難波宮って? 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

日本史の謎 北九州探訪2日目 父娘 LINE会話

2014年04月17日 | 旅行

 平成26年4月17日

 吉野ヶ里遺跡探訪の次の日
娘とのLINE会話です。


「今日は、メインの大宰府周辺探訪、白村江の惨敗の後??」
「大宰府史料館で、個人でも案内して頂ける、ボランティアさんに依頼でき、とても楽しみです。」


「楽しそうでいいね!」


「水城の想像を越えた規模、作りに驚愕。本当に天智天皇は唐の襲来を恐れていたのが解った。」

高さ13mを超え、幅80mの土手が遥か 1.2km 続く、途方もない城壁

水城 こんもりとした堤防がズット続く感じ(1)

水城 堤防の続き(2)

水城の断面構造 案内板



[同行して頂いた案内人は 75才ベテランさん、現役時代に大手乳業会社の営業をやっておられ、父さんは機会畑だけど営業だったから、話が勝手に弾みとても楽しい。」


案内人さん 

「水城は向かって左が大宰府、右が博多湾。博多方面から敵が襲来することを想定し、完成当時高さ15m以上の土手を築き、その手前を、深さ5m以上の堀にして、敵の侵入を防ぐ構造です。主に馬による急襲を防ぐのが目的のようです。」
「水城の内側に池を作り、その水を木枠のトンネルで、手前の堀に供給し水位を保つ構造です。」「ちなみに、トンネルの木枠が立派だった為に、後世、掘り起こして盗られ、お寺の門の表札に使われた実績が明らかになっているほどです。」 「今日までも残る水城の作り構造は、砂小石を引き、土を30~50cm位積み上げ、また砂小石を引き、土を30~50cm積むことを繰り返す方法で、10m毎に、作っていったようです。」「佐賀大学の教授が、水城を造るのに、近郊の住民8千人で、1年かかったと発表されています。」


「案内人さんは、トラックも、シャベルカーのない時代に、そんな人数や年数でできるはずはないと、とても、疑問を抱いていました。但し、案内人になるには、大宰府市の検定試験があり、そのなかで、公式に決まっている事に、案内人の私的な意見を案内中に、のべてはいけないらしく、小声で教えていただきました。」


「いい人に当たったみたいで良かったね!」

高台から水城を望む



「遠くに、九州高速道(大宰府↔鳥栖)が突ききっているのが見える。父さんも現役時代、九州地区を担当していたので、自動車で何回も通っていたんだけれど、水城の存在すら知らなかった。」

「それで、一番気になっていることを聞いてみたんだよね。」

「この水城で、唐の襲来を防げたでしょうか?」

案内人さん
「白村江の後直ぐに、唐から使節団が何回か、大宰府に来て、大宰府の大きさと、この水城の堅牢さを目にしたからこそ、唐は倭への侵攻を行わなかったと、思っています。」


「なるほど、この規模の大きさを直に目の辺りにして、父さんもそうかも知れないと、思ってしまいました。」

案内人さん
「当時、水城を造った天智天皇や主導者達が、思いもしなかった、唐ではなく蒙古が、それから500年後に襲来し、辛うじて大宰府を守れたのは、この水城が在ったおかげでした。実際に役に立ったんですよ。その意義と堅牢さが証明されたといえるでしょう。」
「ただ歴史の必然として、長い年月により、水城も大宰府も忘れ去られ、木を植えられ薪の取り場になり、そのせいで、高さが半分ほどになってしまったり、木の土管の大きな板はお寺の表札に、大宰府政庁社 館の礎石は掘り起こされて、庭石や石垣になっていった訳です。この石がそうじゃないかと、今の子孫が、返しに来ているんですよ。」「これがそうです。」

(古い基礎石が、並んだ中に何個かが、妙に綺麗だった。)


「 案内人さんとは、10時から午後の3時までのお約束で、昼食を一緒にしていただき、大宰府にまつわる面白いお話をしていただきいました。」
「大宰府に左遷された、菅原の道真が、左遷どころか、まるで罪人が島流しになってきたかのような、酷い仕打ちにあった事。牢獄のような所に、閉じ込められていたこと、ろくな食事も貰えなかったこと(天神さんに馴染んでいる関西人の父さんには想像もできないことでした。)」
「唐に仏教の修得に行った、空海と最澄が行く前と、帰ってからそれぞれ、大宰府に滞在したときの、待遇の大きな違い(空海を冷遇)があったこと等、とても、面白いお話でした。」
「お昼からは、大宰府の後ろにそびえる、山にある、大野城の案内をしていただきいました。」

 

城塁から大宰府を見下ろす

城塁の構造 土塁と石垣構造の説明 案内板

城塁の上部が道になりづうっと連なっている

城塁が崩れ、小石 土 小石 土の造られた構造がよく分かる

城門から、大宰府まで通じる通行道(約2時間掛かるそうです)


「大野城の規模、周到な作りに驚愕。」「大宰府が攻められた時の逃げ場所として大宰府の後ろの山を城にしたんですよね?」

案内人さん
「かなり周到に作られ、山の峰を一周できるように道を作り城塁にして、下からは攻撃しにくいような構造にされています。」「峰の中に、田畑を作り、長期戦にも対応できる構造になっています。」「以前はこの中に、集落があり、小学生は、歩いて2時間半掛かって、通学していたそうです。」


「大きさは、大阪池田市の五月山の倍以上、外周を城塁にした感じで、その中は、窪んでいて、田んぼも、農家もある。凄い!」 「大宰府から入口まで、車で30分ほど掛かりました。歩いて3時間から、5時間(コースによって、年齢によって)掛かるそうだよ。」


「五月山はよく知っているから、規模の大きさが解るような気がする。」

 案内人さんとの別れ際に。

案内人さん
「昨日は、どちらに?」


「一度行きたかった、吉野ヶ里遺跡に行ってきました。年配の案内の方に、丁寧に教えていただき、

「ここが、耶馬台国だ」

と言われ、思わず納得してしまいました。ただ、来られていた人は、とても、少なかったですね。」

案内人さん
「 吉野ヶ里ですか、ブームが過ぎましたから、これからの運用が難しいでしょうね。」「ここ大宰府も、なかなか、来られる方が増えず苦戦しています。なにか、テレビドラマなどになればいいんだけれど。」


「あっ、確か女流漫画家の、里中満智子さんの最近の漫画で、天智 天武天皇と、額田のおおきみのことを、モデルに、白村江の戦の事を書いてましたよ。」


案内人さん 
「それは楽しみですね♪ 若い女の子に聞いてみます。明日は、どちらへ?」


「明日は、白村江の戦いの陣頭指揮のため、北九州に出陣してきた、斉明天皇の行幸宮 朝倉橘広庭宮に行ってみたいと思っています。」


案内人さん(少しニヤツキながら)
「朝倉の橘広庭宮跡の場所は、発掘調査されたんですが、何も出なかったです。」


「えっ!????」

案内人さん
「斉明天皇の行幸宮は、ここ この下、大宰府の下に眠っている筈です。」
かなりの、自信を持って言われた。


「わっ! 楽しそう (^o^)/ 」

 

<参考>
大宰府展示館 公益財団法人 古都大宰府保存協会;  太宰府市観世音寺4ー6ー1  TEL 092-922-7811 大宰府内政庁社跡にあり、詳しくこの地区のことが説明展示されています。ボランティアの案内人を斡旋していただきました。ありがとうございました。 住所、電話番号は 大宰府市の案内WEBで確認いただけます。予め、電話で確認すれば、丁寧に対応していただけます。調べたいこと、人数、自分の年齢などを話しておけば、一番適当なコース、案内人を選んでいただけます。費用は、ボランティアさんの当日の往復交通費と して千円(平成26年4月17日 当日)、1日コースなら+昼食代実費だけです。私は気持ちで、持参した大阪のお菓子を手渡し、喜んでいただけました。


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