「難波宮って?」 古代史のんびり散歩

時間だけは、タップリある定年団塊世代が、ズート気になっていた
古代日本史を素人の感性でゆっくり探訪します。

「白村江の戦い」 敗戦後 その2 太平洋戦争 終戦後の考察<原稿 迷走作成中>

2017年06月21日 | 歴史
「白村江の戦い」敗戦後
   その2
 「太平洋戦争 終戦後のドサクサ」との
   類似性を考察する。

 このブログは、1300年前に、あの世界最強の大国 唐と
朝鮮半島で、盟友、百済の存亡をかけた戦をし、百済の、白村江で、
今の世代の我々から見れば、当然の結果と思える通りに、
唐と新羅の連合軍に、大敗してしまい、生き残った兵は、百済の、
敗残者を連れて、命カラガラ倭国へ逃げ帰りました。
逃げ帰った後、その敗戦後に、何が起こり、日本がどうなってしまったのかを、
探り、想像することを目標にしています。

 「え? それで何故、これから、太平洋戦争の終戦後を、述べよう
としているの?」
 

 当然の、疑問だと思います。
特に、戦後のバブル世代以降の方には、あの、太平洋戦争 終戦後の、
大混乱、大屈辱を、身を持って、経験をされていないのですから、
理解して頂くのは、とても、難しいと思います。
でも、知って欲しいのです。日本人の身に起こった惨めで辛い
昭和20年8月15日 からの不幸を。
戦争に負けるということの惨めさを。
そして、それを知った上で、1300年前の、「白村江の戦い」敗戦後
に戻り、考察することで、きっと、日本書紀に記載されていない、当時の
日本人の心が、例えようのない、不幸が見えてくると思うのです。

 このブログの筆者(ワタクシ)は、終戦のドサクサに生まれた、
いわゆるベビーブームの段階世代です。
当時幼なかった私にも、辛い嫌な思い出は、沢山あります。
そして、私の母親や、近所のオッチャン、オバチャンから聞いていた、
他の人に言えなかった、辛い話が沢山沢山あります。
それが全て、戦争に負けるとこんな目に遭うんだと分かる話です。
今回、このブログで、やっとその一端を話せる機会が来たと思っています。
 別にイキガッテいる訳ではなく、次の世代の人に、これからの日本の為に
是非とも、知っていて欲しい話なのです。
この、ブログを制作中に、大正12年 生まれの私の母が、平成29年3月18日
その94歳の壮絶な人生に、別れを告げました。
彼女は将に、終戦後のドサクサを生き、苦しみ這いずり回った、
まさに終戦時の犠牲者でした。
その母が亡くなり、母から聞いていた終戦時の話を組み入れてブログを
綴っていきたいと思って居ます。

 このブログを御覧頂いておられる、戦中派、戦前派の皆様、
貴方が経験された、その辛い思い出の数々、貴重な経験を少しも知らずに
過ごしている世代に、少しでも知っていて欲しくはありませんか?
若い人に伝えるには、もう余り時間がありません。
貴方は貴方しかご存じない、その貴重な辛い話を、今の世代の若者に
どう伝えればいいか、戸惑っておられるのではありませんか?
「こんな事は大したことじゃないし、ありふれた事だし。」
そう思って、人に伝え残されたことはありませんか?
先輩方、その思いの一つ一つを、このブログのコメントに残して下さい。
若い世代が一人でも、少しでも、それを見て、心に留めてくれれば、
それだけでも、いいじゃー無いですか。
それは、この国の将来に取って、きっと大切なことだと思うのです。
貴方の貴重なコメントを期待しています。

 まず年表を作ってみました。
懐かしい事柄が幾つも、でてきました。
そして、忘れて居た大事な事柄も。


 太平洋戦争 終戦後

昭和20年
  8月15日 終戦
        正午 天皇陛下の玉音放送
        「終戦の詔勅」朗読

  ノイズが多く聞き難かった事もあり、意味が理解出来ない人が多かったと
  多くの先輩から聞いています。
  玉音放送の後に、アナウンサーが内容を、何度も繰り返し。
  その意味についての解説もあり、ようやく、放送の内容の意味を
  理解した人も多かったようです。
   私の母も、嫁ぎ先の、朝鮮の 京城で広場に召集されて聞いたらしいのです。
  でもその意味が、ノイズだらけで、よく分からず、次にどうしていいかを
  広場に来ていた人は、戸惑っていたらしいのです。
  すぐ後で、アナウンサーが何度も、降伏する旨を、連合国に連絡したと聞かされ、
  広場の人達が、最初は小さな声で、「戦争が終わったんだ。」
  だんだん大きな声になってきて。「負けたんだ。」と聞こえだし。
  だんだんと、皆その場を離れていった、そうです。

  8月28日 連合国 先遣隊 厚木に到着。

  8月28日 特殊慰安施設協会(RAA) 発足
        資金調達などに、池田勇人らが尽力。
        総計 5万人以上の婦女子
        一般新聞に、求人広告 内容を知らず応募した婦女子多し。

   特殊慰安施設協会(以後 RPP)がどういった組織で、
  何のために造られたかを、ご存じの方は、最早少ないのではないでしょうか。
  特に、バブル世代以降の若い方には、皆目見当もつかない、
  話だと思います。
  昭和22年生まれの筆者も、その記憶はもちろん、実体験もありません。
  近所のオッチャン、オバチャン、私の母親から聞いた話し程度です。
  でも、私が幼いときに、その話を近所のオバチャンから初めて聞かされた時、
  途中から泣き出したと、そのオバチャンから、聞かされていました。
   その話の内容は、「… … … … 。」 <(`^´)>
  すみません、やはり私には、その話を書く勇気はありません。
  インターネットで、「特殊慰安施設協会」を、
  是非 検索して下さい。
   戦争に負けると言う事は、どういう悲惨と屈辱が待ち受けているかを、
  是非 知って下さい。
  「特殊慰安施設協会」についての、貴重な思い出をお持ちの方、
  是非 コメント下さい。後世に教訓として残しましょうよ! m(_ _)m
  「特殊慰安施設協会」の設立当事者の方は、もう皆さん、口を閉ざして、
  お墓の中に持って行かれたのでしょうか。
  でもその話を、聞かれた方がおられましたなら、その話を是非コメントで
  お教え下さい。
  私は、その設立の経過を関連書を読み、関係設立者が、今自分がやらねば
  と言う苦渋と決断を読み取れ、決して侮蔑する気持ちは毛頭もありません。
  勿論、賛美することは、私が、近所のオバチャン、オッチャンから
  聞いた話の、あまりの重さから、到底出来ないのです。
  でも、無謀な、米兵ヤンキーから、負けた我が国の婦女子、子供、幼児の
  防波堤に成るシステムを造って下さった、その努力と信念を、
  真摯に評価しています。
        

  8月30日 マッカーサー到着。

   パイプをくわえて、爆撃機から降り立った時の、日本人を
  バカにした見下すような目つきは、とても印象的ですね。
  でも後から、書かれた、回想録では、爆撃機の機中で、自分を
  狙って、襲撃があるかもしれないと、聞かされて、周囲を気にしながら、
  ヒヤヒヤして歩いていたらしいです。だから妙にキョロキョロと
  していたんだ。(*´д`*)
  「何や只の恐がりやんか?」

  9月 2日 米船 ミズリー号船上にて、降伏文書調印。

  9月 5日 「東京ローズ」逮捕

  9月15日 「日米会話手帳」科学教材社より刊行
          360万部のベストセラー

   戦争に負けて、米兵ヤンキーが遣ってきて、必要なものは?
  庶民が切実に考えたのは、「あっ、俺英語知らん!」
  「そもそも敵国語やゆうて、学校で習って無いがな。」
  「「今日は。」て、英語でどう言うんや?」
  この本が発行されたことを聞きつけて、焼け残った、本屋に、
  頼み込んで、ヤット手に入れたと、近所のお兄ちゃんに聞きました。

  9月27日 マッカーサーと昭和天皇の会談
        以後10回会談

 10月    戦後初の宝くじ発売 一等10万円

 10月 2日 GHQ 占領国最高機関 大手町 第一生命ビルに設置

   GHQ廃止後に発表された、データーで、7年間の占領期間中、
  米兵に殺害された日本人が 2536人、傷害を負わされた日本人は
  3012人としている。
  漫画家の手塚治虫も街角で殴り倒された。
  また米兵に日本人女性が襲われる事件が 2万件といわれ、
  強姦の際に、日本の警察官が事実上の見張り役になる場合もあった。
                        (ウキペディアより)

   GHQ 言論統制「プレスコード」実施
  「掲載禁止、削除理由の類型」―占領軍批判、検閲への言及、
  本国主義的宣伝、封建思想の賛美など30項目もあった。
  その中の主な物は
  米兵の(日本婦女子)暴行事件
  米兵のプライベートに関して、面白くない印象を与える記事
  進駐軍将校に対して日本人が怨恨、不満を起こす恐れのある記事
  食糧事情の窮迫を誇大に表現した記事
  連合軍の政策を非難する記事
  国内における各種の動きにマッカーサー司令部が介在しているように
   印象づける記事
  ―などであった
                        (ウキペディアより)

   つまり、米国に取って都合の悪いことは、決して報道してはいけない。
  GHQの存在していた期間の上記内容の報道は、日本人には、
  一切知らされていなかった。そして、GHQ廃止後も、その記録が公に
  されることは無かった。

   それで、戦中 戦前派が、GHQ統治時代、米兵ヤンキーに
  むごいめに会っていたはずなのに、GHQ廃止後も、その嫌な記憶を
  元にした、ニュース映画、小説や、映画などは、作られていないんだ。

   映画界には。
  終戦後の焼け野原や進駐軍による支配を示す情景を撮影することが
  禁じられたため、長い間街頭ロケすらできない状態に置かれた。

   そのせいで、小さいとき大阪に住んでいた、私は、
  映画館に、よく親に連れられて、映画を見たのですが、何故か、
  あの都心の焼け野原の光景が、スクリーンには出なかったんだ。
  大阪の代表的な場所は、国鉄(JR)の大阪駅から、天王寺駅までの、
  焼け野が原、特に、桜宮駅、京橋駅から鶴橋駅までに見える、
  大阪城横の、砲兵工廠跡の、辺り一面壮絶なガレキの山ですよね。
  幼心に、妙な違和感が有ったのですが。
  その壮絶な光景は、大人の人の話に出て来ず、新聞や、雑誌にも、
  映画館で観るニュースにも出て来ず、無視された風景になっているの
  ですから。
  GHQのせいだったんですね!

  GHQがその壮絶な光景を封印していたんだ。!!

   該当する項目が有れば、そちらで話を広げてみようと思ったのですが、
  年表に適当な項目が見当たりませんので、ここで、砲兵工廠跡の話を少し
  広げてみようと思います。
   幼いときの私は、国鉄の城東線(現 JR大阪環状線)に大人に
  連れられて乗ることが多く、この焼け野原を見て、
  「ここは何でこんな事になっているの ?」と
  連れの大人に聞いてみたのですが、大人はみんな
  少し暗い顔をし、「戦争で空襲にあったからや。」
  「ここには、大砲なんかの武器を造る工場やったから、
  米軍に目着けられたんや。」と、
  「そして、一番酷い空襲は、8月14日やった。
  そや、終戦の日の前の日やで。」
  「でも、日本がもうすぐ手を挙げるのは、解っていたはずなのに、
  何でか、その前の日に、大空襲しくさって、そのせいで、
  沢山亡くなったんやで!」 と ( ̄ー ̄)
  教えてくれるぐらいで、あまり焼け跡の話を続けてはくれませんでした。
   戦争に負けるということは、本当に、本当に、辛いことですね。
  今、目の前に見えていることも、見えて居ないことにしなければ
  ならないんだ!!
  子供にすら、本当のことが伝えられないのだ。
   開高健が1959年(昭和34年)発表した小説『日本三文オペラ』を
  のちに、私は、高校時代にこの本を見つけてきて、読み、漸く、
  私の疑問の一部は解けた様に思えました。
  その中に出て来た、当時のアパッチ族、焼け跡の鉄くずから、
  お金になりそうな物を、夜中に拾い集め、スクラップ業者に売り、
  生活をしている人達の話を読み。
  「そうか、近所に住んでいた、ニイチャン、オッチャンが、
  こそこそ、相談していたのは、このことやったんや!」
  その後、しばらくして、よく近所の駄菓子やで、飴玉を
  奢ってくれたのを、思い出しました。
  砲兵工廠跡ではなかったかもしれませんが、鉄くず拾いに、
  連れて行ってもらえた記憶が微かにあるのですが。
  キヨシお兄ちゃん、飴玉ありがとう御座いました。
  <この項目推敲中 ご期待下さい。> 
   東京ではどうでしたか、貴方の町では?  
   この話を調べながら、気がついたのですが、私は、
  戦災の廃墟後の光景を、私の住んでいた、大阪の町しか
  記憶にないのです。
  そしてその理由が、GHQによる報道管制の為で、
  映像としての記録を、消し去られていたためと、初めて知りました。
  だから、私は、空襲がもっと多く激しかった、東京の惨状や、
  広島 長崎の惨状の光景を思い出すことが、出来ないのです。
   各地区のそれぞれの、惨状が、映像として、伝えられず、
  残されされていない為です。
  実際にその光景を目にした、地元の人しか解らないのです。
  日本各地の、その惨状を映像記録として、共用していないから
  異なった地域の人同士が、戦後の悲惨な話をすると、共通する
  後景が違うからなんですね。
  私は、同世代の方と、戦後の話をする時に何故か
  話が上滑りをするのを不思議に思っていたのですが、
  GHQの情報統制のせいだったのですね。
  そのせいで、終戦後の悲惨な惨状が日本人に共有されて
  いなかったんですね。

   このブログを書いていて、
  「そういえば、関西に住んでいるのに、大阪城公園には、暫く行っていないな。」
  「砲兵工廠の後はどうなっているか、見に行ってみるか!」
   久しぶりに、難波の宮跡も見て、その側の、大阪歴史博物館も見学することに
  しました。
   地下鉄 谷町線で、谷町4丁目で降り、NHK大阪放送局(JOBK)の隣にある、
  大阪歴史博物館へ、(難波の宮跡、大阪歴史博物館につきましては、別ブログで)
  只、近代大阪展示場では、懐かしい風景に出会え、母が生きている間に、
  連れてきてやれば良かったと、強く後悔を感じました。
  キット、懐かしさで、涙を流し、立ち去ろうとしなかったかもしれません。
  大阪に縁がおありになった、特に戦前の大阪に御縁のあった、
  親御さんお持ちの皆さん、是非お連れになって下さい。キット喜ばれると
  思います。強く強くお勧めします。
   難波の宮跡を出て、最近少なくなった、サラリーマン街の喫茶店で、
  昼のサービス ランチを食べ、アイスコーヒではなく、冷コーを普通に
  注文できて、ヒト安心して。
  私の現役時代は、よく次の仕事の段取りを考えるために(サボルために)、
  サラリーマン街の喫茶店を利用したのですが、需要が少なくなったためか、
  店の数が、本当に少なくなってしまいました。
  この日も、お得意先(日本紡績検査協会)が近くに在るのでよく通っていた、
  喫茶店に久しぶりに、行こうとしたのですが、
  看板だけを残して、店が無くなっていました。
  「さみしい!」 ((((゜д゜;))))
    閑話休題!
   大阪城公園へ。
   天守閣は今回はパスし、グーグルマップで調べながら、外堀沿いを、
  玉造口から城内へ入り。コースに観光バスの駐車場があり、
  そこから降りてくる団体客の大半が、外国語を大きな声でシャベル
  観光客に、揉みくちゃにされながら、「これなんだ?」という顔を
  かき分け、蓮如上人碑をお参りし、内堀沿いを大阪城 青屋門へ、
  そこから外濠を越え右に曲がっていくと砲兵工廠跡碑にたどり着けました。
  砲兵工廠跡の敷地は、昭和50年代の後半に、取り壊されて、
  大阪城ホールや、体躯グランドに整備されており、
  戦後長く放置されていた、太平洋戦争の残骸跡は、夢幻の如く消滅壊滅して
  いました。

 砲兵工廠跡記念碑


  探すのが難しいくらい、ヒッソリと作られていました。
  興味がある人は、誰もいないようで、悲しい。

 砲兵工廠 化学分析所跡

  何の建物か、何も案内板らしい物は無いようでした。
  今後どうするか、決まっているのでしょうか。?
    平成29年6月 推敲 校閲中

   子供達の文化媒体であった紙芝居では、「黄金バット」の「髑髏怪人」
  というキャラクターを、「スーパーマン」のような「たくましい
  金髪碧眼の白人キャラクター」に一時期変更させている。
  しかしこれは全く支持されることなく無視された。(ウキペディアより)
  幼いときに、近所を回っていた紙芝居で、
  見物代を兼ねていた、スルメをスクナイ小遣いで買って、
  「黄金バット」を観ていた記憶が甦りました。
  確かに前に見た時は、黄金バットはドクロの顔の髑髏怪人だったのに
  急に、背の高い白人の主人公に、変わっていて、
  「オッチャン、黄金バットが、ドクロから白人に変わったん?」と聞いたら。
  「何でやろな?」と話を逸らしていました。
  暫くして、遣ってきたとき、黄金バットは、白人から、ドクロ怪人に
  戻っていました。
  オッチャンが、「やっぱりドクロ怪人の方がええやろ。」
  変なところからゴチャを入れられたそうやと、話していました。
  紙芝居屋のオッチャンありがとう!

  そして心底驚きました、GHQが紙芝居まで、検閲していたとは!!
  皆さんはご存じでしたか?

 10月10日 戦後映画の第1号 「そよかぜ」公開
        主演 並木路子 霧島昇 挿入歌「リンゴの歌」

  ♪ 赤いリンゴに唇よせて だまってみている青い空
  ♪ りんごはなんにもいわないないけれど
  ♪ リンゴの気持ちはよくわかる リンゴ可愛いや可愛いやリンゴ

  この歌に、励まされ、慰められて、失っていた希望を、見いだし思い出せた
  日本人は、きっと多かったと思います。

  「リンゴが物言うか! リンゴが物言うたら、
  果物屋のおっさんが、うるそうてかなわんやないか。」
  「責任者出て来い!」
  「責任者さんが出て来はったら、どうすんの?」
  「あやまったら、しまいや。」
  (人生航路 歌謡漫才)

  私は、幼いとき、この漫才の放送を、家の、真空管ラジオで、
  初めて聞いたとき、あまりのおかしさに、笑いが止まらなくなり、
  お腹を抱えて、笑い転げ、お腹が痛くなり、それでも止まらず、
  涙を流しながら、笑い続けたのを、懐かしく思い出します。
  その時以来、私の人生で、それ以上に笑った記憶はありません。
  もしかしたら、人見知りで、気の小さい私が、成人後、定年まで、
  産業構造変革の為(重厚長大⇒短小軽薄)、一度会社を変わりましたが、
  43年間、営業職を続けられたのは、「あやまったら、しまいや。」
  言葉が、私の脳裏に、焼き付けられていたからかもしれません。
  余談ですが、営業職や、対人関係の職種に就いておられる方、
  この言葉を、ゼヒ参考にして下さい。
  私がまだ、経験不足で、色々なトラブルに、苦しんでいるとき、
  先輩から、「そんなんあやまったら、しまいや。あやまるのに、頭を下げるのに
  お金は要らんから、楽なもんや!」
  「もちろん、あやまらなくても良いように真面目に全力で、取り込んでいれば、
  お客様に此方の誠意は、分かって貰えるぞ。」

  と言ってもらい、それからの営業が随分、心軽く進められたと思います。

   「リンゴの歌」が、打ちのめされた当時の日本人の心に入り込み、
  心の癒しになったかは、母から聞いた話ですが、買い出しに、列車に乗って、
  田舎に行くとき、そこに乗っていた、女学生の一団が、「リンゴの歌」を
  歌いだし、皆もつられて歌い出し、とても気持ちが楽になったことを
  話してくれました。
  また近所のオッチャンも、
  「復員してきて、乗った満員の列車で、まだ知らなかった、「リンゴの歌」を
  女学生の一団が、歌いだし、こんな歌が、日本で流行っているんだと
  知らされ、不安で、落ち込んでいた暗い気分が一掃され、
  とても勇気が湧いてきたと、そして、当時落ち込んでいた皆の心を、
  新しい未来を切り開くんだという、前向きな気持ちに、持って行ってくれた
  主役は、彼女達 女学生だった。」

  と話してくれました。
  当時の日本に、希望の光を灯してくれた女学生さん、有り難う、
  今どうしていますか? (^-^)v

   戦後期、若い元気な女学生に、同じ様に、励まされ、元気を貰えたという話を
  他のオッチャン、オバチャンからも聞いています。
  皆さんはどうですか。?

 11月 2日 日本社会党結成

 11月 9日 日本自由党結成

 12月15日 GHQ国家と神道の分離を指令。

昭和21年
  1月 1日 昭和天皇 「人間宣言」

  1月 4日 公職追放令 GHQより発表

  2月 1日 第1次農地改革実施
   GHQ の指令によって行われた日本農業の改革で、
  不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地の保有限度
  (都府県で平均一町歩,北海道で四町歩)を超える部分を
  国家が買収し,小作農に売り渡し自作農化した。
   戦前の、農村部における貧富の差は、農作者の作地が
  農作者自身の物か、小作農者で、他の地主の物かで、大きく
  左右していた。
  この事が、日本における、貧富の差の元凶と考えた、GHQ の
  対応策として、全国的に実施された。
  その時設定された、農地価格が、剰りに安く、小作農者(小作人)を
  喜ばした。
  逆に言えば、農地地主(庄屋など)を、路頭に迷わした。
   中学時代、歴史の時間に、先生からこの事を教わり、
  「GHQ が日本でやってくれた数少ない良いことやった。」と
  仰っておられました。
   このブログを作るため、農地改革を改めて、調べてみたのですが、
  良かったことは、農村部における貧富の差を縮められたことが、
  やはり一番だったのですが、反面、農地の細分化を進めてしまい、
  農業力を弱め、他の農業国と価格競争力が対抗できないほど、弱める
  元凶になっているという事らしいです。
  この農地改革を調べるうち、私は、思いもしなかったことを知りました。
  それは

   次のブログで教えられました。
  「仏教の教えと瞑想~原始仏教の世界」http://www.bukkyouoshie.com/
  より抜粋
   GHQによる農地改革が導入される前は、日本の仏教寺院は
  「寺社領(じしゃりょう)」という土地を保有していました。
  寺社領とは、寺院が自ら開墾した土地や、寄進を受けた土地です。
  これらの土地に小作人が住まわれて、その代わりに農作物を作り、
  一部を寺院に提供することをしていました。
  小作人は、生活できる「家屋」と「仕事」があり、
  僧侶は「純粋な精神生活」をしながら、食べるための「食料」が
  最低限、得られていました。
  いわば、寺院と小作人による共存共栄のシステムです。

  このシステムが、戦前までの各地区の精神的なより所としての
  お寺さんが形成されていたと思われるのですが。
  このシステムが GHQ に壊されてしまい、通貨経済システムに
  取り込まれてしまい。
  食べていくために、ビジネスをせざるを得なったということです。
  葬式(戒名)、祈祷、観光、あるいは不動産業といったビジネスは、
  戦後、盛んになった仏教のビジネスです。
  戦前はそれほどメインにはなり得ないものでした。
  しかし仏教がビジネス化することで、本来手放すはずの
  「欲望」「煩悩」を手放すことができなくなります。

   そうか! それで今の、お寺さんの姿があるんだ!
  心のより所を、お寺さんに求められなくなり、新興宗教に
  走ってしまう人が多くなったんだ。
  ジャーどうすれば?? お寺さんの悩みは大きいようですね。

   どうして、この農地改革にコメントしているかといいますと。
   実は、農地の所有方法を定めた、律令制度が制定されたのが、
  このブログのメインテーマの「白村江の戦い」の後、日本の
  政治体制を整えるために、出された、飛鳥淨御原令、
  大宝律令(701年制定)です。
  歴史の時間に習いましたよね。
  そして農耕地を増やすために、三世一身法をヘて、
  墾田永年私財法(742年)が
  制定され、開墾された農地は、開墾した者の物と決められ
  たんですよね。それを、GHQ が打ち壊したわけです。
   663年唐に、白村江で大敗し、何とか国をまとめるために、
  制定した制度を1300年後、米国に破れて、潰されてしまった訳です。
  戦後史が書かれた本を、読むと必ず、出てくるフレーズがあります。
  「初めて、他国に破れて。」
  1300年前、唐に破れた、白村江の戦いはどうなったの??
  GHQのマッカーサーと同じ様に、唐から郭務悰が
  占領統治するために、大軍で、遣ってきていたんですよー。

  2月    日本占領の最高機関 極東委員会発足

  2月19日 昭和天皇全国各地に、巡幸を開始される。

  2月17日 預金封鎖、新円切り替え

  4月10日 新選挙法による総選挙実地

  5月 3日 極東国際軍事裁判 開廷

  5月17日 女性代議士 国会初登庁

  5月24日 「はたちの青春」公開 初めてのキスシーン映画

  8月 9日 国民体育夏季大会(国体)開催

  8月 9日 特殊会社整備委員会、発足 財閥解体

  8月14日 敗戦から1年目 首相、閣僚を召された
        お茶会での、お話。

  「終戦記念日に当たって、私はかって(大正9年の春)太宰府を
  訪れたときに聞かされた、あの有名な白村江戦の故事を思い出した。
  あのときは百済の再興を援助するべく、日本軍が出動したが、
  唐と新羅との連合軍に完敗してしまった。その後で、当時の天智天皇が
  おとりになった国内整備の経論を、文化国家建設の方策として偲びたい。」

    (中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」芙蓉書房出版 より抜粋

   H.29.5.15 書店で、山本直人著「敗戦復興の千年史」展転社 を
  手に取り、その内容が私が探し求めている事に余りに近いため、
  購入しました。

   その中に、昭和天皇は終戦のその時、どのように考えられておられたのかを、
  知りたいと、前々から、思っておりました、その答えの一つに
  たどり着けたと感じました。
  そして、その場の空気を想像するとき、思わず身震いするほどの、
  冷たい空気と、静寂を想像してしまいました。
  恐らくその場にいた、閣僚の中に、「白村江の戦い」を理解できない、
  聞いたこともない人が、多かったのではと容易に想像できます。
  だって学校で、教えていなかったのですから。
  教科書にも、一切記載されていないのですから。
  そして、我々日本人にとって、とても悲しいことに、
  その大国との戦いに負けると、どうなってしまうのかを、
  想像する事すらできない、歴史に無学な輩が、無教養な閣僚が、
  日本を戦争に導き、予め決まった通りに、大敗戦に導いてしまい、
  日本中を焼け野が原にしてしまったのです。
   そして、よく太平洋戦争の、開始責任が問題にされるのですが、
  昭和天皇は反対されておられ、御前会議の際も、陛下自らの発言は
  謹まれるのが、恒例なのですが、あえて戦争を回避する方法を
  聞きただされておられた、との話しが伝わっておりますが、これとともに、
  戦争末期に、戦争終結を、御前会議で自ら閣僚に問いかけられ、反対する、
  陸軍大臣が、「本土決戦、一億玉砕」を唱える中、
  その無謀さを問いつめ、説得されたという話とともに、これは、
  天皇の戦争責任を回避するための、情報操作かと思っておったのですが、
  大国と戦をするということは、負けるという可能性を理解し、そして、
  負けたときにどれほどの、悲惨さが押し寄せてくるかという事を、
  「白村江の戦い」からその後の、日本の惨状を、理解されておられたからの
  お言葉と、知ることができました。
   天智天皇が、「白村江の戦い」で負けた後、1年もしない内に、
  遣ってきた、唐の使者、郭務悰に、会って、頭を下げさせられた時と
  同じように、GHQのマッカーサーに会見に赴き、頭を下げなければ、
  ならなかった、そして、彼は軍服、此方は、背広で上から見おらされる
  ツーショットの記念写真。
  昭和天皇は、天智天皇の故事から、覚悟をされておられたのでしょうか?。

 11月 3日 日本国憲法 公布

 12月 8日 シベリア引き揚げ第1船 舞鶴入港

昭和22年
  1月20日 学校給食実施 米国から援助された、脱脂粉乳利用

  3月30日 全国選抜中等学校野球大会 復活

  3月31日 教育基本法 学校教育法 制定 6334制
          小中義務教育となる。

  5月 3日 日本国憲法 施行

  7月26日 この ブログ作者 光信 生誕

 11月 1日 NHKラジオクイズ番組「二十の扉」放送開始「ご名答」

 11月 6日 青空集団お見合い 希望社の主催で開催

昭和23年
  1月26日 帝銀事件 発生

  3月21日 第1回NHKのど自慢 始まる。

  4月 4日 GHQ祝祭日の国旗掲揚を許可。

  4月28日 4~9月のサマータイム法公布
        人気が悪く、27年4月1日廃止

  5月 1日 海上保安庁設置

  5月 1日 美空ひばり 10才 デビュー

  5月12日 母子手帳、厚生省から配布

  6月23日 昭和電工事件 発覚

  9月18日 全学連 結成

 10月 1日 警視庁「110番」を設置

 11月12日 東京裁判 東条英機ら死刑

昭和24年
  1月 1日 GHQ 国旗の掲揚を許可。

  1月26日 法隆寺金堂が火災、壁画12面焼失。

  2月20日 能代市大火、2237戸焼失。

  2月27日 国宝 松山城焼失。

  3月31日 東京消防庁「119番」設置

  4月    1ドル=360円 固定為替相場制

  6月 1日 JIS規格が誕生

  6月    ビヤホール復活

  7月 6日 下山事件発生 国鉄関連 3事件発生

  9月15日 主婦連合会(しゅふれん)結成

 11月 1日 「人は右、車は左」対面交通実施

 11月 3日 湯川秀樹 ノーベル賞日本人初受賞

 12月 1日 お年玉つき年賀状、初発売

昭和25年
  1月 7日 1千円札発行(聖徳太子肖像)

  4月15日 公職選挙法公布

  4月22日 第1回ミス日本に山本富士子

  6月    朝鮮戦争勃発 ~(28年 休戦)

  7月 2日 金閣寺、放火のため全焼

  8月    警察予備隊(現自衛隊) 発足

  9月 3日 ジェーン台風、死者不明者539人

 11月10日 NHK東京テレビジョン、定期実験放送開始。

昭和26年
  1月 3日 第1回NHK紅白歌合戦放送

  4月11日 GHQマッカーサ 連合軍最高司令官を罷免

  4月19日 ボストンマラソン日本人初参加 田中茂樹 優勝

  6月 3日 NHKテレビ初の実験実況中継(プロ野球)開始

  9月 8日 サンフランシスコ講和条約 締結

  9月 8日 日米安保条約 締結

昭和27年
  1月13日 輸入ビルマ米に、大量の黄変米発見。

  4月 1日 手塚治虫「鉄腕アトム」雑誌 少年で連載開始

  4月10日 NHK「君の名は」放送開始。

  4月28日 サンフランシスコ講和条約 発効
        GHQ廃止
        7年間続いた連合国による日本占領の終了

 11月10日 皇太子 明仁(今上天皇、平成天皇)立太子礼挙行。

昭和31年
  2月      「もはや戦後ではない。」
          経済評論家 中野好夫 文藝春秋に投稿
          同年発表の経済白書に、流用された。

平成29年
  3月18日 戦中、戦後を波瀾万丈に生き抜いた、
    ブログ作者の母、信子 老衰により、死去 享年94歳
    「戦後のことを書くのなら、私の人生を忘れずに伝えて。」と
    言われているような、心の声が伝わってきました。


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◎ 難波の宮 古代史 年表 2017年作成 (追記校閲中)

◎「白村江の戦い」 の なんで? <本編 -その1->

◎ 「白村江の戦い」 のなんで? (前振り)へ

 ◎ 百済 白村江を求めて 韓国へ ーその1ー

 ◎ 百済旅行プラン ー旅行予定ーその2ー 


 ◎ 古代史 のんびり散歩    

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 ◎ 「難波宮ッテ?」 古代史感のすれ違い    メイン ブログです。


  すみません。私は、理系出身で物を知らないド素人の定年組みです。記載内容に、非常識な内容、不快な表現等があるかと思いますが、何卒ご容赦いただきますようお願い申し上げます。ご指摘頂けましたなら、早急に訂正変更いたしますので、ご指摘、ご指導お願いします。 記載内容に多少の大袈裟や、特に会話記載に省略や脚色を加えております。老人の戯言と、ご容赦下さいね。

 

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