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毎昼毎夜夢心地

黴菌

2010-12-26 | 芝居系
クソ寒い(あら失礼オホホ)クリスマスの日に
わざわざ渋谷くんだりまで出かけて参りました。芝居を見に。

シアターコクーンで「黴菌」みてきました。
ケラリーノ・サンドロヴィッチには正直まったく関心ないです。
完全にミーハー心です。
だって北村一輝出てるんだもん。

劇場は立ち見有りの超満員でした。
もちろん熱心な観劇ファンもいたと思いますけど
私と同等レベルのミーハーさんも多かったみたいです。
隣のひとまわりくらい年下のお嬢さんは
キタムラ氏が出てくるたびにオペラグラスでガン見でした。
わかる~その気持ち~
でもオペラグラスいらなかったよねあの顔は。

内容的には
終戦の年、静かに没落していくブルジョワ一家のファミリードラマ
とでも言えるんじゃないかと思います。
登場人物が皆それぞれに心の中に鬱屈や傷を抱えているんですが
その傷が時世の変化や第三者の闖入に浸食されて徐々に変容してゆき、
それと同時に、家族間や友人間のつながり方もゆっくりと変わってゆく様子を
描いている…とでも言いましょうか。
面白く観たし楽しみましたが、軽妙過ぎて物足らないというか
(シナリオが)一部雑じゃない?
伏線回収できてなくない?
という印象をうける部分があったりで、
うーん面白いんだけどゴニョゴニョ というのが正直な感想です。

ただ、その雑さというか曖昧さというか乱暴さというか
そういうものを観る側が余白や余韻として受け取って、色々と
解釈していい、ということで納得できれば、余白があり過ぎるほどに
あるので、とても面白い芝居であったとも思います。
実際、帰路ではずっと「あれはこういうことかな」とか
考えていました。

役者陣は鉄板だったと思います。
仲村トオルがとくに美味しすぎる役回りだったと思います。
と、いうか、彼にアテ書きしたんじゃなかろうか。
役者の特性がよくよく活かされてるなぁ なんて感じました。
キタムラ氏は主人公三兄弟のうち遊び人の末弟を演じており
(他の二人は山崎一、生瀬勝久)
蝶のようにヒラヒラと美しくステージの上を舞っておられました。
軽薄や無責任を装いながら心の中には傷ついた子どもを隠している男なんですけど
ラストシーン近くで、そのひた隠しにしていた子どもをどうしようもなく
兄たちにさらけ出してゆく場面は この人ならでは、って気がしました。
あと高橋恵子がそりゃもう美しかったです。
立ち居振る舞いも台詞回しも全てが。完璧に。
オペラグラス持ってたら私は彼女を追い回していたかもしれない。

我が名はレギオン

2009-12-05 | 芝居系
12月になってあっという間になんかもう年末が迫りそうですが
皆さんいかがお過ごしでしょうか。
私はひそかに生きております。

先週の土曜日に演劇実験室 紅王国というところの
「我が名はレギオン」という芝居を見に行きまして
その感想を書こうとずっと思っていたのですが、
この劇がなかなか、なんというかこう、難しい内容で…
どう書いたものかと迷っているうちに一週間経ってしまった。

以前 女優志望の妹をお兄さんが殺してしまった って
事件があったと思うのですが、
その事件がモチーフになっています。
若い女性がバラバラの死体となって発見される連続殺人事件が
続き、その犯人を刑事たちが追いかけるうち、
ひとりの犯人による事件と思われていたそれが
実はふたりによる個別の犯罪だということがわかってくる…
という感じで、物語はミステリー仕立て。
主人公はその刑事たちの中にいる犯罪心理分析官なのですけども
わりとそういう物語の作り方はドラマチックというか
全体的な骨格は大変エンターテインメントに満ちているので、
2時間くらいのドラマになっても不思議ではない気がします。
もしくは「相棒」とかで取り上げられそうな雰囲気。
骨格だけは、ですが。

あと小劇場での芝居ならではの
なんていうんですかね 幻想的な場面とでもいうんですかね?
ひとの心象風景を描くシーンとかもあるんですけども
なんかそれがちょっとデヴィッド・リンチの「ツイン・ピークス」
っぽいところがあったりして、面白かったりもしました。

ただ、単にミステリーではなくて
この物語のいちばんのテーマは
「死刑になってもいい」と改悛の情のまるでない人間とか
「自分が何をやったんだか全然わかっていない」人間とか
「他人に理解できない秩序に従って粛々と殺人を犯した」人間とかを
いかに人は裁くことができるのだろうか、
そういう人物に死を与えることに意味があるだろうか?
ということにあった気がします。
(決して「意味がない」と言っているわけではないです)
もしくは、
「なぜ人は人を殺してしまうのか」みたいなね。
ものすごい根源的なね。
そういう疑問を我々に投げかけてくるんですが、
当たり前なのですがそこに明確な答えはでないわけなのです。
観客に考えさせようという芝居です。
で、頭の足りない私とかは「うーーーん」と考えて首をひねって
「わかるかよ!ていうか聞くくらいならまずそっちの考えを聞かせてよ!」
と逆ギレをするに至りました。

最近ドラマでも映画でも小説とかでも、あまりこちらに考えを問うてくる
ものに触れていませんでした。
キッチリとオチがついてるものが普通になっていたような気がします。
だからか、わりとショックを受けたりイラッときたりしました。いい意味で。

主人公の犯罪心理分析官は犯人の心情を理解する立ち位置におり、
また、他の刑事たちとは違って、ことのなりゆきを好奇心たっぷりに
おもしろがっているようにも見えるので、
彼が言うことに私はあまり納得できなかったのですが、
それは全てシナリオの計算のうちだという気がしました。
そういう主人公なのでこちらも疑問を抱き、始終なにかを
考えながら物語をおうことが出来たのだと思うので。

私、この舞台、 刑事のひとりを演じた本多菊次朗さん
お目当てに観にいったのですが
実はこの本多さんが演じる刑事がとてもわかりやすく感情移入
しやすい、おそらく平均的な人間と同じ「ごく普通な」ものの
考え方をする人物でして、ちょっとその存在も面白いなぁと
思って見ていました。
主人公にむけるうさんくさげな目とか、
反省の気配がまるでない犯人に不快と憎悪をつのらせてゆく様子とか、
(色々あって)難しい立場においこまれてゆく上司を思いやる様子とか。
じっと見ていました私。
ていうか見とれていました私。フハハ
やっぱりカッコいいなぁ…

どんなマジメな劇を見に行っても、結局は軟派な私。みたいな。
終了後、お疲れな本多さんに握手をもとめる厚かましさでありました。

劇団AUN「じゃじゃ馬ならし」

2007-09-09 | 芝居系
ここ4年くらい?公演に通っている劇団AUNの定期公演にいってきました(高円寺)。演目は「じゃじゃ馬ならし」。私はこの「じゃじゃ馬ならし」は戯曲を原書で読んだことはあるのですが芝居自体を見たことは映画含めてなく、今回が初体験でした。
相変わらずウィリーは(喜劇に限らず)下ネタ好きやなぁ ということと、 貴様の女性に関する喜劇は何故こうもムカつくのか という、その2点を確認したって感じでした。彼の書いた喜劇「尺には尺を」も大概ムカつく話だけど、「じゃじゃ馬ならし」はその上を行く不愉快な話です。

どういう話かというと、 金持ちの名家の生まれだが めっちゃくちゃ性格の悪いキャタリーナという娘がおり、この娘があまりに性格が悪いので適齢期になっても嫁の貰い手がない。キャタリーナにはビアンカという妖精のように可憐な妹がおり、この妹を嫁に欲しがる男たちが、「姉より先に妹を嫁がせるわけにゆかん」と言う父親の言葉に一計を案じ、たまたま(金持ちの)嫁探しのために町に帰ってきた元名家の生まれで今は豪放磊落な流れ人、ペトルーチオにキャタリーナを嫁がせようとする という、まあどたばた喜劇なわけであります。話の中心は、ペトルーチオがいかに「じゃじゃ馬」キャタリーナを調教して最後には貞淑で従順な妻に育て上げるか といったところにあり、伏線は、妹のビアンカをめぐる恋のさや当て。この二つが平行して進み、最後はめでたしめでたし、という結末となります。

ところがそれが全然めでたしめでたしと思えないっつーか ひたすらキャタリーナがかわいそうっていうか そういう風にしか思えない。たぶん女性から見たら皆そうだと思います。ペトルーチオの彼女に対する振る舞いは今で言ったらDVの域だし、そもそも、キャタリーナが何故じゃじゃ馬に育ったのか という根本的な問題には全く触れられていないので、男の乱暴さにただただねじ伏せられるだけの彼女が痛ましくて仕方ない。実の妹からも「キチガイ」と呼ばれ、キャタリーナが誰よりも愛されたいはずだった父は自分をうとましく思っている。彼女はおそらく、もとは知的で賢く美しい女性なのだけど、その気の強さ故に肉親に疎まれ理解されてこなかった、そこでその傷を負った心を隠すために、いわば自分を守るために毒舌と暴力で武装している、という女性なのですが、彼女の傷は最後まで癒されることなく、ただ男の身勝手と暴虐の下にひれ伏させられる(それでめでたしめでたし) という、もうほんとどうしようもない展開。
ただこのAUNという劇団はシェイクスピアの中でも敢えてそういう今では問題をはらんでいると思われるお話を芝居にしたがる(座長の吉田鋼太郎氏のアイデアなのでしょうか)という傾向があり、芝居にするからには(セリフや筋は変えずに)そこにいつも少しユニークな視点を加えるのですが、このAUN版「じゃじゃ馬ならし」でも最後にそういう一ひねりが加えられていました。大団円に水を差すその冷ややかな一ひねりこそ、AUNの真骨頂。ウィリーには苛つくのだが、そういう芝居に取り組む、このAUNという劇団が私は大好きです。

あと私の大変ごひいきな本多菊次朗さんがえっらい活躍していました。今までで一番忙しい役だったんじゃないかな?妹に求婚する金持ちの老紳士の役なのですが、テンションの高さが、昔池島監督の映画で見た色ボケオヤジっぽい感じっていうか(笑)やらしーけどキュートというか、説明は甚だ難しいのですが、とにかく私は楽しんで拝見しました。

ペトルーチオ役の谷田歩君はAUNの二枚目エースとして堂々たるもの。でも全身タイツは今回初めて見た。なかなかお似合いでした。

マンドラゴラの降る沼

2006-04-25 | 芝居系
ピンク大賞(仮)と書いておいてそのままってのはどうなのよ。と思いつつも、何かと気忙しくてままなりません。
えーと先週はお誘い頂いて、シティボーイズのライブに初めていってきましたよ。「マンドラゴラの降る沼」。仕事が終わった後、はるばる池上線に乗って池上本門寺までいってきました。境内に設えられた仮設テントの中での公演。私は本当にはじめてシティボーイズを観たのですが、モンティ・パイソンみたいだなぁという感想。細切れのスケッチ(コント)が怒濤のように続くところも、幾つかのスケッチには明確な起承転結がなくてシュールな世界に着地したりするところも、「空飛ぶモンティ・パイソン」の最初の1stシーズンを思い出しました。ただ、彼らのようにあまりに才気走りすぎて切れ味が良すぎることもないし、笑いの質は結構暖かいんだな、などとも感じたのでした。久しぶりに涙が出るまで笑い転げることができて、帰りにはとっても気分スッキリ。(斉木しげる@ガラ会長によるマイナスイオンパワーのおかげかもしれません)最近、あんなに笑ったことなかったな~。いとうせいこう&銀粉蝶のゲスト出演が観られたのも思わぬ喜びでした。

それにちょっとお久しぶりなお友達と話ができたのも嬉しかったのでした。いろいろ大変だがきっと物事はいいようになるさ!大丈夫マイフレンド!そして今度お金払いますよ!(手持ちがなかったビンボーな私)

ところで来週はGWですね。はー。色んなことやってないよ…原稿とかね(落選するとたかをくくり始めました)…掃除とかね…あと職場の引っ越しとかね…

劇団AUN「マクベス」

2005-12-15 | 芝居系
AUNの「マクベス」を見るのはこれで二回目。
前回は、いきなり中島みゆきの「元気ですか」から始まって、「怜子」と恨みソングを絶唱するゴスロリ(しかもリストカッター風味)な魔女たちに度肝を抜かれたのが印象的。(ちなみに幕切れは「化粧」)どろどろげろげろな男女の情念に絡め取られたようなマクベスでした(それに相応しく、マクベス役は劇団随一の二枚目・谷田歩)。それまであまり芝居を見たことのなかった私には、想像もしていなかったようなショッキングな舞台でした。でも実は、インパクトは強かったんだけど、その解釈の深い意味まではよくわかんなかったんだよな。
それが今回の「マクベス」は、なんとも物悲しい、ある一組の傷ついた夫婦の物語に仕上がっていました。

私、「マクベス」読んでからずっと思ってたんだよな。
マクベス夫人の有名なセリフに、「私はかつて赤ん坊を育てたことがある、だから自分の乳房を吸う赤ん坊がどんなに可愛いものか知っています。でも微笑みかけてくるその赤ん坊の、やわらかい歯茎から私の乳首をもぎ離し、その脳味噌をたたき出すことだってできます!」ってセリフがあります。彼女の苛烈さをよく表しているセリフではあるのだけども、私がむしろ気になっていたのは、その彼女が育てた赤ん坊はどこにいってしまったのだろう?ということ。「マクベス」には彼らの子供はでてきません。しかも物語後半には、「あいつらには自分の子供がいないからこんな残酷なことができる!」とさえ言われています。ん?でも、あのセリフはじゃあ、何…?
今回の「マクベス」では、冒頭、無邪気に笑う幼い子供の遺影がぼんやりと暗闇の中に見えるところから始まります。<ああ、もしかして?>その予感通り、今回の演出でのマクベス夫人は、泣き叫ぶように「私はかつて赤ん坊を育てたことがある!」と告白するのです。今まで、このセリフが、こんなにもクローズアップされたことがあったかしら。幼い我が子を失い、(まだ自分自身にも幼さの残る)妻は神経症気味に病んでいる。夫は生真面目ないい人だけど、戦に明け暮れて(要するに仕事にかまけて)彼女を支えきることができない。夫婦仲は恐らく冷え込み始めている。そんな不幸な二人に降りかかる、「いずれは王になられるお方」という魔女の予言。空っぽになった部分を埋めようとするように、失われた幸せを取り戻すために、彼らは(とくに妻は)一連の悲劇へと足を踏み入れてゆく。これが今回のAUN解釈版「マクベス」なのだ、と思いました。
先述の「自分の子供がいないからこんな残酷なことができる!」は、自分の妻子をマクベスの手の者に殺されたマクダフのセリフ。しかし、今回の演出のもとでは、私達はマクベス夫妻にはかつて子供がいたのだと知っているのです。だからこそ、マクダフの悲嘆の痛ましさと同じくらい、鬼になってしまったマクベス夫妻の哀しみと無惨さが鮮烈に描かれていて、見ている者の胸を突くのでした。
物語の最後には、冒頭の魔女たちのまじないの言葉がもう一度繰り返される。「いつまた三人、会うことに?雷、稲妻、雨のなか?」「どさくさ騒ぎがおさまって、戦に勝って負けたとき」「つまり太陽が沈む前」「おちあう場所は?」「あの荒野」「そこで会うのさ…マクベスと!」そして、突然暗闇の中に明かりがともり、私達はまだ不幸を知らない、若きマクベスと彼の子供を身ごもった臨月の近い夫人の睦まじい姿を見せられるのです。この先に起きる(私達にとっては既に起こった)無惨な結末を全く知らない彼らのうつくしい姿。なんて哀しい幕切れだよ。私の前の方に座っていた観客で、そこで激しく涙を拭っていた女性がいましたが、私もまさにそういう気分でした。


前回公演でマクダフを演じた長谷川耕(曲者)が今回はマクベス。逆に、マクベスを演じた谷田歩(しつこいようだが二枚目)が今回はマクダフでした。ずいぶんと印象が違います。エンタメ的に面白かった前回と、哀しみ深い悲劇だった今回を比べたら、この配役も納得な感じ。そして一番大きかったのは、マクベス夫人が根岸つかさだったこと。この人、背もちっちゃくて、少女のような女性なのです。前々回の「夏の夜の夢」あたりからメインの登場人物を演じるようになって、今回はこの大役。たぶん、彼女の子供っぽい愛くるしい雰囲気が、今回の「マクベス」には重要な要素だったのだろうと思います。私はとても面白く見ました。

そしてこの劇団AUNで一番私が楽しみにしている本多菊次朗さんは、レノックス役。比較的脇ではありますが、落ち着いた素敵な声でのセリフが沢山聞けて、黒い衣装も素敵で、二枚目な姿を拝めたことで、いやー満足満足(笑)