実は翌週のそのミーティングで、私の大好きな 古代史
大化の改新の「壬申の乱」
に遭遇するのです。
そして、都会育ちの私にとって今まで思ってもいなかった、
経験したことすらない、理解することすら出来ない、
重い言葉 「廃村」 に遭遇してしまいました。

 先に進みます。



 次の週の木曜日、午後2時、歌声喫茶「ピープルズ」に参加、
入場の前に、のどを潤すジュースを、近くの自販機で買って
行きました。

 午後2時になり、歌声喫茶が始まりました。
今日のリーダーは先週のよく喋るオジサンではなく、若い
(私から見て)可愛い、お姉さんがリードしてくれました。
 歌った曲は、オジサンの時とは少し違っていました。
この日も、懐かしい曲を、思い切り歌い、午後4時まで、
楽しく過ごせました。

 合唱タイムが終わると、先週も、参加の段取りを教えて
頂きました、円広志に良く似たオジサン ➡ お似いさん
(ご本人からのご指摘がありましたので変更します。)に、
「今日は、この後のミーティングに
 参加していただけるんですか。」

と言っていただき、「是非参加させて下さい。」
とお願いしました。
「この後は、飲み物(ビール、ジュース等)、
 軽食は持ち寄りで、楽しいミーティングになるんですよ。」

 参加者がそれぞれ、千円を出し、それで代表が近所の
コンビニに、買い出しに行ってもらえました。
 買い物に行って貰っている間に、店内の模様替えをみんな
(私も含め)で、始めました。
 店の前に出していたカウンター用の背の高い椅子を取り入れ、
折り畳み式の背の低い椅子を、物入れになおし、背の高い
テーブルを、背の高い椅子で取り囲む用に何個か配置し、
テーブルの上に、紙コップと紙皿を並べてゆきました。
 そうしてる内に、買い出しに行って居られた3人が帰って
こられ、女性メンバーが、手巻き寿司や、いなり、
サンドイッチ、オカキや、ビスケットなどを取り分けて
ビールやジュースと一緒に、各テーブルに置かれました。

「すみません」、段取りの分からない私は、その間、
うろうろと、皆さんの邪魔をしていました。
 円広志 似のオジサン ➡ お兄さん(お似さん)が、
「それじゃーテーブルに付いて下さい。」
の合図で、私も邪魔にならない奥の席に座らせて貰いました。

 この日の参加者十人余りが席について、円広志 お似さんの
合図で乾杯をし、午後6時までの予定で、ミーティングが
始まりました。

 もしかしての予感通り、円広志 お似さんから
「先週から参加していただいた、新人さん、自己紹介を。」

「初めまして、私は学生時代、コーラス部に入るほどの
 歌好きで、梅田の歌声喫茶「こだま」に
 よく行っていました。」
「ブログで調べて、「ピープルズ」を知り、
 参加させていただきました。」
「大きな声で思い切り歌えてとても楽しいです。」
「ちなみに、定年後は趣味の日本古代史にはまり、
 のんびり遺跡を探索しています。」

 右隣に座って居られた、オジサンから
「日本史のテーマーは在るんですか?」

「大化の改新を中心に探索しています。」

 これから、想像すらしていなかった、
 壬申の乱に入ってゆきます。

「コーラス部は、大学でもですか。」

「ハイ、中学高校はコーラス部に、
 大学はグリークラブでした。」

「天武天皇と近江朝が戦った時に.....。」
「えっ! 壬申の乱ですか?」

「パートは何処だったんですか?」
「歌声を聞いてたら、テナーに決まってるやん。」
「はい!ご想像通り、セカンドテナーでした。」

「私の村のご先祖達が、その戦いに参加したらしいのです。」
「えっ! 壬申の乱に参戦したんですか?」
「近隣の村と一緒に、部族グループで
 参戦したと聞いているんです。」

「大学では四年間グリークラブだったんですか?」
「いえ、残念ながら1年生の終わりに、
 家庭の経済状態が激変しまして、2年生からはアルバイトで、
 学費を稼がなくてはならなくなり、1年生でやめました。」

「壬申の乱に参戦した、部族などの詳細は判るんですかねえ?」
「現存する、日本の最古の歴史書の日本書紀に、
 この壬申の乱は、詳しく書かれていますので、
 もしかしたら、あなたの部族の事も
 記載されている、かもしれませんねえ。」

 この辺りから、会話のグループが、三つ程になり、
それぞれ大きな声で談笑しだし、店の大半は、歌声喫茶に来て、
「何の話してんねんや?」
と少し浮いたような、雰囲気に成っていたのですが。



 歴史は重たいと思っておられる方は、
 歌声喫茶 歌うのは楽しい!
 ページ変更下さい。
 「歌声喫茶 歌うのは楽しい」のページは、
 歌声喫茶にできるだけ絞って、構成します。


 右隣のオジサンが、乗り出してこられ、
「その地区の部族が「壬申の乱」に、
 参戦したことは在ったことなんですよね?」

「西暦672年6月24日、隠居していた大海人皇子が、
 吉野から東国に向けて皇后の讃良皇女
(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)と
 家臣を含めて、たったの20人余りで命からがら、
 吉野から、それこそ、着の身着のまま
 徒歩で逃げだし。」
「応援依頼を地方に出しながら、
 少しでも味方を増やしたいものですから
 通過地点の、その地区、その地区の部族に
 味方に成るよう懇願しながら、
 名張、伊賀、鈴鹿、桑名を越え、
 関ヶ原を越えた不破の関に、6月28日に到着し。」

「たった五日間で、早やー!」
「味方の軍勢を不破の関で集結、整備をし、
 戦いの訓練を、したようですね。」
「不破の関に集結したときは、沢山の地区から
 味方に参加してきて、4万人を越えていたと、
 私が読んだ解説書には書かれていましたね。」

「4万人以上も集結していたんだ、その時点で
 数十人の参加は、無理かもしれないなー。」

「オジサンのお生まれは、数十人でも大歓迎して、
 迎え入れられたと、容易に想定できる、
 通過点が奈良県、三重県では無いのですか?」

「ご想像通り、滋賀県の彦根市の近くの、
 山の中の・・・・・です。」

 周りの話し声が大きくなりだし、オジサンの声は段々と
小さくなりだし、聞き取り辛くなり、辛うじて
聞き取れたのは、
「滋賀県、小さな村・・、みょうこうむら・・、
 部族の名前は・・・?
 私もそうですが、今は住む人が少なくなり、
 廃村になってしまっている・・。」
「大海人皇子側か、近江朝側か、
 どちらに付いたか判らない。」

でした。
「ものすごく興味がわいてきましたので、
 その部分を勉強してみたくなりました。
 あまり期待せずに待っていて下さい。」
と、
スマホのメモに入力しながら、伝えました。

 周りの参加者は、冷たい視線と、なんか面白そうな話やなと
言う雰囲気でした。
 少し気になりだしたのは、廃村と言う言葉と、大海人皇子側に
付いたか、近江朝側に付いたかが、1300年後の廃村に
関連していないだろうかという、心配と妄想でした。

「ちなみに大海人皇子側は翌月7月2日、
 不破の陣から出撃開始。数度の戦いに勝利し、
 その月の7月23日に、瀬田大橋を越え、
 近江朝側の主力将軍を切り、
 壬申の乱は終わったと日本書紀に
 記載されています。」



 家に帰って早速、壬申の乱を散策。

 早速探さなければいけないのが、
滋賀県 「みょうこうしゅうらく」でした。
 漢字は「明光集落」と勝手に思い、ヤフーで何度か検索、
「検索対象はありません!」
「あれー?」
それから漢字を変え、滋賀県を入れ、色々迷走。
それでは、「滋賀県 廃村」で検索。
 廃村をテーマにして、作られているブログがあり、そこに、
滋賀県「明幸」を見つけることが出来ました。
 「滋賀県 明幸」 で検索をしましたら、いくつもブログが
検索でき、とても沢山の現地写真と、探索記事がありました。
やはり「廃村」と言う言葉がインパクトがあるのか、
そのブログ以外にも、「明幸」として取り上げられて
いました。
 住所名は恐らく地区合併で、明幸からはかなり遠いの
ですが彦根市に、組み入れられていました。

 住所が分かったので、Google Mapsで探してみました。
 そこは将に、テレビ番組の、「チョコット一軒家」さながら、
人里離れた、山の又、その奥の山の中でした。
 今から1300年前、この山の中から、わざわざ壬申の乱に
参加しに行ったんだ!!

① 廃村になる前は、何軒ぐらいの集落だったんだろう?

② 此処から、大海人皇子が陣を張った、不破の関迄は
  どれくらいの距離があり、どれほどの時間が
  掛かるんだろう?

③ どんな武器を所持していたんだろう?

 そして、一番気になるのが、

④ 大海人皇子側か近江朝側か、どちらについたんだろう?

 ちなみに、戦いが始まる寸前の7月2日時点で、
大海人皇子側は不破の関付近に、
近江朝側は犬上川の畔で陣を張っていたのですが。
 方向的には、明幸集落から見て、近江朝の犬上川側へは
 西に行くことになり、
 不破の関は北に上ることになります。

 そしてやはり私は、余計なことが気になる性格です。

⑤ Googleナビの航空写真で見ると、田畑がほとんど
  見あたらない山奥で、どの様に生計を立てていたんだろう?

⑥ 大海人皇子が決起して大戦(オオイクサ)になる情報を
  どの様にして、 知ったんだろう?

⑦ 命を亡くす危険が大きい戦いに参加するのだから、
  その見返りを期待したと、想像するのですが 、
  貨幣経済が発展していない時代に、何を求めて?

 ちなみに、通貨の流通はこの「壬申の乱」から、
30年以上後で、最古の鋳造貨幣は、
708年(名を焼きいれる)に鋳造された「和同開珎」
と学校で習いましたね。

 ね! 面白いでしょ
 来週、歌声喫茶で、明幸集落 出身のオジサンに、
色々質問しなければ。

 壬申の乱の事をよく分かって貰うために、買っていた、
「壬申の乱を歩く」 倉本一宏 著 を参考に、
大海人皇子の行程表などをコピーし、準備万端、
翌週を楽しみにしました。



 次の週の木曜日、午後二時に話は進みます。

 先週に続いて木曜日、歌声喫茶「ぴーぷるず」に参加、
今週も入場の前に、のどを潤す、ジュースを近くの自販機で
買って行きました。

 午後二時になり、歌声喫茶が始まりました。
今日のリーダーは最初の日の、よく喋るオジサンでした。
 歌った曲は、最初の週の時と同じ趣向の曲で、
「このリーダーはロシア民謡が、好きなんやなー。」
と思いました。
そう言えば、「こだま」でも、ロシア民謡や、労働歌、
反戦歌が多かったな!と遠い記憶を辿っていました。
 美空ひばりの、「♪リンゴーの花びらは~♪」や、
三波春夫の、「♪皆の衆~、皆の衆~、四年経ったら♪」は
無かったなーと思い出せました。
「何か、思想的な絡みがあったのかなあー。」
 それはさて置き、この日も、沢山の曲を歌え、とても
気持ちよく過ごせました。

 合唱タイムが終わり、次のミーティングタイムの準備が
始まりました。
 テーブルや椅子の準備、買い出しに行って貰った、ビールや、
おつまみを取り分けられ、準備が終わり、十人ほどが、
テーブルに付きました。
 明幸集落のオジサンも私の隣に座られ、
「サー、あの話を始めなくては!」
と思ったのですが。

 会場の雰囲気が前回までと少し違うと、感じられ、すると
得意声で、円広志 お似いさんが、
「今日は、読売新聞の記者さんが、この歌声喫茶を
 記事にしたいと、若いきれいな女性が
 一緒に参加して貰っています。」

と女性記者を紹介されました。
 若い、いかにも頭の良さそうな女性が、会釈されました。
「ちなみに、来週の木曜日に、カメラマンが来られ、
 この「ピープルズ」を撮影していただけるそうです。」
「その記事が採用されれば、11月13日頃の、
 関西地区版に掲載されるらしいですよ。」

 参加者の、特に女性陣の顔が、急にコワバるのが
分かりました。

 皆さんはもうお気づきでしょうが、女性の機微が読めない
私は
「楽しみにしている顔ではなくて、
 なにコワバってるんやろ?」
「顔が写るのが怖いんかなー?」
「そんなん、指名手配されてたり、借金取りに
 追われていなければ、大丈夫やんか。」

 会場が、新聞記者の登場に騒いでいる間に、明幸の
オジサンと目が合い、
「先週お話ししていただいた、ご出身の集落の件
 調べてきたんですが、集落の名前は、滋賀県の、
 明るい幸せの、明幸集落でいいんですよね?」

 コピーしてきた滋賀県の彦根近郊で山岳地帯に、「明幸集落」
と書かれた地図を、差し出し見て貰いました。
「ハイ、明幸です。今はこの地区は彦根市に
 組み込まれちゃったんですがね。」

「検索したブログには、昭和の最後の頃には
 十軒ぐらいの集落だったと、書いてあったんですけれど。」

「廃村になる頃はそうだったかもしれませんね。」
「私が住んでいた頃からそれ以前は、
 二十軒以上はあったんですよ。」

 読売新聞の女性記者の対応に、気を使って居られる、
円広志 オ似イサンは横目で、
「大事なときに何の話をしているんや?」
と言う顔をして居られました。

「先週は壬申の乱の時に、どちらについたか
 分からないと仰ってましたね。」

「村の物知りのお年寄りに聞いている話なんですがね。」
「どちらについた可能性が高いですかね?」

「大海人皇子側が吉野を出発した6月24日から
 不破の関に陣を構えた6月28日までに、大海人皇子側に
 参加できた可能性は少ないと思うんですよね。」
「今と違って、携帯もテレビニュースも無い時代ですから、
 決起したことを知ったのは、
 不破の関に陣が貼られた後と思うんですよね。」
「よし、この乱に近隣の集落と一緒に参加して、
 一旗揚げようとしたのは、大海人皇子側が不破の関から
 進行を開始した、7月2日以降と想定するのが、
 戦いの準備も必要ですから、無理がないと思うんですが。」

「どんな準備だったんでしょうね?」
「1300年前の日本は、そんなに他の地区と
 争いは無かったと想像しますよね。」
「もちろん、鉄砲などの火器はまだ開発されいない
 時代ですから、刀 弓 槍と簡単な防具でしょうね。」
「地元の参加兵に期待されたのは、
 食料品ジャー無かったのでしょうか?」
「ところで、明幸では田畑で農業はされていたんですよね。」

 Googleナビの航空写真で、田畑が見えなかったので
聞いてみました。
「いいえ、農業は在りませんでした。
 林業と、狩猟が主でした。」

「狩猟で使う、弓矢が戦いに期待されたかもしれませんね?」
「大海人皇子側は関ヶ原の不破の関、
 近江朝側は彦根の犬上川の畔に、それぞれ陣を
 張っていましたから、明幸集落からは、
 近江朝側についたのなら、西に行き、
 大海人皇子側についたのなら、北上しなければ
 成りませんよね。」

「犬上川方面へは、広い道がありますし、
 不破の関へは、狭いのですが、人が通れるほどの
 道はありますね。」

「ナビでは、それぞれ徒歩で、
 6時間ぐらいと出ていたんですが?」

「イヤーその時間では難しいでしょう。
 特に北上する方は、道が険しいですから。
 まあ、朝早く出発すれば、夕方までには
 到着できたでしょうね。」

「そうすると、距離的にも方向的にも、
 どちらの陣営にもつけたと言うことですね。」
「どちらにつくかという事は、当然当時の滋賀地区では
 大きな事だったようですね。
 不破の関の西側に流れる、それほど大きくはない、
 藤古川を境にして、東側は大海人皇子側に付き、
 西側は近江朝側に付いたらしいのですが、
 戦いが終わり、1300年以上も過ぎた最近まで、
 両者の仲が悪く、結婚なんてもってのほか、
 という地区のシキタリだったらしいのですよね。」
「明幸集落から、北上して、不破の関に行くときに、
 両側から山がせっまている地形から、その地区の
 息長族の地盤を通らなければならないのですが、
 息長族との、関係はどうだったんでしょうね?」
「息長族は当初、旗色を鮮明にしていなかったんですが、
 直前に大海人皇子側につき、この戦いの勝敗に
 大きく影響したと云われていますね。」

「えっ、そうか、不破の関の途中には
 息長族の地盤があったんですよね。
 昔から、うちの明幸地区は、息長族とは仲が悪かったと、
 集落のお爺ちゃんから、よく聞かされていました。」

 話を聞いていた、歴史好きの奥さんが
(黙っていられない歴女?)。
「それやったら、オジサンの出身の集落は、
 近江朝側の負けた方についたんやろか?」
「後の仕置きが大変やったんちゃうんかなー?」
「それがあったから、息長族と仲が悪く成ったんとちゃう?」

 私が言葉にするのを躊躇っていたことを、軽く言って貰え、
(よかった。)
「何か、お仕置きが、あったですかねー?」
「いいえ、日本書紀には、負けた近江朝側の将軍クラスは、
 処刑や流罪などを、下したようですが、参戦した兵は、
 罪を免じられお咎め無しとなったと、書かれていますね。」
「但し、もちろん論功報酬は一切無かったでしょうね。
 大海人皇子側に付いた、息長族は多分あったでしょうね。」

 お開きになり、円広志 似さんが
「来週、カメラマンが来られますから、
 皆さんも来て下さいよ。」

 この時は必ず行こうと思っていたのですが、
残念!アルバイトが!!



 平成30年11月13日(火曜日)読売新聞 夕刊 関西版に
歌声喫茶「ピープルズ」が紹介されました。



「あのー、このブログって、日本史の大化の改新から、
 壬申の乱を、主体にされているんですよね?」

「あっ、ご心配なく、私もこのブログで、歌声喫茶を語るとは
 思ていませんでした。」
「でももうすぐ、大化の改新の最終章「壬申の乱」が
 出てくるんですよ!!」



 歌声喫茶「ピープルズ」でまさか、大化の改新 壬申の乱の、
こんな興味を引く話が出来るとは思ってもいませんでした。
私は早速、平成最後の正月明けに、2泊3日の予定で、
雪の多い滋賀県ですから、私の愛車ホンダ LIFEでの通行が
少し心配なのですが、この話に出てきた関係地区の散策を
計画しました。
 正月明けに、新しいブログを立ち上げ予定です。
お楽しみに。

 少し気になっている、大津インター、草津インター、
草津インターを降りた、高速沿いの道も場所がはっきり
分からないので、少し心配なのですが、同じ滋賀県です
ので、探索に行ってきます。

「えっ! 何の話って。」
「私の別のページのブログを参照下されれば、キット。」

「それにもう一つ、京都市城南宮バス停を付け加えれば、
 お分かりになる方も多いでしょ。」
「ところで、NHKスペシャル取材班の記事に、
 栗東町(現栗東市)??の県道とありました。」

(* 混雑するとまずいので、??で表記します。)
 警察ドラマでよくある、あの光景が。

 不審な車が、高速道路沿いの、暗い県道にライトを消して
止まっている。
 パトカーが不審なその車の後ろに止め、警官が降りて、
職務質問をしようと近づくと、突然走り出し
逃げる去る不審車両。
 なぜ逃げるのか分からず、慌てて取り敢えず、パトカーに
乗り込み、追いかける滋賀県警のパトカー。
「さあ、どうなるどうなった?」

「結果は分かっているんだけれど、見に行きたい!」




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 すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。




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